触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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アンコールワットとベトナムに7日間旅行 

<家族> ライフ

アンコールワットベトナムに7日間(5/25~31)旅行      

2010.6.9

はじめに(旅に出るまでに…)

 この4月に妻が名実ともに完全退職しました。妻は、この1年間、となりの大崎市(古川)のマンモス校に週に2日だけ退職再雇用の講師をしていました。たった2日だけでしたが随分大変だったようです。宮城に帰ってきてから25年ほどずっと小規模校でゆったりとした教育をしてきたものですから、まだ余力があったのでしょう、この1年間は勤め上げました。しかし、大規模校は、問題が山積。妻は、講師といえども経験は十分ですからスーパー派遣のような仕事をしていたようです。おかげで私はこの1年間、ずっと妻のグチの聞き役でした。

 妻の昨年1年間は完全退職の助走期間みたいなものでした。私がもう10年近く前から始めていたプール通いと体操教室に一緒に参加するようになり、図書館の関係もボランティアにはまだ参加していませんが、ストーリーテリングの勉強会も勧めたら一緒に参加するようになりました。完全退職した4月からは、それに加えて、隣の一関市まで行って屋内テニスをするようになり、更に最近、詩吟も始めました。妻の実父母が隣に住んでいて、その世話は結構大変ですが、ほぼ、まるまる一週間が計画的に使えるようになってきました。

 そこで、海外旅行をということになるのです。昨年も4月にソウル、11月にイタリアと2度も行っているのですが、この4月からは、より日程の調整がつきやすく(つまり安いパック旅行が選べる)なったというわけです。それに今は同居の父母が比較的元気で、1週間ほど家を空けても妻の妹たちのサポートもあってなんとかなるのですが、この先、それが何時まで続くか分かりません。この際、貯蓄を切り崩しても行ける時に遠くの海外に行ってしまおう、そのかわり普段の生活は質素に節約しようと、私たち夫婦は決めています。

  実はベトナムは、4年前に行くことになっていたのですが、その直前に私の方の東京の母が亡くなりました。旅費は殆んど戻ってきませんでした。今回も出かけるまで気が気ではなく、妻の要望で1時間も早く家を出てしまいました。

今回もまたパック旅行で

 東南アジアは、タイ、韓国に続き3カ国目、同方向では、アジアではないのですが、グアムには行っています。だいたいどこも英語で用件を済ませますが、現地でのアクセスがしっかりしている国(欧米など)は初めてでもあまり心配ないのですが、そうでないとやっぱり手軽なパック旅行の利用ということになります。今回のはじめてのカンボジア、ベトナムということでそうしました。それで、阪急交通社(トラピックス)の成田からの往復直行便(ベトナム航空)利用で全16回食事付、日本からの添乗員同行の「感動のアンコールワットと魅惑のベトナム2都物語7日間」というコースにしました。

 一行はツアー客22人とバス移動や全体掌握に丁度良い規模。成田9時集合ですから、今回は千葉駅周辺で前泊(JRのTYOを利用するとホテル+往復が格安)。私たち以外今回は全て首都圏の方々でした。年齢的には、1組の大学生カップル以外は、60歳以上で、70歳前後が最多でした。ですから去年のイタリアは同世代の夫婦が最多でしたが、今回、私たちは若い方でした。親の介護をしている方もいましたが、ほとんど一段落し、年金でも団塊世代と違って、満額出ている最もリッチな世代の方々でした。ですから、海外はもう十数回は、当たり前、中には30回近くの夫婦もいて大先輩達でした。それに加え、夫は、会社経営をしていた(している)とか、技術者としてもう何十回も海外に行っているという方が多くいました。

 添乗員は、この会社では初めての男性、31歳のEさん(経験7年)。何故男性かは、旅行して分かりました。それは暑さなどの気候、衛生状態、少しハードな移動など女性添乗員では、少しきついと思われました。

<旅行日程>

第1日目(5月25日)成田空港 11時発―(5時間30分)機内食-ハノイ空港―専用バスで200キロ、4時間かかって移動、途中で陶器の村バッチャンへ-ハロン湾着(ホテルへ 夕食はベトナム鍋料理 泊)

第2日目(5月26日)ハロン湾―ホンガイ地区観光(バイト山、龍天寺、ホンガイ教会、ハロン市場)昼食(フォーやベトナムの揚げ物)-ハロン湾サンセットクルーズ(+鍾乳洞、水上生活の筏船家、船上でハロン湾海鮮料理の夕食 5時間 )―水上人形劇鑑賞―ホテルへ(連泊)

第3日目(5月27日)ハロン湾―専用バス 途中で刺繍工場見学(4時間)-ハノイへー昼食(チャーカーなど北ベトナム料理)―ハノイ市内観光(ホーチミン廟、一柱寺、旧市街散策、ホアンキエム湖)-ハノイ空港―カンボジアのシュムリアップへ(1時間45分、但し出入国に時間がかかる)-シュムリアップ空港―ホテル(夕食はアモックなどクメール料理 泊)

第4日目(5月28日)シュムリアップーアンコール・トム観光(南大門、バイヨン、パブーオン、象のテラス、ピミヤナカス)-タ・ケウ、タ・プロムー昼食(中華)-ホテルで休憩―アンコールワット観光―プレループ遺跡からの夕日鑑賞―アプサラダンスショーを見ながらの夕食―ホテルへ(連泊)

第5日目(5月29日)早朝にアンコールワットの朝日鑑賞へ(雲が多く×)-アンコール遺跡群観光(バンテアイ・スレイ、バンテアイ・クディ)-昼食(クメール料理)-ホテルで休憩―オールドマーケット散策―アンコールクッキー店―シュムリアップ空港―ベトナムのホーチミンへ(約1時間)-ホーチミン空港―夕食(バインセオや生春巻きなど南ベトナム料理)-ホテルへ

第6日目(5月30日)ホーチミンーミトーへ(2時間)-メコン川クルーズータイソン島下船(果樹園見学、ミニ・ジャングルクルーズ)-昼食(ミトー郷土料理)-ホーチミンへ(2時間)-ホーチミン市内観光(ベインタイン市場、統一会堂、サイゴン大教会、中央郵便局―ホテルへー夕食(サイゴン蟹づくし料理)-ホーチミン空港

第7日目(5月31日)ホーチミン空港―(5時間45分)機中泊―成田空港(朝の7時50分着)

 前半(北部ベトナム)-少し前の日本に戻ったような…

 旅行の前半は、ハノイを中心とする北部ベトナムです。現地ガイドは、30歳代まで独身男性のFさん。この北部は、全体的に何か昭和30年代の日本に戻ったような感じがしました。夜になると極端に明かりが少なくなってしまいます。それでも、軒先や公園などいたるところに家族や親戚・友人などが薄暗い中でも集まっていて楽しそうにやっていました。自動車はまだ少なく、ホンダを中心とするバイクが庶民の足。信号機をほとんど見かけません。3年前からヘルメットが義務付けられましたが、それでも交通事故死が日本(現在5千人ほど)の数倍。但し自殺者は少ないとこことでした。農業は機械化されておらず水牛が大活躍。稲作は2期作以上で、丁度一部でもう大勢で稲刈をしていました。人手もたくさん要ります。いたるところが建設中で、家を建てるためのレンガやコンクリートがあちこちに、それも地震が無いとのことで間口2間ほどと狭く、奥行きがあって、高さは3階が最低で、4~5階も多くしかも安普請?

