触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

「学校再編計画」決定される。ー2/28市教委臨時会議傍聴記

  「学校再編計画」決定される。
            -2/28栗原市教育委員会臨時会議傍聴記


 一時間もかけず、すんなり原案通り決定。

 2月28日、午後6時半より、栗原文化会館2F和室において、平成20年第4回栗原市教育委員会臨時会議が開催されました。事前に「傍聴者が多くなりますよ」と言っておいたせいか40席ほど用意されていました。受付で氏名、住所を記入させられ、たった1枚の日程表と、前回はなかった6項目からなる「教育委員会会議望聴遵守事項」が書かれた紙切れを渡されました。傍聴者は約20人。記者席に2人。事務局は10人ほど。委員は5人全員出席のもと定刻どおり始まりました。私たちがこの会議に注目している点は、①高清水地区で「高清水中を再編計画から除外して欲しい」という願いの地区民の半数以上の署名に対して、②パブリックコメント110件の意見の圧倒的多数が、反対、慎重さを望んでいることに対して、③「栗原の教育を考える会」が2件、それに私個人の1件の請願と、2日前に出した公開質問状をどう取り扱うか、ということでした。
 結果は教育長と担当の報告の後、若干の質問があっただけで原案通り決定。1時間も経たない7時半前に全て終了しました。

 高清水中は当面存続、その他の修正はほぼなし、3月より説明会開始。(決定内容)

 今回の市教委決定の学校再編計画は、2013年度までに市内の小学校30校(栗駒小耕英分校含む)を12校に、中学校10校を8校に再編するなどとしたものです。当初の計画案で瀬峰中への統合が示され、地元から存続要望の声が出ていた高清水中については、「市南部に企業立地の計画が出てきたため、当面は存続させ後期までに見直しをする。」とし、先延ばしにしました。しかし、これが地元の反発が強かったなどとは決して言いませんでした。
 計画によると、「最終的(後期まで)には19年度を目標に、小学校は旧10町村地区ごとに1校の計10校、鶯沢、花山の2中学校はそれぞれ、栗駒と一迫に統合して中学校は計6~8校に再編する方針」を示しました。早期に「教育環境の改善を図るため」と称して緊急対策として13年度までの「前期計画」で、「小学校は複式学級の解消、中学校では全学年での複数学級を目指した。」としています。
 小学校は、「金成地区の5校は金成中との小中一貫校に、一迫地区の4校は一迫に、栗駒地区の6校と鶯沢は3校に統合する。築館地区は前期で玉沢が築館に、富野が宮野に、後期で宮野が築館にと最終的には1校に。若柳地区の5校は若柳に統合するほか、一部は学区再編でも対応する。前期計画を実施した後、児童・生徒の増減や地域事情を踏まえ、12年度に見直し作業を行なって後期計画を策定する。」(宮野の存続の可能性は?)としています。報告では、「計画の中で、改めて理念、基本的考え方、基準を明らかにし、記述した。」としていますが、その内容は、新聞記事にも出ておらず、また、入手もできていません。私たちが注目した点、②と③については、予想どおり肩透かし。しかし、教育長の報告の初めにこれらに配慮した如き言い回しー「意見内容に反対や、拙速であるというものが多かった。地域がコミュニティの核であり、今後の地域振興が心配だと言う声があったこと。」はありました。それに担当の説明でも何度も、決定後の3月には該当学校のPTA,地域に対して、「十分に時間をかけて丁寧に説明をしていく。」「課題を共有し、将来を考える契機としていく。」と対話路線を強調していました。このようにこの間の取り組みの影響は出てきているとは思われました。

 やっぱり「筋金」は入っていなかった教育委員。事務局主導で形骸化している会議。
 ―現状では、教育委員会は無用の長物に過ぎない―

 わずか1時間の会議だったから、それでは教育委員たちは計画内容、110件のパブリックコメント、3件の請願等をよく見て検討していないかというとそうでもありません。教育長の報告の中で「内部での話し合いを11回持ち、修正をかけてきた。」との発言に私は「おや?」と思いました。会議終了後たまたまトイレで彼と一緒になりそのことを問い質すと「委員長に対して…」と言葉を濁しました。その後1Fのロビーで反省会に出てから、私は帰りました。しかし、後から聞くところによると、その後も少し残っていた高清水の方が委員と会館の入り口で鉢合わせになった時に、「何故、拙速だという一言がいえないのだ!」と問い詰めると「11回も勉強会をしたのだ。」と言い訳をしたといいます。
 事前の勉強会自体がいけないのではなく、それが結果から見ても事務局主導で、教育委員のアラを出さないための事前討ち合わせのようなもの。だから本番の会議までには事前にすっかり中身は出来上がっているという代物。全く緊張感がありません。教育委員の合議制による十分な議論がなければなりません。形式だけの委員会の会議開催など意味がありません。すっかり、事務局主導で形骸化してしまっています。前鳥取知事の片山善博氏は県議会を事前に出来上がっているものから、真剣勝負のものに改革しました。と同時に、教育委員についてもその望まれる資質を「教育のプロでなくとも、教育行政の執行管理について説明責任を果たせる人…説明責任の重要性を自覚する見識とそれをきちんと実践することのできる力量とを備えた人…いうなれば「筋金入りの素人」でなければならない。」と言っています。
 この日、一人はりきっていた白鳥委員は、次のように発言しました。「私は、皆さんに地域の概念をもっと広く持っていただきたいと思っています。地域の学校とか、コミュニティの核とか、いろんな懸念、不安があるでしょうが、これからは、旧10カ町村を一つの地域と捉えていただきたい。」と各地域の住民の気持ちを逆なでするようなピントはずれの内容でした。これではいけないと思ったのか事務局の担当者がすぐに「地域の概念は、人によって捉え方が違ってきます。計画では、現在の小学校区を地域として捉え、これを大事にして、基礎にして、その上の連携、ネットワークができるのかなと考えています。」と市教委の立場を説明しました。教育委員会を公選制から任命制にしてしまった結果、教育委員には、行政の意のままになる人物ばかりが人選されています。やっぱり、「筋金」は入っていなかったのです。現状では、教育委員会は無用の長物に過ぎません。分かりやすく教育部局とでもしたほうがという見直し論は今、全国各地で出ています。

 傍聴記から外れますが…ちょっと考えてみてください。

 最後に、傍聴記ではないのですが、ちょっと気になる点が…
 そもそも、この「小学校の規模を220人位を最低基準として、300人程の学校規模を適正と決め付け、その他を切り捨てていく。」というこのとんでもない栗原市の学校統廃合計画は、どこから始まったの?という疑問が私にはあります。誰が、どこの地域が、そんなことを市に要望したのか?ということです。私自身は築館地区の富野小学校の地域です。児童数は41人と少ないですが、まわりの保護者や地域住民からは「統廃合をして下さい。」という声は聞いていません。他はどうでしょうか?私の知る限りでは、次に示す旧金成町以外では、若柳地区で佐沼に近い、市内で一番少ない児童数30人の大目小学校区の一部に統廃合を望む声もあるといわれているぐらいです。金成地区は、今度の計画でも最も極端な5小学校がと1中学校が一つとなる小中一貫校に、それも前期(~13年)に一挙にやってしまうというものです。金成地区のこれまでの動きを知る上ではっきり記録にあるのが、昨年2月の「市立小中学校及び幼稚園の適正配置・規模の中間報告(案)」に対するパブリックコメントの中にあった次のものです。

<意見の内容>
 ご存知かと思いますが、平成16年度の旧金成町時に、「金成町学校整備の未来懇話会」という検討会を3回実施され、私も委員として参加しました。
 事の発端は、私の子供が、萩野二小に入学する人数が3人だけという事実を知りました。私はあまりのショックに、自分の子供以降に入学する学区内の児童数を調べ、18年度以降、全校生徒で30人前後という少なさに愕然としました。そのため、学区内幼稚園以下の未就学児童の親を集め、ことの事実を報告し意見交換会を開催しました。そこで出された意見を教育長に説明し、上記懇話会でも報告し、町村合併前に小学校を再編するように訴えました。
 その結果、市になって引き継がれているかどうか分かりませんが、当時の教育委員会は、別紙のとおり、金成町の小学校の統合推進計画を出しました。そのため、金成地域の親たちは、近いうちに2または3校に統合され、最後には1校になるだろうと感じている人が多くおります。少人数にはそれなりの利点もあると思いますが、複式学級になるくらいの少なさは、子供成長過程においてなんらかの問題が生じると私は考えております。
 金成地区の学校再編に対する意識は、個人差はあると思いますが、大きな抵抗はないため、今回の報告会に参加する人が少なかったのは、天候のせいもありましたが、「どうせ近いうちに統合されるのだから。」と思っている人が多いことも、少ないという理由の一つと考えられます。
 このように、統合意識がある地域から早めの検討、方針をお願いします。
<これに対する検討委員会の考え方> 
 栗原市教育委員会に旧金成町教育委員会から「学校再編「小学校の適正規模」について」の事務的な引き継ぎを受けております。
 引き継ぎを受けた内容は,今回の中間報告(案)において示しているとおり,旧金成町に限られた課題ではなく,栗原市全体で同様の課題を抱えている現状から改めて,栗原市全体を視野に,「栗原市学校教育環境検討委員会」で,検討を進めているものでございます。
 「統合意識のある地域から」とのご提言は,これからの進め方について貴重な意見として受け止めさせていただきます。

 私は、この問題に関わった昨年末より、10カ町村の合併の過程で学校統廃合が行政手続きの上で意図的に隠されてきたことを問題にしてきました。とりわけこの旧金成町での動きが、旧他町村の住民には全く知らされていなかったこと。そして、新市となり、この金成地区の動きを利用する形で、多くの各地域住民が反対したり、拙速だと思っているにもかかわらず、こんなとんでもない内容の学校再編計画が出され、決定されたことのこの事実経過をしっかり見なければいけないと思います。


スポンサーサイト

PageTop

緊急の公開質問状

   市教育委員会に緊急の公開質問状を提出
                                      2008年2月26日

 2月24日の第10回シンポ実行委員会(次回よりこの会は「栗原の教育を考える会」に合体、名称変更)で、既に私が記事でアップしている「栗原市立学校再編計画決定(2/28)を前にして」を説明しました。その中で、広報「くりはら」2/15付けの問題が取り上げられ、2月28日の市教育委員会で、決定される前に何かアクションをということになりました。そこで鈴木代表と私とで25日から26日にかけて公開質問状の作成に取り掛かりました。質問内容の1~4が私、5~8が鈴木氏が担当してそして、26日午後4時50分、市教育委員会前でおち合い、5時前に何とか提出できました。本日は議会開催中ということもあって室長、、課長の2名の対応となりました。しかし、かえってその方が実務面での今後の市教委の動向を知るためにはこの時期にはよかったと思いました。私が前述の記事の中で予測したことに若干の修正をした方がいいことも出てきていますが、基本的には私の問題点の整理は合っていると確信しました。特に「コミュニティ推進協議会」の役割が重大になってくるという点は市教委とピタリと一致しました。



                                              2008年2月26日
 栗原市教育委員会
  委員長 久我竹五郎 様

   「栗原市立学校再編計画」決定を前にした緊急の公開質問状                                                                       
                                 栗原の教育を考える会 代表 鈴木健三
                                      

  日頃の本市教育行政へのご尽力に敬意を表します。
  さて、貴教育委員会は、2月28日に栗原市立学校再編計画を決定しようとされています。それを前にした、先日の広報「くりはら」第40号(2月15日)に教育部教育環境推進室名で「栗原市立学校再編計画(案)に対する意見の募集結果」が報告されています。その内容に極めて問題が多くあります。そこで、緊急ですが、次のような質問をさせていただきます。

 意見総数110件の約8割(87件、79%)という圧倒的多数が計画(案)に反対及び慎重さを求めています。これは賛成(7件、6%)の12倍であり、その他(16件、15%)も含め大きく上回っているにもかかわらず、報告はこれに誠実に対処していません。報告の一覧表に掲載された「意見の主な内容」は34件あります。三種類に分けた各意見の掲載比率は、賛成が7/7で100%、その他が6/16で38%であるのに対して、反対・慎重さは21/87で僅か24%となり、各意見の取り扱いに大きな違いがあり、特に賛成意見への傾斜は異常です。
 この報告は、意見の全容を不正確に歪めて伝えていると考えますが、市教育委員会としてのこれへの見解をお聞かせください。

 この報告の意図していることは、「様々な意見が出ている。確かに反対、慎重さを求める意見も多いが、賛成等その他の意見も沢山出ている。」と市民に印象付けたい、そのように見せかけたいというものだと考えています。しかし、実際は全く違うのであり、ここにこの報告の極めて悪質な作為性を感じています。
 こうしたこの報告のもたらす間違った印象について、市教育委員会としてはどのように考えるか見解をお聞かせください。

