触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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久しぶりに娘とじっくりと話

<家族> ライフ
 
久しぶりに娘とじっくりと話をして                 
 2008・12・27

 イブが明けた二日前(12月25日)の午後、仙台空港に遠路はるばる高松→大阪(フェリー)→仙台(飛行機)でやって来る娘の家族(夫婦+男の孫2人)を迎えにいきました。その便は家族連れが大多数という感じでした。しかし、国内線の到着口で、待てども、待てども娘たちが現れず携帯を鳴らそうかなと思っていたら、ようやく最後の方で出てきました。4歳の上の子が私を見つけ「ジジ、ジジ」といって飛びついてきて大感激!そのままダッコして車まで行きました。後ろの席に「チチ」(上の子がそう呼ぶ)こと亭主と2人の孫、助手席に娘。高速を走りながら、後は後で最初はガヤガヤ騒いでいました。そのうち、今日の朝は、4時半起きということでしたから、疲れたのか静に。前は、何時ものことですが娘と私の2人で、ずっと話しっぱなし(以前、道を間違えて松島の方に向かったことも)。内容はいろいろで、何を話していたのかも忘れてしまいましたがそのうち暗くなってきて、我が家に着く頃(PM6時近く)には真っ暗になっていました。娘が来る前に電話で夕食のリクエストが「鍋」でしたから材料の準備だけはしておいてきました。しかし、うっかりしていて、ご飯の準備がまだでした。 

 到着し、急いで米をとぎ炊飯準備、早炊き開始。それから庭の樹とツリーのイルミネーションを点灯しました。もうこの時間からでは、母屋の方の義父母は夕食を済ましてしまっていました。それでこちらだけでしたが大急ぎで、鍋にどんどん山ほどの材料をぶち込み30分程で作ってしまいました。(我ながら、手際がいいと感心,感心!)日頃の妻の教育が良いもので我が家では、食事を作っている時から片付けは開始して、食べ終わった直後に食器洗いをしてしまいます。(勿論、私が)今日は、作るのも、片付け、食器洗いも全てやりました。いや、しかし、見るとまだ食べている者が一人いました。「チチ」です。彼は、体格がよく、頼もしいほどよく食べます。初め、鍋の量が多すぎるかと思っていましたが、いやいや、ほとんど無くなりました。その僅かな残りは翌朝に、ご飯を入れて雑炊にするそうです。(鶏だし塩味が気に入ってくれたようです。)

しばらくして、娘たちの入浴タイムになりました。初めは娘と下の子(6ヶ月)が入り、途中から先ず、上の子、次にチチが入り、娘と下の子が出て、最後に上の子とチチが出て来るというなんだかややこしいのです。チチは新年早々、先に帰るのでこの辺りどうするのか?まあ、妻がもうじき帰ってきますから大丈夫ですが…。着替えを済ませ2階にチチが上の子を連れて寝かし付けに行きました。(そのまま、チチは疲れていて寝てしまい、降りてきませんでした。)

 高松の娘たちの家では休日や、チチが早く帰ってくれば、この時間帯が娘は自由にブログ作成などしているようです。こちらに来ても、毎回この時間帯には、私のPCはほぼ、占有されてしまいます。昨日(26日)の記事「もう一年、会長職をすることに」はその前の日の25日から書いていましたが、あきらめて、途中で止めました。TVもこの頃は必要なければ見ないようにしていて、私は、溜まってしまっている本の読書。娘はPC。それぞれ別のことをしているのですが、それをしながら久しぶりに、娘とじっくりと話をしました。

 娘は、ブログを何種類も書いています。料理や趣味のもの(むーらんろーじゅ)、写真だけのもの(いちめんのはな)これらはオープンにしています。しかし、育児に関してのブログはパスワードが必要です。それは、友人、家族に知らせ、あと同じように育児に関して書いている仲間とやり取りしているようです。私は、それをずっと読んでいて、遠く離れた娘が、今、育児で何につまずいているか知ることができます。それで私が考えたのは、「父親として何を娘にしてやれるか」「アドバイスできるとしたら、何をすべきか」ということです。そこで、一ヶ月前に既にそのために、参考になる本を2冊チョイスして、ネットで注文して、入手していました。ところが、これをなかなか読み出さない、積読だけ。(これはいつものことですが…)とうとう娘たちが来るのが今週となってから、ようやく読み始め、先日、そうイブの日に完了。それもちゃんと2冊ともB54枚と3枚のようやくメモを作ることができました。夕方にイブの記事を書き終えてしまい、夜、BSTVで織田哲郎のクリスマスライブを聞きながら読破とメモも12時は済ませることができました。

 娘との話では、この孫2人の育児に関することが多くを占めました。ブログではなく、直接娘から色々と話を聞いていて私の受け答えの端々にその2冊の本のことがどうしても出てきました。そこで内容も娘に紹介しつつ話を進めると娘も2冊の本に興味を示してくれました。忙しいい思いをしても間に合わせてよかったと思いました。その他にも、向こうの家(チチの実家)のことや、今後のことなどチチがいなくて話せることを(夫婦仲は大変良いですが)話してくれました。

「この場に妻もいた方がいいのに」と思っていたら、(それが聞こえたわけではなく)旅行先から妻から電話がありました。PM10時半頃、いつもだったら、もうとっくに妻は寝ているのにと思いながら、電話口からは妻の元気な様子がわかりました。娘に代わって、妻―「お土産を買う所になかなか連れて行って貰えないのよ」 娘―「コンビニでもいいから何か特徴あるものをお願い」 横で私は「おい、おい、そんなものでいいのかよ」と思いながら、私自身の妻への要求水準が低いのが、子どもたちも同じことになっているなと思いました。まあ、家族みんな、妻(母)には楽しんで元気に帰ってきてくれれば良いと位しか望んでいないということです。

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一生会 もう一年、会長

<地域>

もう一年、会長をすることに(地域の親睦団体で)         
2008・12・26

 今年の夏、7月12日の記事で「初夏の旅、函館親睦旅行」というタイトルで地域の同世代の親睦団体、「一生会」のことを紹介しました。その団体の総会が、久しぶりに15人全員が参加して12月21日PM6時より金成温泉―延年閣で行われました。

