触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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Dear フランキー 

MOVIES-11月、続々とはならず、久しぶりのアップ。            
                                       2008.11.30

Dear フランキー    2008.11.26

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 製作年度2004年 102分のイギリス映画 
 関連するリンク先― ヤフー映画 Dear フランキー

あらすじー 主人公のシングルマザーのリジー(エミリー・モーティマー)は、物心つく前に、父親の暴力を受けて難聴になってしまった息子フランキー(ジャック・マケルホーン)を護るために、イギリス中を転々として逃避行のように生きています。「死んでるも同然よ」と同行してくれている母親に言われるような暮らし方です。フランキーが物心ついてからは、「お父さんはね、<アクラ号>という大きな船に乗っていて、世界中を航海しているの」と嘘をついてしまいます。そして、その嘘のためにリジ-は散々苦労することになります。フランキーは郵便局の私書箱宛にせっせと手紙を書き、リジ-が「架空の船乗りの父親」になり代わって返事を書きます。9歳のフランキーは部屋の壁に世界地図を貼り、<アクラ号>の航跡や停泊地を追いかけ、夢を膨らませます。

 ところが、ある日、フランキーの暮らす港町-グラスゴーに、本当の<アクラ号>が寄航することになり、フランキーは大喜びしますが、リジ-は大慌て。リジ-は「1日限りの父親役」を努めてくれるアルバイトを捜そうと奔走します。リジーは、男を漁る女に成り下がっても、自分の体を賭けても男=父親役を見つけようとします。ようやく、友人の協力でニセ者パパ(ジェラルド・バトラー)を確保し、フランキーに対面させることになります。流れ者のようなそのニセパパにフランキーは、直ぐに打ち解けていきます。今さらパパ(ニセ)に会うことを反対していた祖母は、宝物のように水切り石を眺めるフランキーを見て嬉しそうに「良かったわね。キレイな石ね。」と言ってくれます。

 しかし、リジーは、彼が、もしフランキーを傷つける男だったらと考え、どうしても心を開けなません。しかし、彼の人柄がわかるにつれ、お互いに惹かれていきます。予定の1日が2日間になりますが、やがて別れが訪れます。その後、実の暴行父は、危篤状態になっており、息子との面会を求めますが、リジーは危険を感じ、拒否します。やがて、その実父は死亡し、リジーは、フランキーに「お父さんは、病気で死んだの」と告げます。しかし、それでもフランキーは、相変わらず、手紙を書き、出します。

キラリと光るイギリス映画

 11月にも、MOVIESを続々アップしますとは、言ってみたものの、良い作品がなければできません。15日、16日と最新のインディジョンズ…と、私の好きなヴィゴ・モーテンセン主演のイースタン・プロミスを見ているのですが、星が☆☆☆+△で4つに少し届きませんでした。11月はもうダメかと思っていたら、TVのNHKBS2でこの作品を何気なく見てしまいました。期待もしていなかったのですが、偶然に、いい作品に出会えたと感じました。

 もともと私は、「父(この場合、ニセパパ)と息子ものに弱い」という性格?を持っています。つい、涙腺が緩くなってしまいます。何もこの映画のジェラルド・バトラーに自分をダブらせているわけではありません。あの格好良さに憧れますが…母親役のエミリー・モーティマーもいいですね。どこか、若い頃のデミイ・ムーアに似ていて。祖母、友人など脇役もいいですね。それにフランキー役のジャック・マケルホーン、純真で、素朴ないい感じを出していました。

 出演者がよく思えるのは、脚本、演出が丁寧で、しっかりしているということかもしれません。嘘をついてまで、リジーのフランキーを護ろうとする必死な心情が伝わってきます。そして、フランキーが、本当はリジーの嘘に気付いていることも何気なく判るようにしています。この映画のラストは、はっきりとは描かれていません。しかし、見る人に「おそらくハピーエンドになるだろう」と予想させているように思います。フランキーは、ニセパパにまた会えることを確信しているように思われますし、リジーとこのニセパパはやがて必ず結ばれます。(二人のキスシーンは、じれったくなる程、息が詰まりました。)ニセパパは、友人の弟ですし、何よりも、もう、障害となっていた暴力夫は亡くなっています。

 様々な小道具やディテールにも意味があって面白く感じました。まず、何といってもモチーフとしている「手紙」。それに、フランキーへのプレゼントの本、水切り石、ニセパパに渡したタツノオトシゴ、フランキーが住んでいるアパート階段の海面のタイル…それに映画全体の雰囲気を作っているような港町―グラスゴーの風景(特に小高い丘の上から見たーここは、フランキーのお気に入りの場所)。

 イギリス映画の現代を描いたものの中には、こうしたこじんまりとしたものでも、何かキラリと光る良いものを持ってる作品が、時々みられます。私は、こうした作品が大好きです。

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「ブログ論壇の誕生」を読んで 

<BOOKS> ⑯
「ブログ論壇の誕生」を読んで 2008.11.28        

著者/佐々木俊尚 出版社/文芸春秋(文春新書)

この本の目次

はじめに ブログ論壇とは何か
Ⅰ ブログ論壇はマスコミを揺さぶる
 第1章 毎日新聞低俗記事事件
 第2章 あらたにす(朝日・読売・日経の三紙合同ポータルサイト)
 第3章 ウィキペディア
Ⅱ ブログ論壇は政治を動かす
 第4章 チベット問題で激突するウヨとサヨ
 第5章 「小沢の走狗」となったニコニコ動画
 第6章 志位和夫の国会質問
 第7章 安倍の窮地に暗躍した広告ロボット
Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する
 第8章 辛抱を説く団塊への猛反発
 第9章 トリアージ
 第10章 承認という問題
 第11章 ケータイが生み出す新たなネット論壇世界
Ⅳ ブログ論壇はどこに向かうのか
 弟12章 「JJ」モデルブログ
 第13章 光市「1.5人」発言―ブログの言論責任は誰にあるのか
 第14章 青少年ネット規制法
 第15章 「ブログ限界論」を超えて
おわりに
特別付録 佐々木俊尚が選んだ著名人ブロガーリスト

内容の紹介

「はじめに ブログ論壇とは何か」において、著者は、インターネット上のブログを用いた論壇、-ブログ論壇は、「社会的地位の度外視、タブーなき言論、参加自由」な空間だとしています。そのネット空間で繰り広げられている言説をめぐる「事件」等の動向がダイナミックに紹介されています。 そして、その世界がもたらすインパクトを解き明かしており、更にこのブログ論壇は、伝統的なマスメディアによる公共言論空間を補完しつつあり、やがて置き換わる可能性もあるとしています。

「Ⅰ ブログ論壇はマスコミを揺さぶる」では、毎日新聞社の海外向け英語サイト『毎日デイリーニューズ』の「日本女性低俗記事」事件、朝日・読売・日経による三紙合同ポータルサイト「あらたす」の不発、ウィキペディアをめぐる中央官庁職員等による書き換え・訂正事件の分析がされています。これらの事件から、ブログ論壇が、既存のマスコミを大きく揺さぶっていった様子、マスメディアとインターネットの非対称戦争の様子が、出されています。インターネットでは、新聞社も官庁もブロガーも同じ発信者としてしか扱われない、フラット化が働いています。更に、ウィキペディアによって官庁、大企業、マスコミもその中の人間が何を考え、どう外界と関係しようとしているか丸ごと見えてくるー可視カされていく。それが社会システムになる可能性があるとしています。