 ハロン湾は、1994年に世界遺産にされた松島を大きくしたような風光明媚なところで、リゾート開発がどんどん進んでいました。ホンガイ教会は、フランスが植民地化のためのキリスト教布教の最前線とした歴史的遺産でしたが、北爆で破壊、世界遺産指定後に再建されたものでした。(アメリカは京都・奈良などは避けたのに…)

  水上生活の筏船家を訪ねましたが、彼らの祖先は元寇の時、多くの岩々に隠れ、それを迎え撃ったといいます。北爆では島の洞窟へ避難したということでした。生活は厳しく、世界遺産指定後は、観光客が増え、そのための魚の養殖を筏の下に、いけすを作ってやっているということでした。そうした水上生活の民が村を作っていて学校も在りました。

 どこへ行っても30歳前後の若い人たちが多い。1975年にベトナム戦争終結し、その後に生まれたベビブーマーたち。Fさん自身もそうです。たどたどしいが大変上手な日本語で「僕らは、戦争を知らない子どもたち」といっていました。ハノイの街中でも農村でも、なかなか老人を見つけることができませんでした。(私たちと同じ世代の多くが戦争で殺されている)

  2日目の夜、ガイドのFさんの勧めで案内されて、私たち夫婦と添乗員のEさんの3人だけのお客でしたが、マサージを受けに行きました。何しろ1時間半で20ドル(約1850円)だというので、まだ旅は始まったばかりなのですが出かけました。私は男性を指定したら、21歳の青年が担当してくれました。妻には同年齢の女性が、Eさんにはもう少し年上の女性が丁寧なマサージをしてくれました。この青年がともかくよく喋るのです。1時間半のうち1時間は私と喋りっぱなし、父親が私と同年齢だということもあるのか、英語と日本語を交えての次から次へと私に質問責めです。私も仕方なく日本語と英語を組み合わせて応戦。妻や若い女性も時々巻き込んでです。私はマッサージなど受ける時は、グイグイやられるのですから普段は無口になるのですが、まあ、仕方なくの応戦です。質問は、日本のこと、日本語のこと、それを英語にするとどうなるかと…もう、大変な好奇心、知識欲でした。でも力強いマッサージを受け、体も楽になってリフレッシュし、話し好きの青年の相手もそれなりにできたので良い気分になりました。ガイドのFさんもそうですが、本当にこの北部の若い人は勉強熱心だと思いました。

中盤(カンボジア)-世界遺産の活用と国の再建へ

  アンコール遺跡群の観光拠点になる町―シュムリアップを基点として動きました。ここでの現地ガイドは今度も30歳過ぎくらいの男性Pさん(既婚、病気の母と同居)彼の日本語は日本人より上手でした。慣用句、いいまわし、例え、方言、などかなり詳しく知っていましたし、勉強し続けていました。それにはツアー客全員が驚かされました。それによってアンコール・ワット、その他のアンコール遺跡群の理解がより深くできたのではないかと思われました。

  アンコール遺跡群は、9世紀から15世紀にかけてインドシナ一帯を制圧したクメール王朝の首都跡。アンコール・トムは都市名であり、アンコール・ワットは、別にある一つの寺院。ヒンズー教から仏教に変わる過渡期の遺跡群です。一般的には19世紀末にフランス人に発見され世界に知られましたが、ガイドのPさんによれば、原住民は知っていましたし、中国の学者(名前?)によって評価されたのが最初、日本人も江戸時代には(インドだと思って)来ていて印を残していました。内紛、ポル・ポトの粛清、そして戦争へとつづき、平和が訪れた1992年に周辺の遺跡群とともに世界遺産に登録されました。それまでの間、そこにあった財宝や仏像(特に頭だけ)が持ち去られました。ポル・ポトには、遺跡そのものも一部破壊され、現在、日本を始め世界各国の支援で修復がいたるところで行われていました。

  カンボジアは、現在のところ、世界の最貧国の一つであることは間違いありません。北部ベトナムもかなり貧しい人々が多いと感じましたが、ここは更にそれ以上に貧しい。一般庶民の高床式の家は、かなり粗末なものです。公務員の給料が安く、教師も警官もそれでは食っていけないということです。ガイドのPさんも担任教師のやっている塾に離婚した(一夫多妻制が残っている)母からお金を貰い通っていたといいます。(教師は塾で小売店を開らきながら、商売の合間に教えていたと)そうしなければテストに合格しなかったということでした。プレループ遺跡からの夕日鑑賞に行った時、遺跡の高いところから何とか一部夕日を見ることができました。下のほうには物売りの子ども達がいますが、そこには青年くらいしか登ってこられません。ふと隣に制服を着た若い男性が近づいてきて警官バッチのようなものを出して、買えというのです。私はてっきり偽物だと思って断りました。後でPさんに聞いて本物と分かりました。紛失したといって再発行してもらうのだそうです。10ドル位だったか?空港を出る時にも、審査官がボールペンを貸せというので貸したら使用後には「ギブミー」ときました。無いと困るので断ったら、あっさり返してくれました。

  世界遺産の遺跡には外国の観光客は、写真を撮りパスポートみたいなものを作り、それを見せて入ります。(国民は無料)1日券が20ドル、3日券が40ドル、6日券が60ドルだったと思います。観光客は、年間数百万人ですから大きな国の収入源です。遺跡には現地の人々は顔パスで出入りし、商売をしています。付随するおみやげ屋、飲食店、宿泊ホテル等など観光産業は大きな発展をしています。貧しい現地の人は遺跡周辺からその中、途中の休憩所などに物売りにたくさん来ていました。その中では特に子ども達が多いのです。Pさんによれば公務員の子が多いとのことでした。学校は2部制ですから、何時いても不思議ではないのですが…その子たちに何十メートルも付いてこられ、つぶらな瞳で見つめられると日本人観光客は弱いのです。ついつい、根負けしてしまい、あれこれと買ってしまうのです。(私も)妻などはその中に気に入ったものがあったらしく、ある休憩所で肝っ玉母さんが仕切る路上販売であれこれと買ってしまいました。周りの人まで買うので1回に売り上げが数十ドルにもなってしまいました。そうしたらもう、大興奮!お父ちゃんにいろいろ持って来させたり、子ども達にも客にいろいろ品物を見せさせたりと大忙しでした。Pさんがいうには、この家は、今晩は大宴会、これで数日は暮らせるとのことでした。Pさんは初め、もっと安いところを紹介しますといって、この種の物売りに付き合う必要はないといっていました。しかし、そのうち、それがその人たちの生活を支え(子どもも稼いで)るので「どうぞ」と容認するようになりました。子どもたちは、観光客が買わないと日本語で少し憎まれ口をいいますが、その後は屈託が無く、あっさりしたものです。何か楽しそうに商売しているという感じでした。

  5日目に行ったアンコールクッキー店は、日本人の女性が日本語教師として移り住みその後、現地の人たちのため起業したものでした。前日立ち寄ったお店にも日本人スタッフ(女性)がいて、日本人を含む外国のNGOなどの支援事業の製品が売られていました。カンボジアには、多くの世界各国からの援助が、それも政府だけでなく、民間、NGOなども含めてあるのにベトナムよりもっと貧しい。その辺のことについて、Pさんは、移動中のバスの中で、カンボジアとインドシナの歴史、ポル・ポト時代、ベトナムとの関係、現政権が長期になって腐敗、利権、独裁化(世襲化も)しているという話をしてくれました。

  1960年代、ベトナム戦争により国内は不安定となったものの、シハヌーク政権時代には爆撃・内戦は激化しておらず、首都プノンペンを中心にインフラ整備も進み、食糧は輸出するほど豊富で大量の国内避難民も発生していなかったといいます。それがベトナム戦争の激化とともにアメリカが介入し1970年クーデター発生(ロン・ノル政権に)。その後それをシアヌークが毛沢東思想の影響を受けた極端な原始共産制(といわれているが?)をとるポル・ポトと結び倒す。しかし、シアヌークはお飾りにされ、ポル・ポトが実権を握り、それで100万人ともいわれる(300万人説も?)大虐殺・大破壊が行われました。その後もベトナムの介入、そのベトナムへの中国からの侵入、とこのインドシナは戦禍が続きました。その中で、この国の内戦・崩壊状態に国連が関与してようやく国の再建が進められています。

