触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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市民、みんなが主権者、主人公です。 

<雑感>        2014.9.3

市民、みんなが主権者、主人公です。    佐藤 茂雄

 栗原市では、未だにオール栗原の態勢が出来ないでいます。 

 1月20日に県内3カ所の一つに栗原市・深山嶽の名が発表された直後から、私たちは、この理不尽な最終処分場選定提示を、国に「白紙撤回」させるため、市民総ぐるみの運動を展開していくことを呼びかけてきています。オール栗原の態勢を作り、オール栗原の署名を呼びかけてきました。それも幾度となく、各方面に働きかけてきましたが、私たちの力不足もあるのでしょうが、未だにそれが実現できていません。しかし、ただ出来るのを待つのではなく、働きかけつつ、独自の行動もとって運動の輪を大きく広げてきました。

 私たちの署名は、国に撤回をせまる署名です。署名を市民に拡げる中で、「市長にお願い」するならすんなり行っても、「国(お上)に対して」だけで抵抗が各方面であり、この地域の後進性を感じました。それでも、そんな中で、6万人余の人口のところ、2万人までの署名を集めることができました。各方面に、各個人、個人に、人と人との結びつきが拡がっていきました。これに対して、私たちの署名以外(JA、文字地区など)は、全て市長宛です。市長に「お願いする」という運動に留まってしまい、それらの運動は、結果的に、今、「市長任せ」の他人任せ、人任せになっていまっています。東電と国という発生原因者の責任を追及する、誰と一緒に連帯してそれをするのか、それらが、全くできていません。主権者の自覚が希薄、当事者意識の欠如なのでしょうか。

 3カ所が、3カ所とも不適であり、そもそもの国の政策、施策自体(特措法と基本方針)が根本から間違っているのですから、それを改めさせるため、真の解決への道に持っていくために、同じ被害者が力を合わせるのがスジです。ちょっと想像力を働かせたり、お互いに交流したり、お互いに現地を見るなどして理解すれば、思いをお互いに共有すれば簡単に分かることです。それをいつまでたってもしないということは、「自分の所さえ来なければ良い、他に行けばよい」との考えとしか思えません。

 それでは、いざ、最期に自分の所が残った場合、誰も助けてはくれません。これは、完全に被害者が、国や、県によって分断されているパターンです。その先頭に乗っかってしまっている、国や県や他の県内首長の顔色しか見ていないのが、栗原市の市長と大和町の町長なのです。この逆、市民(住民)に正面から向き合い、市民とともに、国や県に対峙しているのが、加美町と栃木県塩谷町の町長です。特に、塩谷町の町長は、当初は、栗原市長と全く同じことを言っていました。しかし、町民の声を聞き、各方面と協働、連帯(加美町などとも)することで事態の打開を図って来ています。この二つの所では、今後、どのように国からの圧力がかかろうと決してひるまず、それをはねかえせると思います。しかし、危ないのが栗原市と大和町です。大和町は、形としては、オールの態勢が出来たかのように見えましたが、内実が全くありません。(栗原市は、形としてのオールも出来ていませんが…)

 市民、みんなが主権者、主人公です。          

 それぞれの場所、分野で、地域で、それぞれの市民(住民)が主権者、主人公です。
 
 誰かにお願いする、首長、議員、など それだけでよいのでしょうか? 
 
 これでは、結局、私たち市民(住民)が、いいように、権力に分断されているのではないでしょうか?
 
 それぞれ(の違い)を認めあった上で、一致点を見出し、連帯し、協働できないのでしょうか?
 
 事態の打開をはかり、真の解決への道へ進むための共通の認識を持てないのでしょうか?

 こうした分断された状態を続けるならば、結局、権力に押し切られてしまいます。
 
 その時、誰が責任を取るのでしょうか?誰の責任になるのでしょうか?

 そこでは、私たち一人一人の責任も、問われてきます。

 この放射能の問題は、私たち自身を守るだけでなく、私たちの子どもたち、子孫を、未来世代を守っていく闘いです。
 
 私たちは、彼らー子どもたち、子孫、未来世代ーに共同の責任があります。
 
 それぞれの場所、分野で、地域での市民(住民)の肩代わりは出来ません。そこの人たちが、どう認識し、判断するのか?
 