 一般にパブリックコメントに関して「意見の数で賛否を問うものではない」「多数の意見が意思決定における考慮要素になるとは限らない」とは言われています。しかし、このような悪質な作為性を持って恣意的な操作をすることなど許される筈はありません。そもそもこの制度は、「市の政策形成過程の公正性の確保と透明性の向上を図るとともに、市政への市民等の参加を促進し、もって一層開かれた市政の推進に寄与することを目的とする。」(栗原市パブリックコメント実施要綱(目的)第1条)というものである筈です。パブリックコメント制度には、行政の官僚的独善を排する目的がある筈なのに、こうした報告において本来の目的から逸脱したこのような恣意的な操作をし、それを前提にして既定方針どおりに再編計画を決定するならば大問題です。これは「パブリックコメントで手続きは踏んだ。」と形式だけを整えた(それも歪めて)ものであり、結局、合意調達手段としてパブリックコメント制度を悪用していると考えます。
 パブリックコメント制度の根幹に係わることになるこの報告と、これを前提として今回、再編計画の決定をしようとしていることの関連性について、市教育委員会としてどのように考えるか見解をお聞かせください。

 このまま既定方針どおりに再編計画を決定するならば、圧倒的多数の反対・慎重さを求める意見を尊重せずに却下することになります。この後、意見に対する市教育委員会の考え方を添えて各意見提出者に返答されると思います。その際、市教育委員会は圧倒的多数の反対・慎重さを求める意見提出者に対して「何故、圧倒的多数意見なのにこれを尊重せず却下したのか、何故恣意的操作をしたのか」ということを、誠実に説明する責任があると考えます。と同時に、市民全体に対してもこれらの一連の経過を明らかにする説明責任があると考えます。
 この二つの説明責任(反対・慎重さを求める意見提出者と市民全体に対する)について、市教育委会はどのように考えるのか見解をお聞かせください。

 栗原市教育委員会教育部教育環境推進室は2月15日付けの広報「くりはら」2月号に「栗原市立学校再編計画(案)に対する意見の募集結果」を公表しました。意見の募集内容(パブリックコメント)は教育部教育環境推進室がまとめて回答して市民に公表してよいのでしょうか。

 その根拠は何ですか。市教育委員会規則、規定のどこにあるのですか。

 「意見の募集結果」の公表内容は市教育委員に事前に知らせて、了解を得たのですか。

 市議会文教民生常任委員会所管事務調査資料の栗原市立学校再編計画についての中の「パブリックコメントで寄せられた意見について」の資料を応募者(投稿者)市民に「意見の募集結果」を公表する前に配布すべきだったと思いますが、どのように考えたのですか。

 なお、質問に対する回答は、2008年3月19日までに「栗原の教育を考える会」代表の鈴木健三まで文書にてお願いします。


PageTop

栗原市学校再編計画決定を前にして

栗原市立学校再編計画決定(2/28)を前にして                                                                                                   ( 問題点の整理のためにーその3 )   
                                                         2008.2.22  

1 再編計画決定後、どのようなことが予測されるか

 この間の市教委・市議会常任委員会の傍聴(+パブリックコメントの内容と市教委の考え)、教育長に会って言えることは、計画の根幹(理念と基準)は変えてこないと思われることです。細部はどこまでの修正があるかは不明。3月になれば一斉に手分けして該当の学区に説明・説得に入ってきます。(それでも初めはやりやすいところからか?)
 その説明・説得のやり方はおそらく、まず、現PTAだけに呼びかける。①現PTAがそこでOKならそれで終わり。(地域の同意を得たと。)②現PTAが初めから対象を地域全体に(それでも具体的にあげる)広げてくれと要望すれば最初からそうなるか、あるいは2段階か? 市教委の方からは、初めから対象を地域全体にはもってこないと思われます。できるだけ早く、それも少ない対象でも(現PTAだけでも)同意を取り付けようとしてくると思われます。(市教委は「地域との合意」の「地域」の定義をしていません。つまり、その定義はそれぞれの地域ごとに違ってくると思われます。)まとまらない地域は後回しにして、合意の地域でそれを包囲する。まとまらない地域には、「拙速だ」という私たちの批判に対するのと同じように「このまま待っていたら5年~10年が空白の時間となりますよ。それで子どもたちの教育環境はそのままでいいのですか!」と子どもたちを盾に(人質にして)脅しもかけてくると思われます。
 また、説明・説得の会議のやり方ですが、これまでの説明会での様子から考えて、一部の人(たち)だけが「強行に反対」もしくは「拙速だ」としてもその場合、参加者からその意見を浮き上がらせようとし、またこれを無視してかかってくると思われます。決してこれを説得しようとしないと思います。様々な意見がでても市教委はおそらくそれらもまとめようとはしないと思います。参加者の誰かがそれらをまとめるならばそれはそれで良いとするでしょうが…。そして最後、反対等が一部意見のままならば、それに対し、「見解の相違です。」で片付けてしまうと思います。参加者の総意もしくは大半が反対、あるいは拙速とした場合、市教委と地域との合意は無いということになります。その場合、その場で撤回、もしくは何らかの修正がされるかというとそうはならないと思います。市教委は分散しての説明・説得ですから「その話し合いの現場には権限は無い」と見ておかなければなりません。市教委の「地域との合意」といっても計画で決めた(市教委の考え)ことを説明・説得するのであってそこで計画の根幹(理念と基準)に係わる修正は行われないと見るべきです。
 では合意に至らなかったらどうするか?そこだけ後回し、(その後は前述のように…) しかし、そのような地域があまりにも多ければ、そこで始めて「地域学校再編検討委員会(仮称)」なるものを「設置して検討することを考慮する。」(パブリックコメントへの回答より)という大変、回りくどい言い方をしていますが逃げ道は一応作っているようです。おそらくここでは計画の根幹(理念と基準)に何らかの修正をせざるを得ないと思います。

 <ここまでは、2月15日にまとめました。>

2 再編計画(案)に対する意見の傾向と広報「くりはら」(2/15)での市教委の報告

 2月6日の文教民生常任委員会に市教委より資料として出された再編計画(案)に対する意見の概要を読み、その傾向を広報「くりはら」(2/15)に載った市教委報告(栗原市学校教育再編計画(案)に対する意見の募集結果)と比較して(広報の方にはまだ「市教委の考え」は出ていない)まとめてみました。 
 41人、110件の意見は、賛成7件(6%)、反対・慎重さを求めるもの87件(79%)、その他16件(15%)です。ほとんどが反対か、慎重さを求めるものでした。
 ところが広報「くりはら」(2/15)に掲載された一覧表にまとめられた「意見の主な内容」34件をこれに振り分けると、圧倒的多数を占めていた反対・慎重さを求めるものはその24%のみ掲載、(全体に占める割合79%→61%に大幅減)、その逆に賛成する意見は100%掲載、(同、6%→21%に大幅増)、その他は38%掲載(同、15%→18%あまり変わらず)されていました。
 市教委の意図は、「様々な意見が出ている。確かに反対、慎重さを求める意見も多いが、賛成等その他の意見も沢山出ている。」と市民には印象付けたい、そのように見せかけています。しかし、実際には全く違うのです。ここに市教委の極めて悪質な作為性を感じます。
 この広報の中で「いただいた意見に対する市教育委員会の考えを整理するとともに、計画(案)に皆さまからのご提言に基づく記述を加えるなどの修正を行い、栗原市立学校再編計画策定に向けて、検討を重ねていきます。寄せられた意見に対する市教育委員会の考えと、案の取れた栗原市立学校再編計画は、3月1日(土)以降に公表する予定です。」と言っています。しかし、この概要報告の段階で、提出意見の取りまとめにおいて市教委は恣意的な操作を栗原市学校教育再編計画(案)に対する意見の募集結果でしてきているのです。しかも全容の報告(意見と市教委の考えの全文)は、この後、市のウェブサイト上でしか行わないと思います。
 市は、パブリックコメントについて「寄せられた意見に対する市の考えを明らかにし、意見を考慮して、市の意思決定を行う仕組み」(市の「パブリックコメントの概要」より)と解説しています。一般にパブリックコメントに関して「意見の数で賛否を問うものではない」「多数の意見が意思決定における考慮要素になるとは限らない」とは言われていますが、悪質な作為性を持って恣意的な操作をすることなど許される筈はありません。そもそもこの制度は、「市の政策形成過程の公正性の確保と透明性の向上を図るとともに、市政への市民等の参加を促進し、もって一層開かれた市政の推進に寄与することを目的とする。」(栗原市パブリックコメント実施要綱(目的)第1条)というものである筈です。パブリックコメント制度には、行政の官僚的独善を排する目的がある筈なのに、本来の目的から逸脱したこうした恣意的な操作をしてまで既定方針どおりに再編計画決定するならば、「パブリックコメントで手続きは踏んだ。」と形式だけを整えた(それも歪めて)合意調達手段としてパブリックコメントを悪用しようとしていると言わざるを得ません。

―補足― まだ決まってはいませんが、多数意見の却下について。市は、意見提出者に対して「何故、多数意見なのに却下したか、何故恣意的操作をしたか」ということの説明責任があるだけでなく、市民全体にもこれは明らかにする説明責任があります。

「栗原市立学校再編計画(案)に対する意見の募集結果」と広報「くりはら」(2/15)掲載との関係  


        項    目件数掲載賛成反対・慎重その他
 はじめに11 42/2  2/90/0
 「学校再編計画」の基本的な考え方15 40/03/141/1
 「学校再編計画」の構成と期間  7 41/1 3/50/1
 適正規模の基準16 40/03/141/2
 適性配置  5 20/0 2/40/1
 適正化を実現する方法  1 10/0 1/10/0
 特色ある学校づくり  5 20/0 2/50/0
 実施計画の「前期計画」11 31/1 1/91/1
 実施計画の具体的な計画13 52/2 1/62/5
 実施計画の推進日程  3 11/1 0/00/2
 その他23 40/03/201/3
 110 347/7 21/876/16
   100%  24% 38%


3 「誰が最後まで子どもたちの教育に責任を持つのか?」
     「誰が学校の統廃合についての決定に責任を持つのか?」

 この前者の問いは「今、義務教育が危ない!」(ぎょうせい)という本の中で、公募制で福島県原町の教育長になった渡邉光雄氏が述べていることです。この間、市教委の住民説明会に参加し、市教委定例会と市議会文教民生常任委員会を傍聴し、またパブリックコメントに寄せられた多くの市民の意見を読んでみて、前者と共に後者の方の問いが出てくるのです。同じ本の中で、教育行政学が専門の黒崎 勲氏が日本の教育委員会制度の基になっているアメリカの公教育の理念―ローカルコントロールの精神を紹介していますが、後者の問い考える基になっています。「…地域の市民は教育委員会に代表を選び出すために投票し、その決定に参与し、彼らの子どもを教育する最良な方法が何であるかを熟考することが出来た。」(タイヤック「共通の土台を求めて」同時代社P145)
 子どもたちの教育に、教育を受ける権利に対し、責任を持つのは、それを保護者は「保障しなければならない」のだから第一義的には保護者です。それに対し学校の設置義務が市町村にあるとされています。(学校教育法)義務教育(あるいは高校まで)は市町村及び、それを構成している地域住民、市民に、広い意味で地域社会に責任があると思います。
 後者の学校についてはどうでしょうか?学校の統廃合について誰がその決定に責任を持つのか?市長?市教育委員会?市議会?…先日、市教育委員会定例会を初めて傍聴しました。教育行政の最高責任者5人の教育委員が、最後まで子どもたちの教育に責任を持つ、学校の統廃合の決定に責任を持つのは無理だと思いました。なのに、学校統廃合の方向を決定しようとしているのです。それでは、学校統廃合を現PTA、保護者だけで決めてもいいのでしょうか?それでは責任が重過ぎます。「地域、学校、子どもたち」は切り離せないものです。ここでも地域は深く関わらざるを得ません。それも、まず、小学校区の地域、それから旧町村、最後に栗原市。

4 「コミュニティ推進協議会」 
              と「栗原市教育改革検討委員会」
(仮称)

