触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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女性賛歌の映画「ボルベール<帰郷>」

  女性賛歌の映画「ボルベール<帰郷>」

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 私の評価基準

 MOVIESで取り上げた一作目が、少し大掛かりになり過ぎ(時間もかけ過ぎ)もう少し気軽に、肩の力を抜いてとは反省いています。しかし、二作目がこれ。気が重くなります。(何故かは後で分かります。)感想、批評に入る前に、このカテゴリーで取り上げる映画の私としての一応の基準を説明します。評価の満点を5点とし、4点以上に評価した作品から選びます。あまりに古いもの、一般にDVD等で見られないものは除きます。ちなみに昨年一年間に映画館(これは少ない)DVD、TVで見た映画は約100本、そのうち5点はゼロ、4点は10本で一割です。数少ない4点のため1月にもう2つ目ですが、そして少し気が重いのですが「ボルベール<帰郷>」を取り上げます。

 この映画の解説

 この映画の詳しい、解説、あらすじ、いろいろな人の感想は例によって Yahoo!映画ーボルベールで、特にユーザーレビューの方がトップページより詳しいものがいくつもあります。とは言っても少しは自分で解説をします。
 この作品は2006年にスペインで製作されたもの。監督はペドロ・アルモバル。彼の作品を見るのは「オール・アバルト・マイ・マザー」」「トーク・トゥ・ハー」に続いて3本目。この3本で女性三部作というらしいです。ちょっと癖のある感じですがいずれもいろいろ考えさせられる作品ばかり、前2作は私の好みではありませんが優れた作品とは思いました。主演のペネロペ・クルスもどちらかというと私の好みではありません。そんな前提でこの作品を初めからちょっと引いて見始めました。
 冒頭は死んだ男たちの墓掃除をする大勢の女たちののんびりしたシーンから始まります。主に登場するのは母、二人の娘(妹の方がベネロペ)、孫娘、伯母、隣人の女性達。(6人の女優がカンヌで女優賞を獲得) 男は付けたし???ここにはろくな男は登場しません。物語は、突発的に近親相姦がらみの殺人が起きて、そこから、幽霊話あり、闘病あり、その合い間にコメディもありのごちゃまぜ、しかもこれがノンストップでときます。しかし、二つのテーマ 「ボルベール<帰郷>」と「贖罪」 は、しっかりと描かれています。豊かな色彩の使い方と舞台がスペインということもあるとは思いますが、暗くなりそうな重いエピソードばかりなのに何故か明るい印象が残りました。このあたりは、さすがに脚本の力、監督の力量だと思いました。
 登場する女性たちは様々な秘密、悩みを抱えながら気丈に生きていく。そしてそれぞれの安らぎのある帰る場所へー帰郷ーを果たしていきます。主人公たちの死んだはずの母親が登場し、その事情が暴かれていく。そして、ラスト、母が娘に赦しを請います。そしてその後、母が取った選択は… 私の解説はこの位にしておきます。後はまだ見てない方はあまり事前にあらすじを知らない方がいいのです。
 
 映画を誰と一緒に見るか

 ともかく私は、女性(特に母親)の強さ、逞しさ、したたかさに圧倒されました。と同時にこの映画を一人で見て正解だったと思いました。また少し脱線しますが映画を誰と一緒に見るのかということに触れたいと思います。もう15年ほど前のこと、大林宣彦監督の「ふたり」という映画のビデオを自宅で家族と見ていました。その中で確か母親が病気か何かの時、父親が浮気にはしる設定があり、(この後、主人公は父親の問題を乗り越えていく)この時、私は、ついうっかり「父親の気持ちが分かる…」ようなことを言ってしまいました。これに対する当時高校生だった娘の反応は「お父さんという人は…」。確かこの「…」部分は=「浮気容認者」だったと思います。この年頃の娘は、浮気容認者→浮気実行者と受け止めかねません。私がとんでもないと否定しても娘は取り合わず、一緒に見ていた妻に「何とか言ってくれよ」と頼んでもニヤニヤするばかり。(冗談じゃない!) この一件、この後一体いつまでこの誤解が続いたものやら見当がつきません。当たり前かもしれませんが、映画の内容によって誰と一緒に見るかは重大問題となります。

 女性は元気に、男性は?

 そんな訳でこの映画も男性は、女性と(特に愛している)一緒に見ることを私はお勧めしません。この映画に男の存在感はないし、男の立場などありません。一緒に見ていても辛くなるだけです。ペネロペの豊かな胸の谷間に自分の目が行ってしっまているところでも見られたら堪ったものではありません。(実際、目はいっちゃいます。しかし、ペネロペの演技の方も格段に上手くなっています。) それでも男性にも敬遠しないで、是非一人でも見て欲しいと思いました。勿論、女性たちはどんな組み合わせでもいいのではないでしょうか。親子、姉妹、友人、… 何しろ、これほど徹底した女性賛歌は、男の私が見てもかえって清々しい感じすらします。女性たちが見たら更に元気になるのではないでしょうか。妻には後日、DVDを借りてきて見てもらうことになっています。その時、私は別室で読書でもしていることにします。

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「市教育委員会」定例会を傍聴して

   「市教育委員会」定例会を傍聴してー1月29日 

 1月29日午前9時30分より栗原文化会館1F 展示室で、平成20年第1回栗原市教育委員会定例会が開催されました。久しぶりに出席した先日の「栗原の教育を考えるシンポジウム実行委員会」(第8回)で2月末の教育委員会で再編計画が決められそうなので1月末も傍聴しようとはなっていました。それが急に「29日9時30分~の傍聴に参加を」という代表からのFAX。当日AMは3ヶ月に一度の血液検査日、この日に向けて4~5日前より体調を整えてきているのに…。(後にすると薬も切れるし)途中で抜けられるようだったら病院に行くことにして何とか傍聴しにいきました。
 当日の傍聴は実行委員会の代表と事務局のH氏と私の3人。席も3人分しか用意されていませんでした。展示室はかなり広く5人の教育委員と数人の事務局職員のみ。それに私たち3人ですから傍聴者は入れようと思えばまだ何人も入れられます。そういえば去年の暮れ12月19日、私が検討委員会の議事録を半日がかりで閲覧したのもここでした。

 議事の内容

 この日の議事は今年初めての定例会ということでまず、教育委員長よりあいさつがありました。昨年末の築館小の教頭の飲酒事故に遺憾の意を表明した後、「20年になって大きな課題、3月をめどに再編問題に取り組んでいかないといけない。…知恵を出していただいて、これからの子どもたちが生きる道を示していただきたい。」と述べました。
 この後、若干いろいろ手続きがあった後、教育長報告に。これは①一般事務報告と②専決事務報告とからなり、①の6項目の4項目目で再編計画(案)について報告がありました。「パブリックコメントに41人、100件を超える意見が寄せられました。市民説明会は、12月11日から20日まで10会場、のべ234人の参加がありました。今後はパブリックコメントの意見、説明会で出された質問、意見を真摯に受け止め、再編計画(案)に再検討・修正を加え、(案)をとったものを3月には出し、地域に皆様の合意が取れますよう努力していきます。」と述べました。最後の6項目目が市内中学生の志願校別進路希望調査の報告でした。問題は鴬沢工業高校への市内からの志願者が今のところ厳しい状況にあるということでした。
 この後も②専決事務報告があり、その後、二つの議案が用意されていました。(二つ目の議案は要保護等の認定についてでこれは非公開に。)この辺りまでで②に少し入ったとろろで30分経過し、私としては基本的に聞きたいところは聞いてしまったので途中退席させていただきました。事務局によれば教育委員会は2月は途中に異動問題で一回、(これは非公開)その後まで日にちは決まっていないけど末に再編計画問題でもう一回開催されるということです。