 どう、連帯し、協働して行くのか?周り(部外者)からは働きかけ、連帯し、協働する「よびかけ」はしても、肩代わりは出来ませんし、無理にしても結局、当事者たちの力になっていきません。それぞれの当事者意識が問われています。

 この栗原では、多くの市民が、この当事者意識を持つこと、主権者が主人公になるには、もうしばらく時間がかかりそうです。

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2011あけましておめでとうございます

   2011.1.1



awe




 ブログ「触媒生活」を始めてから、およそ3年が経ちました。そして、セカンドライフ、年金生活も様になってきたように思います。特に昨年4月からは、妻と一緒に行動することが増え、様々なところに出かけたり、様々な人と出会ったりしています。

昨年、11月の久しぶりの千葉行きは千葉での公害反対運動は「あの運動が、私の原点だった。」と再確認できました。そこで、人と人の繋がり、結びつきが大切だと改めて知らされました。そうした中で、私自身としては、ますます、「触媒」としての役割を果たしていかなければと思いました。

 今年も、どうぞよろしくお願いします。

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「ポケットに石ころを貯める」

<雑感>  

 落合恵子さんの「ポケットに石ころを貯める」
-私もやっていますネ。
  2010.5.23


  
もうだいぶ経ってしまいましたが、この言葉は、5月12日(水)午後1時05分からのNHK「スタジオパークからこんにちは」でのゲスト落合恵子さんが言っていたことです。

 作家、司会者、講師、など多方面で活躍されている彼女については、年齢が65歳だそうですから、私より少し上。確かに学生時代より文化放送のアナウンサー(ラジオDJ)ということと、「スプーン一杯の幸せ」(シリーズで400万部)のベストセラー作家ということは知っていました。しかし、あまり興味は無かったです。しかし、私が 30年ほど前から子どもの本に関心を持つようになると、クレヨンハウスの主宰者ということで注目するようになりました。2度ほど東京青山の店に行きました。ゆったりとしたスペースがあって立ち読みどころか、すわり読みできる子どもの本専門店は、とても気に入りました。その後も子どもの本だけでなく女性問題、介護問題などでのエッセイをよく読んでいました。

 この日の放送を見て、彼女の全体像が見えてきました。「スプーン一杯の幸せ」の印税をこの子どもの本専門店につぎ込んだこと、私生児、シングルマザーの子として、後ろ指を差され、いきどおりを感じたという原風景があること、自分自身だけでなく周りの人達までの人権の大切さ、社会の矛盾を感じてきたことを述べていました。それを「私の宿題」として、まるで、道端にある「石ころ」を拾って、自分のポケットに貯めるようなことをしているといいます。

 「宿題」とは、上の世代が一生懸命追いかけてきた課題を受け継ぎ、抱え、次の世代へ受け渡すことも必要だとしていました。それが人権であったり、女性の生き方、平和の問題、オーガニック、介護であったりするわけです。その「石ころ」を捨てないで、いつか宝石に生まれ変わらせて、行動に移していくということだそうです。司会者の「石ころが溜まりすぎてしまうのでは?」という質問には、自分にとって本当に大切なものは捨てないで、どうでもよいものはどんどん捨ててしまう、それは、世間体、社会的地位、名誉、肩書きなどというもの。大事なものはポケットの一番奥にしまって、時々まだちゃんとあるか触って確かめるといいます。