 今、地方分権の時代が始まっているとしていますが、言葉どおりに国の権限をどれだけ自治体に下ろすかのだけの議論では問題です。主権者である市民がどれだけ自覚と責任を持って自治体を市民政府(地方政府)にしていくかが課題となっています。本来、市民と自治体の関係は、市民を支配する役所ではなく、市民が自分たちの生活が円滑に出来るよう自分たちで治める「自治体」である筈です。市民にとって「市役所」とは、お上でも、市民を抑えたりするものではなく、文字通り「市民の役に立つ所」として機能する筈です。しかし、主権者である自分たちで治めるといっても、現実的には、間接民主制を前提とし、市民参加、市民参画等の直接民主主義で補完していくことになります。
 町村合併後に旧町村には、地域審議会が設置されました。ここでは、学校統廃合問題については昨年10月の適正規模、適正配置検討委員会の最終報告後に初めて説明だけがされました。各行政区を単位とする「自治会」の設置(への組織替え)は進んでいるものの、各小学校の学区ごとに設置が目指されている「コミュニティ推進協議会」の設置は、遅れています。前述の3「誰が学校の統廃合に…」に関連してきますが、「コミュニティ推進協議会」(小学校区)にも「地域審議会」(旧町村)にも決定権はありません。しかし、こうした地域組織でこそ学校の統廃合問題は、PTA等を交え、十分に時間をかけて話し合い、合意形成をして方向を出すべきです。「コミュニティ推進協議会」の設置が遅れているところでは、この機会に早急に立ち上げて話し合いを開始すべきです。決定権がなくとも話し合い、合意形成をすることは重要で、その結果を市長に意見として述べることが必要です。学校統廃合問題は地域の区域に係わるものであるため、市長はその意見を聞かなければならない筈です。
1「再編計決定画後、どのようなことが予測されるか」で「市教委の方からは初めから対象を地域全体に持ってこない」と分析しました。確かにそうだとは思いますが、いずれ後から地域には話を持ってくると思います。つまり、統廃合を決めてしまってから、例えば「学校の後施設の地域共同管理」のような形で…。つまり「協力してくれ」と。その他の問題でも存続する、統廃合になるどちらになっても地域の協力は必要になってきます。
 すでに毎年数回ずつ開催されてきた10ヶ所の地域審議会は、この問題で自治体内の「地域自治」の役割が果たせるのか、そして現在作られつつある各コミュニティ推進協議会は、単なる行政の下請けに終わることなく、これもさらに市民に身近な「地域自治」「地域内分権」の役割も持てるのかが問われてきます。ここに今後の栗原市における「市民自治」「住民自治」の真価が問われてきます。いずれにしても、市民に一番身近な「コミュニティ推進協議会」を学校統廃合の話し合いの受け皿にしていかざるを得なくなると思います。
 「栗原市教育改革検討委員会」(仮称)の設置は、昨年12月2日のシンポジウムで私が市教委に提案し始めたことです。パブリックコメントでも私は、「「栗原市の教育改革をどう進めるか」の根本も含め、もう少し時間をかけて市民の合意をめざす、人選も公募を多く入れたものとし、常にオープンな議論の空間(栗原市教育改革検討委員会(仮称))を設けることを提案します。」と意見を出しています。2月6日の「「市議会文教民生常任委員会」を傍聴して」でも、次のように述べました。 
 - これへの直接の回答ではないのですが市教委は「個別の地域での話し合いの結果として、「地域学校再編検討委員会(仮称)」を設置して検討することについても考慮して…」と言ってはいます。名称は気になりますが、結果として後からやむを得ずではなく、初めからこうしたものは設置すべきです。今回のパブリックコメントには様々な貴重な意見が寄せられています。これらの意見を読んでいてWeb上で、あるいはペーパー上でお互いに見るだけでなく、もっとリアルな空間で、行政を交えて、行政と向き合い、様々な考えを持つ市民が栗原市の教育全体のことも議論すべきだと思いました。このことと各地域での話し合いを、同時進行で相互作用させながら1年ぐらい時間を区切ってしまって密度の濃い議論をしてはどうでしょうか。-
 そして、2月12日に鈴木健三氏と請願を出しに市教委を訪れ、佐藤公平教育長に直接手渡しましたが、ここでも次のように申し入れをしました。
― 「教育長が私たちと「考え、思いにそれほどの違いがあるわけではない」としながらも「計画の根幹(理念、基準)は変えない」としていること。この検討にも踏み込みそうな地域学校再編検討委員会(仮称)の設置の可能性(考慮と表現している。)を各地域の話し合いの結果として後に考えていることは時間のロス。最初から計画自体も(案)のままか、第2次案とでもして、常にオープンな議論の空間(栗原市教育改革検討委員会(仮称))と各地域での話し合いを同時進行で一年くらいかけてしてはどうかと。その方がかえってスムーズに事が運ぶのではと話しました。―
 市教委の考え、思いと私たちのとの一番の違いは、計画の根幹(理念、基準)にあることは明らかです。これに加え、市議会文教民生常任委員会での市教委教育部長の「このまま待っていたら5年~10年が空白の時間となりますよ。それで子どもたちの教育環境はそのままでいいのですか!」と言う発言に見られる「少人数学級は、可愛そうだ」という考え、思い、とパブリックコメントの少人数学級を望み、小規模学校を評価する多くの意見(110件の中、30件が小規模校・少人数学級を評価(反対・慎重は、87件)。3件のみがそれを否定(賛成は、7件))とは、大きな隔たりがあると思いました。昨年12月の市民説明会でも、少しはこの双方が考えをだし、議論はしたとは思いますが、まだまだ不十分です。市民の間にも様々な意見の違いはあると思います。全市でも、各地域でも多くの市民を巻き込んだ積極的な議論が巻き起こる契機となるこうした市民参画のフォーラムとなる場の設置を求めていくべきだと思います。

5 21世紀の地域創造―ここ栗原市の将来像をどう画くのか、
         数十年先までを見据えたグランドデザインを!
 


 この再編計画の上位計画である栗原市総合計画は、平成28年度までの10年計画です。再編計画自体でもこれより少し先、平成31年度までのものに過ぎません。21世紀の地域―ここ栗原市は、どうなっていくのか?どうしていくのか?その将来像をどう画くのか?21世紀を地域創造の世紀にする。21世紀のあと90~100年先とまでいかなくても、数十年先までを見据えたグランドデザインが必要です。確かに住民人口減、年少人口減とはなるわけですが、このままで再編計画どおりに学校統廃合が実施されていくとそれに拍車がかかることは明らかです。
 農業の持続的発展、自然との共生、観光資源の活用、…21世紀において、栗原市を、農業者をはじめ、地域で暮らす人々だけでなく、都市に暮らしている人々や農村地域に移り住む人々にとっても、豊かで住みよい地域にいく必要があります。20世紀は、都市の世紀でした。多くの人々が、自然豊かな緑の大地を離れ、都市に移り住み、そこで子どもたちを育て、さらに地方の地域から子どもたちが進学、就職と都市に移り住むようになっていきました。しかし、21世紀は、地方の地域こそ、その多くの特色を生かし、生命を育む地域として、主役になっていくと思います。地方の地域、農村地域は、老年人口の増加に加え、これからの団塊の世代のリタイアの受け皿、人生後期の四半世紀の受け皿としての役割が期待されています。しかし、同時に地域は、人生初期の保育・義務教育の受け皿としても機能していく必要があります。豊かな自然があり、生命を育む地域の中ででこそ、子どもたちを、世代間交流をしながら育てていきたいものです。
 小・中学校は、もっとも普遍的で歴史のある地域共有の公共資源です。その学校を地域のあらゆる世代の人々が支え、応援する。人生の基礎である義務教育は、地域の中で地域の人々の支えと見守りの中におかれるべきです。「地域、学校、子どもたち」の三つは、不可分の関係にあると思います。再編計画には、「子どもの教育環境をよくする」、「学力」の向上など、それぞれのパーツは一見、甘口に見えて保護者には反対しにくい側面があります。しかし、その根本、理念は、個々の子どもや保護者をバラバラに分断していく、地域から引き離していくことにつながっていきます。子育て、教育は、共同で行う社会的営みです。地域とは、子どもの成長、発達にとって欠かせないファクターであり、地域にとっても、次世代の子どもを育てていく機能を失うことは致命的なこと、地域にとって子どもたちと学校は、地域の存続、再生、発展にとって不可分なものであると思います。

PageTop

今、義務教育が危ない

<BOOKS> ⑥  
「今、義務教育が危ない!」 を読んで
   -国民のライフラインを守ろう-


  「今、義務教育が危ない!」 日本の教育を考える10人委員会(編)
                                 ぎょうせい 2007年12月10日初版発行 

  委員のプロフィール紹介

 この本は去年の12月の時点で学校統廃合問題に関わってから、まず、藤田英典氏編著の「誰のための「教育再生」か」を読み終わった頃、新聞広告で見つけ、ネット発注(楽天だったか?)してツンドクして置いたもの。「日本の教育を考える10人委員会」については、この時チェックしておきました。2004年に発足して義務教育国庫負担制度の維持をはじめ、義務教育における地域格差を生じさせないこと、義務教育に過度の市場原理主義を導入しないことなどについて提言を行ってきています。本書はこれらを踏まえ、日本の義務教育の何が問題で、どのような改革が必要なのかメンバーで分担執筆したものです。(一部には矛盾した文章もありますが…)今、2月28日の市教育委委員会での再編計画決定という山場を迎えています。市民全体にどうこの問題の問題点を分かりやすく、しかも正確に伝えていくか、栗原の子どもたちに豊な教育環境を創っていくことと地域住民のライフラインを守っていくことの方向をどう打ち出していくか、運動側にこのことが求められています。本書からそのヒントのいくつかでも掴めればと思い、これはと思ったところの内容の紹介をします。

 本の内容の紹介 

教育の機会均等が奪われる/斉藤貴男 

 この中の 5 誰のための「選択の自由」なのか で、ある県教委が全県一学区化問題のデメリットとして挙げられたものの要約から
○競争
・子どもたちの競争が激化し、友情も壊され不安を抱える。
・学校を選択できる子どもは限られる。
・遠距離通学を強いられ、時間的、経済的な負担が増える。
・学校間の競争が激化し学校の序列化がされに進む。
○家庭
・親元を離れなければならない子どもが増え、家族関係の希薄化へ。
・家庭の経済力が学力や進学に影響する。
○地域
・子どもたちに地域の一員であるという意識が育ちにくくなる。
・都市への集中が起こり、地域で学ぶことに劣等感を持つ。
・教育に地域格差を持ち込むことになる。
・一円化で学校の統廃合となると小中高の地域一体化と矛盾する。
・地域の将来や人口にも影響を及ぼす。
・地域の文化の中心である学校が地盤沈下し地域の崩壊につながるー 。
 全県一学区化に批判的意見は、実現すると偏差値の高い生徒が特定校に集中していくに違いないと。(相当に確度の高い見通し。)
 一方、推進側の人々は、偏差値という概念そのものを否定したがる。-偏差値を重視しないという善意は、時と場所によって、事態を一定の筋書きに誘導していく偽装になり得る。

学校の危機と再生/佐藤 学

 この中の 2 経営概念の転換
 過去20年間、教育行政は分権化され規制緩和が断行されたにもかかわらず、それによって一層学校の経営は硬直化し、教師の自立性と自由が拘束される事態が生じている。その主要な理由は、
 ① 「分権化」と言っても、文科省の権限・権力が知事、県教委に委譲しただけで、市教委や学校には委譲されていない。
 ② 分権化が市場原理主義の競争原理とセットになって進行したこと。
 ③ 分権化によって教育財源の危機が深刻化したこと。
 教育財源を縮小しつつ断行される教育改革は、学校現場と教師の職域にさまざまなひずみを。ほとんどの道府県に導入された少人数学級は、知事、議員の財政的裏づけの無い選挙公約で実現したため、そうした道府県では社会教育費が大幅削減、教師の研修費や図書費なども大幅削減、しかも臨時採用講師と非常勤講師が氾濫する事態に。これは教師の質を劣化させるだけでなく、専任教師の多忙化を導いている。
 ④ 分権化による改革が市町村合併と重なって教育委員会の規模の拡大と結びつき、学校と教師に対する官僚主義的評価が強まっていること。
 3 内側からの改革 
・ 学校教育の改革は、学校の内部から遂行されない限り、実りある成果を導くことはできない。二一世紀の学校は地域共同体の教育と文化のセンターとして再構築されるべき。草の根の改革運動として普及している「学びの共同体」づくりの学校改革など学校教育の民主的改革の希望は存在する。
・ 「学びの共同体」としての学校とは、子どもたちがともに学び合い育ち合う学校であり、同時に教師たちが「同僚性」を構内に築いて教育専門家として学びあう学校であり、保護者や市民が学校教育に参加し学び合う学校である。