 役員の改選時期のはずでしたが、私も含めて全員の勘違いなのか「まだ2年しか経っていない」と思ってしまい、私の「会長職は残り1年ある。」と言う解釈になってしまいました。(実にいい加減ですね。)私は、ぶっつけ本番で会長候補が出ればそれでいいかな?と思っていたため、次の候補を根回ししていませんでした。ですから、また、あと3年するよりいいかなと思いました。それでも幹事の仕事をする副会長の欠員をこの総会で補充することができました。

 総会の後のお酒が入っての忘年会で、今年の夏の函館旅行の感想が出されましたが、大変好評でした。これまでは、親睦旅行はせいぜい1年おきにしようとなっていました。しかし、「これから今後、何回皆で行けるか分からないので毎年のように行こう」ということになってしまいました。(任期1年追加でも今年は殆ど何もすることは無いと思っていたのに…)まあ、新しく副会長になった方が、やる気満々なので何とかなると思います。候補に出たのは、また東京です。「また、屋形舟がいい」「歌舞伎が観たい」「渋谷のNHKに(スタジオパークか?)」「浅草仲見世も、」など皆さん要望だけはしっかり言ってくれました。

 私の住む地域では、さらに、上、中、下と3地区に分かれるのですが、私のところは上地区。そこから私を含めて3人の男性がメンバーになっています。私以外の2人は、既に父親、義父が亡くなっており、家督を継いでいます。この2人と中地区の1人が男性ではまだ会長職をしていない次の候補です。「会長は、女性もしては、」との私の提案はここでは、男女どちらからも受け入れられていません。中地区の1人は、現在、退職後、地域全体の役職が沢山来ていて見ていても大変だと思われます。(彼も父親が既に亡くなり、家督を継いでいます。その為、役職が集中して側面もあります。)同じ上地区の2人は中地区だけの役職が来始めています。ここ数年、会うたびに私に上地区の役職につくよう誘ってきます。

 私の義父は、既に80歳をすぎていますが、大変元気です。築館町時代に3期、議員をした後も様々な地域・地区、団体等の役職をしてきています。今年限りと言っていてもまた、次の年もしているというようなことはいっぱいあります。今では、「今年限りとは、今年はやる」という意味だと納得しています。それが「義父の生きがい」だと思っています。ですから、婿である私が義父の生きがいを奪うことなどできません。できるところまで、思う存分してもらいたいと思っています。

 上地区の2人は、自分たちの思い通りになかなかできなくて私を誘っているようですが、はっきり言って自分勝手です。家督でないものが義父を差し置いていろいろできるわけがありません。前の記事でも書きましたが、「一生会」の民主的運営に努力するとともに、地区・地域でもそれを要求していくつもりです。

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サイレント・イブ

<家族> ライフ
 
サイレント・イブ(一人ぼっちのクリスマス・イブ)                  
2008.12.24

 このタイトルどこかで聞いたことがあるような?そう、辛島美登里の歌にそんなのがあったような気がします。でも、確かそれは、シングルの女性が彼氏のいないクリスマス・イブを迎えたようなことだったと思います。その気分とは、違うのですが、そう、今夜、私は、一人、静かなクリスマス・イブを迎えています。

 実は、妻が昨日から、ちょっと友達(勿論、女性)としばらくの間、旅行に出かけているのです。12月15日の記事で「連日、わが家の片付けに大忙し」と書きましたが、そう、妻の旅行前に、大掃除の前倒しをしていたのです。その記事の中でも、二人でして「残ったら私がする」と書きましたが、そう、まだこのところ連日、残りの仕事をしているのです。昨日は、居間の棚の中やCDの整理、今日は、浴室のカビ取り・掃除が終わったところです。ほぼ、これでおしまい、あと障子の補修が残っていますが…

 去年のこの時期、丁度、このブログを始めています。そこで、「ジジ親家業」の報告をしているように、高松に嫁いだ娘が(ツワリが酷く)、その時は、3歳のやんちゃな孫(男の子)を連れて、例年より大分早い12月初めから来ていました。ですから、いつもより大変にぎやかなクリスマス・イブでした。久しぶりに大きなツリーを出してきて飾り付けもしました。イルミネーションもツリーだけでなく庭の大きな樹木にもしました。1階の洋間の大きなガラスには雪の吹き付けやカラフルな飾り付けも孫と一緒にしました。料理も、娘は大変上手でして、いろいろ出しました。ドア一つで繋がっている妻の父母のいる母屋で、大勢でのクリスマス・イブの食事となりました。クリスマスケーキは勿論、娘の手作りで大きなものを。そこに孫が顔を突っ込んでしまい、皆で大笑いをしました。このように大変、賑やかで、楽しいクリスマス・イブでした。

 去年が去年ですから、余計に今年のイブは寂しく感じられます。しかし、明日になれば、そんなことは言っていられません。高松から娘とその今度は4歳ですが、孫、それに二人目の孫(これも男の子)、オマケに亭主も。(←オマケということはないか?大変頼りがいのあるいい人です。)明日の午後には、仙台空港に迎えに行ってきます。ジジ親家業の再開です。

 明日は、まだ、クリスマス。ですから、今年もツリーもガラスへの飾り付けも去年ほど派手ではありませんが、私一人でやりました。(一日だけで片付けてしまいますが)この夏にも娘は生まれたばかりの下の子も連れてきましたが、今度はもう大分動くようになってきています。二人となった孫、これからどう相手をするか?迎える準備は出来ました。私の体調もOKです。障子の補修は、この二人の孫の様子を見ながら、年内にする時期を考えることとします。(何時、破られるかもしれませんから)

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フォームのチェックと改善

<スイミング>
フォームのチェックと改善
                 2008.12.17

カテゴリーに<スイミング>を加えて

 このカテゴリー<スイミング>は、これが初めてです。これまでも「水泳」に関しては、いくつか記事にしてきています。2月14日にBOOKSで 「泳ぐことの科学」 という本を取り上げ、8月17日には、健康管理―運動編 番外 で 「マイケル・フィルプスと北島康介の泳ぎを見て」 を取り上げ、10月4日には健康管理―運動編の実践その2として、「水泳室に参加して」 を取り上げました。

 今回の記事は、この水泳教室の続きのようなものです。ただ、この水泳=スイミングは、健康管理であるとともに、自分でするスポーツとしての趣味でもあるのです。ですから、これまでの健康管理の枠を超えるため、この際、カテゴリーに<スイミング>を加えました。何故これを書くのか?それは、書くことによって自分の会得したものを確認、整理し、次のステップに役立つようにしよう。また、公開する訳ですから水泳仲間等にも見てもらって、反応、評価を受けるということもあります。だからあまりいい加減なことは書けません。たかが趣味ですが、上達の結果が人に見えてしまいます。(なかなか上達しないのですが)結構、プレシャーもかかります。