 初めて傍聴して

 今回、私は初めて教育委員会の傍聴をいたのですが、そもそもこれまで「市教委」という表現をしてその内実をこれまで詳しく見てきませんでした。先日の実行委員会でシンポで基調報告をされた賀屋氏にお会いしてこのブログと私のメールアドレスを教えたら早速翌日から「民主教育をすすめる宮城に会ニュース」が送られてきました。先日の会議でも賀屋氏は教育委員会とそれへの請願の重要性を述べていましたが、その1月27日のニュースの中にも教育委員会への 「請願権」 について、「昭和31年に存在していたはずの  請願処理規則 が県教委を含め、各市町村教委でいつの間にか削除していたのです。」とし東京都の規則が掲載されていました。(東京都教育委員会請願処理規則ー 同取扱要綱を参照のこと)
 私自身、全く不勉強で、教育委員長と教育長の違い、5人の教育委員のこと、彼ら、彼女ら(女性もいました)の役割とは?今日、私は傍聴して教育委員会事務局にとって教育委員は相当権威のあるものだとは分かりましたが…しかし、市民にはほとんどその存在すらよく知られていないと思いました。

 教育委員会とは、栗原市では…

 そこで少し調べました。まずは教育委員会制度について(文部科学省)
 つづいて栗原市ではどうなっているかというと、教育長に対する事務委任  教育委員会等への事務委任  教育委員の報酬  教育長の給与
 これをかいつまんで私なりに解釈すると、教育委員会は市長から独立した合議制の執行機関、行政委員会で、生涯学習(図書館も入ってくるので私ももっと重視せねば…)、教育、文化、スポーツ等の施策に責任を持つ。教育委員は市長が市議会の同意を得て任命。(直接公選の方がいい。)委員長(非常勤)は互選で、教育長(常勤)より上。給与・報酬から見ると教育長は市のナンバー4、委員長は監査委員、農業委員会委員長に次ぐナンバー3、結構地位は高く、重要だと思いました。しかし、ここがはたして中立公正に、広く地域住民の意向を踏まえて合議し、意思決定できるものかまだ分かりません。2月末の委員会傍聴も重要ですが、その前にこの教育委員会への働きかけを強めていくことが必要だと思いました。

 ー 5人の教育委員さんです。ー
  教育委員長   久我 竹五郎  築館青野
  教育長      佐藤 光平   栗駒岩ヶ崎 
  教育委員    村上由紀子   金成
  教育委員    白鳥 正文   一迫
  教育委員    本田 究美   若柳

 教育委員会の自立を

 1月18日付河北新報の「現代の視座」に片山 義博氏(前鳥取県知事)の「市町村教委の自立 改革に不可欠」という記事がありました。「学校現場の課題ー教員を教育に専念させるために経費を、教員の多忙感の解消に事務職員の増員等を」学校の経営者である教育委員会が情熱と責任感を持って行って欲しいと。そして「教育改革のゆくえは…教育委員会の自立にかかっている」としています。私も全く同感です。栗原市の学校再編ー統廃合問題でも最後は財源の問題になってきます。国、県の縛りがある中でも、それを変えていくためにも限りある市財政の中での優先順位を、使い道の選択を栗原市教育委員会が提起できるかどうかが今、問われてきています。

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「善き人のためのソナタ」

 映画「善き人のためのソナタ」を見て感じたこと

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 映画に続きBSドキュメンタリーも見て

 1月10日、ドイツ映画「善き人のためのソナタ」という作品をTSUTAYAでDVDを借りてきて見ました。MOVIESというカテゴリーの最初にこれをとりあげようと考え中に、たまたま、12日NHKでBSドキュメンタリー「証言でつづる現代史 こうしてベルリンの壁は崩壊した 前編」を見てしまいました。映画とそれにダブってくるドキュメンタリー、次週には後編もある。どうしようかと思案しているうちに時間は経ち結局、19日の後編~首都が揺れた~まで見てからにと先送り…。こうして時間が経つ中で映画の感想以外のいろいろな思いまでも自分の頭の中で渦巻き始めてしまいました。どうにも収拾が付き辛く、やはりここはまた文章にすることによって整理することにします。

 映画の舞台ー1984年~91年の東ドイツ

 この映画「善き人のためのソナタ」の舞台は、ベルリンの壁崩壊の5年前、1984年の東ドイツ(ドイツ民主共和国)。当時、東ドイツ国家のシュタージという国家保安省の監視システムにいる人たち(正規局員9万1千人、17万人の非公式協力者がいた)は、社会全体を監視下に置き、国家の社会主義体制を批判する者、その方針に背く者を探り出し弾圧する「恐怖政治」を通して国家の安泰を図っていました。国家体制の維持と強化のため、隣人や友人、配偶者までも監視し、時には裏切り行為までさせるようになっていました。そのため反体制であると目をつけられたら最後、常に監視と脅迫まがいの牽制にさらされる生活に。市民は常に国家の思惑を伺って、息を潜めて生きていくしかない。その中で、市民の心は極限まで追い詰められ自殺者が急増していた時代です。

 映画の内容ー監視から見守りへ…

  この映画は、反体制的と疑いをかけられた劇作家ドライマンと彼の恋人で女優のクリスタの生活を屋根裏から監視することになったシュタージュの局員、ヴィースラーを主人公として展開する。彼は、監視を続けるうちにこの二人から人間性、心の温かさを教えられる。そして、ある晩、盗聴器から流れてきたのはドライマンが奏でる美しいピアノの調べ。この曲「善き人のためのソナタ」はドライマンが尊敬する高齢の演出家イェルスが彼に贈ったもの。イェルスは反体制分子と見なされ「職業停止」の処分を受けていて自殺してしまいました。その死を知ってドライマンは、涙を流しながらその曲をピアノで弾く…
 イェルカの自殺を契機にドライマンは政府が1977年以降自殺者の公表を止めたことを知ります。東ドイツの自殺者は本当はずっと一位だったのに…それも「自己殺人者」などと呼ばれるようになり、ドライマンはこの実態を暴き出そうと動き出します。その様子を屋根裏から全て把握しているヴィースラー。だが彼は、レポートには全く別のことを書きます。ヴィースラーは、腐敗しきった党上層部よりも、自分たちの信念をしっかり持ち、この国を何とかしようとするドライマンたち芸術家に人間として共感していきました。そして、彼らを見守る決意をし、この社会体制から彼らを守る行動にまで出ます。最後は、ベルリンの壁崩壊、ドイツ再統一の2年後、清々しいラストシーンへと続いていきます。
 この映画のもっと詳しいあらすじ、解説、多くの人の感想は Yahoo映画「善き人のためのソナタ公式ホームページでご覧ください。特に公式ホームページのインタビュー(ドナースマルク監督)を見れば、この映画の核心部分が分かると思います。