家庭教育、地域と学校の在り方/樋口惠子

 4 二一世紀は地域創造の時代
・ 地域は確かに急激な高度経済成長によって就業構造の変化、それに伴う人口の大移動、大都市圏への人口集中を経て、一たんは崩れかけ、今新たな地域創造の必要に直面している。二一世紀の日本は地域創造の世紀。…人生初期の保育・義務教育に加えて、人生後期の四半世紀の受け皿が地域となる。…
・ 地域は二〇世紀後半に比べて、はるかに多くそこで「働く人々」の姿を見ることができるだろう。人生100年四世代共住、世代間交流の場は地域が第一義的に担うことに、地域の中に、家庭もあれば学校もある。一般に学校や職場の中には、ごく幼い人や高齢者はいない。家族はほぼ二世代ごとに分断された核家族。世帯数は人口減にもかかわらず増加の一途をたどっている。こうしたすべてを包括できる場が地域である。
 5 改革が地域を崩壊させる 
・  教育基本法をはじめとする法改正や、「教育再生」と言われるものは、二一世紀の生活の受け皿となる地域を崩壊させる方向にある。
・ 小・中学校はもっとも普遍的で歴史のある地域共有の公共資源である。選挙に出かけるのも、不時の災害の避難所も学校である。途中転入者も、まず第一に地域の目印として小・中学校を覚える。
 その学校を地域のあらゆる世代の人が支え応援するのは当然のことだ。地方都市には小学校単位により小さく、より緊密にコミュニティを形成ししていることが少なくない。そこでは小・中学校について、ほとんど選択の余地がない。
・ 競争は、個人の努力や克己心につながる。しかし、競争にはつねに一定のルールがあり、厳しくルールを守ることを前提とする。また、社会の活動は競争によって活性化される半面、競争で得られる成果を含めて、社会を構成する人々が共生していく道を目指す必要がある。共生なき競争は弱肉強食となる。…学力その他の能力を含めて、恵まれた人がさらにその能力を高めることは、妨げてはならないだろう。しかし、小中学校教育で大切なのは、人生100年時代を生きる人間として、一人一人の学力の底上げをすることである。
・ 人生の基礎である義務教育は、地域の中で地域の人々の支えと見守りの中に置かれるべきだと考える。
・ 学校ごとの競争は、簡単に排除と言う行為につながる。義務教育で身につけるべきは、自分と違った人々を含め、排除ではなく連帯であり、一人一人の人間に対する敬意であろう。

「いじめ問題」は教育の原点である/尾木直樹 

 2 いじめ、三つのピーク期 の ⑶ 大きき後退したこの10年ー人権感覚の劣化 
 いじめはいじめる方が100%悪いのであり、この点はいじめ問題の分析と解決における原理・原則である。ところが今、この原点が大きく揺らぎ後退している。こうしたいじめを捉えている社会の心理構造の変化は、国や社会、さらに私たち一人ひとりに至るまで、人権感覚が衰え、弱いたち場に置かれた者の心の叫びを十分にイメージしたり、把握できなくなってきているーつまり、社会全体に人権感覚の劣化現象が起きている…
 3 今日のいじめー「第三のピーク期」 の ⑵ 成果主義が歪める「教育改革」
 「第3のピーク期」のもう一つの特徴として学校や教育委員会の「隠ぺい体質」があるとして、その背景を、
 第一に、いじめの定義に学校が「確認」したものという条件までつけていた時期の名残が、未だに現場での判断を鈍化させているためではないか。
 第二に、学校現場に取り入れられてきた競争原理に基づく成果主義が、人事考課制度と相まって、職員室における「同僚性」や協働性、連帯性等を喪失させてしまっているせいではないかと考えられる。

教職員と学校をとり巻く状況義務教育の崩壊を招く環境変化と要因
                              /渡邉光雄


 3 変わる学校運営組織と教育風土・格差 の ②受験シフトにも左右されて
・ 母親の首を切断した殺人事件で全国に衝撃を投げかけた高校三年生の在籍校も、毎年度「国公立大学への入学目標数」を掲げ、受験シフトを敷いてきた。…地元に学習塾や予備校はもちろん有力な高校がなければ、当該生徒のように遠く離れた進学高校に入学、下宿やアパート暮らしを余儀なくされ、家族との関係が希薄になる地域的実情はあまり語られていない。
・ 「県内どの地域でも平等に学校を選択でき、生徒一人ひとりの個性と能力を延ばすことができる。」という理由で平成21年度より全県一学区の導入を目指すと言う。経済的に余裕があり、有名大学進学を目指す中学生(実質は保護者)は、今でも学区を越えて進学校に進学している。そのような中で全県一学区にすると、なぜ生徒の「個性と能力を伸ばすことができる」となるのか…問われるべきは母親殺害生徒の事件を教訓に、経済的余裕があるものだけが優位に立てる方策を見直すことである。
・ 学校は地域活性化の一翼も担う。教育格差が広がるいま、誰が最後まで子どもたちの教育に責任を持つのか、という認識を地域全体で共有し、学びの環境づくりに協力・協働できるかが求められる。学校の教職員の教育的力量の実情、あるいは地域住民の教育ニーズの内容と質を十分検証・分析しながら、学校への支援策を講じるのが、いま教育行政関係者が取り組まなければならない課題である。
・ 今回の改正教育三法には「支援」の発想がなく、為政者のご都合主義だけが際立つ。また学校が地域に根ざさず、受験シフトに縛られる状況は、本来の教育目的を失わさせる。その問題解決をせずに、教育現場と程遠い感覚でまとめられた制度は、現職教職員の意欲を削ぎ落とし、若い教職志望者を少なくするし、義務教育を危うくするだけである。

画一的な教育が義務教育を崩壊させる/黒崎 勲

 3 義務教育における地方自治の原則
・ アメリカ公教育の歴史的伝統ー「ローカルコントロールと公共的サポート(という)ふたつの特性は不可分に結びついていた。アメリカ人は遠くの政府を信用せず、学校のガバナンスを手元におき、そして透明なものとすることを望んだ。(略)地域の市民は教育委員会に代表を選び出すために投票し、その決定に参与し、彼らの子どもを教育する最良の方法が何であるかを熟考することが出来た」(タイヤック「共通の土台を求めて」2005年P145)
・ アメリカの教育委員会制度の理念(教育の中央集権化の危険を自覚し、教育に関して遠くの政府に信頼を置かないという教育におけるローカルコントロールの精神)を学んで構築されたわが国の教育行政の法制度もまた、そのような地方自治の原則に基づくものとなっている。
 戦後初期は教育委員を住民の直接選挙によって選出しており、首長とは異なる政治部門野本に教育の事業をおくことになる教育委員会の意義について、「地方行政の民主化が達成されるとともに、教育行政の一般行政よりの分離による教育の自主性の確保が意図されたのである。」
 全国学力テストに唯一不参加を決めた犬山市教育委員会は、競争と序列化に向かう全国学力テストは市内小中学校における積み重ねられている確かな教育実践に整合しないとして、不参加を決めたと説明している。  4 学校から始まり学校とともに進む改革 
・ 公立学校に要請されているものは、多様な背景をもち、異質な資質を有する生徒に、豊かな個性を伴う能力の発達を促しつつ、社会を形成する基本的な規範を内面に形成することである。それは生徒と教職員、生徒間および教職員間、学校と地域社会、そして学校を直接取り巻く世界とより広範囲な世界といった、幾重にも重なる人間諸関係のなかで、ここの場面で人格の機微にふれながら、継続的系統的に追求される営みである。
 公立義務教育学校の改革の出発点として必要なことは、生徒ひとりひとりが必要とする深く豊かな多様性のある教育機会を提供することによって、公立学校は現在より優れた成果を上げることができるという確信であり、そのような確信を抱いて努力を重ねる意志を持つ教育関係者の実践を奨励することである。…公立学校の改革は「学校から始め、学校とともに進む」しかない…この場合、学校に対して自ら改革に取り組むための刺激を与え、一つの学校の成功を他の学校の改革の動力としていくことが公立学校の設置者である市町村の教育委員会の役割と責任となる。市町村教育委員会の公立学校の統治と運営についての創意と責務とに最大限の活躍の範囲を与え、その質を高めるために必要な援助と協力をすることが都道府県教育委員会および文部科学省の役割と責任であろう。

教育のフィールドから地方自治制度を点検する/片山善博

 2 レイマンによって構成される教育委員会 
・ 実定法から読み取れる教育委員会の人物像はレイマン・コントロール(素人ないし一般市民による統制のこと)の概念から導き出される人物像ともよく符合する。
・ 教育行政に一般常識人を参画させることによって、その方針決定や執行管理が教育の専門家の独断専行に流れることのないように、社会の良識を広く教育行政に反映させる仕組みということになる。…委員の中に保護者を加えるとしていることは、レイマンとしての教育委員の具体的なイメージを実定法において呈示していることにはかならない。
 3 執行機関としての教育委員会 
・ 教育委員会は、地方自治法において自治体の「執行機関」として位置づけられている。…教育委員会は、一般行政において首長が担っているのと同じ性質の責務を、教育。行政の分野において担っている。…その教育委員会とは、決して事務局の職員集団を指しているのではなく、複数の委員で組織される合議体としての委員会を意味している…
 5 教育委員会の建て直し
 教育委員として望まれる資質として何が…教育委員は教育行政のプロでなくとも、教育行政の執行管理について説明責任を果たせる人…説明責任の重要性を自覚する見識とそれをきちんと実践することのできる力量とを備えた人が望ましい…いうなれば、素人であっても「筋金入りの素人」でなければならない。
 7 可能な教育委員会改革はただちに実践を
・ 説明責任の当事者にふさわしい処遇が必要と…
・ 教育委員長と教育長との関係をこの際、再整理を…
 こんご教育委員長を真の執行機関の代表として位置づけるのであれば、現在教育長がいわば無権代理的に具有している教育委員会の代表的機能を教育委員長の方に「大政奉還」し、教育長は執行機関である教育委員会の事務執行者に純化すべきだろう。

誰のための教育改革か-教育の管理的・市場的統制と格差社会の再生産-
                               /藤田英典
 

  1 改革がもたらす義務教育の危機
 日本の義務教育はいま重大な危機に直面している。日本の教育は世界的に見て総じて非常に優れているのに、合理性のない矛盾に満ちた改革が次々と進められ、重大な危機に直面している。
 2 小泉政権・安部政権が進めた危険な改革
① 国家主義的・復古主義的イデオロギーに基づく教育課程・教育実践の再編・統制ー教育基本法・教育三法により鮮明化・公然化。
② 市場原理主義・「強者の論理」による教育の再編ーエリート的な中高一貫校・構造改革特区校の増設や学校選択制の拡大などによって義務教育段階から学校を序列化・格差化し、恵まれた家庭の子ども・できる子どもを優先する教育へと教育システムを再編。…「格差社会」再生産…義務教育国庫負担金の削減による教育財政の地域格差拡大も…
③ 成果主義・査察主義による学校教育・教職員の評価・管理・統制の強化ー全国学力テスト、教員免許更新制、学校の第三者評価など。
 4 学校選択制がつくりだす教育格差と「格差社会」の再生産 
・ 選択制になれば、選択時点での実質的価値がどうであれ、人気校の市場価値は高まり、不人気校の価値は低下する。…そうした序列化・格差化のメカニズムを内包している点に学校選択制の特徴がある。しかも、共通基礎教育・上級学校への準備教育を基本としている小・中学校の教育では、教育内容面での多様化。差異化の可能性は限られているから、教育格差と社会格差の悪循環が起こる。
・ 我が子さえよければいいという構えと行動が広がりつつある。…我が子に豊な教育を受けさせたいという保護者の願いはもっともなものだが、その願いとエネルギーを、地元の学校の改善・充実に向けるのではなく、学校選択行動を通じて地元の学校(の良さやその充実可能性)を否定し、選んだ学校とそのネットワークのメンバーになっていく。…地元の学校とその地域に象徴される身近な公共性・公共的営みへの関与を低下させていく。…学校と地域社会との関係が寸断され、地域に根ざした・教職員と地域の人たちの協力・協働による「自分たちの学校づくり」が種々の困難を抱え込むことにもなる。
・ 学校選択制の下で、その選択権を積極的かつ有利に行使するのは、経済的に恵まれた階層、情報収集能力や進学・受験対応能力の高い階層、子どもたちの成績がよく教育熱心な家庭などに偏る傾向がある。
・ テスト成績を競い合う傾向が強まり、事前のテスト準備やテストでの不正が発覚して問題化。…学校が序列化・格差化されるだけでなく、義務教育の総合性の軽視や成績のよくない子どもへの教育的配慮を軽視し歪めることにも。
・ 「勝ち組」「負け組み」に選別、前者にプレシャー、後者に被差別感を蓄積。早期選別は「人材の浪費」と結果としての「エリートの質の低下」を。
 5 教育実践の歪みと質的低下を招く成果主義・査察主義
・ 学校評価の標準化、学校の第三者評価について
 評価の基準・枠組みの標準化が進むと、各学校やその地域の特色・創意工夫は必ずしも重視されず評価基準・枠組みに盛り込まれている側面が重視され、その結果が相互に比較されるようになる。特に共通学力テストのような一元的な量的尺度による評価が拡大すればするほど、その傾向は強まり…評価結果が一人歩きし、様々な弊害をもたらす。特に第三者評価は、評価の基準・枠組みが標準化・画一化されることに加えて、評価委員も当該学校と当事者でなくなるから、評価の官僚制化も含め種々の弊害の危険性が一層強まる。それに学校選択制が加われば、各学校の改善努力は管理的・市場的に統制されていくことになる。
・ そうした学校評価に加え、教職員の成果化主義的評価が広まり定着するならその弊害はさらに深刻化。
 6 これからの教育改革・教育改善努力の準則と指針
 学校教育(特に義務教育)の基本的な理念と特徴・要件
① すべての子どもに分け隔てなく豊かな教育に機会と場を提供することは、豊かな民主主義社会・市民社会に基本要件である(「教育の機会平等」という理念)。
② 学校教育は、それが普及拡大した社会では、子どもたちの学習・成長を支援する場であるだけでなく、社会的な選抜・配分装置としても機能する社会制度でもある。したがって、進学の機会と選抜の方法は公平かつ誰にでも開かれたものでなければならない。
③ 学校では、すべての子どもが誇りと夢・希望をもてるものであってこそ、豊かな学びの場になりうるものである。
④ 教育は未完のプロジェクトであり、教職員の誠実かつ適切な実践努力の持続と保護者・地域住民の信頼・支援・協力に支えられてこそ、成功する可能性が高まるものである。したがって、教職員が誇りと夢を持って教育実践に取り組むことができてこそ、教育の質の向上も成功の可能性も高まる。