久しぶりに菅原先生が指導

 12月14日の栗駒プールでの「気軽に背泳ぎ」の教室は、久しぶりに菅原敏幸先生の担当でした。今回は、先生がプールサイドから動画撮影をして、パソコンで直ぐに見るというものでした。これによってフォームのチェックと改善のためのアドバイスをして頂くことになりました。いつもは、先生の口頭でのフォームのチェックとアドバイスはしていただいているのですが、何しろ、私を初め皆さん、その場で「ハイハイ」と言って分かったようにしていても結局、分かっていないのです。そのようなできの悪い生徒たちのため、動画撮影をして自分の眼でしっかりと確認させ、アドバイスを本当に納得させようとする意図のものでした。

先生が準備をしている間、各自、ウォーミングアップをするよう指示されました。その後、25mを2本。チェックして欲しい泳法で泳ぐようにと言われました。生徒の人数は8人ほどで、私以外は、全員女性でした。(このところ、2人ほど他の男性も来ていたのですが)従って私がトップバターになりました。

以前にもクロールの水中写真を見て

以前にも別のコーチ佐藤先生にですが、水中デジカメで連続写真を撮っていただき、直ぐにカメラで見てチェックとアドバイスを受けたことがありました。この時、私は、クロールをチェックしてもらいました。クロールでは手と足を左右クロスして動かすことがバランスの良い泳ぎ方と分かっていても私の場合うまくいきません。私は、リラックスして長い距離を泳ぐ時ほど左右同時の方がやり易く、このクセは直りそうにありません。それより足をキックする時、両足が離れてしまっていることが写真で分かりました。これは、効率の悪いキックですが、その効率よりも何よりも、写真で見て、足がバラバラに離れているとみっともないのです(もともとO脚ですので見合えは悪い)。美しくない、優雅でないのです。私の泳ぎのモットーは、「人と競争して速く泳ぐのではなく、いかにリラックし、手抜きして楽に泳ぐか、しかも、それを優雅に決めたい」という欲張りなものです。ですから、私にとっては、人からどのように見られているかも重要なのです。そこで、私の採った改善策は、クロールのキックの時、両足の親指と親指を触れさせるというものです。これですと何とか脚の間を狭めることができます。それによって少しは綺麗に見せることができるのです。

今回は、背泳ぎと平泳ぎを見て

 さて、今回は、25m2本のうち1本は、背泳ぎにしました。動画を見せてもらい、手の入水後、水中に深く入りすぎているのが、しっかりと確認できました。そのために、頭が上下してしまっていることも分かりました。手の入水後、もう少し浅めにして、肘を曲げながら、脚の方に掴んだ水の塊を運んで行き、足先に向けて最後に手首を返して放り投げる。これは、他の人がアドバイスを受けている間に、直ぐに確認のため、泳いで試してみました。結構、上手くいきました。この時ではないのですが、後で抵抗の少ない泳ぎを徹底して行く中で、背泳ぎをしていて確認できたことがあります。深く入水しないということが、その後の脚の方へ割りと水平に近くで運ぶということとになり、これらが併せて水の抵抗を減らしているし、ストリームラインと反対側の(背泳ぎですので)フラットな姿勢が長く、浮力が働きやすくなっていると思われました。

 もう1本は、このところ重点的に練習している平泳ぎです。先生に動画を見せてもらいながら注意されたのは、主に2点です。

① 手を胸の下の方に引き寄せすぎているということ。手をもっと胸の手前で、肘を立てながら引き寄せて(かつ、その手の腕に乗っかるようにしながら)素早く掻いて、一気に前に差し出すこと。早く差し出した両手が浮力になり、頭も上げすぎずに両手の中に素早く置く(という感じか?)。胸の手前で水を掻き集めるのは良いのでが、動画を見ると、それが、極端に大きく広くしかも胸の下まで引き寄せすぎているため、前へ進むのにかえって抵抗力になってしまっていました。(それに、北島康介でないのですから頭をそれほど水上に高く上げなくとも良いのです。)

② 足の引き付けが早すぎること。足の引き付けは、ワンテンポ遅らせて。両手を前に出してから足の引き付けに入る。―これは、意識してちゃんとしていたつもりでした。ところが動画を見ると、手の掻きと足の引き付けは、確かに同時ではないのですが、ほぼ、同時といってもいい程度にすぎませんでした。(大いに反省!!)これも確認するため、直ぐにプールに入って泳いで試してみました。直ぐには、上手くいきません。基本の練習―手だけ、足だけ、手2回+コンビネーション1回、足2回+コンビネーション1回とか、コンビネーションでも手と足をバラバラにしてする(まずは水中で呼吸無し平泳ぎを)等をするしかありません。あと先生に言われたのは、「手で1回、足でも1回と、2回の推進力を上手に使って進まないとモッタイナイ」ということでした。このことは、肝に銘じてこれからするつもりです。

 また、他の人の動画と先生のアドバイスも少し見学させてもらいました。これには、クロールをした人もありました。(バタフライは無し)色々と参考になりました。私もですが、皆さん、「自分で思っていたよりも実際には、泳ぎが綺麗でなかった。」という感想を持ったようでした。-生徒共通の願望→「もっと、綺麗に泳ぎたい。」

 菅原先生の前回11月の担当(背泳ぎ)の時に指摘されて以後、ずっと気を付けていることがあります。それは、まず、体の重心(みぞおち辺りか?)を意識して仰向けに浮かせること。それから足を付ける。下に蹴って体を上げる。それから、手の掻きを付ける、というものでした。実際にやってみると腹筋に力を少し入れていないとこれは出来ませんでした。まだまだ上手く入っていませんが挑戦中です。それから考えたのが、この逆。うつ伏せになってのことです。背泳ぎ以外の3泳法は、うつ伏せです。つまり、体の重心を意識してうつ伏せに浮かせること、です。私としては、大きなストレッチ用のボールにリラックスして乗っかるような感覚を持っています。そこから、クロールなら片手ずつ掻いていく。平泳ぎなら、両手の掻きが始まる。バタフライでも両手の始動がここから始まります。そんな感じに受け取っています。このことと、水中で最も水の抵抗を受けない流線型の姿勢―ストリームラインを保つことの関係が? 今一つ掴めていません。リラックスしながらも、腹筋、尻、ヒザ裏等に力を入れなければなりません。多分、乗っかるボールを段々ととてつもなく大きくしていって最後に水平になるということかな?とも思えて来ています。それには、どうも体を鍛えることが前提条件となりそうです。