  しかし、現実のカンボジアをPさんの説明を聞いたり、自分の眼で見ると問題が山積しています。適切な医療知識が普及しておらず、外国の援助で無料の子ども病院(シュムリアップにはスイスのものがあった)があるが医療体制の遅れは決定的。水汚染の深刻化(中国からの重金属汚染か?)モノがまだ豊富でないのに環境悪化が急激に進んでいること。このように国の再建が遅れてしまっているようです。

  ベトナムはドンモイ(改革開放)に転換したとはいえ、社会主義国であり、カンボジアは遅れて戦火が止んだとはいえ、一応、民主的な選挙(日本も絡んで)も行われている資本主義国のはずです。ベトナムにも腐敗・汚職、貧富の差など政治がらみの問題はいっぱいあります。でも、Pさんも認めているようにカンボジアよりも社会に、若い人たちに活力がありました。やはり、Pさんがいっているように政治に大きな問題があるようです。

  Pさんとはこの移動中のバスの中で私ともう一人私より少し年上の男性客の3人でちょっとした論争(勿論、日本語で)になってしまいました。ベトナムとの関係、ホーチミンについての見方などでした。今、考えればカンボジア人ならPさんのように考えても不思議ではないとは思って自分の言ったことを反省しています。それにしてもPさんの自分の国を思う気持ちには、観光客全員が感動してしまいました。

後半(南部ベトナム)―若者が多く活気が…

  この南部ベトナムは、北部とはちょっと様子が違いました。まず、5日目夜にホーチミン空港についたのですが、上空から見たホーチミンの夜景の美しいこと、ベトナム航空も室内灯をしばらくの間消してくれました。ハノイの明かりの極端に少ない夜とは対照的でした。土曜日の夜ですが、街中をバスで行くとまわりはバイクでいっぱい、それも2人乗りは少なく3人乗り、4人乗りまで(子どもを何人も乗せる)。中にはペット乗せもいました。それにみんなオシャレなヘルメットをしていました。勿論、ハノイと違って信号はあちこちに、それでも車の間をすり抜けてどこでも進入してきます。歩行者が道路を渡るのは一苦労でした。オシャレなお店、ファーストフード店も多く、バイクと車の違いだけで日本の大都会とあまり変わりません。いや、日本よりも若い人たちが圧倒的に多く、活気がありました。

  6日目はホーチミンからさらに南下、メコンデルタのミトーへ。現地ガイドは今度も男性のTさん。40歳から50歳位か?ガイド慣れしているようで、気遣いはしているのですが、時々、笑えないジョークを飛ばします。(彼は笑わせているつもりでしょうが)前のFさん、Pさんに比べて、最後まで私は親近感が持てませんでした。南部ベトナムは、北部と違って家のつくりが画一化はされておらず、少し粗末です。北部には、四季があるのですが、こちらはいつも夏です。Tさんによればだから南部のベトナム人は働き者でないとのことです。北部に比べ、ここはモノが豊富で街に溢れているという感じです。市場もハロン、ハノイ、シュムリアップと見て来ましたがホーチミンのベインタイン市場が、モノが豊富で一番にぎやかでした。しかし、ホーチミンの街の隅々やミトーへ行く途中の街道付近でも廃棄物、汚染などいたるところで見られました。北部はまだこれからなら環境汚染や、住環境の悪化を食い止め、改善できる段階だとすると、ここは、こう手遅れか、かなり困難!といった感じでした。メコン川、タイソン島も観光地化されていますが、ともかく汚い!これ以上悪化すると観光地としても致命的になってきそうです。

  6日目の午後、統一会堂に行きました。ここは、かつての南ベトナムの大統領官邸。屋上には大統領が狙撃されたヘリコプターが置いてありました。ここは、その前はフランス官僚のために建てられたものだったということです。サイゴン大教会、中央郵便局もフランス統治のために建てられたものです。

  北部もそうでしたがここも老人が少ない、目立たない、そして、若者が多い。違いといったら南部は、よりアメリカナイズ(アメリカの企業進出も)されている感じでした。米軍に侵攻され多大な被害を受けたにもかかわらず、クリントンは大歓迎、ブッシュも大歓迎されたというのです。無差別な北爆や皆殺しの戦争犯罪の追及、枯葉剤などの被害賠償・補償を請求してもおかしくないのに?ちょっと私には信じられませんでした。政府・国民とも親米的なのはどうしてなのか?実は、Tさんも息子はワシントンに、兄弟がカルフォルニアにいるといいます。ホーチミンの市民の多くはアメリカに親戚・兄弟・子弟がいるとのとこでした。戦争末期に、アメリカへ南ベトナムからは82万ものベトナムの難民が行ったということですから、それから特にドンモイが始まるまでの戦後は彼らからの仕送りが支えた(今も?)ということです。さすがに今は合法的出国(1995年に国交回復)ですが、審査は厳しいとのことです。

  しかし、このアメリカとの関係は、日本も安保条約や沖縄の基地問題などだいぶおかしなことがありますが(広島、長崎への原爆投下、戦争末期の各地への空襲なども)ベトナムの場合は、ベトナムに非が一切無いため、もっとおかしいことです。課題としては、ずっと残ってしまいます。(しかし、年寄りは、次第に亡くなっていくため時間との勝負になってきます。)

食事、食べ物、食材など

  前回のイタリアに引き続き今回も全食事付でした。イタリアは期待はずれでしたので、今回はそれほど期待していなかったのですが、、ほぼ満足できました。ベトナムもクメール料理もそれほど大きな違いは無いのですが、ベトナムは北の中国、クメールは、西のタイの味付けが混ざっている、ブレンドされている感じでした。日本人の口に合う味付けです。ただ、個人的にはタイ料理は、何を食べても同じような味がして最後にはあきてしまったので、?ですが、今回それは、シュムリアップのホテルでの夕食だけ(ブレンドされていて)で気になりませんでした。しかし、妻はそれのメインディシュが苦手な川魚料理でしたので、遠慮してしまいました。食材は地元でとれるものですから、肉あり、海鮮ありで、何よりも野菜をふんだんに使っているので大変嬉しかったです。ただ、暑いところのはきゅうり、ピーマンなどの野菜は大きくて大味でした。お米(特に白米)はやはり日本米とは比べようがありません。チャーハンにすれば美味で問題ないし、美味しいおかずをベトナム米でも上にかけて食べればこれも問題ありません。果物は種類も多く豊富でしたが、これも日本の果物の方が美味しいですし、同じ物でも日本に輸入されたものの味の方が何故か良いように感じられました。

  ベトナム料理で前から食べていたのは、2人とも大好きなフォーと生春巻きです。フォーは、旅行中何回も出てきて、その都度食べてみました。やはり美味しいです。フォーの本場での食べ方、味付け、トッピングなど今回、色々と試すことが出来ました。これは是非とも我が家でもやってみようと思っています。生春巻きは2ヶ所で食べました。しかし、これは素材とタレをどうするかで決まるようであまり参考になりませんでした。(娘の作ったものの方が美味しい)

  今回、食材や食べ物で購入したのは、カンボジアで粒コショーとナッツ入りクッキー、ベトナムのタイソン島でココナッツ入りキャラメルとハスの実のお菓子とスモークバナナチップ、ホーチミンのベインタイン市場でベトナムコーヒーです。コーヒー中毒の私は、このベトナムコーヒーなるものが旅行に行く前から気になって仕方がなかったのです。ベトナムに来ても、北部では全く出てきませんでした。ようやく最後の方のホーチミンへ来て出てきました。「小さなカップに入れた非常に濃いコーヒーに、コンデンスミルクのようなものを入れてかき混ぜ、チビチビと時間をかけて飲む」のだそうですが、出されたものがそれほど濃くなかったのか、ミルク?無しで飲んでしまいました。(いつもブラックで飲んでいるので)まあ、豆も器具も買ってきたので我が家で入れてみます。