 最後に
 義務教育は基本的な社会資本であり、国民すべてにとってのライフラインである。日本全国どこに住んでいても、その機会が十分かつ豊かに補償・提供されなければ、日本の社会に未来はない。日本の国土の約70%を占める山間僻地を含めて、全国どの地域に住んでいても豊かな義務教育を受けられるようにしていくこと、そのためにも経済面を含めて地域の活力を高めていくことは、日本社会共同の責務であり、為政者がなすべき最大の政策課題の一つである。

 この本から何を掴むのか
     -「地域、学校、子どもたち」をキーワードにして

・ 「教育の機会均等が奪われる」では、全県一学区化問題のデメリットは、地域から学校をなくし、統廃合することのデメリットと同じ。
 遠距離通学(時間的、経済的負担)、子どもの不安、子どもが地域の一員という意識が育ちにくく、地域で学ぶことに劣等感、地域の将来や人口に影響、地域文化の中心=学校ーの地盤沈下→地域崩壊へ、

・ 「学校の危機と再生」では、「21世紀の学校は地域共同体の教育と文化のセンターとして再構築されるべき。」としているところ。「学びの共同体」づくりの学校改革を広げ、その学校教育に保護者や市民(地域住民)が参加していくこと」が必要。

・ 「家庭教育、地域と学校の在り方」では、「21世紀の日本は地域創造の世紀。地域は、人生初期の保育・義務教育に加え、人生後期の四半世紀の受け皿となる。」「人生100年四世代共住、世代間交流の場は地域が担う。地域の中に家庭も、学校も、職場も、様々な形の家族(人口減でも世帯数増)、こうしたすべてを包括できる場=地域。」としているところ。
 「小・中学校は、もっとも普遍的で歴史のある地域共有の公共資源。その学校を地域のあらゆる世代の人が支え応援するのは当然のこと。」「人生の基礎である義務教育は、地域の中で地域の人々の支えと見守りの中に置かれるべき。」としているところ。
 21世紀の地域ーここ栗原市はどうなっていくのか?どうしていくのか?地域創造の世紀にする、将来をどう画くか?栗原市総合計画はたかだか10年。もっと先、21世紀のあと90~100年先とまでいかなくとも、数十年先までを見据えたグランドデザインが必要です。

・ 「教職員と学校を取り巻く状況」では、「学校は地域活性化の一翼も担う。教育格差が広がるいま、誰が最後まで子どもたちの教育に責任を持つのか、という認識を地域全体で共有し、学びの環境づくりに協力・協働できるかが求められる。」としているところ。
 最後まで子どもたちの教育に責任を持つのは、第一義的には、保護者であり、次は義務教育あるいは高校までは、ここではやはり地域ということになると思います。この「地域」の中身は、地域住民そして 地域力 とでもいうものになると思います。この中に学校の教職員も市の教育委員会も入ってきます。しかし、教育行政上の最高責任者=5人の教育委員が、その地域力のトップとして「子どもたちの教育に最後まで責任を持てるか」というとどうでしょう?現状では無理です。なのに学校統廃合の方向を出してくるのです。

・ 「画一的な教育が義務教育を崩壊させる」では、アメリカの公教育についての「…地域の市民は教育委員会に代表を選び出すために投票し、その決定に参与し、彼らの子どもを教育する最良の方法が何であるかを熟考することが出来た」のところ。前述したこととの関連するところです。日本では教育委員が公選でなくなってしまい、「その決定に参与」など程遠い状態です。しかし、市民の運動を進めるには、その理念を生かしていく、そうした意思を貫いていくことが大切です。これも前述のことと関連しますが、「誰が」という問いに対する答えは、小学校の統廃合問題であれば、小学校区を単位とする「コミュニティ推進協議会」(栗原市ではほとんど未だ出来上がっていません。)になると思います。そこが保護者、学校関係者の意向を尊重して決めていくしかありません。

・ 「教育のフィールドから地方自治制度を点検する」では、「執行機関としての教育委員会」の位置づけ、その委員は「筋金入りの素人」でなければならない。「可能な教育委員会改革はただちに実践を」としているところ。この間、市教委に出向いたり、説明を受けたり、定例会を傍聴したりして、本当にこうはなっていないと痛感しています。この学校統廃合の運動の中でも、できる改革は要求していくことが大切です。

・ 「誰のための改革か」では、「我が子さえよければいいという構えと行動が広がりつつある。…我が子に豊かな教育を受けさせたいという学校選択行動を通じて地元の学校を否定し、選んだ学校とそのネットワークのメンバーになっていく。…」というところ。栗原市においても、検討委員会の中間報告へのパブリックコメントと今回の再編計画(案)へのパブリックコメントの一部にこうした傾向が見られます。(両方とも大部分は、反対・撤回、見直しや不安の表明、慎重さを求めるもの)現PTA、保護者の中にはこうした傾向もあることを見ておかなければなりません。
 「最後に」のところ。義務教育は基本的な社会資本。国民にとっての(地域住民にとっての)ライフライン。国土の70%を占める山間僻地を含めて日本のどこに住んでいようとも義務教育の機会が十分かつ豊かに補償・提供されなければ、日本という国に未来はありません。


 以上が、「本の内容の紹介」と「この本から何を掴むのか」です。
 ここまで様々な方の考えを長々と記述し、まとめてみました。それに私自身の感想・考えを添えてみて、
私がこの先、何を生かし、何をポイントにして人に話していく、訴えていくかが見えてきました。

PageTop

体で読む本-①

<BOOKS> ⑤
 「泳ぐことの科学」を体で読む-体で読む本-①

 「泳ぐことの科学」 吉村 豊(吉村 豊氏の紹介)・小菅達男(共著)
                                   NHKブックス 2008.1.30第1版

 「本を頭で読む、心で読む」ということに付け加え、自分で勝手に「体で読む」というのもアリとした手前、ちょうど昨日読み終わったばかりの本、「泳ぐことの科学」を紹介します。この本はつい最近、新聞広告で見つけすぐ、アマゾンで注文。それでも例のごとくツンドクになりかけていた矢先、「体で読む」などと言ってしまったために結構早く日の目を見ることになりました。

 本の内容の紹介

 この本は、まず水泳というものを根本から 「泳ぐとはどういうことか」(第1章) と考え直し、さらに科学的知見を用いて泳ぎのメカニズムについて 「各泳法を分析する」(第2章) として解析しています。そしてさらに、泳ぎを動作ごとに分節化して練習し、各動作を再構築して泳ぎを創り直し、そのことによって理想的な泳法に近づけるように修正しようという 「ビルド」(BLD) という新しいトレーニング方法について解説しています。「ビルドとは何か」(第3章)

 この「分節化」を何故するかについて次のように言っています。-「私たちが一般にクロールや平泳ぎと思っている泳ぎには、実はいろいろな泳ぎがあり、その個人に適した泳ぎを取り入れることが一番大切だからです。短・中・長距離の違いによって、また個人の筋肉の付き方や太さ、体組成および関節の柔軟性などによっても泳ぎ方は異なってきます。」

 さらにビルドでは、「水感や体感などの水中における泳者の感性を磨くと同時に、繰り返し行う練習によって脳や神経系を刺激し、自在に最適な泳ぎを創ることができる。」としています。この脳や神経系に働きかけることの効用について、「…何度も何度も同じ動作を反復していくうちに、脳がその動きを覚えはじめて、最終的には意識せずともオートマチックに動けるようになる」(市川繁之氏の PNF理論 から著書「脳を鍛える筋トレ」より) としています。このようにビルドは、考えている動作(脳動作)と、実際に行う動作(実動作)を近づけていくことができる練習方法だということです。この後、「ビルドを体感する」とし、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライの4泳法についてそれぞれのビルドについて図入りで解説しています。

 第4章「世界水泳の舞台裏」では、世界水泳などの第一線で活躍する水泳選手を支える舞台裏について、第1節では、チームで勝利をつかむ は泳ぎの進化を支えるコーチングや組織力、選手を支える環境作りについて。第2節では著者が関わった科学的なトレーニングについて説明しています。特に「科学的トレーニング」の節は、主に選手育成について水泳界の発展のためには、組織的かつ科学的な取り組みが欠かせないことがよく分かります。さらにこれが、一般化され拡がれば、私たち一般の水泳愛好者にも水泳教室等で教わったり、自分で参考にしたりして取り入れることができると思います。

 最後の第5章「中高年のための水泳教室」は、まさに私などにはピッタリのところ。第1節、「中高年の身体変化と運動」では、中高年に必要な運動として、有酸素運動、筋力運動、バランス、ストレッチの四種類のタイプが大切としています。持久力を高め、健康増進に適した有酸素運動として水泳をする場合は、「自分のレベルに合わせたスピードでゆっくり泳ぐことがとても大切」「理にかなった泳ぎ方とは、決して頑張って早く泳ぐことではなく、基本を身につけスムーズに、効率よく泳ぐことができる状態で」としています。また「水泳を30分以上、長く楽しくゆっくり行うことによって心身の健康にもよいヒーリング・スポーツになっていく可能性がある」としています。この後、第2節で「水泳プログラムをやってみよう」と具体的な練習メニューと効果が紹介されています。

 私はこの本をどのように体で読んだか

 私は、健康増進のため水泳を栗駒のプールを使い始めてから10年近くになります。初めは”カナヅチ”といってもいい位の程度。当時は仕事が忙しい時期には行けなくて上達も遅く、クロール一つとっても息継ぎがきちんとできてまともに泳げるようになるのに4~5年もかかっています。その後、通年なんとか通って他の泳法にも取り組み、クロールでは1500m、他も25mはこなせる程度にはなっています。ここまで上達したのは栗駒のプールでの水泳教室のおかげと思っています。

 ここで最初から私が指導を受けているのが、 菅原流水健康塾 の菅原敏幸氏です。先生のトレーニングの指導方法は「ビルド」という名称は言っていませんが実際には同じようなことのように思われます。(まだ確認してませんが)動作ごとの「分節化」は常にしていることで、これを何度もドリルとしてこなし、そして組み合わせ、最後に完成した泳ぎにする。つまり、ビルドしているわけです。この本に出てくる各泳法の「ビルド」も同一ではないもののかなり近いことを指導されてきました。この本でも「泳ぎ自体を客観視することが重要」とし、水中映像を使っての分析を紹介していますが、水泳教室でもそれは何度か行いました。

 この本を、この水泳教室での先生方の指導を思い出し、自分で少し手や足を動かして、頭の中でイメージを作りながら、確認しながら読んでいきました。水泳教室は時にはホワイトボードを使っての文字を書いての説明もありますが、プール内で自ら見本を示す他は、当たり前ですが殆んど全て言葉掛けによる指導です。ですからこうした指導とピッタリ合う、この本のような文章は大歓迎です。

 ですから、私の場合、少し説明不足だったと思いますが、「体で読む」とは、「体の身体感覚を動員して頭(と心)で読む」ということです。簡単に言えば「頭で」とは、「知識として、HOW TOとして」ということで、「心で」とは、「生き方、あり方、などに係わるように」読むということではないかと思います。それでは、一般によく出回っている水泳に関するHOW TO本と、この本はどこが違うか、ということについて述べます。一般のHOW TO本は、「頭で読む」+「体で読む」。(「心で読む」はあってもほんの僅か)その「体で読む」も「体の身体感覚を動員して頭で読む」のであって、(心)はありません。 それでは、この本はどうなのか?実は「体の身体感覚を動員して心で読んだ」と明確化できるところは、はっきりしないのです。「ビルドを体感する」となっているところの殆んどは「心で」ではなく「頭で」読んでいます。(「心も関係する」位か?)しかし、その他の本全体に「心で読む」ところがいくつもあるため、やはり一般のHOW TO本とは大分違うということになるのです。