 私の若い頃に比べるとだいぶ彼女には親近感を持ってきていましたが、この放送を見て、大いに共感しました。私自身に引き寄せて言うのはちょっと気が引けますが、私も「ポケットに石ころを貯める」ようなことをよくやっているのです。2年半前から巻き込まれてしまったここ栗原地域の学校統廃合・教育問題は、まさにこれです。2年前のチラシと今回のチラシとその作成の中心になってきました。宝石とまだはいきませんがそれなりに見栄えのするものはできたと思っています。現在は、この間の総まとめとしての「ブックレット」の編集に取り掛かっています。これもそれなりのものにはなると思います。しかし、ポケットに石ころのままで入っているものもあります。この間、図書館関係の取り組みは少し遅れ気味で、非常勤司書=官製ワーキングプア問題に未着手です。また最近、入ってきてしまったものもあります。それは、自治体の行財政分析です。こちらを先に何とか形あるものとしてポケットから取り出して、皆さんに見せられるものにしなければなりません。実は、まあ、この問題、別にどうしても私がしなければならない理由などありません。しかし、ここにこのように書くことによって、自分自身が後戻りしないようにしているのが実情ですが…

何故このことをしなければならないと思っているかというと次のようなことだからです。-地域の財政に関心を持つことを通して、地域をどう再生するかを考えていく必要があるのです。合併から5年が経過した現在、栗原市の行財政分析が必要で、これは一種の市民による栗原市の「行財政白書づくり」ということになっていくものです。これを抜きにしては栗原の学校統廃合問題も、「ゆきとどいた教育をすべての子どもに」ということも、前には進まないのではないかと思えているのです。-ということです。これは市民の誰かがやらなくてはならない「宿題」なのです。もちろん私一人でできるものでもありません。協力者を見つけ、一緒にするつもりです。落合恵子さんも言っていましたが、まあ、頑張りすぎずに、頑張るよりほか方法はありませんネ。
 

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多目的、TYO東京(4月10.11日)

<雑感>

多目的、TYO東京 (4月10.11日)                                      
                                    2010.4.15

 JR東日本の「TYO東京」というのを知っていますか?

―2010年4月1日(木)~2010年9月30日(木)で、 2名様以上での申し込み。新幹線のチケットと首都圏のホテルがセットになった格安のもの。30日前までのご予約で、お得な早期予約割引アリ。―

というものです。二人とも「大人の休日」の会員ですから、更に5%Offに(妻は30%offになるものもアリ)なって、だいたい宿泊費+α位が安くなります。毎年1~2回位は利用しています。

 今回のTYO東京はいつもにまして多目的でした。① 息子夫婦との会食 ② 2ヶ所の美術館めぐり ③ 歌舞伎鑑賞 ④ 大学時代の友人との37年ぶりの再会 ⑤ その他ショッピング でした。

ゆったりと息子夫婦と会食(4月10日)

 東京駅八重洲北口に12時に待ち合わせ。まあ、息子は時間に間に合った試しがないので私は気長に待つつもりでした。しかし、妻は12時になって来てないとなると「メールして」と催促。仕方なく連絡すると一つ前の駅まで来ているという。結局10分遅れでしたがこれはいつもより早い方です。桜が既に葉桜になっていましたが、風に花びらが舞う東京の銀座を少し歩きました。12~3分でコレド日本橋という建物の中にある「松江の味日本橋皆美」に案内させられました。珍しく丁度NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」を二人で見ているもので入り口のカンバンにあった「だんだん」(ありがとうの意味)という文字が温かく感じられました。息子以外の三人がお勧めの「鯛めし茶漬け」を注文しました。鯛のそぼろと薬味を乗せた温かいご飯に、薄口のだし汁をたっぷりかけたものです。息子は「ひつまぶし」を注文。付いてきたのが「肝吸い」ではなく宍道湖が近いので「蜆の味噌汁」でした。ゆっくり体に優しい食事を取りながら、息子夫婦の近況を聞き、こちらの様子も話して楽しいひと時を過ごしました。

ブリジストン美術館へ

 会食後、高島屋を経由して東京駅八重洲から真っ直ぐ南のブリジストン美術館までこれも12~3分歩きました。天気もよく皆さん上着を脱いで手に持っている方が銀座を歩いていました。歩いてみて「東京の街は綺麗なんだ」とつくづく思いました。