「Ⅱ ブログ論壇は政治を動かす」において、まず、ブログ論壇でのチベット問題の左右の論争を取り上げています。それを通して見えてきたのは、党派性は、インターネット空間には馴染まないということ。今後、課題ごとの議論が行われるような政治の枠組みー政治システムをインターネット上では実現可能だとしています。次に、動画について。動画は、情念をベースにした新たな圏域、そこへの参加のハードルを思いっきり下げてるといいます。小沢民主党代表の「ニコニコ動画」が荒れまくった様子。共産党の志位委員長の国会質問「ニコニコ動画」が評価された理由。それは、志位氏がロストジェネレーション問題を取り上げてことと、ブログ論壇的追及スタイルだったことを挙げています。こうしたことから「ニコニコ動画」のように情念を軸としたメディアが台頭してきたことによって「何でも可視化」現象は、ますます増大するとしています。そして、このように、すべてが見えてしまうインターネット空間は、政治を動かし、新たな日本型の「世間」的公共圏を誕生させる可能性があるとしています。

「Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する」では、「辛抱を説く団塊への猛反発」と題して、ネットで勃興しているロストジェネレーションの世代とネットにあまり馴染みのない団塊世代との激烈な世代間対立の構造があるとしています。ロストジェネレーションの若者の嘆きと絶望、怒りは、インターネット空間の中で渦巻いているだけで、マスメディアにはそのリアルな言説はほとんど紹介されていない。そのマスメディアが体現しているのは、団塊の世代の(つくった)言論空間(古い世界)。としています。この現在の世代間対立の後、やがてロストジェネレーションの世代の行動がその古い世界を変えていくだろうとしています。

 「Ⅳ ブログ論壇はどこに向かうのか」では、ブログ論壇の抱えている問題として、「①企業のマーケティングや広告にブログが呑み込まれ、ブロガーの主体性や主観が失われつつあること。②匿名性をどう扱うのかという問題がある。」としています。そして最後の「「ブログ限界論」を超えて」では、ロストジェネレーションの世代よりもっと若い世代は、パソコンから携帯電話に移行して「ケータイ世代」になっていること。確かに、ブログ自体の地位は、相対的に低下して、SNS,ケータイへとインターネットの表現メディアが進化し、多様化し、拡大してきています。(ブログ論壇からネット論壇へ)そして、それに伴って、人々の無限の自己表現のノイズがひどくなり、玉石混淆の状態になっているとしています。

 「おわりに」では、ネット論壇のはらんでいる問題として、まず、衆愚化とカスケード化について取り上げています。ネット論壇のきわめてオープンな性質は、自由なタブー無き議論を可能すると同時に、個人への誹謗中傷・荒らし、といった「衆愚化」とインフルエンサー(情報発信能力が高く、影響力がある人)の意見に簡単に影響されるサイバーカスケードと呼ばれる「言論のなだれ現象」が起きやすいという。その次の問題として、ネット論壇がどのようにしてリアルの世界とつながり、政治や社会を変える原動力になっていけるかということがあるとしています。そこには、ネット論壇の集合知をまとめ、まとめ上げた総体としての力をポリティカルパワーへと統合していくため、集約システムの必要性があるといいます。そのシステムは、アメリカにおいて2004年の大統領選での民主党の政治コミュニティ(オンライン選挙事務所)として作用したようなネットの新たなテクノロジーかもしれない。あるいは、2002年の韓国でサッカー・ワールドカップと大統領選でノムヒヨン氏へのネットを活用した応援に見られた起爆剤となる出来事かもしれない。しかし、そのいずれも現状の日本には無いといいます。それでは日本はというと、ネット論壇が公共圏へ昇華するためには、次のことが必要だと。「インターネット論壇がこうしたマイノリティー意識(ロストジェネレーションの世代の「社会の中心を担っていく」という自信がない)を乗り越え『われわれの世論こそがリアルの世論である』という認識に達する日がやってくればーそして衆愚化を防ぐ何らかのアーキテクチャ(テクノロジー)を実現することができればーいずれこのネット論壇の世界は、公共圏へと昇華していくことになるだろう。」という著者の希望が語られています。

私の感想
団塊の世代とロスジェネ世代との世代間対立というが

 著者の年齢は、47歳で、団塊の世代とロスジェネ世代の中間です。私は、この本で槍玉に上がっているまさに団塊の世代の60歳。そして、私たちと世代間対立が激しくなってきているというロスジェネ世代は、二十代後半から三十代前半です。しかし、この世代は、かつて別名として、団塊ジュニアと呼ばれていました。そう、私たちの子どもたちの世代なのです。

 「第9章 トリアージ」で取り上げられている「全体や組織から見た最適」という戦略的発想は日本のマスメディア(団塊の世代が担っている)には無いとしつつも、社会の全体最適化の追求をする「上からの目線」は、あたかも団塊の世代・マスメディアがしているような印象にしています。そして、「いまや三十代後半にさしかかった貧困ロスジェネ世代は、ますます社会から疎外されつつある。そうした疎外者にとって、社会の全体最適化などという概念は、呪詛の対象でしかない。」としています。そして、「第10章 承認という問題」では、このロスジェネ世代は、「他者との適切なリレーション(関係)」「継続してつきあえる相手」を求める欲求が高まっているといいます。そして、自らが他の誰とも代替不可能な存在として認められるという「承認」欲求が高まっているといいます。この「承認」欲求は、「自己確認」欲求とも読めます。

 11月27日付けの朝日新聞の論壇時評で松原隆一郎氏は、「「ロスジェネ」論再考―社会を分断する市場競争」というタイトルで、この本の紹介、この「承認」に言及した後、続けて次のように言っています。「仕事は生計を立てる手段にとどまらず、社会の中で「承認」され、アイデンティティーを確立する手段でもある。それにもかかわらず競争が、社会を分断し、敗者のアイデンティティーは共同体の承認からも排除されている。問題は、市場競争が技術革新や不均衡を誘発する一方で、社会関係まで幾重にも分断されていることなのだ。」と述べています。そして次の項で、「「共感」の社会 再考を」と訴えています。

 著者は、団塊の世代とロスジェネ世代との世代間対立をしていると、表面的にしか描いていません。そこには、松原氏のような視点がすっぽりと抜け落ちてしまっています。さらに付け加えるならば、階層的な視点に加え、階級的な視点も必要です。私たち団塊の世代のその多くは、ロスジェネ世代の親として、決して彼らを「上からの目線」で見てきたわけではありません。彼らは、他者であると同時に身内でもあるのです。彼らが私たちにパラサイトシングルとして寄りかからざるを得なかった(今でも?)こともありました。彼らの就職氷河期とか、貧困化は、私たちのせいなのでしょうか。絶対に違います。「トリアージ」や「承認」で描かれた彼らの心情は、同感はできなくとも、理解する、共感する努力はしてきました。私たちは、彼らを支えてきましたし、今でも、支えようとしています。個人的には、ロスジェネ世代の私の娘と息子の存在は、それ自体が、私にとっては支えにもなっています。そうした意味では、支え、支えられ、支え合うという“絆”はあると確信しています。
 
 自分の子どもだけでなく、特に子育ての時期には、その周りの子どもたちも見てきました。今でも、子どもたちを通して少しはわかります。確かに、団塊の世代の中でいわゆる「勝ち組」や偉い社会的地位に就いた人の中には、様々な害毒を撒き散らしている人がいるかもしれません。しかし、それは、ほんの一部のはずです。それでいいというつもりはありませんが、役割として社会における主導的な立場に就いてきた、歯車としてそうせざるを得なかったという人が多いのではないでしょうか。これは、ネットの世界ではもう、意味を持たないわけですが、定年で仕事を辞めれば、普通のおじさん、おばさんになる訳で、それと同じことになります。

 確かに、世代間のズレというものはあります。この本の中でも、世代によって日常使うメディアが分かれている、という指摘がありました。非ネット世代である高齢者、パソコンが中心の中年、そしてケータイ世代である若者。団塊の世代は、ネット少々、パソコンはそこそこ使う。ロスジェネ世代は、ネット世代で、パソコンとケータイの両方といったところかと思います。各世代が使うメディアが違うことは、少し厄介なことで、ズレを大きくしてしまいます。この点では、これから時間的には、余裕ができてくる団塊の世代の方が、歩み寄らなくてはならないと思います。