 映画についてー私の印象、感想

 ドキュメンタリーとの絡み合いに入って複雑になる前に、映画自体の印象、私がここはと思ったところなど少し、感想を出してみます。
  まず、ヴィースラーの葛藤や孤独感、感情を、ほとんど表情を変えることなく冷たくも温もりのある演技で魅せたウルリッヒ・ミューエについて。彼は、東ドイツ時代から活躍していた俳優で、当時の奥さん(女優でもある)にシュタージの命令のもと監視されていたといいます。この作品出演の少し後に亡くなったと聞きます。自分の人生をなぞるようなこの作品に全く逆の立場、監視されるから監視する役柄を見事に演じました。しかし、映画の最後のラストシーン、ドライマンの書いた「善き人のためのソナタ」という本の見開きにヴィースラーしか分からない言葉 「感謝を込めてHGWXX7に捧ぐ」 を見て「これは私の本だ」と一瞬輝くような微笑みを見せました。ヴィースラーだけでなく、演じているウルリッヒ・ミューエ自身も自分の人生を肯定できた瞬間だったのではないだろうか。
 次に、この素晴らしい映画を製作したフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督について。彼は1973年生まれで西側で育ち、ミュンヘン映像・映画大学の卒業作品としてこの映画を製作したという。(33歳の時)この映画を撮ろうと考えたのは、母親が東ドイツ出身で国境を越える時、両親が怯えていた子ども時代の記憶が原点だといいます。彼は4年間にわたって徹底したリサーチを行いました。文献で調べる、体験者、専門家などいろいろな人に会う、取材する。まだまだ人々の心に多くの傷跡が残る中、その傷はまだ癒えていないし人によっても違います。証言も相反するものもあったといいます。ヴィースラーのような変化をしたシュタージ職員の記録はないなど事実とは違うと指摘されている点もあるといいます。しかし、監督自身は語っています「歴史的なディテールに埋もれることなく事実以上に信憑性を持ったドラマを語ることを目指した」と。 また彼は映画づくりの中で役者やスタッフからいろいろな話を聞く。彼らの個人的経験がこの映画に多大の真実味を与えているといいます。そして、彼は最後には 「この時代とこの時代の抱えている問題をはっきり掴んだと確信した」といいます。私はこの映画を見て、この作品が伝える当時の東ドイツを支配していた空気は本物だと思いました。このことはこの後から述べるドキュメンタリーとの関連でもその感を一層強くしました。これほどまでの映画を作ったこの新人監督に驚きです。

 BSドキュメンタリー
「証言でつづる現代史 こうしてベルリンの壁は崩壊した」
の内容

   
    1989年11月9日深夜。東西ベルリンを隔てていた壁の門が開いた。チャー
   リー検問所。これを機に、東ベルリン市民は雪崩を打って西側へと向かう。若者
   達は壁に飛び乗り一斉に足下のコンクリートを砕き始めた。
   東欧民主革命を象徴する、最も鮮烈な光景だった。当時「社会主義の優等生」と
   呼ばれた東ドイツで、分厚い壁がもろくも崩れ、国家体制そのものも瞬く間に崩
   壊へと向かった。実はその発火点というべき動きが、ベルリンから遠く離れた古
   都ライプチヒを舞台に起っていた。
   800年の伝統を誇る教会を拠点にして、体制内変革を求める市民運動が10年
   以上にわたって密かに行われてきた。その運動が89年春以降次第に拡大、先鋭
   化。やがてベルリンなど他の都市での運動へと飛び火し、ベルリンの壁崩壊につ
   ながっていく。あれから20年近く、これまで口を閉ざしてきた関係者らが、よ
   うやく当時について語り始めた。  
   番組では、こうした証言を軸に旧東ドイツにおける民主革命のうねりをあらため
   て追い、その裏でどのような人間ドラマが展開し、どのような人々の思いが交錯
   していたのかを、前・後編で描く。

   後編(19日)では首都ベルリンに舞台を移し、改革の波に乗り遅れたドイツ社会
   主義統一党(SED)の幹部らの迷走ぶり、そして首都に飛び火した市民運動への対
   応が壁の開放へと急転したプロセスを追う。同時に「民主革命の主人公」の多く
   が決してその後の性急な「ドイツ統一」は望まず、2008年の今、苦い味の思
   いを噛みしめている現実にも迫る。
                    -「NHK BSオンライン」から転載ー

 BSドキュメンタリーを見て

 <前編>

  1989年11月9日のベルリンの壁崩壊はリアルタイムでニュースとして世界中に配信されたため、当時のことは覚えています。そしてそれを発端として、同年末までの短期間に東欧の社会主義政権が連鎖反応的に倒れていったこと。それは、この時期の東欧の民主化に影響を与えていたソ連のゴルバチョフの進めるペレストロイカにも跳ね返り、ついには、1991年のソ連崩壊にまで至ったこと。こうしたことは、既に分かっていました。しかし、そのベルリンのある東ドイツの中で何が起きていたのか、それが古都ライプチヒ(人口約50万人)が発火点だったことを初めて知りました。市民が自由に討論できる場として聖トーマス教会があり、毎週月曜の夜、ここから出発するデモが小規模ながら何年も続いてたという。89年春、ポーランドの政変に引き続き、夏には東ドイツ住民が西ドイツに大量脱出していきました。ライプチヒでも月曜デモはしだいに拡がり、そして10月9日にむけて最大規模のデモが準備されていきました。市民の求めていたことは、旅行の自由、表現の自由など体制内変革でした。9日、政府はデモ鎮圧のため軍隊を導入しますが、市民たちはローソクを手にかざし非暴力をアピール。「私たちは一つの国民」というスローガンを街中に張り出し、軍隊と市民が敵対していないことを示しました。そして、デモの最中には「非業力」というコール、最後には「われわれが人民だ」というコール…7万人にも膨れ上がった市民デモは、一滴の血も流さず、国の主人公は自分たち市民であることを示して成功しました。ドキュメンタリーでは19年前のこの出来事を市民の側だけでなく、当時の党関係者、軍、そして間に入った芸術家(指揮者)などの回想、証言を引き出していました。

 <後編>

  このライプチヒの7万人デモの成功は、たちまち東ドイツ各地に飛び火し、一ヵ月後のベルリンの壁崩壊へとつながっていきました。この年(1989年)の東ベルリン、壁を越える者は、2月に一人死者を出して以後ありません。既に別ルートから国を棄てて不法出国する市民が大量に出ていました。これに対し最高指導者ホーネッカー議長は冷血な言葉で非難するだけ、無策を露呈。危機感を持った若手党官僚が彼を退陣に追い込みました。東ベルリンのドイツ座には知識人、芸術家たち1千人が集まって「ライプチヒのように流血なしで政府に抗議できないか」と話され、ともかく合法的にデモ申請をしようということに。シュタージュは警告を発するものの許可は下り、11月4日に2~3万人の想定で市民デモをすることに。当日のAM10時から子ども、年配者も多く市民は歩き出し、「我々が人民だ、主人公だ。」「自由な民主的な選挙を」…などとコール。その規模は数十万人に膨れ上がり、最終的には100万人にも達し市民の巨大なエネルギーが噴出しました。この後、政府は「海外旅行自由化法案」をだすものの不評。権力の空白もあって混乱する中、11月9日夕、政府の法案実施の記者会見でのミスがもとで検問所に多くの市民が押し寄せ、門を開けさせてしまいました。深夜、やがて壁も砕き始めました。ドキュメンタリーではここでも市民の側だけでなく、権力の側、当時の党関係者などの証言を引き出し、権力内で起きた迷走、混乱ぶりを明らかにしています。