 ブリジストン美術館は「美の饗宴・東西の巨匠たち」というタイトルの1月末からの展覧会の最終時期でした。日本洋画は西洋の美術を学んで発展し、その一方で、19世紀後半の西洋では、日本美術の奇抜な構図や平面性など取り入れた、ジャポニスムという新しい表現が試みられていました。この展覧会では西洋と日本の影響関係を軸に、モネ、ドガ、藤島武二、佐伯祐三、藤田嗣治など、明治期から戦後までの東西の画家たちの様式の展開や成熟の過程を紹介していました。いろいろな画家たちの絵画が多く紹介されていました。何となく影響関係は分かるのですが、何か漠然とした感じしか印象に残りませんでした。個人的にはモネが好きで、別のところで見た一連の大量の「睡蓮」を思い出しました。ここにも少し「睡蓮」はあり、あと「黄昏 ヴェネチア」が良かったです。

橋演舞場で通し狂言「四谷怪談忠臣蔵」鑑賞

 4月から始まっている新橋演舞場での「 陽春花形歌舞伎」通し狂言 「四谷怪談忠臣蔵」の夕方の部(4時半から)を見ました。市川猿之助演出で市川右近主演のもの。鶴屋南北の「東海道四谷怪談」を「仮名手本忠臣蔵」の外伝という構想で描いていました。「四谷怪談」の民谷伊右衛門は、実は浪士として、討入に加わるべき存在だったというのです。江戸時代、「四谷怪談」の初演時には、「忠臣蔵」と場面を交互にし、二日にわたって上演されたといいます。猿之助は、この構想を生かし、両作品を一つにした「双繪草紙忠臣蔵」を昼夜で通し上演。さらに両作品の登場人物たちが縦横無尽に駆け巡る「四谷怪談忠臣蔵」を創り出してしまいました。

 私は、歌舞伎を見るのは2回目で久しぶりです。物語は、良く知られているものの合体?でもあり、私自身は歌舞伎の約束事に詳しいわけではないのですが、解説イヤホーンは無用としました。先ずは分かりやすい猿之助歌舞伎の全体を丸ごと観て感じようと思いました。スピーディーな場面展開、きらびやかな花火、飛行術を使っての宙乗り、「四谷怪談」の「隠亡堀」、「忠臣蔵」の「討入」と随所に名場面、大詰には舞台に何トンもの本水が降り注ぐ「大滝」が出現し、豪快な大立廻りにと、主演の市川右近も四役を勤め、大変見応えがある演目でした。妻の方は既に何回かスーパー歌舞伎を見ているそうで、今回のは普通の歌舞伎とスーパーの中間のようなもののようです。4月19日夜からはNHKBSで連続して歌舞伎の名場面を放送するのでこちらもしっかりとチェックするつもりです。

 当日の席はJRの「大人の休日」より取ったので格安はいいのですが、舞台近くの花道のすぐヨコ。細かい表情までよく見えるのと声が良く聞こえるのは良かったのですが、宙乗りや花道を何回も見上げていて首が疲れました。それにしても歌舞伎役者の発声は凄い!!声がよく通ります。頭上が2階席でそこに小さな3本の集音マイクを見つけましたが、舞台からも花道からも、生の役者たちの大変良い声を聞くことができました。

宿泊は新橋愛宕山東急インに(4月10,11日)

 新橋演舞場から宿泊の新橋愛宕山東急インまでの移動は地下鉄(メトロ)です。来る時の銀座駅での乗換えの距離が長く、ホテルまでは短いものをと妻はリクエスト。そこで、当初考えていた東銀座-新橋乗換えー虎ノ門ではなく、途中停車は多いのですが東銀座―神谷町にしました。地図上ではその方が駅からホテルは近いのです。しかしそれにしても見知らぬ場所です。ネットから印刷した地図を見ると途中、神社があったり、トンネルもあります。もう9時半はまわっており、駅から妻と一緒に歩き始め、辺りはオフィス街で薄暗く、途中で妻が「トンネルはいやだ」とか、「この道で大丈夫?」とか言ってきました。すべてを夫任せにいておきながら「はは~ん、信用していないのだな」と思いました。見知らぬ場所ですから「100%信用して」とは言えませんがこれまでだいたいは間違ったことはありませんでした。あっても方向は間違っていなかったとか、少し遅れ気味になるとか、全て途中修正で切り抜けてきています。今回は、結果100%OKでした。最短距離で安全も問題なしでした。それに白地に小さなピンクの水玉模様のライトアップされたお洒落でロマンチックな東京タワーを真近に見ることができました。