 12月17日、今日の水泳教室(平泳ぎとバタフライ)で入ってきた情報では、来年早々にも菅原先生の動画を使った特別レッスンがあるようです。この時までに、この辺りのことの解明と「もう少し綺麗に泳ぐ」ということをしっかりとやっておきたいと思います。

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加藤周一 1968年

<TV> 
加藤周一 1968年を語る
~「言葉と戦車」ふたたび~ を見て

NHK ETV特集 2008.12.14PM10時~11時半                                                         2008.12.16

<放送内容>

12月5日、評論家の加藤周一さんが89歳でなくなった。
幅広い知見、国際的な視野から日本文化を見つめ直す評論活動を展。人間の自由について考え続けた戦後民主主義を代表する知識人であった。
その加藤さんが入院直前の今年夏、「どうしても語りたいことがある」と病をおして、2日間インタビューに応じた。そのテーマは1968年であった。
今からちょうど40年前の1968年。激動が全世界を覆った。チェコの民主化運動「プラハの春」で幕を開け、パリ五月革命、シカゴ暴動、東大安田講堂の封鎖など、若者たちによる異議申し立てが世界中に広がった。
加藤さんは、60年代後半、教鞭(べん)をとっていたカナダやアメリカの大学で、社会に不満を募らせていく若者たちを目の当たりにしていた。そして1968年、五月革命に揺れるパリでサルトルと議論を交わし、東欧では、自由な空気に酔うチェコスロバキアの市民たちに接する。しかし、その直後、ソ連の戦車がプラハに侵入。救援を訴えるアナウンサーの姿を地下放送で見て衝撃を受けたという。その体験は著作「言葉と戦車」にまとめられ、権力とそれに対峙する言論の問題を考え抜くことになる。
そして、今、アメリカでは「60年代に崩壊した道徳と秩序の回復」を重要な政策に掲げたブッシュに代わり、「Change!」を訴えるオバマが初の黒人大統領に当選・・・。加藤さんはそこにパリ5月革命と同様、変革を求める人々の声を聞いた。そして日本には68年と同様に「閉塞感」が社会に広がり、これに不満を抱く若者たちの姿があった。
「1968年、社会を覆っていた閉塞感は、20世紀から21世紀に積み残されている」と加藤さんは言う。
1968年、世界の若者たちはなぜ反抗したのか?
世界が未曾有の恐慌におびえる今、あの年の問いかけが私たちに問いかけるものとは…
番組では、「プラハの春」を中心に加藤周一さんの見た1968年を再構成。
評論家・加藤周一が、“68年”を通して今に遺(のこ)したラストメッセージを伝える。                                                          (NHKホームページより)

私の感想―まだ断片的ですが…
 
前にも私自身、1968年について以前よりきちんと整理しなくてはと考えていました。私は、ブログの記事の中でも、既に部分的には言及し始めていますが、まだまだ体系立てて述べるには、もう少し時間が掛かりそうです。そんな時、新聞のTV欄でこの放送の予告を見つけ、注目して見ました。

 つい先日、89歳で亡くなられた加藤周一氏については、かなり以前よりその著作等は読んできています。「九条の会」での活躍等、知識人としての役割では、高く評価しています。しかし、最近は、朝日新聞での連載(夕陽妄語)が以前よりも少し、難解で理解しづらく感じていました。事実から出発するというスタンスでは同じでも、年代が年代ですから、私たちなどとは教養の基礎が全く違いますから、自分からよく理解しようとする努力が必要とされます。放送のタイトルに出ている「言葉と戦車」は未読でしたので、放送中にアマゾンのマーケットプレイス(中古)で注文しましたが、良質で安価な中古本は先を越されてしまい2番手でした。後日、BOOKSでも取り上げるつもりです。

 ですからここでは、この放送に関しての、私のまだ断片的ですが「感想」を中心に述べたいと思います。

全共闘運動についてーその見方に異議アリ

 チェコで起きたプラハの春の世界史的な位置づけや、それのフランスの5月革命、アメリカのシカゴ暴動などへの波及、関連、影響についてはある程度分かりました。しかし、日本の全共闘運動に関してとなると若干、見方が異なってきます。

 1968年には、確かに世界各地で同時多発的に、若者たちによる(私のその当事者の一人でしたが)異議申し立て、反乱が起きています。(日本に関しては欧米などから広がってきたとは考えにくいのですが…)その対象は、社会体制、権威、保守的体質、古い伝統と価値観・価値基準といったものでした。ですから、大学では、大学当局、教授会、教授、講座制、インターン制といったものが槍玉に挙げられていました。

 前にも別の記事で述べましたが、当時の大学生は、同世代の約2割しかいません。殆どが経済的に少し裕福な家庭の子息です。その大学生の中でも、私の観測では、結論的に言うと学生間の経済格差もかなりあって、上位なほど、全共闘とそれに影響を受けやすかった層がいたと考えています。私の周りでは、苦学生の多くは、むしろ彼らのやり方に反発していました。ですから、前にも述べましたが、大学の民主化を求めた別のグループ(操作されたマスメディアの言うところでは、共産党系民青全学連と?)もかなりの勢力がいました。それにこの両者の中間に大量のノンポリ・ノンセクトと呼ばれた“一般学生”が存在したというのが事実でした。

 放送では、これを全共闘運動の35万人というような表現をしていました。当時の大学生は、40万人ぐらいか?(確か、同世代の若者は、200万人いると思っていましたから)その殆どが全共闘とか、その影響下だったなどとは、著しく事実を歪曲しています。私は、せいぜいその1割、最大で4万人位が伴に行動に駆り出されていったと考えています。加藤氏もNHKと同様の理解をしているようでしたが、当時プラハにいて日本の実情は、それこそステレオタイプのマスメディアの情報しか得ていなかったのではないかと思います。