   私の思いの中で
     ー映画とドキュメンタリーから少し離れて


 この映画とドキュメンタリーを両方見た人、片方しか見ていない人、これから見る人…いろいろだと思います。そして、その捉え方自体も人それぞれ、いろいろ違ってくると思います。これはあくまで私の捉え方、私の思いであり、はじめにことわったように感想以外のいろいろな思いです。

 ① 国家(組織)と人間(個人)について、
       その間に生じる人間(個人)の感情について


 前者が消滅、あるいは変わった時、後者はどうするだろうか?その個人が国家(組織)にどう係わり(地位、役割)、どう評価していたか(帰属意識)、そして現在はどう評価しているか?その個人は国家(組織)に対し何を求め、どう変わること(変革の中味)を求めていたのか?こうしたことによりその内容は違ってはくるものの、多くの東ドイツ市民の求めていたものは体制内変革(組織改革→存続)でした。しかし、結果は西ドイツへの統合(吸収・合併)でした。そして統一し、急激な市場経済化した旧東ドイツ地域は大きな経済格差と旧国営企業の倒産、失業者の増大(リストラ)に見舞われることになりました。これを緩和する政府の財政出費は巨大なものとなり西側地域の市民も大きな痛みを受けました。旧東ドイツ地域の多くの市民にとっては40年にも及ぶ長い時が全面否定されてしまうような、そんな感情、喪失感、心の傷が残り、それが癒えていくのには非常に長い時が必要だと思いました。

 ② 東ドイツという国は何であったのか

 東ドイツ(ドイツ民主共和国)とは、第2次世界大戦後の1949年、ドイツの東部、ソ連の占領地域に建国された国家。ドイツの西部と南部の米、英、仏の占領地域に建国されたドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)とともにドイツを二分した分断国家の一つ。1990年にドイツ連邦共和国に吸収される形で消滅しました。東ドイツは建国時その名が示すように人民民主主義の国としてスタートしました。しかし、ソ連は東欧をソ連防衛の前線基地として確保しソ連型社会主義を押し付けていきました。複数政党制がしかれていても議会制民主主義は存在しません。普遍的な人権概念も存在せず、党のイデオロギーが公的イデオロギーとして支配していました。人民(市民)抑圧体制、監視国家はこうした中で強化されていきました。これは、人民(市民)自身が望んでたことではなかった筈です。ソ連に押し付けられたということだけでなく社会主義にある種のユートピア、民主的で平等で安定した社会を描いていたと思います。それが逆ユートピアになってしまいました。第二次大戦後のドイツは、少なくとも遅れた資本主義国ではありませんでした。東ドイツで社会主義体制になり、40年続きました。ここでの社会主義体制の失敗、崩壊そして資本主義への再移行の問題には、まだまだ未解明な点が多く残されています。

 ③ 人間の感情は社会体制によって統制できない

 私たち人間が持っている、人間らしさ、感情は国家・社会体制によって統制、抑制、コントロールしようとしてもしきれるものでありません。私たち人間の行動、活動をコントロールできてもです。国家は、社会体制は、私たち人間の心の中まで支配できないのです。愛し合うこと、信頼すること、自由に憧れること、良心を大切にすること、善き行いをすること。これはすべて「善き人」ですが…勿論、人間の感情の中にはこうした善とともに悪も存在し、実際にはその判別は難しいと思います。これまでの世界の歴史を振り返った時、人民の、人々の人間らしさ、感情を統制してきた国・社会体制は長続きしていません。いずれも崩壊してきましたし、まだ残っている国・社会体制もいずれ必ず崩壊します。(人間の感情の悪の問題ーこれは、これから重要になってきますがまた別の機会に)

④ 同時代に生きてきた私は何をどのように見てきたのか

 最後にこれは、私の反省です。この映画の始まり、1984年当時私は、脱サラして千葉からこの東北の地に慣れない農業の新規参入者(妻の両親の家業を継ぐ)として四苦八苦している状態でした。言い訳じみていますが、世界のことに広く関心を持つことはなかったと思います。89年はポーランドの連帯の勝利に関するニュース、そしてベルリンの壁崩壊へと続き、私にとっては大変衝撃的でした。その後の東欧民主革命、91年のソ連の崩壊とたて続きに事態は進展し、私はその原因、そこに至る過程などを把握するのに手まどいました。私はソ連、東欧の社会主義国にそれまでいささかの幻想を持っていませんでしたが、これ程までになっていたとは想像できませんでした。むしろこれまでになる過程をしっかり知ろうとしていなかったと反省しています。今、私の本棚に一冊の本が残っています。「科学論 その哲学的諸問題」(K・マルクス大学哲学研究集団 著)というものです。この大学はライプチヒにあり(統一後は名称をライプチヒ大学に変更)、本は1967年にでき日本では70年に出版されています。学生時代に購入していますが、よく読んではいないようです。しかし、当時の東ドイツは「社会主義の優等生」といわれ、私自身もソ連に幻滅を感じていても「東ドイツの科学ー技術革命はすごい」などと思っていたようです。もう1961年までにベルリンの壁はできており、壁をめぐる悲劇も伝わってきていました。しかし、私はそれをよく見ようとはしなかった。見るべきものを見なかったのです。東ドイツの過去の史実の解明は、まだまだ途中です。この解明の中から新しいユートピアの構想が生まれるであろうか?、私は、今後もしっかりと注視していきたいと思います。

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問題点の整理のためにーその2

ー学校統廃合ー
     問題点の整理のためにその2 
(1月20日)

 私は、1月16日の「学校再編計画(案)を考える会」に参加しました。そこでいくつか問題に感じたことと、この後21日に「栗原の教育を考えるシンポジウム」第7回実行委員会が予定されており、久しぶりに出席するつもりなので、現時点で考えられる問題点を少し整理してみます。

①中高一貫校と鴬沢高校の存続について

  市教委の意図も、存続運動側の懸念も分かります。県教委も絡む問題なのでそう簡単にはいかないことも分かります。しかし、市教委の「県教委との関係で3校も危ないので、岩ヶ崎を中高一貫校に」というのは極めて消極的です。「鴬沢高の存続も働きかけている。」と言っても矛盾していることに変わりはありません。ここは16日のT氏の発言「鴬沢高だけでなく一迫高も含め実業高としての役割を生かしていく視点で…」を受けて、市教委はもっと積極策を打ち出すべきです。それも彼の言う「岩ヶ崎という校名を入れたのは早すぎる。取り扱いにもう少し時間をおいた方が良い。」に私も同感です。時間をおくのは中高一貫校の創設ということもです。市民にまだ理解されていないだけでなく、その内容もまだ十分詰められていません。この問題は長きに係わることで、この1、2ヶ月で(案)を取った市教委の考え=計画としてもまだ出すべきではありません。市教委は、もう少し時間をかけて各方面の英知を集め、この問題での積極策を打ち出すべきです。

