触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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『学力と新自由主義』を読んで

<BOOKS> (29)
『学力と新自由主義>「自己責任」から「共に生きる」学力へ』を読んで  
2009.11.16

著者:佐貫 浩
発行:大月書店 2009年2月20日

著者について
1946年生まれ。法政大学キャリアデザイン学部教授(教育課程論、平和教育論、教育政策論)。教科研副委員長、季刊『人間と教育』編集長。著書に「教育基本法「改正」に抗して」(花伝社2006年)「学校と人間形成」(法政大学出版局2005年)「イギリスの教育改革と日本」(高文研2006年)など、共編著に「新自由主義教育改革と日本」(大月書店2008年)。

<内容紹介> ― あとがきより ―

 1990年代に始まった日本社会、いや世界の構造転換ともいうべきものの姿が、しだいに明確な姿をとって、私たちの前に現れてきている。二十一世紀社会をいかなる社会として作り上げるかという問いはいま、ようやくひとつの焦点を結びつつあるかに見える。平等と人間の尊厳、平和と維持可能な生産と環境、そして人間のつながりと共同… いま鋭く現実社会を批判し、未来のありようを指し示す理念として人々の心を捉え、行動と実践の指針となりつつあるかに見える。そういう大きな変化の予感の中で、教育学はまさに現代批判と未来創造への人間学として、これらの理念をその教育学と教育制度、教育実践の根幹に明確に組み入れなければならない。

<目次>

 序 いま、学力をどう議論すべきか
 Ⅰ 「生きる力」とコミュニケーション
  第1章 教育改革をめぐる対抗の構図
  第2章 新学習指導要領の学力観
  第3章 教育実践としてのコミュニケーションの創造
  第4章 コミュニケーションと道徳性―エンパワーメントとしての道徳性を構想する
 Ⅱ 「学力」とは何か
  第1章 「学力」把握のためのモデル
  第2章 基礎的学力と基礎的知識
  第3章 習熟―知識を生きる力へと組み替えるプロセス
  第4章 学習意欲―競争の意欲から参加・共同の意欲へ
  補 章 学力をめぐる論争の系譜
 Ⅲ 「共に生きる力」に向けて
  第1章 「意識化」と教師の役割
  第2章 「思想化」と公共性
  第3章 学力像の転換と学校の再生―大阪・私立千代田高校の実践から
 あとがき

<内容からのピックアップ> 

序  いま学力をどう議論すべきか―「自己責任」としての学力観の克服をー

*「生きる力」という学力政策の幻想

・学力が「生きる力」として有効に機能するためには、その力を獲得することで人が人間的に生きられる社会的土台、条件が提供されることが必要。教育改革とその一環としての学力政策は、人が人間的に生きられる社会システムを作り出す社会改革と組み合わされてこそ、意味あるものとなる。

・新学習指導要領…中教審答申には、なぜ子どもが生きられないのかという子どもの困難の分析が全くない。子どもの困難への関心を捨て去り、学力の低下という問題に課題を単純化して、個々人の学力を高めれば、子どもや青年の困難を克服でき、社会の活力が回復されるかのように言うことを、無責任きわまりない。

*自己責任論としての学力

・「自己責任論」―「被害を被っている側に「自分に責任がある」と感じさせてしまう、困難を内閉化させる抑圧様式。」(中西新太郎)抑圧されたものを徹底的に無力化する思想的回路。

・「生きる力」という概念は、それが今日の教育政策を正当化する理念として使用されるとき、まさに「自己責任」イデオロギーの抑圧性と無力化作用を、子どもに及ばす。

・権利としての教育・学習の理念は、社会の側から個人に強制された無力性を克服する個人のエンパワーメントとしての教育を求めている。

ユネスコ学習権宣言「学習権とは/読み書きの権利であり/問い続け、深く考える権利であり/想像し、創造する権利であり/自分自身の世界を読み取り、歴史をつづける権利」「人々を、成り行き任せの客体から、自らの歴史をつくる主体にかえていくものである」

・「生きる力」理念は、生きることができる個人の力、学力を獲得せよ、さもなければ生きられない苦難を甘受せよという新自由主義のメッセージとなって、子どもたちを襲っている。

・自己責任化された学力概念―ひとつの典型「コミュニケーション能力」―生きづらいこと、いじめを受けることは、コミュニケーション力の不足の結果だというのだろうか。関係の病理は、関係それ自体を組替える実践によってこそ克服されなければならない。