近くて親日的な国々、インドシナ諸国を考える。

  インドシナ諸国は、今回訪れたベトナムとカンボジア、以前に行ったタイ、それにラオスとミャンマーです。訪れた3国は近くて大変親日的でした。黄色人種、モンスーン気候、米作、仏教など共通点が多くあります。インドシナ半島のこれらの国々はインドと中国の二大文明が接する位置にあり、歴史的にこの周辺大国の政治や文化から絶えず影響を受けてきました。ベトナム自体、北部は、中国から南下してきた人々、南部はインドから来た人々から成っているといっていました。また、この中でカンボジアのクメール王国が早くから大きな勢力地域を占め、続いてタイ王国が勢力を伸ばし、カンボジア、ラオスと衝突するという歴史が続きました。ベトナムは中国の支配から独立し、カンボジアへも進出するようになっていきました。そこへフランスが出てきて1887年ベトナムを植民地化しました。続いてカンボジア、ラオスを保護国とし事実上の植民地とし、そのフランスの支配の方法はベトナム人を用いるというものでした。だからカンボジア人は、ベトナムに対する反感が強いのです。ガイドのPさんもそうでした。

  本当に陸地続きの国々というものは大変厄介なものです。世界中で上手くいっていないところがほとんどです。中国もポル・ポトを支援したり、カンボジアとベトナムが戦争になると懲罰だといってベトナムに攻め入りました。そして、アメリカはフランスにとって代わってこの地域に介入してきたのです。このフランス、中国、アメリカのこの地域の戦争、戦禍、内乱などや全てのこの地域に暮らす人々の不幸に対して責任があります。

  また、日本にも責任があります。日本の戦争末期のベトナム支配、1940年~45年と短い期間でしたが多大な被害(現地調達を行ったため200万人の餓死者を出す)与えています。

ベトナム、50年間続いた戦闘、平和になった現在、まだまだ課題が…
カンボジア、内戦、大量虐殺、国の崩壊、国の再建が始まっていますが…
タイ、貧富の差、首都が騒乱状態に、民主主義の定着が難しい国です。
それに比べて、日本のこの65年間の平和は大変貴重です。平和は何物にも変えられません。

  これらの国々、そこに住み生活する人々と日本の、政府、企業、民間、NGO、個人とあらゆるレベルでのかかわりが大きくなってきています。これらの国々は、世界遺産などへの観光が大きな産業に、人々の生活を成り立たせるものの大きな一つになっているし、もっと大きくなっていきます。しかし、遺跡の保存だけでなく、周りの環境の保全・確保、回復が行われなければ世界遺産に危機、観光の危機になって行きます。またそれはその国々の人々の暮らしの環境を良好にすることに繋がっていきます。特に水資源の危機は深刻です。ここに日本の果たす役割があるのではないでしょうか。平和ということについても日本は、この地域の平和構築に積極的に関わるべきです。

  まだまだよく知らないこれらの国々、これからも私は、これらの国々、まだ訪れていないミャンマーとラオスも含めもっとよく知っていかなければと思いました。

  最後に、ホーチミンのガイドTさんが言ったことが大変、気になりました。「ベトナムのネンパイシャ、おおくが、し(死)にました。それがあって、いまのワカモノたちが、カツヤクしています。ニホンはネンパイシャが、おおくイキている。それで、ワカモノたちに、ゲンキがない。」続けて彼は、「だから、みなさん、ベトナムへ、いて(来て)ほしい」「そして、おカネ、おとしてほしい」まあ、随分勝手なことを言われてしました。この老人(年配者)と若者の問題、日本の我々年配者はもっと積極的に日本の若者たちと係わっていかなければと思いました。

   <写真集> 

5月25日 陶器の村バッチャンの街角

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5月26日 ハロン ホンガイ教会

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5月27日 ハノイ旧市街の市場

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5月27日 ハノイ街中

13km

5月27日 ハノイ ホーチミン廟

06ga

5月28日 カンボジア アンコールワット

086s

5月29日 カンボジア アンコール遺跡群 バンテアススクイ

07go

5月29日 カンボジア シェムリアップ 民家

902ks

5月30日 ホーチミン 統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)

207ha

5月30日 メコン川ジャングルクルーズ

926ys

5月30日 ホーチミンの街外れー環境汚染

937hz

5月30日 ホーチミン街中

968he

5月30日 ホーチミン中央郵便局より 市内にこうした老夫婦はあまり見かけなかった。

402hz

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夫婦でイタリア旅行に

<家族> ライフ 

夫婦で8日間(11/ 21~28)のイタリア旅行に              

2009.12.14  

はじめに(記事の遅れた言い訳を少し…) 

今年に入って4月のソウルに続き、2回目の海外です。3月に妻が定年退職したのが契機となり、夫婦2人で少しまとまった時間が取れるようになったためです。同居している義父母がまだ健康だから何日も家を空けられるので、この先はどうなるか分かりません。妻はまだ週に2日だけ講師で出かけていますが、この時ばかりは年休を取りました。それでも最低の2日間にとどめるため仙台空港からの出発でなく、成田空港に11月21日(土)12時20分集合、14時20分発という、ここ宮城から朝、新幹線で行って間に合うスケジュールのものにしました。

しかし、間際まで忙しくしていたのは、私の方でした。出発日の前日、11月20日の夜に「ゆきとどいた教育をすすめる栗原市民の会」(「教育栗原市民の会」と略)の勉強会と役員会が入っていて、それまでの一ヵ月半くらいの間、それに向けて、ほとんど義務感だけでしたきつい仕事(3冊の本の読破「精読」とその記事アップ)をしていたのです。こうしたことをやり終えて旅行に出かけたのです。帰ってきても何かと忙しくしていて、12月8日夜には、もう次の教育栗原市民の会の役員会と、その前のその日の午後には市の教育長との懇談会にも出席しました。

こうして結局、直ぐに記事アップする機会を失ってしまい、2週間以上も経ってしまいました。周りにもほとんどこの旅行のことは知らせずに行きましたので記事にしないで済まそうかとも思いました。しかし、今準備している年賀状には報告しているので、やはり記事に書かないわけには行かないと考え直しました。ですから、旅行の詳細を書くというより、今の時点で思っている簡単な事後の印象・感想を書きます。それと後日になりますが、デジカメで撮った写真も、少しアップすることにします。(娘が来る12月27日以後)

面倒見のよいパック旅行で

 毎回海外旅行は、最初は出来る限りあまり現地で選択の迷いが生じないようなパック旅行にしています。そのうち慣れてきたら、自分で行動日程プランをほとんど組むものに変えていきます。今回は、初めての欧州旅行でした。ですから、阪急旅行社(トラピックス)の、往復直行便(アリタリア航空)・オプションツアー一切なし・16回の食事付・日本からの添乗員同行の「新スペシャル秋限定イタリア8日間」というコースにしました。一行はツアー参加者38人と大人数。この日のトラピックスの成田空港からのイタリアへの出発は、私たちのナポリからの南周り1とミラノからの北周り1とその他2の計4グループだそうでした。一つの旅行社だけでこうですから、この日にどのくらい日本全体からからイタリアに旅立ったか見当もつきません。

現地の情報は、事前に少しは調べていきましたが、韓国・ソウルの時ほどネット検索や日本からの予約等が出来るわけではありません。それにほとんど旅行社「お任せ」なのでかえって、気楽でした。出入国手続きから、交通事情、食事、観光、ホテルの宿泊、買い物・おみやげに至るまで添乗員さんに頼りきりでした。添乗員さんは、私の娘と同じくらいの年齢の若い女性で、親切で感じがよく、センスもよい方でした。38人もの大人数を相手にてきぱきとやっていました。時間厳守させるのがとても大変そうで、それでも思ったより早めに廻れると参加者の同意を取り付けて予定に入っていない(これはオプションになりましたが)追加の見学地を入れてくれました。とても効率よく(イタリアでは効率は、関係ないようです。)動くことができました。

<旅行日程>


第1日目(11月21日)成田空港―(12時間40分)-ローマ空港-専用バス(ほとんどこれで移動)-ナポリ(泊)