 泊まった部屋は築10年ほどたった新館で、快適でした。「TYO東京」のパンフレットで東京の中心街で最安値という条件で探し、ここを1ヶ月余前にチェックしました。パンフレットでは朝食抜きでしたが窓口での申し込み時に朝食付と分かりました。朝食は6時半からともう一ヶ所7時からの2ヶ所で食べられるようになっていて、とても便利でした。内容も洋・和食とも結構充実していました。昨年11月のイタリア旅行でのどのホテルよりもここの方が使いやすく満足しました。問題があるとすれば、駅からのアクセスが他のホテルよりも少し不便だというだけです。朝9時過ぎにホテルからは気持ちの良い天気でしたので歩いてJRの新橋駅まで行くことにしました。

三菱一号館美術館―マネとモダン・パリ展へ(4月11日)

 明治23年、政府の要請により三菱社が丸の内一帯を取得したことに丸の内の歴史は始まり、お雇い外国人として来日したジョサイア・コンドルの設計により、明治27年(1894年)丸の内ではじめての近代的オフィスビル「三菱一号館」が建てられました。この煉瓦造りの低層棟を今年4月6日に復元が完了して三菱一号館美術館として再出発しました。明治期の重厚なデザインが心地よい落ち着きを醸し出しているこの都市型美術館の開館記念展がこの「マネとモダン・パリ」ということです。

 エドゥアール・マネ(1832-1883)は、後に「印象派」となる画家たちだけでなく、後世の芸術家たちに決定的な影響を与えた近代絵画史上最も重要な画家のひとりです。このマネ芸術の全貌を、当時のパリが都市として変貌していく様子と結びつけながら代表的作品により展覧しようとするもので80点余が出品されていました。そして同時代の作家の油彩・建築素描・彫刻などもあわせて展示されており、マネが生きたパリの芸術的な背景も紹介されていました。

 「マネとモダン・パリ」に焦点を当てたこの企画は、世界史に疎い私にはとても衝撃的でした。父は法務省の高級官僚であり、ブルジョワの家庭の長男でとして何不自由も無く育ったマネは、極めて革命的な画家になっていったのだと思われました。初期のスペイン絵画の真摯なレアリズムの影響、自分が影響を与えた印象派展には出品せず、あくまでサロンで勝負しようと絶えず新しい時代の芸術をリードしようとしていたことが作品を通じても分かりました。そして、「モダン・パリ」のこの時代、第二帝政(1852~70)第三共和制(1870~1940)はパリが19世紀の首都として輝いていた時代。万博や華やかな都市生活、しかし、やがて対外戦争と社会格差・不安の増大へと時代は経過していく。その中―変革・革命期に生きた画家だったのだと多くの作品を通じて理解できました。

 会場には少し早く着いたのですが長蛇の列でした。この時期の東京での美術館めぐりのNO.1はここだと思っていたのですが、同じようなことを考えている中高年の方々が多いのだなと思いました。しかし、若い会場係りの方が大勢いて大変助かりました。