35人学級(しかも、1クラス20人以上に)こだわっている問題について

 市教委は「35人学級にすれば国(県)の40人学級の上乗せになり、国が35人になればその時、30人を検討する。35人学級は現在、市がとりうる最良の方策。」と言っています。(国が30人になった時についてはまだ何も言っていません。)それだったらもう少しだけ踏み込んで、「市として30人学級を目指します。しかし、国・県との関係、及び現在の厳しい市の財政状況の中では、当面、35人学級を実施します。」とは言えないものでしょうか?実はこれは、私がパブリックコメントの中でで言っていることです。これらの間にそれほどの隔たりがあるとは思えません。要は行政の姿勢、決意の問題ではないでしょうか。
 勿論、こう言ってしまうと、現在の学校再編計画(案)も少し修正しなくてはならなくなります。(それが私の狙いなのですが)「期日をはっきり明らかにしない少し遠い目標ー30人学級に合わせた計画を大前提にしつつ、当面はそれとは矛盾しない範囲での超小規模校の解消だけを地域との合意形成の上で行う。」となる筈です。35人学級は最良ではなくあくまで次善の方策です。ですから逆に、こうでもしないと市の学校統廃合が決まってしまって、実施されている途中で国(県)の方が35人、30人になったらどうするのかと言う問題が生じてきます。「35人(30人)学級の基準(学校規模についても最適化についての考えが変わってくる可能性があります。)だったら学校が残せたのに…」とならないようにしたいものです。
 また、市教委は35人学級にするといいつつ、1クラス20人以上にすることにこだわっています。計画(案)でも一定の学級規模を20人としていますが、16日の市教委の担当者の発言でも「20人を下回ると学習面では基礎学力はいいが、思考力とか深まりとかが(学級内の学び合いを高めて行く上で)弱くなる傾向がある。」と何度も強調していました。35人学級なら当然18人になることはあるわけで、20人というのは40人学級の発想です。市の佐藤教育長は「私たちも30人学級を目指している。」と言っていますが、30人学級では、15~16人になることもあるわけです。これらは明らかに矛盾しています。これは市教委が30人学級を単なる数の問題(=予算処置の問題)としてしか見ていないことの裏返しです。これは「学力の質」についてどう捉えるかが問われています。昨年12月4日、科学的応用力、数学的応用力・読解力などを見る2006年の国際学習到達度調査(PISA)が公表されました。(2003年PISA文科省2006年までPISA図録を参照のこと)40人学級でも頑張ってきた日本は毎回順位を下げてきています。逆に毎回高順位をキープし世界中から注目されているのがフィンランドです。ここは、少人数学級で1クラス24人以下。実際の統計上の平均は16人です。問題は人数だけではありませんが、教育改革の内容も日本と全く違います。それこそ思考力、学び合いにとどまらずコミュニケーション力、自律的に行動する能力などPISAの学力観にあったものになっています。国際化に対応するためにも、そろそろこうしたものに物差しを変える時期にきています。

何故、計画(案)への誤解がうまれたのか

 16日の会で市教委の担当者の言っていた市内各地で多くの市民から出された誤解ー「市は計画をゴリ押しするのではないか?」「35人学級とは一律に1クラスを35人にすること」というのは確かに誤解です。私がパブリックコメントの最後に示した計画(案)発表後のごく普通の市民の反応「もうこれで何をしても統廃合はされてしまう。」「統廃合は既に決まってしまったんだ。」も誤解(とあきらめ)です。しかし、私がパブリックコメントの最初に問題にしていることー「これまでの市の行政運営、行政手続は極めて公平性、透明性、信用性に欠けていた。」-の結果にすぎません。私自身も最初は、本当に市はゴリ押しするのではないかと疑心暗鬼でした。「地域と学校」についてはとらえ方にまだ温度差がありますが、当初より少し近くなってきていると思われます。ここへきて市教委は信用性を高めよう、市民に信頼されるよう努力していることは分かります。もう一つ、これは私が17日に聴いた講話「新たな社会に求められる市民意識」と関わるのですが、まさに現在が市民主導型社会への転換期にあるということです。行政は市民と協働していかなければ、もう立ち行かなくなってきています。これに対しての市民の意識はまだそこまで来ていないというのが現状です。だから誤解はうまれるのです。それではどうしたら良いのか?それはやはり行政の方が市民に近づくしかありません。計画(案)を大規模に修正する、決定時期を1年延期する、(反対が強くなくても)思い切って白紙撤回して最初から仕切り直す。いろいろ考えられますがともかく各地域、各方面でもっとじっくり時間をかけて十分議論し尽くすことが重要です。

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学校再編ー考える会に参加して

   学校再編ー考える会に参加して   (1月16日)
 
 1月16日夜、図書館2Fで開催された民主教育をすすめる栗原市民会議主催の「栗原市立学校再編計画(案)を考える会」に参加しました。この団体は宮教組栗原支部が事務局であり、ここには栗原の教育を考えるシンポジウム実行委員会が一緒に行動するように参加を求めていました。まあ、結局別々に進めるのかと思って当日出てみると、教組の支部というより熊谷県議が切り盛りしていました。それでも約25人の参加者の多くは小・中の学校の先生方のようでした。実行委員会からも代表はじめ数人が参加(私も)しました。

 座長(熊谷県議)のほうから、すでにパブリックコメントの提出日は過ぎているため、「この場は勉強会という位置づけで」と説明された後、市教委の担当者より計画(案)の説明がされました。その後に質問、そして意見をということになりました。

 いくつかの主な内容をまとめると、中高一貫校の創設を岩ヶ崎と名前を出している問題。「前に県教委が栗原の高校は将来、3校としていることから、築館、迫桜にあと、岩ヶ崎で埋まってしまう。それでは現在、その存続運動が続いている鴬沢高校は締め出されてしまう。」これに対し市教委は「鴬沢高校の存続を否定しているわけではない。ただ、市としてはこのままでは2校だけにされる可能性があると考えている。」「中高一貫校について、築館と若柳はどうなる?」-市教委「岩ヶ崎の成果を広げることは可能だと思う。」と。

 次に、35人学級でいくという問題。「35人というのにこだわり過ぎていないか?」「小学校だけでももうすこし少なくできないか?」「市独自でやってもいいのでは?」これに対し市教委は「35人にこだわってないない。国の動向(40人→35人)によって30人も視野にはある。」「35人は現在の市の取りうる最良の方策。」と。

 地域としては市内各地から参加していると思われました。高清水からは、「高清水中存続署名が2625人になって(人口約4200人)市教委に提出した。」「ただ反対しているのではなく、急に出てきた話、時間をかけて地域と一緒に考えるべき」と。金成からは小学生の時、普賢堂分校が廃止、萩野第二小に統合された方が「反対だったPTA会長宅に町教委は『うん』と言うまでしつこくやって来た。まるでヤクザのように見えた。子どもごころにお金が無いから学校が無くされたと思った。」「今、通っている子どもたちが、ちゃんと受け止め、理解できるように何回もくり返し説明をお願いします。」と。

 再編計画(案)に基本的に賛成(中学校は案でもまだ多すぎる)とという方もおられ、それでも「2月に決定ではなく、2~3ヶ月延ばし、4月のPTA総会とか、授業参観等を使って幅広く説明をお願いしたい。早急な決定は避けていただけないか。」と。他にも「子どもたちの一番大切な時間を、長時間スクールバスで過ごすというのは如何なものか?中高一貫校に地域の人は納得していないし、いろんな疑問を持っている。急ぐ必要はなく、財政問題も提示しながら十分な話し合いをして欲しい。」など、もっと時間をかけていろいろな所で議論することを求める意見等が多数出ました。

 「12月に説明会を市内10ヶ所でやってみて、どんなことが分かってきたか」という質問に市教委の担当者は、「①(案)を取っても市教委の考えを計画という形で示すだけ。合意してもらわなければ次には行きませんと言っても、ゴリ押ししようとしていると多くの方に誤解されている。」「②35人学級についても実際には20人~30人になるのに一律に35人にすると誤解されている。」「③地域づくりに学校が核となってきたことは分かる。しかし、市として若い世代の定住施策はいろいろやっているがその成果がでるまで時間がかかる。それまで小規模校を存続させ子どもたちの教育環境はそのままにしていていいのかという問題がまだ理解が得られていない。」と答えました。