  私が「心で読む」を一番感じたのは、P138~「プロのコーチとは何か」のところ。著者の吉村氏がアメリカのコーチでも科学者でもある恩師マグリスコ氏との出会いから科学的トレーニングの必要性を強く感じる件です。吉村氏がマグリスコ氏から学んだこと-「研究や文献から得た新しい情報を選手に活用するために積極的に取り入れていく姿勢、コーチが選手に接する姿勢、しっかりした説明と具体的な目標を提示して、やる気を出させるために科学を大いに利用する姿勢など」。この本は一般向けに書かれたものですが、この本全体に吉村氏のマグリスコ氏と同じ姿勢が感じられるのです。また吉村氏は水泳の歴史を紹介し、それが今の形にどのように繋がったのか、そして、泳法は(トレーニング方法も)現在も進化し続けているという。「あとがき」でも「これからのコーチングは、従来のプールサイドから水に入らないで、一方的な指導をしたり、優秀な選手の一本釣りなどの「不自由な時代」から、選手とコーチが双方向に頭で考えながらお互いに納得し合って成長していく「自由な時代」へと生まれ変わろうとしています。」としています。
 こうした姿勢で書かれた本書は、水泳を科学的に分析した最先端の成果を、一般の水泳愛好家である私などにも本当に分かりやすく紹介しています。そして、私は、本書を「体で読む」と同時に「頭で読む」ことも「心で読む」こともできました。

PageTop

市教育委員会へ請願を提出。

 市教育委員会へ請願を提出しました。  2月12日 

 2月12日、栗原文化会館内にある市教育委員会に出向きました。ロビーでシンポ実行委員会の代表ー鈴木健三氏と少し打ち合わせをした後、AM9時半すぎに教育委員会に。少し待たされた後、教育長室で佐藤公平教育長に直接、請願を手渡しました。鈴木氏は「栗原の教育を考える会」の団体請願、私は個人請願(下に載せているもの)を提出しました。
 趣旨を説明する前、雑談でしたが教育長と話すいい機会でした。教育長が「二日前の栗駒のプールで行われた第6回くりこま高原水泳競技大会に出席し200余名の参加があった。」と話が始まったもので、私の予てからの主張ー「栗駒のプールは栗原市プールに位置づけを格上げすべき」をこれも私のフィールドの図書館(合併で築館町立図書館が栗原市立図書館に)を引き合いに出しながら説明させてもらいました。図書館についても教育長の方からネットワーク化やネット検索、栗駒地区構想が出ましたので、私の方からは今年の7月に図書館が10周年を迎えるのについて協力するので是非何か企画をと話しました。
 肝心の趣旨説明ですが、鈴木氏の請願理由の説明に続き、私も同様にしました。特に私が強調したのは、教育長が私たちと「考え、思いにそれほどの違いがあるわけではない」としながらも「計画の根幹(理念、基準)は変えない」としていること。この検討にも踏み込みそうな地域学校再編検討委員会(仮称)の設置の可能性(考慮と表現している。)を各地域の話し合いの結果として後に考えていることは時間のロス。最初から計画自体も(案)のままか、第2次案とでもして、常にオープンな議論の空間(栗原市教育改革検討委員会(仮称))と各地域での話し合いを同時進行で一年くらいかけてしてはどうかと。その方がかえってスムーズに事が運ぶのではと話しました。
 提出した後、またロビーで鈴木氏と打ち合わせをしました。2月29日午後5時から(議会があるためこの時間に)の市教育委員会が大変重要になってきていること。各方面にこれから働きかけを強めないといけないこと。(私は余り繋がりがありません。)2月14日の第9回シンポ実行委員会でさらに具体的にすることなどを話しました。

 
                                 

                                           2008年2月12日
栗原市教育委員会
 委員長 久我竹五郎 様

     「栗原市立学校再編計画」の慎重な審議を求める請願」
請願者
  住所  
  氏名    


<請願事項>

1 市教育委員会は、統廃合の対象となっている幼稚園、小・中学校の地域の声を充分 聞いてから、「栗原市学校再編計画」を決定すること。 
2 2月28日の市教育委員会では、「栗原市学校再編計画」を拙速に決定しないこと。
3 市教育委員会は、「栗原市学校再編計画」のその根幹となる基本的な理念、基準について、常にオープンな議論の空間を設置し、もう少し時間をかけて市民の合意形成に努めること。

<請願理由>

1 1月29日に開かれた市教育委員会定例会で佐藤光平教育長は、「パブリックコメントに41人、100件を超える意見、市民説明会は10会場でのべ234人の参加がありました。今後はパブリックコメントの意見、説明会で出された質問、意見を真摯に受け止め、再編計画(案)に再検討・修正を加え、(案)を取ったものを3月には出し、地域の皆様の合意がとれるよう努力しいきます。」と報告しています。私も築館地区の説明会に参加しましたが、参加者が少ないこと、再編計画(案)が参加者に理解されたとは到底言えないこと、は明らかです。他会場の様子を聞いても同様で、まだまだ、多くの市民にこの再編計画(案)の趣旨は伝わっていません。

2 私が提出したパブリックコメントの最後の4で紹介した-12月広報を見ての私のまわりの市民の反応-「もうこれで何をしても学校統廃合はされてしまうんだ。」「学校統廃合は既に決まってしまったんだ。」は「あきらめと誤解」です。同様に1月16日に開催された「学校再編計画(案)を考える会」でも市教育委員会の担当者は「市内各地の説明会で、多くの市民から市が計画をゴリ押しするのではないかと言われた。」と誤解があると言っていました。多くの市民にある「あきらめと誤解」は、これも私がパブリックコメントの最初に問題にしていること-「これまでの市の行政運営、行政手続は極めて公平性、透明性、信用性に欠けていた。」の結果です。このような市民意識の状態の中では、たとえ「再編計画(案)の(案)を取ったものは市教育委員会の考えを示すもの」にすぎないとしても多くの市民には通じません。こうした中で今、再編計画を決定することは現状の市民意識を固定化してしまいます。これからの教育改革を進めるには、市民との協働が不可欠です。今以上に市教育委員会が市民に信頼されるようにすることが先決だと思います。

3 説明会からわずか2ヶ月で多くの市民の持っている、疑問、質問、不安等に応えずに市教育委員会で「栗原市学校再編計画」を決定することは、あまりにも拙速です。再編計画(案)や学校統廃合に対し、単純に反対、賛成ということではなく市民の間には様々な意見の違いがあります。市教育委員会は市民の意見の相違をそのまま固定的に見ているのではなく、各地域、各方面で積極的な議論が巻き起こるように働きかける必要があります。市民の様々な声を充分聞いてから再編計画を決定するように求めます。

4 2月6日の市議会文教民生常任委員会で市教育委員会教育部長は「今、決定しようとしている再編計画は「市教育委員会の考え方を示すもの」であり計画即実施ではない、これからは各地域で個別に話し合いを進め合意すればよい。」と言っています。しかし、「栗原市学校再編計画(案)」の最大の問題は、その根幹となる基本的な理念と基準の是非にあります。これに対してパブリックコメントの多くの意見が異議を表明しています。個別に進めればよいとうことでは決してありません。全体が問われています。栗原市の将来、未来がかかっているのも。もう少し時間をかけての市民の合意形成がどうしても必要です。


PageTop

ウェブ進化論、ウェブ時代をゆく

<BOOKS> ④
  「ウェブ進化論」と「ウェブ時代をゆく」を読んで

 「ウェブ進化論」   2006年2月第1版 
 「ウェブ時代をゆく」 2007年11月第1版 ともに梅田望夫著(ちくま新書)

梅田望夫 氏(著者)の紹介
 1960年生まれ。94年よりシリコンバレー在住。97年コンサルティング会社創業。2000年ベンチャーキャピタル設立。05年(株)はてな取締役。経営コンサルタント。
 詳しくは、梅田望夫Wikipedia、 梅田望夫ブログ を参照のこと。

 「本との出会い」の大切さ

 「ウェブ進化論」を本屋で立ち読みしていて気になって(当時ベストセラーとして続いていていたか?)買ったのは1年以上前。その後、その他の本と同じツンドク(積読)に。それが第2弾の「ウェブ時代をゆく」は、昨年末出て、このブログを始めたこともあって今年1月には購入。さて読もうかなと思ったけれど、ここはやはり、第1弾からに。1冊目、2冊目と読み進めるうちに、今この時期にこの2冊の本を読むということがいかに私自身にとってタイムリーなものか実感しました。「本との出合い」の大切さ、その「本を何時読むか」の重要性を感じました。そう、私にとっては「ウェブ進化論」は1年前でなく、「ウェブ時代をゆく」と一緒に今、ちょうど読むべきタイミングだったのです。

 本をどのように読むのか

 本の紹介や批評・感想に入る前にまたまた寄り道ですが少しお付き合い願います。実は著者が昨年11月14日に丸の内にある丸善で リアルの世界に生きる人は、ウェブ時代をどういきたらいいのか という講演会を行っているのですが、その中で、 「本を頭で読むのか、心で読むか」 ということをいっています。梅田氏は「ウェブ進化論」は頭で読む人でもOK,しかし、「ウェブ時代をゆく」は心で読む人に届くものがあると…「ウェブ進化論」では「ウェブってこうなっている」と頭で読む人に。心はネット時代を切り開いている最先端の若い人に。「ウェブ時代をゆく」はネットベンチャーでもITエンジニアでもない、残りの人たち全部に向けたもの。全ての老若男女がウェブ時代にどう生きるかを、生きていくエネルギーや答えを得るために心でこの本を読んで欲しいとしています。

 さて私は「ウェブ進化論」は少し、頭で、少し、心で読ましてもらいました。「ウェブ時代をゆく」は確かに私なども対象にしているようなのでほとんどは心では読みましたが、頭で読んだ部分もあります。つまり、全てを二分法で振り分けるには無理があると思います。私などはこれらに加え、 「体で読む」 とでもいうものを加えたいぐらいです。趣味としている水泳とか、必要性からしている健康法やトレーニングなどに関する本は、読んで体を動かしているので文字どおり「体で読む」ようなことになります。そして、そうした本の中からでも生き方に関わることが出てきます。つまり、心で読む部分もあるのです。

 「ウェブ進化論」の内容について

 2年前に書かれたこの本のサブタイトルは「本当の大変化はこれから始まる」というもの。それから2年が経った現在、著者が「長い時間をかけて緩やかに起こる。」といっていた「大変化」は、私にはこの短い間にも急速に進んでいると思われます。それは、著者がこの本の中で紹介しているウェブに関するテクノロジーについて ブログロングテールオープンソースウェブ2.0などの現象の解説の適切さ、、その他この本で行われた様々な概念のまとめの一般への浸透にも現れています。

 著者は、ウェブ世界での潮流として、仮想空間上でコストゼロで通信できる「インターネット」、技術革新によるIT関連コストの劇的な低下=「チープ革命」、一つの仕事を複数の人が無償で行う「オープンソース」の3つを挙げています。これらの3大潮流の結果、「神の視座(全体を俯瞰する視点)からの世界理解」、「ネットに作った分身(ウェブサイト)による新しい経済圏」、「無価値と思われていたものも塵も積もれば高付加価値に」のネット世界の3大法則に基づき発展し始めているとしています。

 そしてこうした流れを最大限体現しているのがグーグルだとしています。グーグルは「世界中の知を再編成する」という壮大な構想を実現するために情報やそれを処理するシステムをインターネットの「あちら側」に構築したこと「アドセンス」事業を構想・実装し「富の再配分システムまで構築しようとしていることを採り上げています。こうしたことをするためグーグルは技術をひたすら信奉し、「人間の介在」なしに自動的に事を成して行き、そのことによって「世界はより良い場所になる」と信じているとしています。

 ブログ人口は2005年にアメリカで2000万人、日本で500万人,2006年3月で868万人なので現在は1000万人位?急速に増加しています。このように社会現象化したのは一つは「量が質に転化した」からと二つ目にITの成熟-グーグルによって達成された検索エンジンの進歩とブログの周辺で生まれた自動編集技術-があるといいます。文章、写真、語り、音楽、絵画、映像…と表現の範囲の可能性が広がって「総表現社会」が訪れていると。(私は、まだ初めの方だけ、娘は既に最後まで)ブログは、個人にとって信用創造装置・舞台装置となり、また「知的生産の道具」となるといいます。(このあたりは今、私も大変感じているところ)

 オープンソース現象はそれがソフトウェアー世界を超え、世の中全体に応用できる考え方ではないかとし、リアル世界での具体例として ブッククロッシング を挙げています。「街中を図書館に」、「世界が一つの大きな図書館に」という発想は、私には興味を引くものですが、リアル世界ならではの物理的制約があるためその発展のスピードは遅いと。一方、ネット空間は全く違うといいます。「コストゼロの空間」であるため「誰でも参加できる百科事典」 ウィキペディア は「そこそこ」の信頼で「完壁」ではないが、急速な発展、日々、進化を続けているといいます。