大学時代の友人との37年ぶりの再会

 午前中はこの企画をゆっくりと見て、丁度12時に御茶の水駅の聖橋口に待ち合わせということにしていました。移動はすべてJRです。丁度「TYO東京」に東京JRフリーパス券が付いていたので助かりました。37年ぶりに今回再会するのは大学時代の女性の友人二人です。二人とも教育学部出で、教師はしていたのですが少し早めに退職、一人は山梨で家業のブドウ園を娘としているそうで、もう一人は葛西に住んでいて専業主婦になっているとのことでした。(そういえばうちの奥さんもこの4月からはれて専業主婦になったはずなのに、ちっともそれらしくありません。)私たち夫婦との共通点はセツルメントという同じ(教育系)サークルだったということです。しかし、私だけは2年間で辞めてしまいました。4年間最後までいたのは妻と友人の二人の「元三人娘」と男性一人のみでした。私は、本当はこの一人の男性に最も合いたかったのですが都合がつかずダメでした。30年位前ですが、彼には千葉時代に地域の教育懇談会に講師として一度来てもらっています。お母さんが宮城で施設に入っていて毎月来ているとのことでしたから、そのうち会えるだろうと思います。集合場所には、少し早めに着いたのですがはたして彼女たちは時間に対してどうだったか思い出せませんでした。妻はきっと早めに来るというのですが…定刻の10分前くらいに山梨からの一人を見つけました。若いときのイメージしか残っていませんでしたが、直ぐに少し老けた(しかし、きりっとした美しさがある)彼女に慣れました。もう一人はということになったのですが、葛西からですから地下鉄から来ると三人は思い込んでしまっていてそちらばかり見ていました。12時を10分回ったところで双方が同時に携帯を鳴らしたところ反対方向に見つけました。12時の10分前より来ていたということでした。やはり若いときのイメージと現在とのギャップを埋めるのに少しの時間はかかるものです。外で会っても即座に分かるものではないということです。

 さて、昼食の会食をしようということでしたので、事前に私が調べておいた「東京ガーデンパレス」というホテルのレストランに向かいました。ランチをゆっくり取れそうな場所という条件にはピッタリで一応午後2時までとなっていたのですが、他にもお客が何組も残っていたので2時半まで粘りました。値段はお手ごろだったのですが味がイマイチ、三菱一号館美術館のCafe1894のランチプレートの方が良いとは分かっていたのですが、そこに来てもらうわけにもいかず、これは仕方ないことです。

 話は昔のこと、その後のこと、家族のこと、仲間のその後のこと、現在していること、…といろいろ楽しい話はつきませんでした。山梨の彼女はワインを、葛西の彼女はアイスランド(旅行で買った)チョコレートを、私たちからは笹かまぼこをそれぞれお土産にと出しました。近いうちにまた再会をと約束して別れました。

その他ショッピング

 東京駅からの帰りの新幹線は4時半、それまでの間少し時間がありました。実は、初日も息子たちとの待ち合わせの前に若干時間があり、八重洲地下街を歩きました。妻が毎回行くアクセサリーの店へ行くのですが、私はその間、近くの別の店に入っているのです。但しいつも後で呼ばれて必ず買い物に付き合わされます。今回はそれがなく逆に私が入っていた「森のギャラリー」という店に入ってきました。私は何点か気に入ったものがあったのですが荷物になるので帰りにと考えていました。その帰りにまたこの店に寄りました。来客時にその目の前で使う「竹製のまな板」とカメの形をした明かり入れの焼き物(東南アジア製)を買いました。妻も漆塗りの食器やお盆などを買いました。駅ナカでは駅弁大会のようなことをしていたので覗きましたが、結局別のところで夕食用のお弁当を買いました。留守宅の義父母へは美味しそうなケーキを買いました。これが持ち運び注意という代物でして、これだけを妻が持つことになりました。(勿論自分の荷物は持ってもらいますが)今回はお土産(ワイン2本など)他にも様々な荷物が最終的にかなり増えてしまいました。それで近々旅行をするもので大きなキャリーバックを購入し、そこに荷物全部を詰めてしました。毎度のことですがこの重たい荷物はいつも私が担当ということになります。