・コミュニケーション教育とは…スキルを鍛えるといことでなく、支配的な関係性を…批判し、組み換
え、子どもが生きる空間につながりや協同、共感、安心、平和、等々の関係を組み込んでいく教育実践の一環としてこそ遂行されなければならない。

*学力概念の二つの側面


①・学力概念―日本型受験学力競争の中で、進学、社会的地位の獲得を自己責任の努力の正当な報酬と見なすことを求めるものとして機能してきたのではないか。(新自由主義の自己責任イデオロギーに浸透された学力概念の蔓延)

・職業や学習コースへ配分するために、能力主義の評価基準としの学力概念の持つ避けがたい性格だろう。→ その配分をいかなる正義に依拠して行うかは、学力自体の内在的な性格や差異では決定されない。→ 社会的な配分の不正義は、学力問題としてではなく、社会的配分における正義概念の組替えによってこそ、克服されなければならない。皆が学力を高めれば、社会的配分の不平等が克服されるという主張になにも根拠はない。

②・学力という概念は・・人間が主体的に生きる上で、どういう質をもつ必要があるか? 知識や技がいかなる方法によって教育させられるべきか?― 学力のもつ全体構造は、すべての部分が数値化可能なものとして現れるものではない。

・学力テストー 数値化、競争のシステム…数値化可能な領域の狭い学力の獲得への獲得に矮小化する危険性。

◎ 学力研究の課題― 学力とはなにか、学ぶことがどのように主体的営みとして成り立つか、これほど勉強嫌いになっている現実に即して深く検討すること、子どもたちの学習のあり方を吟味、改善する学力概念の構築を。

*「生きる力」としての学力はあるのか

・日本型受験学力は、知識の記憶とパターン化された応用訓練により、一定の高さを維持してきた。―受験圧力が高まるほど、「効率的」な知識の記憶と操作訓練が強められる悪循環に。大量の勉強嫌い。→ 勉強は点数をとるための苦役として耐え忍ぶこと、その訓練に耐える人格的な力が将来を保障する、との人間像が蔓延。

・知識を使って、自分が直面する課題を解いたり、未知の課題を自分で調べて解決する、本当の意味での自分の生きる道を拓く学力の獲得に日本の教育は、成功してこなかった。

・高度成長時代は、学力競争は、豊かさの追求のための手段と捉えられた。90年代後半以降は、社会的排除者をあぶりだすような機能を強めた。

・「生きる力」としての学力を発動させることは、すべての子どもを人間として誇りをもって生きさせることを基本にしてこそ可能であり、その逆ではない。自己責任論の、「生きる力」としての学力が獲得できてないことが、生きられないことの原因であるとする論理は逆転している。

・子どもの生きる場はどこにあるか。今、生きられない場に、生きる希望をくみこむことによって作り出すしかない。
―現に生活し生きている空間を、新自由主義の論理から人間尊厳と連帯を基調とするものに組替えること。

・「生きる力」を育てる教育は、困難のなかにある子どもの願いに共感し、励まし、意識化し、連帯することによって進められなければならない。問われているのは、大人と教師が子どもにどんなメッセージを送るかである。

・学校教育の人間的再生のためにー教師が、子どもたちに、新自由主義の代理人としての「競争」メッセージを送る大人として子どもの前に立ちふさがることをやめ、生きられない困難を抱えた子どもの願いを聞き取り、その人間としての尊厳の回復の道に寄り添い、子どもの願いを共に生きようとしている大人として、子どもの前の現れること。新自由主義の社会改変によって生み出された格差や貧困、人間の尊厳を踏みにじる現実に立ち向かう人間として、子どもの前で生きること。 

Ⅰ「生きる力」とコミュニケーション

第一章 . 教育改革をめぐる対抗の構図

*新しい学力テスト体制のもたらすもの
ー「日本型」化されたPISA型学力への批判の視点―

 新指導要領(2008年3月)で、教育基本法「改正」の狙いを具体化する学校教育改革のための5点セットが出揃う。①学校選択制、②学力テスト体制、③学校評価・教員管理システム、④新学習指導要領、⑤教育振興計画―教育行政と教育実践過程の全体に及ぶ、プロセス管理システムが出現しつつある。新自由主義とそれを補完する新国家主義の教育改革が連続的に教育現場を改変しつつある。