 私たち一人ひとりの力は知れています。しかし、これがマスコラボレーションとなった時、大きな力を発揮します。それを著者は「不特定多数の参加するネット社会では、ネット全体が賢くなる。」と考えています。(http://www.asahi.com/digital/column/column03_2.html)彼は、スロウィッキーの「「みんなの意見」は案外正しい」という本からの仮説「「個」が十分に分散していて、しかも多様性と独立性が担保されているとき、そんな無数の「個」の意見を集約するシステムがうまくできれば集団としての価値判断のほうが正しくなる可能性がある。」をネット空間が正にそれにあてはまるとしています。不特定多数無限大の良質な部分にテクノロジーを組み合わせることで、今のネット世界の混沌を良い方向にかえていけるはずとしています。彼は自分でも楽天主義としていますが前向き、行動的です。

 最後に「あとがき」で著者は「ウェブ進化」の語り口に、「楽天主義」「共通言語」を挙げています。共通言語のほうですが、はじめの方の「本をどのように読むのか」のところで触れたように「心で」が若い人に、それに対し「頭で」はどうも私のような者を対象にしていてのことらしい。二つの別世界があるのでそれを架橋するその共通言語としての本書を書いたといったところか?本書が出版されて2年。私に関してはようやく著者の意図が実現したのではと思いました。

 「ウェブ時代をゆく」の内容について

  ウェブに関するテクノロジーを解説した「ウェブ進化論」に続く第2弾のこの「ウェブ時代をゆく」は、主に若い人たちに向けたウェブ時代の生き方、働き方を書いています。大変化の始まっている現在を、著者は、「21世紀の最初の何十年かをかけてネット空間は「知と情報」に関しては「リアルな地球」と同じくらい大きな「もうひとつの地球」とも言うべき存在へと発展する。」としています。既に不可避となったウェブ進化の中でこのネット空間は様々な矛盾、難題を抱え混沌としている。そしてその解決には楽天主義を貫き、「好きを貫き」、この大変化の現在を「混沌として面白い時代」としてとらえる心構えをするよう呼びかけています。

 次に再びグーグルについて採り上げています。グーグルは「パブリックでオープンでフリーな」インターネットの世界(もうひとつの地球)の中心を、インターネットの意志を実現する(「こちら側」のパソコンに情報やアプリケーションを持たずとも「あちら側」から提供されるようになるのが「コンピューター・サイエンスの進化のあるべき姿」でありそう進化させること)という信念を持って担っているとしています。しかし同時に営利企業でもあるグーグルは「検索連動広告」という奇跡的な組み合わせでその矛盾を解決していると。そしてこの「もうひとつの地球」と言うほどの「知と情報」の広大な空間構築は、これからも広告収入だけで賄われるとしています。ウェブ2.0(ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなき能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢)において重要なことは、そのサービスが無償あるいはそれに限りなく近い形で提供されることだとしています。

 そしてウェブ進化は、経済や産業に及ぼすインパクト以上に私たち一人ひとりの生き方に大きな影響を及ぼすとしています。本書では「「知と情報のゲーム」がこれから本格的に始まる。」と。「豊かな時代の究極の楽しみは「クリエイトすること」、それがWeb2.0」(海部美和)というような引用もして「もうひとつの地球」が「人生のインフラ」になる時代に入ってきているとしています。そしてこれからの時代に、与えられる利便性や自由の代償として「新しい強さ」を身にきつけることが必要としています。その強さについて「新しいリーダーシップ」について、この時代の生き方と働き方について「「高速道路」と「けものみち」」を書いて「けももみち」を歩むヒントに「ロールモデル思考法」を書いています。自分の総合力が生かせて何でもアリという「けものみち」については、そこで必要な「けものみち力」=「人間の総合力」の内容が何と21項目も挙げられています。私に言わせればこれも現在整理中のPISA型学力に近いものであると思われます。

 「手ぶらの知的生活」で、これからの知的生活には資産より時間が重要になってくるとしています。ネット上にアレキサンドリアの理想どおりの万能図書館が誰にでも無償で開かれる時代になるとしています。グーグルはすべての本をコピーして巨大な書籍検索エンジンを作ろうと、マイクロソフトも大英図書館等と組んで大規模に始めています。(アジアではまだ慶応大学が応じただけ)英語圏では10年後(遅くとも20年後)には「人類の過去の叡智」に誰もが自由にアクセルできる最高の環境ができあがるとしています。(日本語圏は遅ている。)このことに加え、「ネットは知恵を預けると利子をつけて返す銀行」ということは、 トラックバック のことをいっているわけですが、著者はさらに「脳を預けたらそれが膨らんで戻ってくる」と表現し、「脳をネットに預け、他者の脳と接近したことによって得られた知的興奮の連鎖=新しい「ダイナミックな知の創造のプロセス」を実感した。」としています。
 また著者は別のところ、中央公論(2008.1)で「脳の限界を取り払うもの、能力の増幅器と考えてウェブを使いこなす」ともいっています。このことは私が5年前に「本のある広場」第4号で発表した 人類の進化と脳・図書館・コンピューター の中でいったことに通じるものがあります。(その2年後に書いた第7号で「栗原市における図書館システムの現状と課題ー図書館=脳の視点から考えるー」は現在うまくウェブ上に出ません。)インターネットと図書館、そして人間の脳。これから、これらがどの様な関連性を持って進化していくのか、私たちは、これらをどう使いこなしていくのか、このことを今後も注視していきたいと思います。

 この後、前作と同じにオープンソース勃興が組織の仕事に及ぼす影響を「大組織 vs.小組織」で展開しています。この中で「情報共有の持つ深い意味、情報共有できる基盤としての信頼の意味を、もっと真剣に考えるべき時期に来ている。」として、オープンソース勃興が組織につきつける本質的問いを=「不特定多数無限大を信頼し情報共有できるものなら、そもそも一定の信頼が存在する「組織を構成する特定の人々」を対象に同じような考え方が導入できるのではないか。」としています。そして、グーグルを「情報の流通によって個の自由を徹底的に追求する」という思想をもとにした「組織と個の新しい関係」を模索している。としています。ここから著者は若い人たちに向けて会社、職業、働き方、などについてのアドバイスが続いていきます。しかし、私はこれとは別のことを考えます。これまでの私のブログの中で、BOOKS「考えないヒト」と「ヒトデはクモよりなぜ強い」の最後で、「個人と組織について」を課題として残したように、私にとってこの問題は、ボランティア、NPO、市民運動等から始まって、地域、自治体、国、世界と広がるものです。

 さて著者は、この本のまとめ?特に若い人たちに言いたかったことは「これからの時代にウェブ・リテラシーを持ち、サバイバルの意思を持って、リアルとネットを創造的に行き来しながら努力すれば、きっと道は開ける。ウェブは、「志」を持つ人にとって大いなる味方たる存在なのだ。」(P239)ということだと思いました。しかし、ここでも私、(あまり対象とされていないことを僻んでいる訳ではないのですが…)は、この「ウェブ・リテラシー」なるものに引っかかるのです。本書ではこれを次の4点にまとめています。
 ①ネット世界の仕組み、原理をよく理解している。②ウェブ上での表現ができるサイト構築能力がある。③「バーチャル経済圏」の仕組みを理解しウェブ上で新しい技術でサイト実験ができる。④ウェブ上の新しい技術を独学できるレベルまでITやウェブの理解とプログラミング能力を持つ。(ただ、ウェブ・リテラシーの定義はまだ定まっていないらしいです。)
 私などはせいぜい①と②が少しだけの程度です。これからも少しは勉強していくつもりですが正直言ってかなり厳しいです。
 今、私の手元に読みかけの本 「ITがつくる全員参加社会」 (NTT出版2007.12.27発行)があります。その中に 平成18年通信利用動向調査があり、世代別のインターネット利用状況が出ています。40歳代で90%超、50歳代で75%、60~64歳で60%、65~69歳で48%、70歳代で32%、80歳代で16%となっています。そして「50歳代の利用率はほぼ一定で、60歳代前半も4ポイント弱の改善に過ぎないから、このままのペースでは、5年先でも利用率は75%程度が精一杯で、高齢者の1/4はパソコンとは接触しないまま生活を送っているだろうと、推測できる。」とし、この本では、高齢者に対しての 情報アクセシビリティ(情報格差も参照のこと)の改善を提起しています。
 しかし、私は現実にはもっと情報格差があるのではないかと思っています。この本では男女差には少し触れていますが、地域差、職業差についてはほとんど触れていません。私の住む東北の農村では各世代ともこの数値よりさらに20ポイント減が私の実感です。(80歳代ではマイナス?ーほぼゼロです。)またパソコンに接触しても、受身のままで自ら情報の発信ができなければ、ウェブ時代では殆んど意味を成しません。こうした現状を踏まえて何ができるか、私自身に何が求められるかを考えてみたいと思いました。このことはもうこの方30年近く図書館づくり運動をしてきたことと共通性があると思われてきました。

最後に…二冊の本を読んで、私はどうするのか?

 この二冊の本を私は、それぞれ少しずつ違いますが「頭と心」で読みました。読んでみてこのウェブ時代を生きる答えを出せるまでにはまだなっていません。しかし、そのためのヒントぐらいは得られたのではと思っています。それで具体的にはどうするか、まずは、情報のインプットについて。ブログを始める前からグーグルなどは活用していましたが、始めてからはそれに拍車がかかりました。しかし、まだまだ不十分。グーグルを使い倒すくらいに効率よく、かつ広範囲に進めていく必要性を感じました。他のブログからの吸収も同様です。それからアウトプットについて。数年前のホームページに続き今度のブログとFC2ブログをネット活用で12月末からバタバタと始めたのはいいけれど試行錯誤の連続です。詳しい娘はもう既に四国に帰ってしまい、これからきちんと自分で勉強し直すしかありません。多分、実名にする、トラックバック等を入れ双方向にするなどの変更をして、近日中に「改装開店」の運びとなると思います。(乞う、ご期待!)その他、本に書かれていた「手ぶらの知的生活」にどれだけ近づけるか、これはだいぶ時間がかかるように思いますができるところから試してみようと思います。

PageTop

「市議会文教民生常任委員会」傍聴

「市議会文教民生常任委員会」を傍聴して-2月6日

  2日前の夜、シンポ実行委員会の代表から傍聴を呼びかけるFAXがありました。当然そこで市教委からパブリックコメントへの市教委の見解と2月末の市教委での計画決定に向けた作業状況が分かるかと思い午前中だけ傍聴しようと出かけました。文教民生常任委員会は市議会4F会議室で午前10時から開かれました。議員は11人中10人の出席、市教委からは佐藤教育部長他4人、傍聴は、代表と私と他1人でした。

 初めに教育部長より再編計画への取り組みの概要が説明され、次に担当者より配布資料に基づき市民説明会の様子、パブリックコメントでの意見の特徴のまとめ、今後の進め方が話されました。その後、各議員が質問、市教委が答弁と言う形で繰り返され、とうとう途中昼休みを挟み、午後2時半頃まで続きました。(私も結局、午後の予定を取りやめて、最後まで付き合いました。)

 会議の前後などに何人もの議員さんが傍聴席に声をかけに来ました。(私のよく知っている方は2人だけ、代表はもう少し多いのですが…)お昼に事情通のもう一人の傍聴者の方より「今日はほとんどの議員が発言するよ。」と言われ、私は「本当かな?」と思ったのですが本当でした。終わってみれば殆んどの議員さんが発言していました。議会(本会議)はたまにしか傍聴しないし、まして委員会の傍聴はあまり記憶がありません。(千葉にいた時期にあったかも?)内容はともかく各議員さんは一生懸命発言されていました。他の委員会の様子は分かりませんが、市民が傍聴することは議員さんの刺激になって少しは議会が活性化することに繋がるのではないかと思いました。

 ただし、まだまだその中味が問題です。最後まで「計画を2月末に拙速に決定すべきではない」と明確に今回の計画決定に反対を主張された議員さんは1人だけ。他の方々は初めは「拙速に決定すべきでない」と言っていても教育部長の「計画は市教委の考え方を示すもので計画決定が即実施ではなく、話し合いを重ねていく中で合意をいただき実施していくもの。」という言い方に例えば、「分かりました。要するにタタキ台として出すということですね。」という発言がありましたが、結局個人的に納得してしまっていました。(微妙に違うのだけれどなあ!)