 こうして二日間の多目的TYO東京を無事終えて帰宅しました。中身がぎっしりで、大変充実したものになりました。

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恩師の米寿記念出版への寄稿文

<恩師の米寿記念出版への寄稿文>      2010.3.27

千葉川鉄公害とのたたかい
     ー稲葉先生と出会い、行動した日々」
 

                                       佐藤(磯村) 茂雄    


 私と稲葉先生との出会いは、今から38年前(1972年)の4月でした。川鉄公害とその被害の存在は、当時かなりはっきりしてきていました。しかし、その3月に、千葉市煤煙等影響調査会の疫学調査が発表され、その被害の大きさにあらためて驚嘆させられました。直後の4月、千葉県庁地下の県職労で、稲葉先生、田畑仁さん(当時県職労副委員長)と私ともう一人の4人が、初対面で意気投合し、その場で即座に「千葉市の公害を話す会」を作ってしまいました。当時、私は24歳の大学院2年生、稲葉先生はその倍以上の50歳でした。私は、学生でヒマなわけでもないのですが、事務局担当になりました。それからです、その年の10 月に「千葉市から公害をなくす会」になり、1973年に千葉県住民運動連絡会ができ、1974.年には、公害防止条例制定直接請求運動を起こし、1975年5月の千葉川鉄公害訴訟提訴と続きました。稲葉会長(代表)に対して私は、事務局(次)長あるいは、最後の裁判では、裁判を支援する会事務局長でした。

 先生との出会い前の私は、大学1~2年で川鉄周辺の寒川地区へセツルメント活動に入っていました。3~4年で私の学科が千葉では発火点となった大学紛争が起き、その渦中の中心にいました。大学院に入ってからは、科学技術論ゼミナールを結成し科学技術史の勉強会をしていました。その後、稲葉先生とともに市民運動を担っていく中で、先生に教えられて、研究室でその自主ゼミがSO2の自主測定を始めました。それから、修士論文作成へ入りました。内容は、歴史から現実(公害)の問題へ、です。「鉄鋼技術の発展に関する基礎的研究―鉄鋼業の発展と地域社会の変貌」(川鉄と千葉市を事例として)というものです。この内容は、その後の裁判の準備書面に反映されました。

 自主測定の方はその後1974年からNO2の簡易測定運動となり、6月の環境週間を中心に全県や首都圏に運動が拡大していきました。また、公害問題の解決には自治体の変革が課題となっていました。1974年の千葉市長選では、革新統一となったものの市民運動は加われませんでした。次の1977年の市長選から初めて市民運動が革新共同を提起し闘うことができました。個人的なことですが、さらに次の市長選(1981年)の最中に息子が難病を発病し、その後の療養(今は完治)生活を支えました。それを契機に千葉を離れ、妻の郷里宮城に行くとこを決意しました。千葉を離れる直前の1986年1月に川鉄公害訴訟共闘会議が結成され、私がいなくとも大丈夫な体制となりました。3月31日に千葉県職労を退職し、宮城に向かいました。当時36歳でした。その後、1988年に 千葉地裁判決、1992年に東京高裁勝利和解とつながっていきました。

 このように、稲葉先生と出会い、先生に影響を受け、ともに行動した「川鉄公害とのたたかい」は、私にとっては、市民(住民)のための科学と民主主義の学校でした。公害の住民運動と科学の結合、科学〔者〕運動、市民(住民)運動、被害者(救済)運動、政治〔変革〕運動、自治体闘争、裁判闘争、大企業の横暴を抑える闘争など様々な側面を持った多様な運動であり、学校でした。

 したがって、そこでの稲葉先生は様々な顔を持っていました。科学者として、市民運動家として、公害病患者(被害者)として等です。そうした中でもとりわけ印象的なのは、やはり科学者としての顔であり、私自身もそれに大きな感銘と影響を受けました。自らの自主測定と自治体のそれの両面から住民を苦しめる川鉄公害を執拗に追い詰める科学者としての熱い眼。公害裁判での汚染・被害立証を弁護団やともに闘う学者達と周到で膨大な準備過程をこなしていくドッカリと据わった胆(科学者としての確信)。裁判での証言、県議会での意見陳述、そして県庁の環境部職員(自治体労働組合員)とも率直な意見交換、これらすべてに私は同席させていただきましたが、そこで科学者としての自分の考えをまとめ述べる能力と相手に伝える言葉の力の大切さを稲葉先生から学ばせていただきました。

 その後、先生から学んだことをどれほど生かしてきたか自信はありません。今、私は、26年前に千葉を離れた当時の稲葉先生と同じ年齢(62歳)になっています。この先も離れた地ではありますが、その学んだことをもっと生かしていきたいと思っています。

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