当時、資本主義の歯車になることを拒否した学生達

 前の記事の中で、私は、「全共闘運動の行動は全否定するが、その考えは、理解できるところがある。」と述べました。私は、千葉大学工学部でしたから、東大医学部と違って軍産学協同とまではいかないが、大学そのものが組み込まれているという産学協同は、問題になりました。それでも加藤氏は、それが「社会正義」から噴出したと言っていましたが、私の周りで見る限りでは、少し違う感じがしました。放送のフランスでの学生に対して投げかけられた言葉、「君は、社会の歯車になってくのか?」が、社会=資本主義(大企業、会社)にして当てはまると思います。つまり、当時の日本の経済成長を支える人材として学生は、期待され、育成されていった、人数的にはエリートに近いようなものだろうと思います。それが間違ったエリート意識の裏返しのように、自分自身の“存在”を問うた時、未熟で、極左的で、急進的な行動へと、ある一定部分の学生が全共闘運動に走ってしまったのだと思います。それらに影響を与えたのは、さらに10年ほど遡る、60安保闘争の頃から共産党からはみ出でて、共産党を敵視する革マル、中核などの党派セクトでした。ですから、全共闘運動が先細りになり、それが行き着いた先は、この残った党派セクト間の内ゲバや連合赤軍事件になったわけです。

加藤氏が最後に残した言葉―2点の認識を

 放送の最後に、加藤氏の最後のまとめとして、思想的影響を与える「知識人の役割」として次の2点の認識を持っていることが必要で、それを常に意識している必要性を強調していました。

①事実の認識を―「何があったのか、どうなっているのか、」ということ。それには、何が相手で、何が敵なのかを理解することが大事。
②人間らしさを世の中に再生させるには、「だから、どうしようか、」という認識をー人間的な感覚による世界の解釈の仕方が求められる。

 この考えは、何も「知識人の役割」に限ったことでありません。現在の閉塞感の漂う社会に生きる私たち全てに、加藤氏が最後に投げかけ、求めている“現代人の役割”でないかと思いました。彼の遺言でもあると思います。

しかし、そうした考え方に従うならば、①では、全共闘運動は、先ず、敵を見誤っていました。教授会、教授等を相手にすることまでは、良いのですが、敵とすべきではありませんでした。これは当時から私たちの対応とは全く違っていました。仲間内でのいがみ合いは敵を利するだけ、本当の敵を見極めることが必要でした。②でも、はっきり言って彼らの行動は、私の考える「人間らしさ」とは程遠いものでしたそれに、民主主義の理解が全くできていないこと。民主主義が目的達成のための手段であっても、その方法論や過程(プロセス)は、それ自体が重要であることの無理解。その結果、何かにつけ民主主義を敵視し、破壊しようとしていました。確かに私自身も当時は、民主主義をそれこそ、彼らとの対峙の中で自分のものにしていきました。(只、未だに充分使いこなしていません。)ですから、私は、「だから、どうしようか」とともに「どのようにしようか」という方法、手段、民主主義の技術も同時に問われてくると考えています。

放送で紹介されたフランスの5月革命では、サルトル等の影響で「自ら責任を持って政治に参画する」ということが言われたということでした。1968年以後のフランスと日本を比較すると、この「政治への参画」が日本では弱かったと言わざるを得ません。それは、支配層の思惑からマスメディアが、全共闘運動だけを意図的に大きく取り上げ、「その挫折の末路」というストーリーがステレオタイプに流され、私たちもそれに充分に抗し切れませんでした。この点からも(他にも多々有りますが)、全共闘運動が日本の支配層からしっかり利用されたことは明らかです。

私は、この放送の前、12月に入って、3冊の新書を読みました。先ず、同世代の保守主義者―佐伯啓思氏の「自由と民主主義をもうやめる」、次に学生時代から知っていて、1年ほど前に亡くなられた大先輩の市民運動―小田 実氏の「中流の復興」、最後が、私より10歳若く団塊の世代も批判するリベラルな政治学者の山口二郎氏の「若者のための政治マニュアル」です。3冊ともBOOKSで取り上げたいのですが、なかなか時間がとりません。加藤氏は、最後に言葉(遺言)を言い残してから逝きました。―特に「2点の認識」について、私は、これを、これらの3冊の本について批評する中で確認していきたいと思っています。

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連日、わが家の片付けに大忙し

<家族> ライフ
 
連日、わが家の片付けに大忙し                                 
2008.12.15 

12月も既に中旬、このところめっきり寒くなってきました。私も11月には、妻の庭づくり手伝いをしていましたが、ここへきてさすがに妻も庭仕事を切り上げるようになりました。それに代わってこのところ連日、家の中の片付け、整理に私も動員されて大忙しです。

そもそものことの発端は、妻の小学校退職後の来年の4月以降、わが家の1階部分を中心にリフォームすることにしたことです。既に、この9月末に3年前に隣の母屋の新築(本当はリフォームのつもりだったのが、痛みがひどく新築に 白井建築 施行実績のS様邸)を担当した妻の教え子に来てもらい、打ち合わせをしました。

 その結果、現在、私は、1階の居間を一畳の押入れを書類等入れにして書斎的にも使っていのが大幅に制限されるのです。スペースは4分の1にされるので引越しせざるを得なくなりました。我が家の右隣に2階建ての物置があります。その2階が文庫と第2書斎(もともとはただの物置)になっており、その第2書斎に運び込みます。

そのために、① 置くスペースを作るため、第2書斎の掃除と片付けを行い、 ② 押入れの中の資料、書類等の整理(この際、廃棄も)と①への運搬・配置をします。これは、先週の初めから取り掛かっていますが、かなり大量で手間取っています。30年ほど前からの図書館づくり運動、昨年末からの学校統廃合問題、途中からの学校図書館問題。その他、もう整理してしまいましたが町村合併問題、場外舟券売り場問題。他にも医療、街づくり、地域・自治体問題…

これに加えて、先週の土日には、わが家の2階の元子ども部屋と妻の使用する小さな第1書斎(当初は、私が使用。いつの間にか仕事の都合で妻に)の片付け、整理、大掃除が入ってきました。来週には娘夫妻と2人の孫が高松からやって来ます。その前にやってしまおうということになったのです。それに、実は妻は、年末の数日間、家を空けます。年越しと、新年の準備には間に合いますが、大掃除等は今から前倒しでしているということです。今度の土曜日にも続きはしますが、残ったら私がすることになってしまいました。