・新指導要領は、「生きる力」と言いつつ、子どもがなぜ生きられないのかという本格的な問はない。学力不足だから生きられないと決め付け、その競争力の不足を自己責任として子どもに背負わせ、PISA型ドリルに取り組めは生きられる空間が開かれるという。

・新指導要領は、狭い意味の基礎学力にとどまらず、人間の創造性を「応用力」、他者とのつながりを「表現力」や「コミュニケーション能力」、社会規範に従い社会参加する力を「規範(力)」や「国を愛する態度」として「生きる力」なる「学力」に読み込み、この「学力」を獲得すれば、人間力が回復され、社会で主体的、関係的、応用的に生きられるようになり、社会の諸矛盾や学校の病理も回復されるという、驚くべき「学力還元主義」が見られる。

・このような理念に依拠した新学力テスト体制が、OECDのPISAテストによって正当化されている。

・根本的な問題をもつ日本のPISA型テストー PISAテストやその背後にあるキーコンピテンシー論と比較してー

(1)PISAは抽出調査。学力の現状を比べるものではない。日本は、学校教育を制御するシステム

(2)キーコンピテンシーは、①「ツールを相互作用的に活用する力」(リテラシー)②「多様な社会的グループにおける人間形成力」③「自立的に行動する能力」という3つの核。

 ― この中のリテラシーだけを受験学力として獲得させても②③は、獲得されない。子どもが人間として主体的を持ち、また他者とつながって未来への希望をもって行き、その日の生き様が励まされ、支えられる中で、リテラシーの獲得が子ども自身の要求となる。

(3)PISA型学力は、福祉社会や青年のシチズンシップ保障とつながれたとき、コンピテンシーの獲得が社会的排除からの脱出して社会参加していく不可欠な力の獲得とつながる。
 日本の自己責任論の土俵では、競争の勝利者に残るための力量として「生きる力」が把握され、それを獲得できないものは社会から排除を自己責任で受止めねばならないことにされてしまう。

(4)西欧でのPISA型学力は、社会構造と一体化したもの。(社会参加、環境適応型社会の構築など、社会変革の担い手としての子どもにいかなる力を求めるか、などの課題と結びつくもの。)
弱者を平然と切り捨てることで競争力を確保しようとする冷酷さ、国民の安全や福祉の視点を欠落させて社会の格差化を加速させる日本の政治や経済のもとでは、PISA型学力はグローバル経済市場で勝ち残る労働能力へと一面化される。

つながりの喪失とコミュニケーション

・1960年代からの高度成長の「企業社会」の中で、個人は、市民として社会とつながる方法、人権概念の中核として自分達の生活を組み立てる価値意識と方法を充分に鍛えることなく生きてきた。―よい学校、よい企業、豊かな暮らしー
それが、グローバル化の中で、→リストラ、低賃金に対して、企業と一体化した個人の意識が資本の側に同調して、この人権剥奪に抵抗する力を発揮てきない脆弱性をあらわにした。―それが、競争を生き抜く以外に、未来への見通しはないというメッセージとなり、子どもを駆り立てている。

・子どものコミュニケーションー 孤立しないための自分のポジションを確保する戦略的な行為にー強者への同調、「やさしさ」の演出という自己表現の反対物に変質させられようとしている。
 気遣いにつかれた子どもは、共感できる他者を見つけられず、孤立不安状態の中で、競争に追い込まれ、自信を失い、希望を失っていく~ 希望剥奪の空間、絶望を強要する社会に /秋葉原事件

・人間的な思いの表現、弱者としてのままで、弱者として連帯することで、主体的を取り戻し、いま生きている「生きにくい」社会と空間をつくりかえていく主体としての自覚を呼び出せる/思いをつなぎ、共感し、人としての尊厳を声に出し、連帯を回復するコミュニケーションの再生ことが求められている。

・新自由主義の空間では、コミュニケーションは、他者に勝ち他者を支配する能力として学ばれる。

*子どもが「生きる」ことをささえる教育を

・新学力テスト体制の浸透によって、-上からの指示・報告文書作成、行政の無理難題に振り回され、学力テスト点数を競わされ、熱心な教師が体力と気力を消耗しつくし病気・退職に追い込まれていく状況を放置すれば、上からの点数化された課題にだけ要領よくつきあうスタイルの教師だけしか生き残れない状況に。それは、教師のモラルの低下を招き、学校が、上からの管理と評価によって動かされ、学力テストで受験学力を競う塾的機能、国家意識を教え込む人格統制機能、となってしまいます。