団塊の世代は、これから、もっとネット世界に、論壇にもモラルを持って参加すべきでしょう。トリアージの最後のところで、著者は「インターネットでは、誰も第三者になれない。ネットの空間で第三者になれるのは、書かない人たちだけである。本当のモラルとは、みずからが傷つくことも恐れずに他者にきちんと向き合い、倫理を究極に研ぎ澄ませることなのだ。」といっています。また、著者は、チベット問題のところでも他のブログを引用して「倫理は首尾一貫しているべきではないか」としています。私は、そうしたモラルー倫理は、団塊の世代は取ることができると思っています。著者は、「ネット論壇の世界は、公共圏へと昇華していく」には、ロスジェネ世代のこれからの奮闘に期待していることがこの本から読み取れます。しかし、私は、それには、それに加え、団塊の世代がモラルー倫理を持って加わること、参戦する、加勢する(共闘する)ことが不可欠だと思っています。このことの先には、ロスジェネ世代を苦しめている格差社会の克服(なくしていくこと)という課題があります。それは、彼ら自身が主体となりますが、彼らの親である私たち団塊の世代は、それへの助力を惜しむべきではありません。

著者は、団塊の世代とロスジェネ世代との世代間対立という構図を強調して描いていますが、私から見るとこのことは、無益なこと、むしろ有害かもしれないと思っています。もっと、問題の本質に迫る分析・視点や、多くの国民が力を合わせて、問題解決ができるような提言が求められます。

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<子どもの本 シリーズ 10> 

<子どもの本 シリーズ 10>                    

定例のおはなし会 (11月22日)             2008.11.23  

 栗原市立図書館で、毎週の土曜日午後2時半~3時まで定例の「おはなし会」が行われます。その第4土曜日が私たち第4班の当番です。私の場合、だいたい一週間前には何を取り上げるか決めて、司書の方に連絡します。しかし、当日の順番・調整等は本番30分前ぐらいになってしまっています。今回は、先月の「おはなし会」(紙芝居「ぼたもちかえる」川端 誠)と次の日の講習会(素話「ちいちゃい ちいちゃい」)の流れから準備をしました。同じ川端 誠さんの落語絵本「まんじゅうこわい」と、やっぱり素話は、子どもたちの前でしなければと思い、「ちいちゃい ちいちゃい」をもっとスムーズにできるようにしました。それに、BOOKSで「落語家はなぜ噺を忘れないのか」を取り上げたため、何となく落語絵本をやってみたくなっていました。
 当日は、集まり始めた子どもたちの年齢が、かなり小さかったため落語はどうかな?と思いましたが、そのうち、もう少し大きな子が大勢になってホットしました。それでも時間の都合で、素話の方は、今回できませんでした。

(NO,24) まんじゅうこわい (落語絵本) 

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 作/川端 誠 出版/クレヨンハウス
 関連するリンク先―ウィキペディア まんじゅうこわい アマゾン 落語絵本 まんじゅうこわい

あらすじー若い男たちが一人の家にあつまって、雑談をしているうちに、怖い物についての話題に。それぞれが、蛇や虫、お化けなどの怖いものを次々に挙げて行ったが、そのいずれも怖いと思わないという松という男が、「俺は まんじゅうが怖い。」と言う。そして、口に出しただけで気分が悪くなった、と隣の部屋で寝込んでしまった。他の男たちは、怖がらせてやろうとまんじゅうをたくさん買って来て、寝ている彼の枕もとに積んで置いた。おびえるさまを期待して、そっと中の様子を見ると、「怖い 怖い」と言いながら、積まれていたまんじゅうを食べている。「しまった。」と思った連中は、彼に「本当は、なにが一番怖いんだ。」と訊ねた。すかさず彼は、「うーん、このへんで、うまーいお茶が、こわい!」と。

 有名な落語の噺の一つ。題材が落語ですから、お話自体はよくできているものです。これを子どもにも分かる絵本にするということは、まったく別です。しかし、これを川端 誠さんは、テンポの良い絵本に仕上げています。好きなものをわざと嫌いだと言っておいしい思いをする、とんちとユーモア。特に最後のひと言。この落ちがわかるかどうか。読み手としては、それまでをテンポよく、よどみなく読んでおいて、ここでは、充分な“間”を取って結びます。それで、その時、子どもたちが、納得したような、満足した表情をしているかどうか?そこが最大の問題です。結果は非常に上手くいきました。聞き手の子どもたちの年齢があまり低すぎては、理解できるだろうかと懸念していました。しかし、丁寧に(人物の切り替えなど)、しかもリズム、テンポよく、それで自分が落語家になった気分で(しかし、手振り、身振りはしないでも)すれば、子どもたちは面白がってくれました。最後は、子どもたちに何が怖いか聞いたり、「おじさんは、ビターなチョコレートケーキとコーヒーがこわい!」と言ったりしました。大変楽しいおはなし会になりました。
 読み手が、充分に読み込んで、何度も声に出して練習しておかないと、この落語のよさは、出てきません。

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「老いない技術」を読んで

<BOOKS> ⑮
「老いない技術」を読んで              2008.11.23          
著者林 桊史(やすふみ) 出版/祥伝社 2008年7月5日発行

著者について
ー高齢者医療の第一人者。東京都老人医療センター院長をした後、東京都リハビリテーション病院院長。

この本の内容

 この本のサブタイトルは、「元気で暮らす10の生活習慣」となっています。発行が今年の7月ですから、最一線の医師による最新の健康ガイドです。ここでは、東京都老人総合研究所の「サクセスフルエイジングをめざして」よりの引用として、次のような「元気で長生きの十か条」をあげています。 

① 血清アルブミン値が高い
② 血清総コレステロール値は高すぎず低すぎず
③ 足が丈夫である
④ 主観的健康感がよい
⑤ 短期の記憶力がよい
⑥ 太り方は中くらい
⑦ タバコを吸わない
⑧ お酒は飲みすぎない
⑨ 血圧は高すぎず低すぎず
⑩ 社会参加が活発である


 第一章では、老化とは何かについて、第二章では、病気と上手く付き合う方法について、第三章と四章で、食事と運動の方法について、第五章では、それ以外の生活の見直しについて述べています。これらについて、「老いない技術」の紹介ということでしょうが、実際にはこの「老いない技術」のタイトルは内容と矛盾します。本の中でも、「老化を止めたり、後戻りさせて不老長寿を達成するのは無理ですが、老化をできるだけゆっくりと進行させて楽しい人生を送ることはできます。」(P16)「私たちができるのはアンチエイジング(抗老化)というよりもスローエイジング(老化を遅らせる)であろうと考えています。」(P50)と言っているわけですから、正確には「老いを遅らせる技術」のはずです。内容もすべてそのようなものになっています。内容すべてに科学的根拠に基づいたデータや図を掲載し説明しています。