第2日目(11月22日)ナポリ-高速船―カプリ島―小船で「青の洞窟」ツアー-登山電車でウンベルト1世広場へー
バスでカプリ島の港へー高速船―ナポリ(ナポリ歴史地区車窓観光)―ポンペイ(昼食シーフードフリッター)世界遺産ポンペイ遺跡-カメオ工房―ナポリ(ホテル夕食、泊)

第3日目(11月23日)ナポリ-専用バス(3時間半)-ローマ(昼食ピッツア)世界遺産ローマ歴史地区観光(トレビの泉、スペイン広場、コロッセ)世界遺産ヴァチカン観光(サンピエトロ寺院)-イタリアンギフトショップ(ローマ三越)-ローマ(ホテル夕食サルテインボッカ、泊)

第4日目(11月24日)ローマ-専用バス(4時間)-シエナ(世界遺産シエナ歴史地区観光、街中で昼食に中華料理、カンポ広場)-専用バス(1時間半)-フィレンツェ(世界遺産フィレンツェ歴史地区観光、ウフィッツィ美術館、ドゥオモ、シニョーリア広場、ヴェッキオ橋、ヴェッキオ宮殿、ミケランジェロ広場)-革製品のお店へ-ポンタッシェベ(ホテル夕食ポーク料理、泊)

第5日目(11月25日)ポンタッシェベ-専用バス(4時間)-ベネチア(世界遺産ベネチア市内観光、ゴンドラ遊覧、サンマルコ寺院、サンマルコ広場、ドゥカーレ宮殿、リアルト橋、昼食はイカスミパスタ、ベネチアングラス工房実演見学)-メストレ(ホテル、夕食は魚料理、泊)

第6日目(11月26日)メストレ-専用バス(1時間半)-ベローナ(世界遺産ベローナ市内観光、ジュリエットの家、古代アレーナ、エルベ広場)-昼食(ペンネアラビアータ)-専用バス(2時間半)-ミラノ(ミラノ市内観光、ドゥオモ、ヴィットリオ、エマヌエル2世ガレリア、スカラ座、スフォルツェスコ城とショピング)-夕食はミラノ風カツレツ-ホテル(泊)

第7日目(11月27日)ホテル-近くのスーパーへ(隣の洋品店にも立ち寄る)-専用バス-ミラノ空港へ14時45分発

第8日目(11月28日)空路、帰国の途へ、(12時間30分)-成田空港10時55分着

旧い街並み、遺跡、世界遺産がいたるところに

 今回のイタリア旅行では、行くところすべてに世界遺産があるという感じでした。石材でできた建築物、旧くからの街並み、いたるところにある遺跡、そこにまた、人々がずっと昔から住んでいる。歴史の中に住んでいる感じでした。さすがにポンペイ遺跡には住んではいませんが、その広さは半端でありません。発掘もまだ途中でした。旧い建物を活かし、内部を改装する(リフォームする)ことが多いようでした。典型的だったのはベネチアです。住人は少なく、周りから車、船で多勢が通勤しているようで、島の中の建物は貴重で外観を変えず内部を改装し、活用しているようでした。島全体が水没の危機にもあるわけですが、観光産業で成り立っているので、島全体の保全の方策も始まっているようです。

 今回、街並みで一番気に入ったのは、シエナです。トスカーナ地方の小高い台地?にある人口5万人余の小さな学問の街(昔は国)。ベネチアもそうでしたが、入ると街全体がタイムスリップした感覚になります。街全体を見渡せるところから見るとまるで「天空の城ラピュタ」に出てくる中世の街そのものです。中に入るとほとんど車がつかえない石畳の坂道。息を切らせながら登っていきます。街の中央のカンポ広場に来ると、ここでおこなわれる伝統のお祭り=パリオ祭(熱狂的な競馬競技)が目に浮かぶようでした。(以前、TVの特集で見ています)

 次が、カプリ島のウンベルト1世広場のまわり。綺麗なレストラン、ショップ等が続きます。箱根の星の王子様ミュージアムに再現されていた旧いフランスの街並みとそっくりでした。フランスではありませんが、こちらの方が、使用している本物。三番目がフィレンツェ。シエナの近くですが、こちらは平地で、街の規模も10倍ほどにも。小高いところにあるミケランジェロ広場から街全体が一望できますが、古くて美しく整っています。ローマ、ミラノ、ナポリと比べるとより「落ち着きのある街」という印象です。

 街並みだけでなく、農村地域もおしなべて美しく感じられました。農村も旧い石造のものが多く見られました。時期が冬でしたからオリーブ、ブドウ、オレンジなど一部に見られましたが小麦はなく、牧草もそれ程でなく、土もそれほど良質に見えません。それでも美しく感じられたのは、都市にも農村にも、余計な広告・看板が少ない、(世界遺産地区内では全くといっていいほど)スラム地区を見なかった(ない?)のか、ゴミなどで汚れていたのは、ナポリの一部地区のみでした。規制があるのかどうか知りませんが、世界遺産地区内だけでなくその周りでも、建物の高さ制限と色(窓の覆いや屋根の色も)が限られたものになっていました。多くの都市(街)では、電線・電柱がなく(地中に)、ネオンも限られているようでした。日本のように旧い街を破壊して再開発するような様子は北部の一部にありましたが、あまり見られませんでした。といってもインフラ整備が極端に遅れているわけでもありません。地下鉄の工事をしていてすぐ、遺跡にぶつかるというナポリのような街も多いようでした。道路網、鉄道網も整備されていました。(BC300年頃からローマ街道を造っていた国ですから)公共施設も市庁舎などそのものが歴史的建造物になっているところが多く、市の事務所も旧い城壁の外側を活用して造っている(ベローナ)街もありました。イタリアは、「旧くても良いものはずっと大切に活用する」といったところです。

イタリア人の暮らし方、働き方

 イタリア人は、添乗員さんによると1にサッカー、2に会話、3に恋愛、4に食事、5にマンマ(母親)だそうです。ナポリ生まれの運転手さんも1と5だと思いましたし、ホテルのTVを朝、見ると昨夜のサッカーの試合をやっていました。会話は、レストランでウエイター、ウエイトレスが仕事中でも中断して個人的な会話をしていますし、お客にも何かと陽気に声をかけてきました。高速道路のインターでも、対向車同士で話が始まり、ストップしているところも見ました。「何よりも会話を楽しむ」といった感じです。3は、女性と見ると話しかけてくる?? 4は、朝食は、Bar(バール)というファーストフードの店+コンビニのような飲食店で、コーヒー(エスプレッソ)とパン(シュガークロアッサンのようなもの)といった簡単なもの。ホテルも私たちもそれか、それのアメリカン式(+ハム、チーズ、卵など)でした。その代わり昼食と夕食はたっぷり、ゆっくりと(会話を楽しみながら)とっているようです。昼食でイタリア人は私たちと同じレストランでも大瓶の水やワインを置いて、そうしていました。ともかく、急がない、せかせかしない、個人優先、個人(生活)を大切にするといったところか?