この際、元子ども部屋にあった子どもたちの所有物も整理して、まとめておきました。姉のものは、嫁に行ったのにまだ大量に残っていてダンボール数個になりました。弟の方は、先日東京で会った時、聞くと「殆ど無いはず」といっていましたが、確かにダンボール1個に収まりました。それぞれ、いろいろと懐かしい、思い出のあるものなのでしょうが、二人とも年末に帰ってきますので、これらをどうするか本人たちに決めさせます。

そして、子どもたちが帰っていった後、来年の春先までの間、残っている片づけを済ませたり、リフォームの詳細を決めたりします。それから1階部分の引越し、2階の一部も(リフォーム中は、二人の日常生活は隣の物置の2階の文庫ですることになりそう。)一時的に引越しをするなど来年前半は、忙しくなりそうです。

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東京の地下鉄の車内でのちょっとした「幸福」 

<家族> ライフ

 東京の地下鉄の車内でのちょっとした「幸福」                            
 2008.12.11

 12月6・7日にJR東日本の大人の休日3日間有効の12000円のチケットを使って、東京方面に行って、千葉市で一日目の6日(土曜)に、かつての学童保育の親仲間等に会ったことは、前日に記事にして既にアップしています。そこで、3つほどの用件をまとめてこなすためと言いましたが、そのもう一つは、二日目の7日(日曜)に東京で仕事をしている息子とその彼女に会いに行きました。

二人は、この9月より川崎の賃貸マンションに同居し始めています。8月30日の<家族>記事「二日間の東京」で少し触れましたが年内に入籍(忙しいので、ずれるのかな?)、「来年前半ぐらいに結婚式を」という段取りになっていることが8月の両家の食事会で発表?されています。(芸能人じゃないんだけれどね)9月の引越しはこちらから手伝いに行かずとも友達に助けてもらったとのことでした。(ワゴン車に乗って手伝いに行くほどもう若くは無いのですが)

ともかく、どんな所に住むのか、(新居を)一度は見ておきたいと思い立ち、電話で「東京方面に行くついでに、お昼前後の時間に立ち寄りたいのだけど、食事は、一緒にどこかで会食か、マンションででも、そちらの都合の良い方法でいいよ」と私は言っておきました。その後、夕食を作りながらキチンドリンクしていた妻が息子に、電話で「ほら、前に言っていた築地市場の美味しい寿司屋のこと、もう洋食や中華はいいから、できたらそんなものだと嬉しいんだけどなー」と勝手に注文を出しているではないか!つかさず私は受話器を取って、「かあさんは、足ふらついて言っているのだから、忙しいのだろうから気にしなくて、そちらのやり易いようにしなさい」と言いました。しかし、結局、妻の要望通りになってしまいました。(妻の本音だから仕方がないか?←いつも私は、諦めます。)息子が言っていたのは、もう大分前の学生時代に行った市場内の安い新鮮な寿司屋のことだったのですが、この日は日曜、市場はお休み、結局、彼女が築地の少し高級な寿司屋を予約してくれました。

JR有楽町中央口で待ち合わせをすることになり、私たちは少し早く着きました。息子は、前から出かける準備に手間取るタイプで、いつものように、どうせ時間通りには、来ないなと覚悟していました。しかし、今日は、彼女と一緒。時間になったので携帯で確認したらもう直ぐ着きそうでした。それでも時間が少しあって、辺りを見ると人の行列。何だろうかと見ると、年末ジャンボ宝くじでした。それにしても列が均等でありません。見れば4列あってその一番早く買えそうな4列目に並びました。並んで、さらにその横にも窓口がいくつかあることに気づきました。そこは、もっと列が短かったのですが、面倒なので並び直しませんでした。後で、12月10日の朝日の天声人語を読んで、一番列が長かったのが、平成に入って358人の億万長者を出しているというかの有名な「有楽町チャンスセンター1番窓口」だと分かりました。時間つぶしに立ち寄った、乗り換えの東京駅の、駅中でなくその外、駅外?で妻が「たまには、あなたのセーターでも買いましょうね」と言っていたのが、私が色々と迷っていて、また帰りに寄ればということになったのが、それが結果的に3000円(10枚)の宝くじに化けました。買って直ぐに2人が到着して4人で移動し始めて、その横で腎臓移植の街頭カンパを集めているのに気付きました。何だか一瞬、後悔のような、後ろめたいような気持ちになりました。

築地の寿司屋での会食の後、近くから地下鉄に乗って川崎まで行くことになりました。(やっとタイトルに近づきました。中味は、たわいの無いことです。)日曜の昼過ぎで、車内は、それ程込んでいませんでした。私の目の前の席が一つだけ空いており、少し会食の時に飲んだお酒が回ってきていたので、私だけ先に座りました。その直ぐ後の駅で殆ど乗客は降りてしまいました。私の座った反対側がガラーンと空きました。向かって右から、乗降口、3人掛、6人?掛けと続いています。全部空いていました。その3人掛けに右から、妻、息子、彼女の順に座りました。息子を挟んで3人が何やら、楽しく、いっぱい話しているのですが、地下鉄の騒音で聞き取れません。この時、私もそれに加わりたかったのですが、如何したものか?しばらく、お酒が入った状態のいい気分で、あれこれと、たわいの無いことを考えていました。

ケース1、一番簡単なこと。私が3人掛けの隣の席(6人?掛け)に移る。-3人掛けと6人?掛けの間に仕切りがあって、3人から何だか隣でも心理的に離れる。それに彼女の隣というのも…×。
ケース2、私が妻の右側に入って一人ずつ左に席をずらしてもらう。-彼女が一人だけ隣の6人?掛けに座ることになる。…×。
ケース3と4、同様に3人の間のどちらに入っても、彼女が一人だけ隣の6人?掛けに座ることになる。…×。

こんなどうしようもないことを、ウトウトしながらも考えた挙句の結論はというと、―このまま、3人が楽しそうに話しているのを、じっと見ていようということになりました。極めて月並みですが、これが、ちょっとした「幸福」というものかなと、しみじみ思いました。3人で何を話していたのか後で、妻に聞いたのですが、結局、あまり、はっきりしませんでした。(まあ、内容は、どうでもよいのですが…)