 こうした内容の中から十か条についての補足と、私自身にとって参考になった内容・側面を取り上げてみます。そして、それを実際に自分の毎日の生活に生かせるどうか少し、試してみようと思います。
 10項目のうち②のコレステロール、⑥の太り方、⑦のタバコ、⑧のお酒、⑨の血圧に関しては既に多くの人たちに知られている健康法です。そこで、その他について補足します。
① の補足―血清アルブミン値とは、動物性たんぱく質に多く含まれるもの。高齢者には栄養不足が目立つそうで、適度の肉(良質の赤身)の摂取(80g/日)を勧めています。
③の補足―よく歩くなどして足腰を鍛えておくことは、脳の血流を多くし、記憶力の低下を防ぎます。特に足裏の刺激をよくすることが必要です。また、筋肉の衰え、骨を丈夫にするのにも有効です。
④の補足―現時点では、老化を遅らせる生き方としては老化に伴う様々な病気を予防することと、変かもしれませんが
「自分が健康である」と主観的に信じることが有効だ(死亡率が下がる)ということです。
⑤の補足―数秒以上の1次記憶ともいい、2次(数分~数年)3次(一生)記憶と区別。70~90歳でも約90%保てるそうで、老化しにくい記憶。老化を遅らせるには、すぐ前のことを覚えているということが大事だとしています。
⑩ の補足―外出して人とお喋りをする、他人との交流を図って、日常活動を活発にして、長寿を楽しむようにする。そうすれば、つい先ほどのことを忘れることも少なくなります。ストレスの軽減にも有効です。

私が参考にしようと思ったこと。

* 咀嚼能力と脳の働き
ー咀嚼は充分な栄養を取るのに役立つのは勿論です。それだけでなく、全身の活動性や脳の働きを増します。手指をよく動かすことがそれを支配している脳神経細胞の数が多いため、脳血流を多くします。しかし、口、唇、舌を支配している脳神経細胞の数は手指のそれ以上に多いため、咀嚼や会話で口を動かすことは脳細胞を刺激し、脳血流を増やす近道。毎日のこまめな歯のケアも大切。
* 老化を遅らせるための食生活指針
―3食バランスよく。腹6分目ぐらいにする(現在は8分目にしている)。魚・肉は1:1(やや魚を多く)。牛乳(ヨーグルトでも可)200ml/日。野菜は緑黄色野菜、根菜、果物類など多くの種類を毎日摂る(400~800g/日←かなりキツイ)。酢、香辛料、香り野菜を十分に取り入れる。健康情報を積極的に取り入れる。
* 病気と上手に付き合う方法
―第一次予防―食事・運動・休養を大切にして、病気と疎遠な体に保つ。趣味やスポーツも心の休養の一つ。第二次予防―健診などで病気の早期発見・治療の開始。第三次予防―病気治療、機能回復・機能維持・再発予防。
* 患者力をつけて医師と付き合う
ーまず、医師を信頼する。あらかじめ調べておき、しっかりと聞く。自己責任で治療法を選ぶ。他医に受診したい・したを正しく伝える。気になることは全て話をする。
* 人間の体の半分以上は水。安全な日本の水道水。
-約60兆個の細胞を含む人間は、皮膚でできている皮袋の中に海水を入れて二本足で歩くウエットな動物。若年者で62%、高齢者で53%が水分。海水中で生まれて進化してきた祖先の環境条件から離れられないで、いつまでも水を要求し続けている。大陸を流れる河川からの水には塩分、ミネラルなどを多く含み、硬水でまずい。日本の急流からの水、軟水は美味しい。塩素は抜かす方法が…
* 体にいい食べ物、悪い食べ物
―がん予防からの観点で、いいのは、野菜、果物、食物中のカロテノイド・ビタミン・ミネラル、全粒穀物類、食物繊維といったところ。逆に悪いのは、アルコール、塩分、肉、総脂肪、飽和/動物脂肪、コレステロールなど。特にアルコール含有量の高いリキュール、焼酎、ウオッカなどは、水で薄めたり、食べ物をとりながらに。
* 運動機能の衰えはどこから?
-歳とともに、体の下の方から、足・腰から弱ってくる。20歳代と60歳代とでは手(握力)は-20%、屈腕力は-30%、背筋力は-50%,膝伸展力も-50%。毎日よく歩いたり腰を使って下半身を鍛える仕事・趣味を継続するように。
* 白い筋肉、赤い筋肉(中間も)
-短時間でも時々は、力一杯手足の筋肉を使って白い筋肉の衰えを防ぐこと(筋力トレーニング)。楽しみのための運動は、持続力を要する、赤い筋肉を使うマラソン(ジョギング、ウォーキング)水泳を。
* 大腰筋の強化運動など、
-その場足踏み、レッグレイズ(仰向けに寝て、両膝を立てて、両足をゆっくり上げる。まっすぐ伸ばしたら5秒止める。×5、あおむけ足踏み(骨盤を動かす)×左右20
* 下半身の筋力を維持するトレーニング
-人間の二足歩行の陰で仕事量を増やしたのが下半身。高齢になっていくと足から衰えます。体重をかけて移動するといった歩行は、下半身の筋力を維持するトレーニングとしては最適。腹筋、背筋を鍛えると更に効果的。これによって自分の筋肉でコルセットを作り、装着していることに。ウォーキング、骨盤底筋群強化体操、腹筋・背筋強化体操を。
* 骨を丈夫にする運動法
-骨に重力をかけないと骨は強くならなくてよいと思っているふしがある。骨の強化は、「重力の大きさ」×「重力をかけている時間」で決まる。激しい運動を短時間行うのと穏やかな運動を充分な時間をかけて行うのとは同じ効果。水泳は体重がかからず、骨を強くしない。ウォーキングは長く続けていれば骨は丈夫になる。
* 怒り、笑いなど、感情と業帰途の深い関係
-怒っている、落ち込んでいる、悲しんでいる、だるい、といった状況や内向する状況、一人ぼっちで寂しい、会社で降格といった状況でも痛みは強くなる。笑う門には病気は避けて通るようです。落語、音楽が患者の回復によいことも明らかに。(音楽療法、笑いが免疫力を高めるなど)

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BOOKS-「落語家はなぜ噺を忘れないのか」

<BOOKS> ⑭
「落語家はなぜ噺を忘れないのか」を読んで    
2008.11.15      

著者/柳家花緑 
出版/角川SSコミュニケーションズ 2008年11月25日発行
関連するリンク先―アマゾン 落語家はなぜ噺を忘れないか

著者の紹介―祖父は人間国宝の故五代目柳家小さん。小さんに15歳の時弟子入りした最後の内弟子。子ども向けの落語や、六人の会(春風亭小朝、立川志の輔、春風亭昇太、笑福亭鶴瓶、林家正蔵、柳家花緑)での活動で、落語の振興につとめている。NHK教育テレビ『にほんごであそぼ』に出演。毎週木曜日の「歴史に好奇心」にも出演。また、フジテレビ『とくダネ!』の1コーナー「温故知人」に出演している。

<この本との出合い>

 11月8日、たまたま、一関の北上書房で時間潰しに立ち読みをしていて見つけました。その翌日が、読み聞かせ講習会。ここで、私は、この間練習してきた素話(「ちいちゃい、ちいちゃい」イギリスの昔話)の語りをトップバッターですることになっていました。なかなか寄席に行く機会はありませんが、個人的にも落語は好きです。TV,映画でも落語それ自体と落語を題材としたものをよく観ています。おはなし会でも、落語絵本はよく取り上げる方だと思います。私は、以前から、素話あるいは、ストーリーテリングのおはなしは、落語とは、様々な点で違うのでしょうが、共通する何かがあるような印象を持っていました。それで、この本のタイトル「落語家はなぜ噺を忘れないのか」です。今の私の目に留まらないはずはありません。家に帰って読み始めたら面白くて、翌日向けの練習はほどほどにしてしまい、ほとんど読み、残りを9日の発表後にすべて読んでしまいました。この本は、発行が11月25日とまだ少し先になっています。新聞広告にも出ていましたからそんなものかとは思いましたが、ともかく出たばかりの本です。