 最後に、市教委の担当者は、「小・中のPTAの話し合いにも声をかけていただければ出て行きます。さんざん説明不足と言われていますので、学校の先生方の意見の集約をしたり、また資料を配って皆で考えていけるような方法を今、考えています。地域の子どもたちへの説明も大切だと痛切に感じましたのでしていきます。(担当者が変わっても) 合意形成は数ではなく、分かり合えることだと思います。(個人的な思いと断りながらも)」と。

 市教委のこの担当者はこの会ではなかなか良い感想を出しています。しかし、私は、それがそのまま市教委の考えになるのか少し様子を見ることが必要だと思いました。私は、今回はあえて発言せずにじっくり聞いていました。今回の会は、この問題がまだまだ各地域、各方面で議論が尽くされていない中で、勉強会の位置づけとはいえ良い機会だったと思いました。今後、さらにこうした議論を積み重ねていくことが重要だと思いました。私が今回いくつか問題に感じたこと、問題点として整理できたこと等また別の記事にして述べたいと考えています。

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講話「新たな社会に求められる市民意識」

ー講話ー
「新たな社会に求められる市民意識」 を聴いて


  1月17日午後、大崎市市民活動サポートセンターで行われた「市民活動団体新春のつどい」に参加しました。隣の市のことでしたが表題の講話が聴きたかったことと、この大崎市のセンターはどんなものだろうかと興味が有り、一度見ておこうと思ってのことです。センターは、もうかなり前からある古川駅前にある「ふるさとプラザ」の中にありました。平成16年8月から市直営でスタートし、18年3月30日よりNPO法人宮城マネジメント協会が指定管理者になっています。今、栗原市でも旧公立築館病院の跡地に市民活動支援センターが築館総合支所と併設で建設計画が進められています。私も参加しているNPO法人くりはら活性化ネットの副理事長がその協議のまとめ役をしており、いろいろ大変な経過は聞いています。また、この2月下旬にもくりはら活性化ネットとして仙台市市民活動サポートセンター等を施設見学に行くことにもなっています。

 さて、講話のほうですが、講師はこの宮城マネジメント協会の理事長であり、NPO法人コーディネーターでもある高澤 務氏。(71歳)彼は長年古川、宮城で企業人として活躍され、その後、ボランティア活動ー経営塾を開き、12年前に宮城マネジメント協会を設立、7年前にこれを法人化された方です。

  話の内容は、「現在は、地方分権型社会、市民主導型社会への時代の転換期にあること。従来からの 行政ー住民自治組織 の間にこれからは市民公益活動団体(市民運動)が入り協働型連携を強める必要にせまられてきていること。50年前からの「街づくり」(建物・道路等ーハード)、20年前頃の「町づくり」(振興計画ーソフト)、1990年~の「まちづくり」(都市を構成する要素全てを対象に)と市民参加が求められる範囲(市民公益活動団体の活動領域)が広がってきている。特に1998年にNPO法できて以後、その10分野が都市構成要素全てそのもので、「まちづくり」が全国に普及したこと。

 市民公益活動団体とボランティアはそれぞれ奉仕団体と奉仕活動ではない。日本の場合、プロボーノサービスは町内会の仕事のような無償の奉仕活動であり、図書館、病院等の仕事を登録して手伝うボランティアとは区別する必要がある。これからの市民公益活動で求められるボランタリズムの中身は、、従来からの地域限定、奉仕型、支え合いの住民自治組織等で求められていた「自発性」、「無償性」、「利他性」の3つの理念・価値観に加え、活動領域が不特定多数へ、公益型、社会貢献へもと広がる中、「先駆性」、「補完性」、「自己実現性」のプラス3つ。計6つの理念・価値観の全てが求められている。

 日本人の持っている国民性から言って、西洋人(持っている補完性原理そのものが国際標準)と違って、その思考・行動特性からこうした理念・価値観を取り入れることは極めて困難。従って、私たち日本人にとって大きな市民意識の変革が必要になってきている。その変革には本人の決意、きっかけ、それに実践的体験が必要。そのためには「人づくり」がその基本となり、それに貢献する市民活動支援センターの必要性はここにある。」とまあ、これからかなりこのことは重要になってくるとは思いましたが、これを書いている私自身もまだまだよく理解していないものです。

 参加者は、大崎市内の市民活動団体、行政、議員等、約40人。栗原からはくりはら活性化ネットの事務局長と私。栗原市より少し、先を行っている隣の大崎市のサポートセンター。そのさらに先を行く仙台のサポートセンターとともにこれからも注視していきます

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絵本「RAPUNZEL」

<BOOKS> ②
   絵本「RAPUNZEL   ポール・ゼリンスキー文・

inr
 
  この絵本を取り上げるまでの経過

  BOOKSの第2弾が絵本になります。私は、今でも地元の図書館で読み聞かせボランティアのグループに参加しているため、絵本は一年間にかなりの量を読んでいます。そんな中で最初に取り上げるのがこの絵本④。まだ翻訳もされていないこの絵本をなぜ取り上げるのかから説明をします。昨年末、図書館での恒例の「冬のあったかおはなし会」の打ち合わせでのことです。プログラムの選定で最後に残った一冊。深みのある昔話などで何か無いかとなかなか決まらず、選定を当日たまたま欠席していたメンバーでもう一人の男性(語りの実力はメンバー随一)に任せることにしてしまいました。(私は、安野光雅の「おおきなもののすきなおうさま」担当)
 準備も押し迫った一週間前、もうリハーサルという段階で彼はグリム童話からバーナデット・ワッツの「ラプンツエル」②を選び、これを実演しました。これに疑問を持っていた図書館司書はプログラムに同じく図書館にあるフェリック・ホフマンの「ながいかみのラプンツェル」①も紹介すると言う。この後、私が「②はグリムのその精神を崩している、①の方が妥当だ。」と主張し、ちょとした論争になってしまいました。そして結局は急いで別のものを準備してもらおうということになりました。当日のおはなし会の参加年齢層が少し低かったこともあり、変更してもらった「なんげえはなしっこしかへがな」が好評でしたので、結果としてはこれで良かったということになりました。
 しかし、私の意見に賛同者は多かったものの強引に押し切ってしまったこと、経過からして彼に何の落ち度もなくむしろ私がルール違反をしたこと、それに私もフェリック・ホフマンの①が絶対に良いと言い切れないこと、などから自省の念にかられました。そこで「冬のあったかおはなし会」の打ち上げ兼忘年会で、彼に全面的に謝罪しました。
 こうした経過から①②の他になにか良いグリム童話絵本「ラプンツェル」はないかと探し始めました。

 この絵本を取り寄せて

 そこで見つけたのが絵本ならべ「Rapunzel]の詳細④でした。さっそく図書館でリクエストしたところ、「この絵本はまだ翻訳されておらず、県内でも全国でもヒットしません。アマゾンでは扱っていたけれど…」と言われました。英文の専門図書館とか国会図書館(国際子ども図書館)まで範囲を広げればあると思いますが、ネットワークの有無は確認していません。時間もかかりそうなので結局、アマゾンでネット購入することにしました。そして、新年早々、届きました。