そのうちに、地下鉄が地上に出て東急東横線に変わり、多摩川を渡ったところで、駅に着きました。駅を出て右にいったり、左に行ったり歩いて10分ほどで中層のマンションに着きました。途中で酔いは、もう醒めていましたが、どうも道順がよく分かりませんでした。スペースはそんなに大きくは無いのですが、なかなか良いマンションで、部屋も、とても綺麗に片付いていました。聞けば、実は、2~3日前にようやく段ボール箱が片付いたということ。私たち二人が、引っ越してから初めて来客だそうです。(光栄です。)彼女も「二人が来るというプレシャーが有って良かったです。」と言っていましたが、これはいつもの息子の性格のこと。仕事が二人ともとても忙しいようですが、もしかして彼女も息子と同じような性格かなと、ふと思いました。(似た者夫婦も、またいいものです。)

息子の仕事が建築の設備設計ということもあって、一つ一つの家具が、シンプルですが拘りがあり、好感が持てました。置物も、数少ないですが、「小さくてちょっといいもの」が揃えてありました。今度、旅行にでも行った時、「こんなものなら息子たちの部屋に似合うだろう」というおみやげのイメージができました。インテリアの色調も、基調は独身時代のモノトーンを引き継ぎながら、それに自然な木の茶系統が加わったという感じでした。これもとても好感が持てました。暫くゆっくり、コーヒーとケーキで話し込んだ後、帰ることにしました。そこでも道順を覚えようとしっかり観察しながら駅まで4人一緒に行きました。複雑で、結局、よく分かりませんでした。帰りの新幹線の中でそれを妻に言うと「いいわよ、駅まで迎えに来てもらうから…」という返事。何かあって駆けつけるのにそう上手くもいかないだろうと思いながら帰宅しました。

さて、帰宅して、ネットの「ヤフー地図情報」で住所を入力して付近の地図を見つけました。それで大体の道順は理解したのですが、果たして、それが今回通った道なのか自信がありませんでした。それがマンションに行った時には気付かなかったのですが、そのウラには、市立の保育園がありました。子育てのための施設は気にはなっていて、道々、私立の保育施設の存在には気付いていました。彼女も「学童保育が近くに、無いのよ」と言っていました。そこで、続いて周辺施設で保育園をクリックして、更にそこへの経路を表示させました。するとナント、マンションの近くの保育園からあの駅までの最短経路が表示されたではありませんか、そして、それがあの時通った道そのものだったのです。ヤッター!と思わず喜びました。「更新料も掛からないので暫くこのマンションにいるよ。」と息子は言っていました。この地図を見ていて、少なくとも、子どもが小学校に入る前まではここにいるだろうなと納得しました。私は、息子たちのしっかりとした生活設計を見る思いがして、安心しました。翌朝、妻に「もうすっかり、マンションへの道順は分かったからね。」と伝えておきました。

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「団塊の世代とロスジェネ世代」

<雑感>                    2008.12.10

私の「団塊の世代とロスジェネ世代」論

12月6日、千葉市でかつての学童保育の親仲間等に会って

 12月6・7日にJR東日本の大人の休日3日間有効の12000円のチケットを使って、3つほどの用件をまとめてこなすため東京方面に行ってきました。その一つがもう30年ほど前に、以前住んでいた千葉市の団地で、無認可の自主学童保育からはじめた創設期の親たち(ほぼ同年齢の団塊の世代)と指導員の先生に会ってきました。私たち家族はそこに6年間ほど関わりましたが、妻の実家の宮城県に越してきてからも交流はずっと続いてきました。千葉から家族ぐるみ団体でこちらに来たり、こちらからも時々行って皆さんに会うなどしてきました。しかし、ここ10年ほどはそれが途絶えていました。

それが、先ず、地震の直後でしたが今年の6月21・22日女性陣だけ3人が我が家にやって来ました。定年を迎えて時間的に少し余裕ができてきたためです。この時は、体調が優れない女性と亭主全員を置いてきました。(留守番組からは、不満が出たようです。)そこで今回、他の用件もあって、少し急だったのですが、こちらから千葉に出向くことになりました。集まってくれたのは、親仲間が5世帯の8人、指導員の先生が1人(こことも家族ごと付き合い)私たち夫婦を含め総勢11人の集まりとなりました。6月には妻を含め4人の女性陣が泊まりがけで喋り捲ったということでした。今回は、男性陣4人を含めて、11人。6月時点で体調が優れなかった人も回復して、今回は、皆さんほぼ、ベストの状態での集合となって、話は、いつまでも尽きず長時間になりました。

団塊の世代の特に女性たちが集まった時の話題は、妻によれば、親の介護のことと、自分の体調・老後のことだそうです。しかし、今回はそれも少しは出ましたが、多かったのは、自分たちのセカンドライフと、それぞれの子どもたちのことでした。「あの泣き虫だった子がしっかりして…」「娘が来春、ようやく結婚するのよ」「孫ができたけど亭主がよこさないのよ」「見て見て、この七五三の写真」…皆がそれぞれの子どもたちをよく知っている、仲間の中で子どもたちを育ててきた、ただ子どもを預けるのでなく、その物理的な施設から内容まで自分たちで全て創ってきました。そこから育っていった子どもたちに皆が関心を持ち、親身になります。子どもたち同士の交流も続いていますが、何よりも指導員の先生がその核になり続けています。親の消息が途切れてしまっても、先生が子どもといつまでも繋がっていてフォローし、私たちにも情報が入ります。就職氷河期に遭遇してしまった子どもたちですが、まだ若干、フリーターに留まっている子もいますが、娘では親と違って専業主婦になる割合が少し多く、男女とも社会福祉関係の仕事に就く子が目立つなどの特徴があります。これからも、この子たち(ロスジェネ世代)がどのようになっていくか皆(団塊世代)が関心を寄せていくと思います。

私の感想ー「団塊の世代とロスジェネ世代との世代間対立というが…」 に続けて

11月末のBOOKSで取り上げた-「ブログ論壇の誕生」を読んでーで述べましたが、著者の佐々木俊尚氏は、この本で団塊の世代(60歳前後)とロスジェネ世代(30~35歳位の団塊ジュニア)との世代間対立という構図を強調して描いています。私から見ると、このことは、「無益なこと、むしろ有害かもしれない」と指摘しました。特にこの本の「Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する」では、「辛抱を説く団塊への猛反発」と題して、ネットで勃興しているロストジェネレーションの世代とネットにあまり馴染みのない団塊世代との激烈な世代間対立の構造があるとしています。ロストジェネレーションの若者の嘆きと絶望、怒りは、インターネット空間の中で渦巻いているだけで、マスメディアにはそのリアルな言説はほとんど紹介されていない。そのマスメディアが体現しているのは、団塊の世代の(つくった)言論空間(古い世界)。としています。この本は、今年、9月20日発行となっていますが、「あとがき」は、今年の7月。その頃と、その後のロスジェネをめぐる論考は、明らかに変化してきています。さらに、現在では「非正規切り」が続発しているため、ロスジェネのみらならず中高年までの雇用不安に対する運動が活発になり始めています。マスメディアにも初めは、これらロスジェネの言説が、続いて運動がよく取り上げられるようになってきています。