 以下、ここでのこの本の内容の紹介は、私にとって、ストーリーテリングをする上で参考になった事柄のみです。

<内容の紹介>

第一章 落語家はなぜ噺を忘れないのか

 現在37歳の花緑。それでも芸歴は20年以上。145本ある持ちネタには、3つの序列があるという。
① いつでも高座にかけられるネター24本。
② 2~5回さらえば高座にかけられるネター72本。
③ 高座にかけたことはあるが作り直す必要があるネタ-49本。
① は、精鋭中の精鋭。どのような情景の中で物語が進み、登場人物がどんなキャラクターで、どういう気持ちで台詞を吐いているのか。それらがお客さんに最も伝わるにはどういった演出がベストか。そこまで構成できていること。
② は、稽古が足りていないネタ。(さらうー軽めの稽古)
③ は、一度覚えたものの現在の自分に合っていないネタ。
 ネタの覚え方。-彼の場合、すべて、ノートに書き起こして台本を作っています。そして、初めは様々な師匠方から稽古を付けてもらい、それを、丸々コピーして覚えています。その時、師匠方の演出力、を含め、覚え方や稽古の方法を知るようにしています。(覚え方を覚える。)そして、その後、自分なりに咀嚼して自分なりの演出をして初めて本当にその噺を身に付けたというところまでなります。師匠方に稽古を付けてもらった時、その言葉だけでなく、稽古場の風景や当時の彼自身の考え、ノートの文字の様子等が一瞬にして蘇るといいます。そうした立体的に刻まれた記憶があって、噺を忘れずにいられると言います。

 落語家が、プレーヤー(演者)であり演出家として同時に高座にいるというのは、マリオネットとそれを操る人の両方を同時にやっているようなイメージ。人形(登場人物)として動きながら、それを上の方から見てストーリーテラー兼演出家として操っているという感覚といったところ。落語家が噺を覚えるということは、このように単に台詞を覚えているだけでなく、ひとつの噺を立体的に見つめながら演れるかどうかということ。噺と向き合ってきた時間とそこに込められた情報の賜物だとしています。

第二章 いかにして噺に命を吹き込むか

 もともと噺は面白くつくられている。-「もともと噺は面白く作られてるんだから、登場人物をちゃんと演じて、そのやりとりでウケさせればいい。落語は本来そういうもんじゃないか」小三冶師匠の弁。語りによってその場その場の景色を聞く人の頭にちゃんと想像させているかってことが大切。
 笑いがなくても心に残る。―笑いをとらなくても観客の心を掴む噺はできる。そういうウケ方もあることを身をもって教えてくれたのが小三冶師匠。

 噺のツボに向けて進む。-情景や人物描写を丁寧に演ることでお客さんを物語の世界へ引き込み、その中の登場人物のやりとりで笑いをとっていた。…重要なのは、全体を見通す力を持つこと、物語を丁寧に伝えること。

 登場人物の日常の一部を切り取る感覚―「粗忽長屋」(五代目小さんの18番)祖父は、登場人物の気持ちになりきって演じた。そそっかしいなりにも、二人には勘違いしてしまったのにはちゃんと理由があり、人間としての性格や心理がある。そこを丁寧に見せないとお客さんには伝わらない。だから芝居が上手くないとダメ。ある意味で15分の演劇を見せるつもりで…そう。落語は、ドラマなのです。

 「リアリティ」より「らしさ」-リアルな描写は「面白い」が、実はとことんリアリティを追求すればいいものでもない。現実に即していなくとも、「何となく、それらしい」というニュアンスのほうが、聞く側にも共通認識が生まれてくるのではないかと。また、想像の余地も与えるはず。

 「間」のマジックー噺を面白くする上で大切なのが、台詞の「間」。人物の感情を際立たせたり、お客さんの笑いや感動を生むためには、絶妙な「間」が欠かせない。

 落語の面白さとはー落語はただ物語を話せばいいわけではない。意味もなく客席を笑わせさえすればいいのでもない。噺の本筋をちゃんと見つめ、どうすれば登場人物の魅力を引き出せるか、お客さんに伝えることができるかを考えて演じきる。それで、見ている人は噺に入れ込み、共感し、感情を揺さぶられる。そして、面白いと…。

 演劇から学んだ三層の優先順位―① 表面を被っているのは、人物描写に徹する姿。お客さんに見せている部分。② 内部には「①」を支える技術への意識がある。間、らしさ、緩急など。③ 中心の層、つまり意識の奥の部分には、やはり「ウケたい」という純粋な気持ちがある。プレーヤーの本音の部分であり、かっこよくウケたいと思っている。

 この①~③のバランスがいいときが落語という芸はもっとも力を発揮する。この順番が必要なのは、③のウケたいという気持ちが芸人の芯の部分に絶対にあるから。そして、ウケさせ方が上質になる。(小さん、小三冶師匠も)

第三章 落語家にとっての噺の種類

 難しい噺とはー泣かせる人情噺よりも、笑わせる滑稽噺のほうが遥かに難しい。よくできた人情噺は物語としての泣かせどころがしっかり作られていますから、それなりに仕上がる。笑わせるのは簡単でない。笑わせることができないと落語家としての全体の評価も下がる。

 「間」は笑いの世界だけのものでない。実際の人の会話の中にも、間は存在する。(小三冶師匠の)絶妙な間によって、本物の会話らしくもなる。そうすると単なる滑稽噺ではなく、人々の日常生活を題材にした世話物っぽくも聞こえてくる。まるで一遍の映画を観ているような気分に。

 落語の奥深さー落語の場合、もし、「面白くない」と言われたときは、その落語家が否定されたことになる。やっている噺は古典なのですから、ネタが面白くないわけでない。やっている落語家が面白くないということ。これが技量があるかないかの問題なのです。落語は奥が深い、ということに尽きます。

<私の感想など>

 ストーリーテリング、お話を語るというのは、この落語とは明らかに違ってきます。落語は、演劇それも一人芝居に近いもの、芸術です。落語家や、俳優は語ることを職業にしています。(中には、職業にもなっていない方も)自分の芸を見せることが第一です。それによって、娯楽を提供しています。(お金を取って)一方、私たちは、そうではありません。プロではなく、素人です。そう、「ごく素朴に、自分たちの好きな物語を子どもたちと分かち合うためです。」松岡享子「お話を語る」(日本エディタースクール出版部)そのような素人としての語りをしています。落語は、400年続く伝承芸術です。新作、創作もありますが、古典(これも作り直しもしている)は、それこそ、その噺そのものが伝わってきているものです。

 しかし、この本を読む前からうすうす気が付いていたのですが、落語の噺と、ストーリーテリングで取り上げるお話には、共通点がいっぱいあることがこの本を読むことで、更に確信になりました。それは、噺―はなし の中身が似ていること。題材には、普通の人々の日常生活を、庶民の生活を取り扱ったものが、共に多くを占めています。「内容の紹介」で取り上げた、噺-はなし の覚え方、噺―はなし への命吹き込み方がかなり共通すること。「らしさ」、「間」についての考えもストーリーテリングでも言えることだと思いました。それに、落語は、身振り、手振り、扇子や手ぬぐい、それに鳴り物といったものはありますが、ストーリーテリングと同じく、ほとんど言葉だけで表現します。言葉で勝負します。それによって、聞き手が自由に想像力を広げられる世界を作ることも同じです。何か、落語が持っている世界観とストーリーテリングの持っている世界観がダブルのではないかとも思われます。(私は、まだまだ、よく分かっていませんが…)「三層の優先順位」という考え方も、ストーリーテリングでは、自分の芸を見せるということではないので、「かっこよくウケたい」などと考えるのは論外だと言われそうです。ストーリーテリングでは、できる限り自然な表現方法を取るように心がけますが、それでも、その人の持ち味(個性)や、語ること自体の中に演技するという要素も入ってきます。そうでなければ、お話を自分自身のものにできないし、はなしーに命を吹き込むこともできません。ですから、私は、この「三層の優先順位」という考え方も、ストーリーテリングでも当てはまると思います。

 いずれにしても、私は、ストーリーテリングも落語もまだまだ勉強が足りません。しかし、どちらも大好きですので、双方の違いと共通点は、今後もよくみていきたいと思います。