 この絵本の内容

 グリム童話の「ラプンツェル」の紹介とあらすじはラプンツェルーWikipediaをご覧ください。しかし、この絵本「RAPUNZEL」は前述の「絵本ならべ」を見ていただければ分かりますが、ドイツのグリム童話ではなく、そのもとのフランス、さらに前のイタリアと三国のそれぞれの中でも最もふさわしい内容を統合して再話しているとのことです。(私自身がこの英文を全部訳せないものですみません。作者自身がこの絵本の最後の3ページを使って A NOTE ABOUT ”RAPUNZEL” とかなリ詳しい解説をしています。)グリムの初版本と同じですが王子との逢い引きが発覚するのは dress tight 「お腹が大きくなったから」としています。「魔女」については sorceress  「魔法使いの女≒魔女?」ドイツ語の Frau Gothel はここでは Stepmother (まま母)になっています。(多くの作品が採用しているドイツ語からの「ゴーテルばあさん」という訳は間違いと思われます。⑤で野村氏は「Gotel」というドイツ語は固有名詞ではなくて、「女の名づけ親」を示す普通名詞だとしています。そして彼は「名ずけ親のおばあさん」と訳しています。)

 この絵本の絵について

 さて、ようやく本題の絵について述べます。この作品は1998年度のコールデコット賞を受賞しているようにかなり完成度の高いものです。イタリア・ルネッサンスの絵画を見ているような素晴らしいものです。背景、動植物、建物、家具・備品、そして登場人物の表情、それに衣装、実に丁寧いに描きこまれています。王子の衣装は、場面に合わせ実に5回も変わります。(その一部はネット上で絵本ならべ「Rpunzuel」…→アマゾンで詳細確認→なか見検索で見ることが出来ます。)絵はその人の好み、嗜好がどうしても入ってきます。私はこのポール・ゼリンスキーの絵は大変好きです。

 その他の絵本について

 まず最初に①ホフマンの作品について。(オークション ホフマン絵で見ることが出来ます。)私自身、ホフマンの作品は「ねむり姫」「おおかみと七ひきのこやぎ」「つむぎのひげの王さま」など大変好きな作品が数多くあります。しかし、全ての作品が良いわけではありません。松岡享子さんが「昔話絵本を考える」(日本エディタースクール)の中で仲間と合宿をしてホフマン絵本「七わのからす」の批判・検討をした経験を語っています。この作品も今後、集団的に意見の交換と検討をしたいと思いますが、まずは私の感想を述べます。表紙から最後のまで王子は王冠のプリント?(実際には刺繍だと思います)の入った上から下まで真っ赤の衣装をまとっています。ホフマンのことですからそれ自体に何か意味がある筈ですが、私には理解できませんし、好きではありません。魔女が赤ちゃんを連れ去る画面、その赤ちゃんがグロテスクで大きすぎます。そして、最後の場面、魔女の体がしぼみ、大きな鳥にえさとして運ばれる絵。これは他のどの作品にも無いもので、ホフマンがグリムのどの版を作品にしたのか不明です。この場面はやはり無い方がスッキリします。翻訳された文、瀬田貞二氏のここでの「いんがおうほう」(因果応報)という表現も、子どもたちには理解し難いものです。

 次に②バーナデットの作品について。(アマゾン バーナデットで見ることが出来ます。)彼の作品に登場する人物すべてが優しい可愛いい顔に描きすぎています。彼の作品は、「赤ずきん」「白雪姫」「こびとのくつや」など図書館にも数多く置いてあります。私はこのどの作品もそれぞれ別の作者で彼のより良い、優れていると思う作品があります。バーナデットの原文の確認はしていませんが、福本さん訳のこの作品では「魔女」「魔法使いの女」でも「魔法使いのばあさん」でもなく「まほうつかいのおばあさん」となっています。それと対応して絵の「おばあさん」も表紙から殆んど最後まで極めて優しい顔の「おばあさん」が描かれています。さすがにラプンツェルの髪を切る場面のだけは少し怖い表情になっています。グリム童話の主な舞台となるドイツの深い森は、魔女やオオカミの住む底知れない不気味な場所の筈です。やはりこの作品は全体的にグリムのその精神を崩しているといわざるを得ません。

 最後に③ハイマンの作品について。」この作品を大変高く評価しているブログ「ラプンツェル」かきかたノートを見てしまい気になってこの絵本も入手しました。確かに「グリムの森」にふさわしい、全体的に独特の仄暗い絵です。翻訳の文も「上品で美しい日本語」(前述のブログの評価)とは思いませんが、他の作品とかなり違った感じの歯切れの良いテンポのものとなっています。ただ私は好きではありません。文もですが登場人物の顔が少し現代的過ぎると思います。このあたりになると、やはりもう「好みの問題」としか言いようが無いのかもしれません。

 昔話を絵本化する問題 

 その他の絵本についての方が少し長くなりました。小澤俊夫氏が「昔ばなしとは何か」(大和書房)の中で次のように言っています。「本来、口で伝えられてきた昔ばなし、従って時間的文芸である昔ばなしを、絵という視覚的手段によって子どもたちに与えるには、昔ばなしの本質を知ったうえでの、さまざまな工夫がなされなければならない…」(同P64)と。こうしたことからグリム童話を絵本化することはとても大変なことだと分かります。そうした意味で①~③は到底グリム童話絵本「ラプンツェル」の決定版といえません。
 私が今回取り上げた④絵本「RAPUNZEL」は、グリムを取った「ラプンツェル」絵本の決定版だと思います。是非、どなたかこれを日本語に翻訳して、どこかの出版社から出していただけないでしょうか。
  こうしたことに加え、翻訳ということからも外国の本を日本語に置き換えること自体にも最初から困難を抱えます。すでにここまで述べてきた中でも「魔女」≒「魔法使いの女」、「まほうつかいのばあさん」≒「まほうつかいのおばあさん」、ここでは出しませんでしたが初版からとったとしている小学館文庫では「妖精」となっているとのことです。それぞれ日本語の意味が少しずつ違います。どれが良いか今の私には分かりません。(今後の課題とします。)

 最後の最後に⑤シュペクター画について。一枚絵とは古くからある庶民のための絵入り新聞のようなものです。ミュンヘン一枚絵は、子どものために当時の名高い画家が製作したものです。シュぺクター画による「Rapunzel」はオークション一枚絵で不鮮明ですが見ることが出来ます。一枚絵のスペースをひとつのまとまった空間として用い、巧みな構図で話全体をひとつの調和した絵の中に再現しています。この画は極めて芸術性が高いと評価されています。シュぺクター画は勿論、絵本ではありません。しかし、グリム童話絵本①~③の絵と比較した時、これらを遥かに超えていると思わざるを得ません。逆に言うと、1857年のシュぺクター画「Rapunzel」を超えるグリム童話絵本「ラプンツェル」の出現が待ち望まれます。

 <取り上げた絵本・画>

①「ながいかみのラプンツェル」グリム童話、フェリックス・ホフマン絵、瀬田貞二訳、福音館書店、1970年
②「ラプンツェル」グリム原作、バーナデット・ワッツ文・絵、福本友美子訳、BL出版、2006年
③「ラプンツェル」グリム童話より、バーバラ・ロガスキー再話、トリナ・シャート・ハイマン絵、大庭みな子訳、ぽるぷ出版、1982年
④「RAPUNZUEL]ポール・ゼリンスキー文・絵、Dutton Chidrens Books、1997年
⑤「Rapunzel]オットー・シュペクター画、1857年のミュンヘン一枚絵、「目で見るグリム童話」野村 ひろし著、筑摩書房、1994年より