 街並みは綺麗で、家の窓も綺麗にしている(花もよく飾ってある)し、家の中もとても綺麗にしているといいます。ただ、車は、あまり洗車してないようで、傷だらけ、大阪人も顔負けの縦列駐車もすごい!! どうやって出るのだろうと思われる隙間なし駐車も。2人乗りのスマートなど縦駐車でした。小型車が多く、軽自動車はなくとも同じような大きさの車も。実用的なハッチバック、ステーションワゴンがほとんどで、残念ながらフェラーリなどのスポーツカーや高級車にほとんどお目にかかれませんでした。服装は、オシャレにしている人が多く(特にローマとミラノではファション・デザインが良い)見られました。実用的ということも重視していますが、何事も見た目が大切、自分が一番、といった感じです。

 働き方は、ちょっと信じられないのですが「労働は罪悪」(添乗員の説明)と捉えているそうです。土日の休みに1ヶ月のバカンス、(子どもも3ヶ月の夏休み+クリスマス休み、復活祭など)働きすぎると法律違反になるそうです。運転手さんも旅行日程の最後は交代しました。11月21日夜にローマに着きナポリまで高速道路でしたが、トラックを殆んど見かけませんでした。ホテルの窓から夜の街中の道路を見ても少ない。運輸業での深夜労働があるのだろうか?と思いました。空港等は動いていますので、限られたところに制限されているのかもしれません。当然のことながら、「サービス残業」「過労死」などという言葉はないとのことです。

食事、食べ物、Bar、食材

 2人ともイタリア料理は大好きです。今回の旅行では、全食事付というのにも少し惹かれたのですが、結果は、少し、期待はずれでした。東京でなくとも仙台やこの辺りでも、そこそこのイタリア料理を出すお店はチェックしてあります。自分でも結構作ってもいます。ホークで巻くと切れてしまうスパゲッティは、問題外ですが、それほどよい食材を使っているわけでもないし、(価格からか?)一応は美味しいのですが、味もそれほど感動的でもありません。サラダも味付けがほとんどなく塩コショウしました。(自分で更に、オリーブオイルとレモンでも足したい位でした)それでも、イタリア料理の基本(味付けや工夫、食材の使い方等)みたいなものが何となく分かったような感じはしました。それをもとに、バールやスーパーで食材を揃えてみました。私は、コーヒー依存症で、パックのものを持参したのですが、ソウル等のようにホテルでお湯を沸かすこともできずダメでした。ホテル朝食で飲めるコーヒーを置いてあるところもありましたが、機械を見ているとただ、エツプレッソをお湯で薄めていたところもありました。(これは飲めません)それよりもカプチーノがまずまずで、シュガークロアッサンのようなパンには合っていました。料理に使われる野菜が少量で不満でした。果物もリンゴは不味く、ブドウも日本の方が美味しいです。ただ、オレンジだけは、まずまずでした。

 ソウルもそうでしたが、1回の旅行でその国の本当の美味しいものが食べられるわけでないことも分かっています。自分で調べたり、探したり、地元の人たちの様子を観察して、それに溶け込んで初めて美味しい料理にめぐり合えると思います。これから、買ってきた食材を使ってイタリア料理をもっと工夫して作ってみようと思いました。

海外旅行をして、日本のことを考える

 初めての欧州・イタリア旅行でしたが、まだまだその国なり、国民の特徴等がよく分かったわけではありません。いろいろと戸惑うことも多くありました。先ず、水。水道水は飲めませんし、飲み水はすべて有料でした。500ccと1000ccがおおくて、お店で1ユーロ(レートは1ユーロ=約136円、消費税を考えると100円の感覚で)と2ユーロ、レストラン・ホテルで2倍、スーパー等では1/3でした。次にトイレ。公衆トイレが少なく、しかも有料。50セント~1ユーロ以上と幅があり、添乗員さんは無料の場所や安いトイレのチェックが大変のようでした。少し寒い季節ですので日本人ツアー客はどこでも直ぐトイレに駆けつけていました。イタリア人はあまりトイレに行かないように見えました。3番目がお風呂。というよりバスタブがあったのは、ランクの上の方のホテルだけ。それも、添乗員さんには、日本人客が一斉に使うとタンクのお湯がなくなってしまうと言われました。こちらの人は、基本的に短時間のシャワーでおしまいのようです。(換気扇もありませんでした。)そのシャワーもホテルによっては出が悪かったり、高い所に固定式になっていて、とても使い辛いものでした。

 旅行は、「非日常の体験と出会い」だと思います。見知らぬ土地で、見知らぬ人々と出会い、交流し、そこの食べ物を食し、そこの自慢するものを見て、楽しみます。そして、そこの歴史と生活の一端を垣間見ます。(一緒の旅行客との交流もありますし、)ですから、こうした少し戸惑うことがあっても、どうといったことではありません。郷に入れば、郷に従えです。それでも、海外旅行をしていて、つい、日本のことを考えてしまいます。

 日本では、水は今のところ豊かです。水道水も飲めます。(特にこの辺りはいいです。)お店でも水は、タダです。新宿御苑の飲食店(法人が運営)が「水しか出さない(お茶を出さない)」というお客のクレームが報じられていました。お茶も美味しいのを出すお店もあります。料理でも日本の方が世界各国の美味しい料理が楽しめます。それに日本料理は最高(日本人にとって)です。果物、穀物、肉、山の幸、海の幸、…どれをとっても日本ほど豊かな国はないかも知れません。それに日本のお風呂は最高です。温泉もいろいろあっていいです。帰路の飛行機の中で2人が思ったことは、「早くお風呂に入りたい」ことでした。(近時か、温泉にも行きます。)

 その反面、イタリアの良さと日本に欠けていることも見えてきました。あれだけ世界遺産がある国ですから、世界中から観光客が来て当たり前という感覚で「サービスがあまり良くない」という人もいますが、あまり気になりませんでした。日本のような「おもてなし」も良いのですが、マニュアル化された過剰で味気ないサービスは、私は好みません。お喋りで、人懐っこくて、陽気なイタリア人は好感が持てます。仕事振りも「労働」ということで割り切っているようでも案外しっかりしています。それはイタリア人がこれまで作ってきたものを見れば分かります。芸術・美術品、デザイン・工芸品、皮革製品、ガラス製品、陶磁器、タイル、布織物、それに建築物など数え上げれば切がありません。個性的、独創的、色使いやデザインが優れているなど特徴があります。それは、旧いものでも良いものは生かしていく、街並みでも農村風景でもです。日本のようにどの地方に行っても金太郎飴のようなつくりには決してなっていません。地域(地方)、地域(地方)が独立している。個性を持っている。「自分が一番だ」と主張しているのです。また、個人もしかりです。イタリア人の暮らし方・働き方は、私たち日本人も少し取り入れた方が良いと思われました。そして、日本には良いところが沢山あり、もっともっと世界中から観光客に来てもらい、日本の良さを世界中に知ってもらいたいと思いました。それには街の景観や観光客への対応など、いろいろ改善していかなければならない点も多くあるようですが… 

<写真集>

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ナポリ カプリ島青の洞窟

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ポンペイ遺跡

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ローマ スペイン広場

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ローマ コロッセオ

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シエナ 歴史地区全体を街の入り口から見る。

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シエナ カンポ広場

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フィレンツェ ミケランジェロ広場より街全体を見る。

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ベネチア ゴンドラ遊覧

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ベネチア サンマルコ寺院

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ベローナ ジュリエットの家

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ベローナの街並み

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ミラノ スカラ座

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ミラノ ドゥオモ(ゴシック建築)

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ミラノ ガッレリーア・ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

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09宮城・ジジ親・夏の陣終わる。

<家族> ライフ
09宮城ジジ親夏の陣終わる  
                                                               
 2009.8.20

8月1日、箱根に集合!