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<子どもの本シリーズ9 修正版> 

<子どもの本シリーズ9 修正版>      2008.11.14   

読み聞かせ講習会②-2 語り(発表)と講評                
2008.11.9

1、講師紹介
山田 仁子 氏(仙台市) 

*「おはなしてんとうむし」代表、「どろんこ文庫」主宰
 1974年に自宅で「どろんこ文庫」を開き、子どもと本をつなぐ様々な活動をするかたわら、自らも勉強を重ね、ストーリーテリングの講座を開くなどの活動をされています。
* 「おはなしてんとう虫」―生の声で語られるおはなし((ストーリーテリング)をたくさんの子どもたちと楽しみたいと、1993年に発足した語り手のグループ。学校や図書館などに出向いて、おはなし会を開いている。

 山田さんには、前年度の講習会でストーリーテリングの素晴らしさを教えていただきました。その影響で、今年の3月より栗原市立図書館でも、ストーリーテリング勉強会が発足しています。また、それ以前にも築館出身ということもあって、栗原市立図書館の築館町時代からも講師等でご協力いただいてきています。勉強会を始めて約半年、参加者の発表は、ちょうど一巡しました。そこで、今回、メンバーの語り(発表)を山田さんに講評していただくということになりました。前半に、第1部四人、後半に、第2部四人の内容は次の通りです。

2、語りと講評
第1部
①、「ちいちゃい、ちいちゃい」イギリスの昔話 『イギリスとアイルランドの昔話』福音館書店           
②、「おいしいおかゆ」 ドイツ/グリム『おはなしのろうそく1』東京子ども図書館                  
③、「アナンシと五」ジャマイカの昔話 『子どもに聞かせる世界の民話』実業之日本社,              
④、「梅の木村のおならじいさん」 創作/松岡享子 『くしゃみくしゃみ天の恵み』福音館書店          
第2部
⑤、「お月さまの話」創作/ニクレビチョバ 『おはなしのろうそく25』東京子ども図書館              
⑥、「おいしいおかゆ」 ドイツ/グリム『おはなしのろうそく1』東京子ども図書館                  
⑦、「雪女」 日本の昔話 『子どもに語る日本の昔話2』こぐま社                         
⑧、「ねずみじょうど」 日本の昔話 『おはなしのろうそく3』東京子ども図書館                    
 この中から私が発表した①のみを取り上げます。

(NO.23) 「ちいちゃい、ちいちゃい」
 イギリスの昔話 『イギリスとアイルランドの昔話』福音館書店  (4分)

 ちいちゃい、ちいちゃいおばあさんが、教会の墓地で骨を見つけ、家に持って帰って戸棚にしまっておくと、そこから「おれの骨を返してくれ!」と繰り返し叫ぶ声が、聞こえてくるお話です。『イギリスとアイルランドの昔話』の最初に出てくる4分ほどで終わってしまう短いもの。語り手としては、本の挿絵を見ても、とても、怖いお話とは思えず、むしろ何度も出てくる言葉「ちいちゃい、ちいちゃい」の繰り返しのおもしろさに惹きつけられるものでした。しかし、実際には子どもたちの反応は少し違っていました。私は、前に一度だけ図書館で子どもたちの前で話したことがありますが、やはり、とても怖がってくれました。そんなに怖く表現したつもりが無くてもです。(しかし、そもそも男性の声でこの話を語ること自体が、子どもにとっては怖く感じてしまいます。)それで、子どもたちが怖がるとそれに合わせて、こちらも、ついもう少し、怖くしてみようかなと思わせるものです。この作品は、語り手が、聞き手に教えられて「話の柄」がつかめるものです。

 講師の山田さんから注意されたことは、①手振り等はそちらにも子どもたちの関心が分散する、手の動きという現実に入ってしまうので、入れないほうが良い。②場所にもよりますが、よく声が通るように立って、聞き手、一人一人の目を見つめられるようにして、話した方が良い。③間(ま)のとり方については、もう少し、取った方が良い。特に最後のところは、もうすこし、溜め込んで(こうは言わなかったけれど)思いっきり力強く「もっ てきな!」と。

 <私の言い訳(ひとりごと)>

 確かに、この話は、短いけれど、語り手の力量が問われるものです。子どもたちの前で、一度は話しているので話の柄はそれなりには掴んでいました。しかし、最初からきちんと練習を繰り返しているうちに、覚えやすくするため、少し余計な手振りが入ってしまいました。立つことは、それほど大勢の前で、話してはきておらず(お話の部屋で、20人以下)、確かにここ(視聴覚室)で30人以上では、立つべきでした。間については、わかっていたつもりでした。しかし、つい練習で何度も繰り返しばかりしていて、流して練習するクセがついてしまっていて(それがあって、ほぼ内容では間違いが無かった)、トップバッターで少し上がっていたこともあり、いつもよりもテンポが少し速くなっていました。まあ、このあたりは、この話を、これから何度も子どもたちの前で語っていくことによって、克服できていくことではないかと思いました。

3、質疑応答から

<演じることと語ること>

 身振り(手振りも)で表現する(演じる)ことは、話をそこに持っていくということ。語り手自身に聞き手の注目がいってしまうのです。大切なのは、聞き手にその物語、そのお話の世界をよく伝えたかということ。確かに、語ることの中には、演技の要素は含まれます。自分の持ち味を活かすことは大切ですが、それでも、できる限り、自然な表現方法をとるように。感情移入は、どうしてもしてしまいますが、それも、そのお話を壊さない程度にすることが大切。あくまでも、そのお話の柄(絵)にあわせた額縁(語り)であるように心がけたいものです。

<お話をおぼえること>

 暗記とは違います。暗記は、「暗誦」になってしまい、「語り」にはなりません。語りは、語られるその時にお話を生き返らせる、再創造することです。それには、イメージを持ちながら覚えていくということ。言葉にイメージを載せていくこと。物語をしっかり読み込んで、場面を考えておくこと。場面、場面を、その場面ごとを覚えていくこと。そのようにして覚えて、何度も語っていけば、お話自体が持っている味を、良く醸し出したり、熟成させることができるのではないでしょうか。

<言葉の言い換え、方言について> 
 
 翻訳本の場合は、少しの部分ならば、自分の責任で言葉の言い換え、言い直しは構いません。但し、それがあまりに多くなってしまうものはどうかと思います。また、少しであっても、そこを直すとあっちも、こっちもと全体に波及することもありますのでよく注意して。昔話は、(全体としては、余計なものが削ぎ落とされた幹だけなので)日本のものであればできるだけそのままで。しかし、方言での表現は、自分がいちばん自然に話せる言葉に(部分的でも)変えても構いません。そのあたりは、小澤俊夫さんが一度、標準語に直したものを編集されていますので、そこからまた、自分に合う方言に変えられても良いかと思います。                                                           

                                                                                                   
お詫びとおことわり  ― 修正版に差し替えたことに関して

<「子どもの本」を語った方の氏名を記したことについて、関係者に深くお詫びします。> 
 
 シリーズ9のアップ直後に、間接的にクレームがきました。私が「子どもの本」を語った方の氏名を記したことについてです。このシリーズ9はそれまでのものと違って、語りの発表に対する講評を行った講習会でした。「子どもの本」の紹介をしたつもりでも、結果的にはそれを語った方への講評が、どうしてもある程度は出てくる性格のものです。しかし、語った方の氏名を出すことは必要ありませんでした。私は、意図的に語った方への批判をしたつもりはまったく有りません。しかし、結果的に、その方が不快な思いをした訳ですから、私の過ちであり、思慮が足りませんでした。このことに関して、私は、反省するとともに、関係者の方々に深くお詫びいたします。