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現在、ジジ親家業修行中

 現在、ジジ親家業修行中

 昨年の11月の中頃、妻が電話で四国にいる娘に「そんなにツワリ、辛かったら年末と言わず、12月初めに帰っていらっしゃい。」と。私はその横で「オイオイ、帰ってきても面倒見るのはオレじゃあないか。」とクレーム。しかし、母娘の間ですべては決定。しかも来るのはもう一匹、元気すぎる3歳の男の子(孫)も一緒。もう既に何回もこちらでの孫係はしてきてはいるけれど、今度は娘の面倒までとは…この先、上手くいくかどうか全く検討がつきませんでした。

 12月2日、私は当日は「栗原の教育を考えるシンポジウム」出席のため、空港への迎えは妻。夕方ようやくシンポでの役割を果たし帰宅すると、家は昨日までの二人の老人(義父母)と夫婦の四人だけとはうって変わり、明るさとともにものすごい騒ぎ。孫は、翌朝からすぐにジジになつき、後追いも始まりました。どこへでもついてきてしまう。これまで3週間ぐらい長く孫係をしてもその間、娘がチチの分も随分カバーしていたのが今回(6週間の予定)はそれはなし。遊び相手、買い物、お出かけ、病院通い、フロあがり、ババと一緒にするとこともありますが平日は殆んどジジに。(ただし、寝かしつけの手伝いなど夜担当はババ)それに色々と娘の注文が多くて…それでも孫はお出かけ大好きで「ジジ、ジジ」と言いながらと私が出かける支度をするたびに自分もコートと帽子を取り準備する。そしてスーパーでは良い子で、すぐカートに乗ってくれ、(途中で脱走しようとするが)おかげでスイスイといつも買い物はできました。(娘は孫と二人ではとても買い物どころではないという。)こうして何とか約一ヶ月たった12月28日夕、ようやくチチがやって来ました。

 孫は、迎えに行った車の中ではしばらく振りのチチとの再会にちょっと戸惑っていましたが、家に着く頃にはすっかりチチっ子にもどっていました。彼はその後、1月3日に帰るまでの6日間しっかり父親していきました。着替え、フロあがりの薬塗り、言うことを聞かないときの対処、などなど…とっても手際よく感心させられ学ばされました。この6日間、孫はババにはよりベタベタしても(この間、仕事はお休み)ジジには全く近ずくかなくなりました。時間も空き、体は楽になったけれどちょっとばかり寂しいような感じに。(実はこの12月29日からブログを始める準備ができました。)よく考えてみると、どうもこの一ヶ月私は父親代わりをしていたのだと分かりました。つまり、ジジ親家業。(ようやくタイトルの一部が出せました。)その証拠にチチが帰った現在、また孫はジジっ子に逆戻りしています。(ちょっと一安心)

 この父親代わりをするジジ親家業、実はまだまだ、修行中。この一ケ月余、娘とは何回もニアミス(衝突まではいかない)が起きています。まあ、ほとんどが私の不徳の致すところなのですが…(娘とは高校時代まではよく衝突、親元を離れてからは良好。)娘がチチと孫の三人揃っていた6日間。孫が落ち着いたのと同時に、娘が安心し切っていて三人ともが、とても楽しそうでした。(その前後と比べて)

 ちっと不本意ながら引き受けた今回のこのジジ親家業、残すはあと一週間。いろいろ矛盾を抱えながらも何とか最後までこなしていきます。つまり、現在、ジジ親家業修行中といったところです。(最後になってようやく全部のタイトルが出せました。)それにしてもこのブログのタイトルを「触媒生活」としたのはいいけれど、これはあくまで私の願望。このようにまだまだ家族の中でも「触媒」の役割を果たすには程遠い現状です。


 追記ーこの記事、1月6日に出来ていますが(下書きとして)アップする(公開する)のは娘と孫を今度は私が空港まで送っていった後の1月13日午後にします。

 追記つづきー6日にこの記事を書いて以後のこの一週間、書く事によって少しは自分に覚悟できたのか娘とのニアミスは無くなりました。危ない場面も自分でも不思議なくらい冷静に対処できました。本日風雪の中、無事に空港まで妻と一緒に車で送り、約一ヵ月半のジジ親家業はひとまず終えることが出来ました。(1月13日夕、記)

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健康管理ー計測編

健康管理ー計測編 (すべては数値を知ることから始まる。)


 年末年始のこの時期は実に憂鬱です。食べ過ぎ、飲みすぎ、運動不足でえらいことに、えらい数値が出てしまっています。今も売れている一年で50kg減量の岡田斗司夫氏の「いつまでもデブと思うなよ」や少し前のNHK「ためしてガッテン」で取り上げていた「計るだけダイエット」に似ているのですが、私の場合、毎日タニタの体組成計インナースキャンを使っての「健康管理シート」に記入する方法をとっています。毎朝、食前に体重、体脂肪率、内臓脂肪レベルなどを計測し、グラフ化しています。(筋肉量、基礎代謝量、推定骨量も計れます。詳しくはTANITAで)私の場合、身長164cmですので標準の体重は61キロ(BMIー22)、体脂肪率の標準は18%ほど、内臓脂肪レベルの標準は9以下です。

 この計測は、2006年5月から始めて一年半以上になります。体重、体脂肪率、内臓脂肪レベルはこの間に2006.5 61キロ、16.5%、レベル10 2006.12 59キロ、15.6%、レベル8~9 2007.12 56.5キロ、11.4%、レベル5~6と緩やかに下がってきています。(筋肉量、基礎代謝量、推定骨量はあまり変化がありません)

 何故こうした計測をするようになたのか、私の場合、目的は「健康管理」です。10年ほど前より総コレステロール値が200mg/dlを超え、2004年には300㎎/dlを超えました。(この頃の体重は64キロ)病院に行ったところ医師に「先ず運動を」と言われると思ったのに、ダイレクトに「即、投薬です。」と。それでも運動は、少し前より水泳を始めていたので回数を増やしました。そのうち、長年の重労働から2005年末に椎間板ヘルニアに、2006年夏にはそけいヘルニアになりました。前者は投薬,、注射、理学療法で、後者はすぐ手術をしました。その後リハビリに専念し、腰痛予防トレーニング、貯筋運動の教室に通っています。こうした中での2006年5月から「健康管理」を目的として計測を始めました。少し体を絞ったほうが水泳が上手くできるといったことから体重減(ダイエット)に結果としてなりました。通院はまだ続けていますが総コレステロールなどの数値が下がったため薬の量は半分になっています。今後は体重は維持し、筋肉量、基礎代謝量を少しでも増やしたいと思っています。体重などの変化を計測し、グラフ化することは食事のコントロールや運動への意欲が変わりました。食事も私の場合、カロリー計算などはしていません。夕食より朝食、昼食を重視し、大雑把に腹八分目(全体量を8とし、朝ー2~3 昼ー3 夕ー2~3に)を心がけています。健康管理ー食事編、健康管理ー運動編は、また後日展開します。

 健康管理の基本、それはすべて数値を知ることから始まります。それなくしてセルフコントルールなどできません。 それにしても、はじめに戻りますが、この時期は憂鬱です。今日は1月2日、また今日も食べすぎ、明日の朝、ヘルスメーターに乗るのが恐ろしい。そろそろ真剣に運動を始めなければ取り返しのつかないことになります。

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