 今年の初め、1月11日の記事「年末年始の恒例のジジ親家業を終えて」で、その時の様子を伝えました。それから約7ヶ月、8月2日の箱根での息子の結婚式でその前日に現地で娘夫婦と孫2人(男の子)と合流しました。娘達は、朝、高松空港から羽田に飛び、JRとバスで箱根へ。私たち夫婦は、JRと小田急・箱根登山鉄道で。夕刻に二日連泊する強羅ホテルパイプのけむり に入る前に、それぞれ、娘達は、星の王子様ミュージアムへ、私たちは、箱根ガラスの森美術館へ。

 翌日の息子の結婚式までは、8月4日に記事にしたように、孫(4歳半の上の子)が私と「一緒でないと登山電車には、乗らない!」とダダをこねても、息子が最優先で謝辞の準備をしていました。結婚式では小さな子どもは孫達だけでした。長い廊下を走り回ったりして、多少周りには迷惑はかけましたが、雑誌を読んだりしてそれなりに良い子にしていました。(上の子は、成長してきていました。)

 翌日は、夕刻までに娘達を連れて宮城に帰れば良いのですから、孫達とはたっぷり遊べました。箱根彫刻の森美術館へは、開館の9時直後に入園。キッズスペースが結構沢山あって、子どもたちに彫刻・絵画を見せながらものびのびと遊ばせることが出来ました。お昼には飲茶のレストランに新郎・新婦も駆けつけ一緒に楽しく昼食をとりました。この後は、上の子が大好きな電車のオンパレード。箱根登山鉄道小田急ロマンスカー、東北新幹線と続き、大興奮でした。

宮城に帰ってきて…

 リフォームしたての我が家では、箱根に発つ直前には、孫対策をそれなりに取っておきました。茶の間の低い作り付けの棚からは、置物を全部撤去し、リビングの植物も別のところに移しました。それでも漏れていたところがありました。茶の間のローボードの中の籠に入っていたCDは、全部出され、オモチャに。(→全部押入れの中に隠し)買ったばかりのステレオコンポは、スイッチの押し捲り。(→電源を切る)障子は覚悟していましたが、真新しいのですから、一所やられてしまい、やっぱり目立ちます。

 毎年、夏と冬。まあ、一種の孫達との戦い?戦闘です。宮城での夏の陣と冬の陣です。むこうは、初め1人でしたが今は2人。主戦力が上の子から下の子(1歳2ヶ月)に移ってきています。上の子は、幼稚園生で、それなりに「お約束」や自分で出来ることが増えてきて、私と一緒に買い物や出かけても前ほど苦労しなくなりました。会話もいっぱい出来るようになり、話していてもとても面白いです。(これでは、戦いにならないか?)1月にも書きましたが、問題は下の子。この時は、まだ後にハイハイだけでしたが、今回は、こちらに来てからも台風のように日増しに勢力が強くなってきました。ヨチヨチ歩きが、だんだん速くなってきます。段差のあるところも何のその。降りるのも上がるのも日毎に上手くなってきます。絨毯敷きの階段は、上りから始め、数日で2階まで到達。それからは後ろ向きで下り。始めの数日は、途中でギブアップしてこちらを向いて、両手を広げて私に助けを求めました。(敵の手を借りるとは!←ジジは甘いもので、ホイホイと直ぐ抱っこしてしまいます。)そのうち、だんだん下の方まで自分で進み、振り向いて私の方は見なくなりました。(こちらも、敵に安易に手を貸すまいと決めて…)最後2段だけになった時、急にバランスを崩して後ろ向きで頭から1階の廊下の板の間に転落。ゴッチン!!と。その結果、ワーンワーンと大泣き。すぐにカッカ(娘のこと)が駆けつけました。そして、「何してるの、父さん!… …ゴチャゴチャ… …」と、散々私を非難。私は、「もっと上からだったら受け止められたのに、2段目からでは間に合わない。」と言い訳。怪我まではさせていませんが、泣かれてはこちらの負けです。

  ともかく、逞しくて、好奇心旺盛で、元気な子です。それに、笑い顔が何とも良くて、癒されます。よくニコニコ笑いながら小さな手をパチパチと叩きます。バイバイも笑顔で上手にします。「お風呂だよ」というと自分で服を脱ごうとします。何でもお兄ちゃんの真似をしたがり、食いしん坊で、欲張りです。でも、唯一喋り始めた言葉が「ママ、ママ」でもなく「バーバ、バーバ」。上の子は「ジージ、ジージ」に続いて「バーバ、バーバ」の連発ですが、下の子は何時になったら「ジージ」と言ってくれることやら?それでも、カッカにおっぱいねだる時以外は直ぐ私にベッタリと抱きついてきます。

8月20日、ようやく夏の陣は終わりに。

 2週間ほど前、チチ(父)は仕事の都合で先に高松に帰っていて、帰りは、娘と孫2人。仙台空港まで妻と共に車で送っていきました。大阪空港(伊丹)には、チチが迎えに来ていて飛行機を降りればその後は大丈夫という体制を採ってのことです。飛行機の中でも問題は下の子のようで、来る時も一波乱あったようです。娘より、夜の9時過ぎに電話があり、無事チチと合流し、大阪で少し遊んで高松までもうすぐとのこと。忘れ物を送るようにという用件でしたが、こちらは一安心です。娘達が帰った後の後始末は、今回は、すんなり1時間ほどで終わってしまいました。昨日、少し片付け始めていたこともあってのことですが、それにしても短時間。前は半日くらいかかっていたような気がします。娘も少し片付けるようになったのと、上の子も「お片付け」の仕事を少し、今日の朝、ジジと一緒にするようになったからです。それと、リフォームしたため、いつもすぐ片付けられるようになっていることも大きいです。

 次回は、12月。冬の陣です。その時まで、孫達は、2人とも、もっと大きくなっています。勢力を増しています。特に下の方がどのように強力になっているか考えただけで少し、恐ろしくなります。(←冗談ですよ。実は、楽しみなのです。)チチは、体格が良く、2人を同時に抱えても、どうといったことはありません。私も挑戦してみましたが、ちょっと無理なようです。リビングと茶の間の間の段差(21cm)の所で、このところ、10分間ステップ運動をしています。上の子は、一緒に真似したり、時々は「ダッコして!」と来きます。一瞬だけダッコすればそれで気がすみます。ところが、下の子は、私がステップをしだすと、必ず、両手を広げてダッコを要求してきます。10kg位はあるのか、ダッコしたままでは、大した負荷がかかりいい運動になります。飽きてきた頃に降ろしてあげます。孫の成長と私の体力の維持・強化。問題は、このバランスです。いつまで持つのか、このところの筋力トレーニングや貯筋体操の主目的は、ここにあります。さあ、明日から次の冬の陣にむけての再スタートです。

余談

 1月の記事でも、「日頃している様には、運動等ができず…少々太りました。体重で+2キロ、体脂肪で+1~2%、内臓脂肪で+1~2レベルアップ」と書きました。今回も、同様の結果になりました。それでも前回よりは、少し運動はしていました。何が夏太りの原因かというと、どうも娘が作る美味しい高カロリーの料理・お菓子のようです。明日からは、それは無くなる(それも少し寂しいのですが…)のですから、あとはバッチリ運動の方をすればいいのです。今回は、病院での検査まで2ヶ月もあります。ゆっくり時間をかけて調整すればいいのです。

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8月19日 片付ける前のビニールプール、三輪車など

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息子の結婚式で、親の務めを果たして。

<家族>   ライフ                                               2009.8.4

 息子の結婚式で、親の務めを果たして。

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 8月2日(日)に、箱根の懐石料理・ 強羅花壇 という大変、素敵な場所で息子の結婚式が行われました。当日まで私の知る若干の状況は7月25日の記事「結婚まであと9日の息子からの電話」で述べている通りです。結婚式でこの強羅花壇という場所の設定は、息子の強い要望で実現したものです。ところで、「場所が何故ここなのか?」という疑問(参列者の多くが同じように思っていたようです。)がありましたが、親の私さえ当日まで、その理由をよく知りませんでした。それは、息子が、何回かこの強羅花壇の改修の仕事に携わって、「ここで結婚式が挙げられたら」と思うようになったことが発端だったそうです。ここは、本来、余り結婚式は行わないところのようですが、息子は、自分の思いを先輩・知人に話し、その尽力もあったのでしょうが、思い切って申し込んだらOKだったということです。こうして、結婚式は、息子たち2人が全てを準備するというものでした。

 しかし、その最後に参列者への親からの謝辞を、私に述べて欲しいという要望が式の半月前ほどに来ました。これは、当然の「親の務め」です。前述の7月25日の記事は、この謝辞のことがあって書いたものでもあったのです。つまり、7月25日あたりで私は、だいたい心の準備を始め出したのです。それから、あれこれと考えてはいました。宮城から箱根は遠く、式の前日(8月1日)には宮城から義妹夫婦2組と香川から娘夫婦(+2人の孫)と一緒に前泊することにしました。ですから、その前泊の夜にでもホテルで、もっとはっきりとした話を考えればいいと考えていました。しかし、不覚にも酔ってしまい、明日の朝(当日)にしようと寝てしまいました。