<この間の経過と、私が、シリーズ9で過ちを起こした背景> 
 
 また、それとともに、今後こうしたことを起こさないようにするための方策を採ります。そのためにまず、この間の経過を説明します。

 8月の初めにこの<子どもの本シリーズ>を始めるに当たって、私は、次のように述べていました。

―「このシリーズでは、先ず、図書館での読み聞かせボランティアで取り上げた子どもの本について述べます。私が担当したものは勿論、他のメンバーが担当してものでも印象深かったものも含めます。それから、3月末から始まったストーリーテリングの勉強会に出されたものも対象にします。更に、講演会、講習会で取り上げられ本も加えます。子どもの本(対象が少し大きい年齢になることも)の評価だけでなく、その時の勉強会、講演会等の様子なども伝えることになるかもしれません。」― 

 ここからもわかるように、このシリーズは、あくまで、「子どもの本」について、私が、その本の評価をすることを目的としています。何のためにそれをするかというと、それは、おはなし会等でその「子どもの本」を取り上げてもらいたいからです。また、私としても、その「子どもの本」を記録として残したいからです。それは、現在、図書館で行っている小さい子向けの「おはなし会」等だけでなく、学校など小学生向け、大人向け等も含みます。ですから、私が関わった(自身が担当したもの、聞いたもの)ものから、肯定的に評価したもの(あるいは、私が関心を持ったもの)しか取り上げてきていません。ですから、その「子どもの本」自体について述べていることがほとんどで、それを話している、語っている「人」については様子を伝える程度。その人の評価は、(自分を除いて)書いている意識はありませんでした。このようにして、シリーズ8までは、同じような感じできました。

 ところが、シリーズ9は、その様な具合にはなりませんでした。勿論、シリーズ8までと同じように「子どもの本」については書いています。しかし、この講習会の性格上、山田さんの講評を抜かすわけには行きませんでした。それに、公開のおはなし会、図書館まつりと違って、勉強会、講演会(講習会)は、ある意味では非公開、内輪のもの。同じボランティアのメンバーと違って参加者も様々です。それに、講評には入っているけれど、「子どもの本」から離れてしまう個人の状態(個人情報ともいえる)に触れてしまったところは、記事を書いていても自分でも、実のところ、どうしようかと迷いました。(迷った時は書かないほうがいい)こうした時、シリーズ9のアップ直後に、間接的にクレームが来たのです。

 さらに言えば、問題は、シリーズ9だけでなく、それ以前から、私が「子どもの本」を語った方の氏名を記したこと自体にもあったのです。このように、問題の所在は、私の過ちにあって、私が思慮不足でした。

<今後の方策、―対象を私自身が担当したものと、講師が取り上げたものだけに限定します。>

 こうしたことから、今後は、こうしたことが起こらないようにする方策をとることにしました。それでも、このシリーズが「子どもの本」について取り上げていく視点は、ほとんど変わりません。しかし、これからは、対象を私自身が担当したものと、講師が取り上げたものだけに限定することにしました。他の方が取り上げて、その「子どもの本」を紹介したくとも、それは今後、止めます。これまでそのようにしてきたシリーズ8までのものは、人の名前をイニシャルに変更しました(Aさん、Tさんとかに)。「子どもの本」を取り上げていても、そこにはどうしてもそれを、話した、語った「人」が出てきてしまいます。シリーズ8までの他の方が取り上げたものも、カットしようかとも思いましたが、これは今回、止めました。不統一ですが、そこまでするとバラバラになってしまいます。申し訳ありませんが、それについて、その該当する方でクレームがあれば、個別に対処させていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

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「教育に穴が空く」 を見て

<TV> 2008.11.7
「教育に穴が空く~“非正規”教員 依存のひずみ~」を見て クローズアップ現代(NHK) 11月6日(木)放送

放送内容 

いま全国の公教育の場で、教員が確保できずに授業に穴が空くという事態が相次いでいる。財政難に苦しむ多くの自治体では、ここ数年、教育予算を抑えるため、正規の教員数を削減し続けてきた。その一方、教育現場には、少人数学級など「きめ細かな教育」が求められている。そうした中、増えてきているのが、時間給の非常勤講師など、人件費が安い"非正規"教員。現在、その数は教師全体の少なくとも14%に上っている。しかし、"非正規"教員への依存度があまりにも高まったため、その確保ができない学校が出てきているのだ。 非正規教員に頼り続ける公教育の歪みに迫り、教師とは何か、教育とは何か、その原点を探る。
スタジオゲスト : 藤田 英典さん(国際基督教大学教授)  (NHKホームページより) 

内容の補足

 放送では、まず、広島市・広島県の例が報告されていました。ここは、最も全国で非正規職員の割合が多くなっているとのこと。ある中学校では、40人中13人を占めていました。23歳の新卒の非常勤講師の男性教師は数校の数学の掛け持ち。それで年収170万円。(これでは、ワーキングプアのレベル。)当然食べてはいけないため塾の講師もしているとのこと。クラスを正規教員と二分してきめ細かな数学の指導をするが、生徒にずっと付き添えるわけではない。学校の許可をもらって自宅で採点・連絡・コメント書きなど行うことでカバーしていました。また、ある若い女性の体育の非常勤講師は、その中学校でどうしても数学の講師の手当てができず、そちらも掛け持ちを。最もひどかった中学校は、理科の教師の療休でその学年の理科の担当に穴が開いたケース。別の学年、他校からの非常勤講師の確保もできず結局、その学年のその学期のテストは中止に。一方で、正規職員は少なくされているため学校行事、部活などに彼らへの仕事が集中しています。(労働強化→療休増加の悪循環)これでは、教育は崩壊していってしまうのは目に見えています。

 次に、東京都の杉並区の例が報告されていました。ここは、財政的に裕福な自治体です。国の規制緩和(教育特区か?)と言うことで区独自で不足の正規職員を確保していました。それも、ベテラン教師陣が教育免許保持の若者を対象に講座を持ち、そこの卒業生から採用していると言う贅沢なもの。しかし、それによって、30人学級等などきめ細かな教育ができています。
 この二つの報告から、このままでは、自治体・地域の違いによって教育格差が生じてくることは明らかです。自由度を広げる規制緩和は、必要でしょうが、それによって教育格差、地域格差が拡がるのは、やはり問題です。問題は、自由度を広げたことではなく、自由度を広げると教育格差、地域格差が広がってしまう国の教育財政の貧困にあります。

 ゲストの藤田氏は、このままでは、教育の質の低下は避けられないとし、次の2つのことを国に求めていました。①教員給与の2分の一から3分の一になった国庫負担金を元に戻すかそれ以上にすること。②国の公務員の定員削減の方針が、各県での教員定数削減になっているのを直ちに止めて教員の大幅増員をはかること。このどちらも国の段階では、文部科学省の要求を財務省が阻止しているものです。もっとも、藤田氏は、文部科学省の各種審議会委員等をしていますが、そこでの少数派です。文部科学省は、彼のまともな意見を取り入れようとはしていません。

今、日本の教育をチェンジする時

 今、総選挙を真近に控え、これからの日本のあり方について、医療・年金・介護などの社会保障をどうするかが問題になっています。それに、加えて問題になっているのは、あとせいぜい少子化対策ぐらいです。しかし、ここに教育が抜け落ちているのです。お金をかけないで教育を向上させることは不可能です。小泉流の改革は、教育に何をもたらしたか、既に明らかになっていると思います。彼の「小さな政府」と規制緩和は、教育格差、地域格差を拡げ、国全体としては教育の質の低下をもたらしました。もはやこの教育の問題は、待ったが利かないところまできています。今度の総選挙で政権交代を実現させて、国の教育政策の根本的転換をはかる時です。オバマ流に言えば、チェンジの時です。