著者の年齢は、47歳で、団塊の世代とロスジェネ世代の中間です。この50歳前後の世代は、団塊の世代を間近に見て成長してきました。だいたい、昔では、確か、「新人類」とか、「しらけ世代」と呼ばれていました。この世代の多くの人たちから、これまでもしばしば、団塊の世代は、「社会変革に挫折した」「体制内化し、日本の社会体制を維持」「社会の重荷」など、批判的に、よく槍玉に挙げられてきました。そこには、「決して、団塊の世代のようなことはすまい」、「先輩たちのようにしても結局、失敗するだけ」といった極めて冷めたものがあります。しかし、そうは言っても、現在の日本の社会は、もはやこの50歳前後の世代が中心になっています。世界的な経済危機と私たち国民の暮らしへの影響、そして、それに対処できない、政治。さらに、社会的な閉塞感。こんな情けない世の中にしたのは、団塊の世代のせい?確かに、責任の一端はあると思います。しかし、ちょっと待って欲しい。もう彼ら次の世代だって充分責任が問われてもいい年代になってきているのです。

重要なことは、そのようなことでは無いのです。前にも取り上げましたが、佐々木氏とほぼ同世代の松原隆一郎氏は、原因を「市場競争が技術革新や不均衡を誘発する一方で、社会関係まで幾重にも分断されていることなのだ。」と述べています。同じく同世代の山口二郎氏は、「偽りの対立軸の中で誰が得をしているのか」(「若者のための政治マニュアル」講談社新書2008.11.20発行)として、様々な「偽りの対立軸」はありますが、「被冶者同士をいがみ合わせること…」「不安定な生活や貧困に喘いでいる人間同士の中に境界線を引き、それらを互いに反目されれば、エリートは安泰ということになる。」としています。誰とは、「グローバリズムの進展の中で急峻に復活している富のヒエラルキーの上層に位置する人々」と指摘しています。

団塊の世代は、ごく普通の人たち

 高度経済成長の波に乗って、私たち団塊の世代は、成長してきました。比較的同じ年齢で結婚して、子どもをつくり、家庭を大切にしてきました。ニューファミリーとも呼ばれ(マスが大きいので取られた、これは、大企業の消費戦略)、家を購入して、車を買ってと、個性を求めていた割には生活がよく似通っていました。格差もありますが、その幅は比較的に小さく、また、見えにくく「総中流化」の中心でした。

よく「全共闘世代」などとも言われますが、これほどステレオタイプな言い方はないと思っています。団塊の世代の親たち(私たちの親)は、現在よりもっと貧しく、格差だってひどく、当時大学に通えたのは、2割しかいません。(奨学生、二部、夜学などの例外を除いて少し裕福な家庭の子息が多い)しかも、その大学生のほとんどは、ノンポリ(当時そう言っていた。全共闘等のセクトには、入っていないが多少の影響は受け、どれ程、彼らと一緒に行動したかはバラつきがある。)でした。私自身もそうですが、暴力によらず大学の民主化を求めた別のグループも、しっかりと存在しましたし、ノンポリにも影響を与えました。(詳しくは、また別に機会に)マスメディアが好んで取り上げていた急進的な全共闘運動のインパクトは確かに大きいものはありました。その行動はともかく、(全否定しますが)その考えていることは、多少なりとも理解できるところはあります。(私自身がいた学科が、その大学での紛争の発火点となった)しかし、当時から彼らは、結局、支配層・国家権力に利用されていた側面がありました。彼らが挫折して、社会に出てから変身してしまったのはある意味で当然の成り行きです。多少とも影響を受けたノンポリの多くが同じような気分になってしまったこともあるかもしれません。しかし、このあたりは、かなりマスメディアによって作られたイメージ操作だと思います。その当時のマスメディアは佐々木氏の本と同じように言うなら私たちよりずっと上の世代を体現していた?(実態は保守的な支配層の影響下)わけです。前のブログで、「団塊の世代の中でいわゆる「勝ち組」や偉い社会的地位に就いた人の中には、様々な害毒を撒き散らしている人がいるかもしれません。しかし、それは、ほんの一部のはずです。」と言いました。おそらく、このあたりに、挫折・変身組が多くいるのではないかと思います。

団塊の世代は、確かに就職難などなく、恵まれた環境だったと言えないこともないのですが、その進路は、ほとんど決められたもの、選択の余地は与えられませんでした。だから、その子どもたち(ロスジェネ世代)には、「人生の可能性をいっぱい持って欲しい」と願い、子育てに、教育に一生懸命でした。保育所が足りなければ、増設・改善の運動をしたり、共働きで学童保育が無ければ、自分たちで創ってしまい、自治体に後から認めさせることもしました。子どもたちを取り巻く文化的環境にも気を配ってきました。ですから、自分たちの子どもに対して、そのライフステージを予め決めてしまうなどということは、殆んど無いのではないかと思います。子どもたちには、自分たちができなかった分、夢を託し、「好きなことを仕事に」「自分らしい生き方をして欲しい」と願ってきました。佐々木氏の本での「辛抱を説く団塊世代」というのは多くの団塊世代には、当たらない指摘だと思っています。ロスジェネ世代に対して、「もっとしっかりして」と思っていても、決して突き放さない、受容してしまうのです。パラサイトシングル、フリーター、ニートは、根本は社会的な問題ですが、こうした団塊の世代の親という存在を抜きにはありえません。団塊の世代がそれを許してきたという批判がありますが、私は、むしろ、大きな団塊の世代が一定の安全地帯になってきたという見方をしています。まだまだ団塊の世代についての分析(過去・現在・将来について)は充分に行われているとは思われません。少なくとも、団塊の世代を、特にその考え方を一括りにして論ずることは意味がありません。ただ、はっきり言えることは、団塊の世代の多数派は、ここへきて、リストラなどの影響は出ているものの総じて「中流」、人並みで、ごく普通の人たちだということです。

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