 朝、文章にし出すと、横で妻が注文を出してきました。「2歳半の時のネフローゼのこと、あれであの子はガマン強い性格になったのだから…そのこと、外せないでしょう!?」(←ごもっともです。)そらから一通り文章にするとまた、チェックが入ります。(教師ですから)そのうち、その途中で、孫がやって来て、私と「一緒でないと登山電車には、乗らない!」とダダをこね始めました。いつもでしたら、ホイホイと、甘―いジジはその通りにしてしまうのですが、この日だけは息子が最優先です。孫の望みを断ち切って(外は大雨で、娘夫婦たちも朝の外出を諦めました)A5の用紙にキチンと文章にして書きました。


列席者の皆さんへの謝辞                                          2009.8.2 

 本日は、遠い所から、ご列席いただきありがとうございました。

 そして、皆様方より、2人へ暖かい祝福をいただき本当に、ありがとうございました。

 さて、現在30歳になる息子ですが、息子が小学1年生まで、私たちは、千葉市に住んでおりました。息子が2歳半の時、難病のネフローゼにかかり、しばらくの間、闘病生活を余儀なくされました。その時から、息子のガマン強い性格が作られてきたのだと思っています。

 私は、以前、サラリーマンでしたが、子どもたちの環境のことも考え、24年前、息子が小2の時、妻の郷里の宮城に移り住んでいます。息子もそれから、小・中・高と11年間、宮城で過ごしました。その後、千葉・東京に出てきました。

 彼女とは、千葉大学時代に、縁あって出会い、結ばれることになりました。息子から、彼女を紹介され、大変素敵なお嬢さんで、私たち夫婦は、とても喜んでおります。ちなみに、私たち夫婦も、千葉大学で、出会い、結ばれまして、そうした意味では、2人は、後輩であり、同じようなケースでもある訳です。

 私たち夫婦の子育ての基本は、「子ども自身の意思の尊重」です。子どもは、自分自身で、決定・設計をすること。親は、そのための援助と環境・条件を最大限に整えてあげることだと考えています。
 ですから、本日の、この大変こだわった結婚式もそうした2人の考えで全て、決定・設計されたものです。

 しかし、息子が自分で決定・設計をするといっても、それは、同時に、私は、息子の中には、ふるさと宮城と、その原風景が、しっかりと刻まれていると思っています。首都圏で、生活・仕事をしていても、その根っこにあるものは、不変だと思っています。

 今後、若い2人は、自分たちの暮らしを、生活を、自分たち自身で設計=デザインしていく生き方を貫いていくものと思います。その過程で、小さな過ちは多少あっても、大きな間違いは決してしないと思っています。

 今後とも、この2人を、皆様方が暖かく見守って下さるよう、よろしくお願いします。

 本日は、本当に、ありがとうございました。
                                                               
                                               (新郎父)

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結婚式まであと9日の息子からの電話

<家族>   ライフ                                              
2009.7.25
 
結婚式まであと9日の息子からの電話

 昨夜(7月24日夜)9時少し過ぎ、川崎市に住む息子から「母さん、まだ、起きてる?」と電話がありました。何時ものことですが、妻はとっくに7時半過ぎには寝てしまいました。(特に昨夜は、義妹の引越し準備の手伝いに行っていたため)余程のことが無い限り起こしません。

「もう、とっくに寝た。用件はなんだい?父さんで良かったら話して、」
「この間、送ってもらったFAX、貸衣装のサイズのこと。」(息子の結婚式に私が貸衣装で着るモーニングのこと)
「それだったら、父さんで大丈夫だよ。」
「サイズが変なんだよ。袖丈53センチ身長163センチだと57センチになるし、肩幅48センチの方は44センチだし…」
「母さんの測ったのは、いつものようにいい加減だから、今、ちょっと、自分で計ってみるよ。」
「ウーン、やっぱり、それに近いな。身長を160センチにしてみてはどうだい?」
「それでも袖丈56センチ、肩幅は44センチで変わらず、だよ。」
「それだったら、その身長160センチの方でいいよ。何とかカラダの方を合わせるから。」「それだけの用だったら、あとで母さんに掛け直さなくてもいいよ。」といって、電話を切りました。

 息子の結婚式は、8月2日、箱根の強羅花壇というところで行います。かなり立派なところのようです。そこで両家と少数の友人のみの、こじんまりとした人前結婚式?を挙げるようです。このように他人ごとのように言うのは、結婚式は全て息子たちでするということにしたからです。

昨年8月30日の記事、「二日間(8月23・24日)の東京」の中で両家の<食事会>のことを書きました。そこで初めて2人が結婚式を挙げることを知りました。それまで、私の息子への感触では、「もしかして結婚式は挙げないかも…」と思っていました。「どこでもいいよ。沖縄でも、海外でも…」と暗に注文もそれとなく伝えていました。そのうち、「軽井沢か、箱根」に落ち着いていき最後に「箱根」になりました。箱根は、3~4年前に、私たち夫婦で「JRの大人の休日―3日間12,000円乗り放題」を利用して、2泊3日のゆったりとした旅をしています。息子にその時の話をしたり、資料を見せたからかもしれません。その後、婚姻届の提出予定が少し遅れたりしていましたが、春に式をする予定だったのが、夏になっただけで予定通りに結婚式を挙げることになりました。2人ともが毎日、目いっぱい働いていて、忙しい中でこの間、準備を進めてきたのだと思います。東京と宮城の田舎ですから、手伝うことも出来ません。(そもそも、あまり必要としていないようです。但し、一定の費用援助だけはしました。)先週末に妻が東京に叔母の見舞いに行ったついでに息子たちと少々打ち合わせをしてきた位です。

これまでの私たちの子育ての基本が、「子ども自身の意思の尊重」=子どもは、自分自身で決定(設計)をすること。親はそのための援助と環境・条件を最大限、整えてあげること。ですから、こうした結婚式になることは、(する、しないを含めて)当然のことです。

妻も先日、電話で息子と話していて「彼女は、仕事をしていて大変忙しい中ですることが一杯あって、今、大変なのよ。」「お母さんの場合は、最悪の状態で結婚式を迎えてしまったのよ。」と彼女を気遣うようにとアドバイスしていました。そういえば、36年前の私たちの結婚式では、妻の化粧ののりも悪く(吹き出物もあったような記憶が…)機嫌もたいそう悪かったなあと思い出されました。(私は、あまり気遣ってやれなかったように思われてきました。←反省。もう、遅いけど…)

36年前の5月3日、私たちの場合は、午前中に東京・神田精養軒での磯村家(私の旧姓)主催の親族だけの結婚式。午後は、自分たち2人も加わった実行委員会方式の労音会館での大勢の友人たちに囲まれた結婚式と、一日のうちに2回しました。それで、2人と両親と仲人は、大忙しでした。とりわけ妻に負担が多く掛かっていたのだと、今更ながら思いました。結婚式が2回になったのは、妥協の産物でしたが、当時としては、止むを得なかったと思いますし、今となっては、2回もして得したような、いい経験をした感じです。この後の、友人や、後輩たちの結婚式では、しばらくは、実行委員会方式が増えていきました。

自分たちの生活は、自分たちで決定(設計)していく。それでも、客観的には、親や、親戚などに世話になることも結構あったわけですが、気概だけはそうした気分でした。当時に比べて、現在の方がやろうと思えばいろいろな制約も少なくなり、やりやすくなっていると思います。但し、経済状況は、そう簡単に若者たちが、その夢や希望を叶えられるような状態になっていません。私は、それでも、精一杯、若い2人が自分たちの暮らしを、生活を設計=デザインしてく生き方を貫いて欲しいと思っています。

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