追記 

2分の一から3分の一になった国庫負担金の差額、6分の一は、地方交付税で手当てされています。しかし、これは、私が取り上げた学校図書費の流用問題と同じです。財政の厳しい自治体では、教員の給与には回していません。ここ、栗原市では、私たちはこの学校図書費の流用問題を追及しましたが、限界を感じました。それは、まず、教育行政のトップが、これへの的確な認識を欠いていることがあります。それに加えて、今年度は、地震被災で膨大な損害が出ているという特殊な状況もあって市財政に余力が無いのが理解できます。やはり、この問題でも、国がきちんと学校図書費についても他用途に流用できない仕組みを作ること。教員定数の大幅増加、30人学級の実施などを含めて、教育全体の国の予算を大幅に増やすことの中で位置づける必要があります。それには、国民の間でも、またそれぞれの地方、地域でもこの教育への財政的に大幅な措置をするという合意を形成していくことが求められてきています。

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MOVIES 11月も続々とアップします。

MOVIES 11月も続々とアップします。                    
                                           2008.11.6
 その名にちなんで                 2008.11.3

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 製作年度2006年、122分のアメリカ/インド映画
 関連するリンク先― 映画「その名にちなんで」公式サイト

あらすじー 1974年。インドのコルカタ(カルカッタ)の学生アショケ・ガングリー(イルファン・カーン)は、列車に乗っていて、親しくなった老人から「君は若いし自由だ。海外に旅に出ろ」と勧められた。その直後に列車が転覆。アショケは奇跡的に手に持っていた本(ロシアの文豪ゴーゴリの著作)が目印で発見され救出。その3年後、アショケは米国の大学で勉強していたが、親の勧めでコルカタでアシマ(タブー)と見合いをした。数週間後、ふたりは、家族や親戚に祝福され、盛大な結婚式をあげ、米国へと旅立った。

 ニューヨークでの新生活は、アシマにとっては、お湯の沸かし方から買物の仕方まで、日常のすべてが初めてだった。アシマが米国の生活に慣れた頃、ふたりの間に男の子が生まれた。子供の名前は故郷のアシマの祖母に名付けてもらうことにしていた。しかし、退院の前に出生証明書に名前が必要だとせかされ、とりあえず息子をゴーゴリと名付けた。

 アシマは、異国で子供を育てることは不安だった。アショケは、「ここでは、望むものになれるし、何でも学べる。可能性は無限だ」とアメリカで育てることが、子供のためになると説得した。やがて、娘のソニアが誕生した。一家は郊外の一軒家に移り住んだ。ゴーゴリが4才の頃、夫妻は息子の正式な名前をニキル(“完全なるもの”という意味)に決めた。しかし、本人は“ゴーゴリ”の方が良いと。ゴーゴリが高校生の時、学校の授業で先生が文豪ゴーゴリについて説明した。「ニコライ・ゴーゴリは変人だった。ロシアの文豪だが実生活では誰にも理解されなかった。“奇矯な天才”という者も。被害妄想、欲求不満、孤独、結婚せず子どももなし、最後は断食で穏やかな自殺をはかった」と。ゴーゴリは自分の名前の由来が、変人のロシア人作家の名前だと知り、驚き、不満。父と母に文句を言った。父はニコライ・ゴーゴリは天才的文豪だと言い、「ゴーゴリ短編集」をゴーゴリの卒業祝いに贈った。

 その年、一家はそろってインドに旅行。タージ・マハルを見学し、その美しさにゴーゴリは感銘を受け、イエール大学で建築を専攻したいと。そして名前もニキルに変えたいと。父「何でも可能な国だ。好きにしたらいい」と。数年後、ニキル/ゴーゴリは建築家として自立。マンハッタンのアパートに住み、アメリカ人の恋人・マクシーンと青春を謳歌していた。

 父(アショケ)はオハイオの大学で教鞭をとるため単身赴任することに。出発前日、マクシーンを連れて食事に来たゴーゴリを、父はドライブに誘い出した。ゴーゴリという珍しい名前に込めた思いを語った。息子「僕を思うたびに事故のことを思い出す?」父 「いや、むしろ、それ以降のすべてを思い出す。その後の毎日が天の恵みだと。ゴーゴリ」やがて、父は単身赴任先で倒れた。父が死ぬとゴーゴリは、剃髪して伝統を大切して、今までの自分の生活を否定するようになる。自分を愛してくれたマクシーンに冷たくして別れてしまう。そして、その後、同郷ベンガルの娘・モウシュミを妻にするが、彼女が結婚前から好きなフランス人と浮気していることが分かって、別れてしまう。

 ゴーゴリは最後には一人に。今までになく自由な気持ちに。再出発の時。彼は、父と同じように“枕と毛布を持って世界を見るため旅に。”、かつて父が見たと同じ車窓からの風景が広がっている。一方、母アシマは、夫は亡くなり、子どもたちも巣立った。「インドと米国で半年ずつ暮らすことにしたい」と言い、故郷に帰り大好きだった歌の勉強を再び始めた。彼女も新たな旅に出た。家族それぞれの再びの旅立ちだ。

 個人のアイデンティティと家族の絆について考えて

 この作品は、ミラ・ナイール監督と同じくインド出身ピュリッツァー賞作家ジュンパ・ラヒリが2003年に発表した同名ベストセラー小説が原作です。映題の Namesake は「名前をもらった人」を意味するといいます。ロシアの文豪ニコライ・ゴーゴリの名前から、ゴーゴリと名づけられたインド系二世米国人として育つ息子の名前をめぐる物語を軸とし、インドから移民した両親の伝統的価値観と、米国に生まれ育った子どもたちのアイデンティティとの葛藤を描きます。親子の愛情、家族の絆、そのすれ違いや関係修復への努力を浮き彫りに、アメリカに移住したインド人家族の30年にも渡る軌跡を描いていきます。インドと米国の二つの文化、ニューヨークとコルカタの二つの都市、親子二つの世代を描いた作品となっています。ミラ・ナイール監督の作品は「モンスーン・ウェディング」を数年前に観ています。私にとっては、初めての本格的“インド”との出会いとなったものです。印象は、家族の絆が強い、色彩が豊か、大掛かりな結婚式、みんな踊りが大好き、といったところです。それもかなり制約がある中での映画制作だったと思いますが、それは今回も同じ。この作品は、彼女自身のインドからの渡米体験をも重ね合わせて映像化したというかなり、思い入れのあるもののようです。原作は勿論、読んでいませんが、かなりの長編(物語も30年にわたる)を、今回も巧妙なストーリー運びと情感たっぷりな演出で感動的に仕上げています。

 映画の冒頭の方で、列車の中、『本は一寸たりとも動かずに旅をさせてくれる』とお祖父さんが言っていたというアショケのセリフがあります。親しくなった老人から「海外に出ろ!」と勧められ、アシュケがアメリカに渡ってこの物語は始まります。私にとっては、この映画を観ることで、私の知る由もない世界を旅し、感動したり、共感したりして、自分の人生との繋がりも感じたいと思いました。「個人のアイデンティティの追求」がこの映画のテーマの一つだと思いました。移民や、その子どもにとって、暮らしている場所がホームであるとは言い切れないわけです。この物語の中でも自己のアイデンティティに苦しむゴーゴリを通してその問題を問いかけています。ゴーゴリにとって、2つの国、2つの名前のそのどれもが彼にとって"ホーム"であり、自分の人生の根幹に関わるものを消し去ることはできません。原作者や監督がこのあたりをどのように考えているかは、詳しくはわかりません。私自身も(家族も)ここでは詳しく述べませんが、名前の問題では、色々といきさつがあります。同じ国・民族だといっても、名前に関して色々有るのは大方の方に共通することかもしれません。あらゆる名前には、それぞれにアイデンティティが込められているでしょう。それを、家族との絆という視点で、じっくりと考えてみることをこの映画を観て考えさせられました。

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