 12月の10ヶ所での市民説明会に234人の参加しかなかったことについて、教育部長は「確かに少ないなと…中間報告の時、周知徹底の仕方の問題があって今回は改善したのにその時よりさらに減ってしまった。残念だ。」といったけれどもその原因の分析が出来ていません。反対する議員さんの「計画の作成手順が既に押し付けになっていることが問題。事務局も必死に計画どおり進めようとする。どうも順序が逆。地域の人たちにとってどんな学校の形がいいか本来、先に議論されるべき。その積み重ねで全体を。」という的確な指摘に対し教育部長は同様の答弁をするのみでした。

 この議会の常任委員会で議員さんがいくら個人的に納得?しても一般の市民には通用しないことです。12月広報を見ての私のまわりの市民の反応-「もうこれで何をしても学校統廃合はされてしまうんだ。」「学校統廃合は既に決まってしまったんだ。」や、1月16日に開催された「学校再編計画(案)を考える会」での市教委担当者の発言「市内各地の説明会で、多くの市民から市が計画をゴリ押しするのではないかといわれ誤解がある。」ということからも、今、多くの市民には、あきらめと誤解があります。これらは、私がパブリックコメントの最初に問題にしていること-「これまでの市の行政運営、行政手続は極めて公平性、透明性、信用性に欠けていた。」の結果です。このような市民意識の状態の中では、たとえ「再編計画は市教育委員会の考えを示すもの」にすぎないとしても多くの市民には通用しません。市教委が市民に信頼されるようにすることが先決だと思います。

 今後の進め方についても、計画決定後、どうも市教委は説明・説得を賛同を取りやすいところから進めようとしているようです。まず、説明・説得は学校単位に保護者(+これからその学校に入る子どもの保護者)から始めるようです。そしてそこでの要望によってはその後、説明・説得の範囲を地域(誰を対象にするかも保護者等の意向次第?)に広げると思われます。ただし、最初から地域関係者の要望が強ければ範囲は広げた状態からスタートするとも思われます。対象となる子どもたちの意見を聞くことは、市教委も乗り気ですが慎重さが求められると思います。

 今回の委員会での市教委の答弁、配布資料から見て、市教委のパブリックコメントの扱い方についてですが、これまで以上に手間をかけて対応していることは分かります。(後日、Web上で公開される)しかし、これまでの市教委の基本的な理念、基準は変えることなく再編計画(案)に部分的な修正を加え、再編計画として出してくることが大筋として見えてきました。この議会の委員会の対応を見ていても、このままでは、市議会は、「大筋として市教委の計画決定は認める。計画即実施ではないのだから、後は、これは各地域で個別に話し合いを進め合意をとればよい。」となると思います。

 さて、果してこれでいいんでしょうか?各地域で、個別に地域の合意が、反対、時期尚早となったところは後回しにして。この日の教育部長の発言「拙速という意見があるが、待っていたら5~10年が空白の時間となるわけで、それで子どもたちの教育環境はいいんですか?」と。-これは居直り?脅し?それとも責任放棄?私には理解できません。地方自治は「住民が主人公」です。どんな内容であれ住民自身が選択すればそれに沿って行政は進めるべきです。勿論、その選択がより良くできるように行政は最後まで働きかけなくてはなりません。

 再編計画の問題は、部分的なこと、勿論、手続きを民主的にするなども重要ですが、その根幹となる基本的な理念、基準の是非が最も問われています。これは各地域で、個別に進めれば良いということでは決してありません。全体が問われているのです。栗原市の将来、未来、がかかっているのです。私は、パブリックコメントの最後で「栗原市の教育改革をどう進めるか」の根本も含め、もう少し時間をかけて市民の合意をめざす常にオープンな議論の空間(栗原市教育改革検討委員会(仮称))の設置を提案しました。

 これへの直接の回答ではないのですが市教委は「個別の地域での話し合いの結果として、「地域学校再編検討委員会(仮称)」を設置して検討することについても考慮して…」と言ってはいます。名称は気になりますが、結果として後からやむを得ずではなく、初めからこうしたものは設置すべきです。今回のパブリックコメントには様々な貴重な意見が寄せられています。これらの意見を読んでいてWeb上で、あるいはペーパー上でお互いに見るだけでなく、もっとリアルな空間で、行政を交えて、行政と向き合い、様々な考えを持つ市民が栗原市の教育全体のことも議論すべきだと思いました。このことと各地域での話し合いを、同時進行で相互作用させながら1年ぐらい時間を区切ってしまって密度の濃い議論をしてはどうでしょうか。



PageTop

「人間力」の育て方

<BOOKS> ③ 
「人間力」の育て方 (堀田 力著)を読んで
 
 今回取り上げるのは、「人間力」の育て方 (堀田 力著)集英社新書 です。この本は、2007年11月21日第1版、12月26日第3版となっていますからかなり新しいものです。この頃、私は、本はネットで(アマゾン、楽天、7-11)購入することが多くなっています。しかし、これは例外でくりこま高原駅の近くにできたスーパー内の書店で立ち読みしていて気になって買い求めました。「人間力」がということではなく、目次をパラパラとめくると、教育問題を扱っていること、このところ少し調べているフィンランドとかイギリスの教育にふれていること等が気になってです。ところで、この記事を書き始めた途中でまたもやTV。1月31日PM7時30分~のNHKのクローズアップ現代「ヨーロッパからの“新しい風”【4】」教育で国の未来を切り開けが私の目に飛び込んできました。今回も、本「人間力…」とTVクローズアップ現代の難しい組み合わせになります。
 
 堀田 力氏(著者)の紹介

 1934年生まれ。ロッキード事件担当の検事、退官後はさわやか法律事務所、さわやか福祉財団開設。犯罪と福祉の両極端の社会を見据える。
 詳しくは 堀田 力 Wikipedia 及び 堀田 力 ホームページ をご覧ください。 

   ~この本の内容より~ 

 時代が求める人間像は


 現代は「心の豊かさを求める時代」に入っており、そうした社会にするには「さまざまな分野でその特定の価値を実現したい人が、それぞれの知恵と能力とエネルギーを投入して、頑張って作り出していくしかない」と著者は言っています。そして新しい段階の日本が求めるのは「自分の頭で考え、自分で目標を実現できる行動力のある人」=「人間力のある人」だとしています。

 求められている人間力とは

 著者は「人間力は、自分を肯定してよりよく生きようとする自助の意欲、他者を尊重して助け合おうとする共助の意欲、自己をとりまくさまざまな事象(人、社会、自然など)を知覚するための知性と感性(情操)を含む、総合的な力」としています。そして、政府の教育再生会議はエリート教育にこだわり今の子どもたちの心を破壊し、日本の未来の力を奪っているとしています。これに対抗して著者らは教育再生民間会議を作っています。そこが出した 2007年6月22日の  提言から(求められる人材) は「人間力」の詳しい内容です。そして、「早く時代に合った教育、子どもたちに個性を認め、その主体性を育み、いきいきとし課題に取り組み考え、解決に挑む教育を」と求めています。

 「人間力」の育て方

 私たちもよく教育の目的として「生きる力」をあげます。それは今の子どもたちにそれが弱くなっていると感じるからであり、文部科学省もいっていることは知っていました。それが本書によれば最近、「人間力」ともいい出していたというのです。(人間力向上のための教育改革 人間力戦略ビジョン) 著者は「生きる力」というと、「自助」の意欲と能力だけで「共助」の意欲と能力が含まれないのではとし、それでは教育の目的として不十分だとしています。自助と共助の両方の意欲と能力を伸ばしてはじめて人間社会のなかでその人らしい生きる力を育てたといえるので「生きる力」に代えて「人間力」を育てることを教育の目的にしてはと提案しています。「教育基本法」第一条は、教育の最終目標として「教育は、人格の完成を目指し」といっていますが、著者はこれはいい換えれば「人間力をつける」ということだとしています。
 この後、本書では少子化と教育について、失われゆく兄弟、仲間との環境に代わるものを作り出すべきとし、地域の再生もからめ、取り組みの具体例が示されています。

 子どもを伸ばす教育

 この後、ケーススタディ1 注目を集めるフィンランド教育について 中嶋 博氏との対談。ケーススタディ2 試行錯誤を続けるイギリスの教育 野口 徹氏との対談 と続きますがそれほど目新しく思われることもないため、この記事の追記ーTVクローズアップ現代を取り上げる中で触れます。二つの対談の間に「教育再生の方向」という章があり、政府の「教育再生」が強引なこと、逆行していること、これに対して「ゆとり教育」、「総合学習」、「少人数教育」、知識教科の「習熟度別クラス編成」などを重視することを提起しています。

 子育ての基本の基本

 著者は、教育や子育てが成功するための基本の基本は、子どもの自尊感情ーその子どもの存在そのものを肯定することー「自己存在の肯定」だとしています。子育ては子どもを自立させるために行い、教育は子どもの人間力を育てるために行うー基本。そして、そのためにはこうしたことが基本の基本。ということでした。
 それによって、子どもは、自分が受け入れられているという「安心感」をもち、人間を「信頼」し、人との「交流」を喜び、人に褒められたことに「誇り」と「自信」をもつようになる。そして、人に認められ、喜ばれる「快感」を求め、さらに自分の「長所を伸ばす」努力をし、人に疎まれる「欠点を是正」しようとする。と著者は語ります。

 追記ークローズアップ現代「教育で国の未来を切り開け」の内容

 1月31日(木)放送
ヨーロッパからの“新しい風”【4】教育で国の未来を切り開け

 グローバル競争社会で通用する人材をどう育てるか。この課題に「教育」という戦略で立ち向かってきたのが、一足早く安定成長時代に突入したヨーロッパの国々だ。「2010年までにEUを世界で最もダイナミックで競争力のある"知識基盤経済"にする」という野心的なビジョンの元、各国が独自の教育改革を行ってきた。教育に競争原理を導入することで学力の向上を図り停滞する経済の立て直しを目指してきたイギリス。一方、北欧のフィンランドは情報通信などの新しい産業を担う人材を育成するため「考える力」を重視する教育を実践、OECD(経済協力開発機構)のPISA(学習到達度調査)で"学力世界一"と評されるようになった。次世代を担う子どもたちをどう育てるか、考えていく。
(NO.2530)

ゲスト : アンドレア・シュライヒャーさん
    (OECD教育局指標分析課長)

                             -NHKオンラインより転載ー

 放送では2006年のPISA調査の結果、日本の子どもたちに「考える力が身についていない」と指摘されていることを受け、EUの教育の最前線としてイギリスとフィンランドの取材の報告がされました。
 まずイギリスでは、20年前、イギリス病といわれ国が停滞している中、サッチャー首相が競争原理を導入する教育改革に乗り出し、全国学力テスト、学校選択制などを実施。それによって、社会に活力は戻り経済成長も上向しましたが、子どもたちの学力格差が拡大しました。ブレア首相になってこれを修正。底上げのため教育予算の2倍化、教師の大幅増員と基礎学力向上戦略を取り、学校、教師を手厚く支援しました。 ただ私が見ていても、まだまだイギリスの場合、問題は山積していると思いました。本の中で堀田氏がいっているように「イギリスの教育から学ぶべきは、子どもたちの可能性を見つめ、しっかりと大人たちが付き合っていくことの大切さ」だと思いました。
 一方フィンランドの方は、16年前、1991年のソ連の崩壊でそれまでソ連に経済的に大きく依存していたために深刻な不況に。失業率は20%を超えました。国家の危機を乗り切るために「教育は投資」「人という資本に投資するのが一番」と大胆な教育改革に着手しました。教育予算を大幅に増額する一方、権限(カリキュラム、教科書などの決定)を現場(子どもたち、校長、教師)に移しました。(それまでは今の日本と同じでした。)と同時に教師の質を大学院修了、半年間の教育実習などで高めました。教師は知識を教えるのではなく一人ひとりの子どもの能力、やる気を把握し、それにあった教育を、子どもたちが自ら発見し、考え、行動するのを手助けする。子どもたちに考える力を身につけさせるのは、将来、問題が起きた時、それを解決する能力を持っていることであり、国の未来を切り開くことだとしています。本の中で堀田氏は「フィンランドの評価は、競争・序列化とは無縁で、一人ひとりの子どもを励まし、伸ばすためのものであることを理解すべき」としていることにも私は同感です。
 最後にOECDの担当者は次のようにいっていました。
 「教育システムがうまく機能している国では、子どもにどのような能力を持たせるかというビジョン、政策が定まっています。そしてその教育改革の鍵は、三つ。 ①教師まかせにするのではなく、行政がきちんと現場を支援する体制が大切。 ②権限が、学校現場に移されていること。 ③子どもたちの進む方向、門戸が広く開かれていること。(子どもたち一人ひとりに対する支援体制が出来ていること。) この三つの要素が整うことが現在のグローバル競争時代には必要であり、それぞれの国において教育の役割はかつてなく重要になってきている。」と答えていました。

 さいごにー今後の課題

 文部科学省もいい出しているこの「人間力」が、「生きる力」に代わって定着するかどうかはまだ分かりません。この「人間力」でいっている内容が、私には、「PISA型学力観」に近いもの、両者に共通するものがあるように思われます。しかし、この「PISA型学力」についての理解が、現在、日本では少し混乱しているように思われます。調査の結果だけ、表面だけしか見ていない反応が多く見られます。フィンランドの教育事情についても同様です。私自身も、これらをもう少し整理することを今後の課題にしたいと思っています。まず今は、とりあえず「PISA」を正確に理解する手がかりとしてネット上で見つけた PISA型学力とはINT を紹介するにとどめます。
 この記事は本とTVの紹介が主で、私の感想等は僅かになってしまいました。それは、今後の課題としたことを後日改めて展開する中でもう少し充実させていきます。

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。