・そのことと結びついて、子どもに提供される学習内容が、今日の日本と地球社会の切実な課題と断絶。中教審の教育目標は、企業の期待する労働力であり、将来雇用された場での利潤獲得と結びついた時にリアリティを獲得する競争的能力。

・世界的・歴史的課題に閉ざされたままで、競争のみに生きようとしてる日本社会の希望喪失、目標喪失が、子どもの学習意欲を崩壊させている元凶にほかならない。

*.教育改革への視点

・公教育の再生―それを担ういかなる教育専門労働を作り出すかー親、地域の直接の関心事、要求。-その要求を、子どもを抱えた親や地域と学校・教師とが直接対面する共同の討論過程に付し、合意の実現過程を担うものとして教師の仕事とその専門性を位置づけなおすことが必要。教育労働の抜本的な改善・改革が社会的な合意として支持されるための質と論理を組み込んだ、下からの、学区からの教育改革運動が組みたてられる必要がある。

 教育労働、保育労働、医療労働、福祉労働、自治体公務労働等―人と人とが直接繋がり人を支える労働、コミュニケーション的労働―が新自由主義政策の中であまねく多忙化、非人間化、管理化、低賃金化され、人として生きていくセーフティーネットが崩壊に危機にある。これらの労働の人間的な質の維持、回復は、日本社会の人間的再生のための戦略的な意義を持つたたかいとして、国民的な課題となっている。

・教育とは…希望を大人が創り出し、その知恵を子どもに伝え、一緒に未来を作り出す協同へ子どもを引き入れている仕事でなくてはならない。大人と教師が、社会の困難や正義の喪失と必死でたたかい、子どものそばで熱く生きることを、子どもの希望として、子どもに示すことが必要である。そしてそういう大人の協同者として成長してくれることを子どもへの期待として率直に表明を。

子どもの権利を実現する教育改革、教育再生への道は、そのような大人と子どもの協同をいかに築き出せるかにかかっている。

第二章 新学習指導要領の学力観

・新指導要領の基本的な骨格と内容を提起した中教審答申(2008年1月)では、PDCAサイクルを目標管理のシステムとして学校に組み込む方向が。同時に「PISA型」の学力理念が強調され、「活用」力、「表現」力、「コミュニケーション」力など新たな学力像、人間像が土台に組み込まれている。

*.ハイパーメリトクラシーと「生きる力」という理念

新指導要綱は、「生きる力」の理念で全体が統合されている。この理念は、子どもを人間として生きさせる理念でなく、グローバルに資本の必要とする人材能力。その能力を獲得させる効率的な教育訓練プログラムを「人間力」形成という名で求めている。―子どもが生きることでなく、子どもの所有する「能力」にのみ関心が限定。―学校空間は、要素化された「生きる力」を競い合う激しい競争的学力訓練場、子どもが生きられない空間に。

・グローバル化の進展の中で、先進国では産業の構造的変化が進行し、IT技術を中心とした情報産業、世界の経営を指揮監督する管理労働、金融業、「豊かな生活」を売り込むサービス産業が中心となる。そうした構造に対応したエリート(技術的エリート、政治や経済をリードする管理・統治エリート)の養成が死活的課題に。彼らには、対人関係を取り結んでいく高度な人間関係力(非認知的で非標準的な感情操作能力)が求められる。-「ハイパーメリトクラシー社会」「知識基盤社会」

・同時に、情報産業やサービス産業の下支えとして、データ打ち込みなどを行う大量のコンピューター関連労働者が出現、国内に残存する製造業、運輸・販売、サービス業などを担うマニュアル労働、単純労働に従事する低賃金労働者が大きな層をなす。

・「知識基盤社会」とは、それに対応するエリートの能力を基準にして、それを絶えず選別していくシステムを正当化するイデオロギーとして作用する。

・同時に「生きる力」という理念には、新自由主義社会が引き起こす社会分裂と底辺階層の困難を「自己責任」として個々人が引き受けて生き抜く力を求める。さらに、日本という共同体を担うことに生きがいを見出す「生きる力」をと。その結果、生きる力を補完するものとしての「自己責任論」と「ナショナリズム」の形成が意図されている。

・生きる力は、能力要素(理解力、応用力、コミュ力、表現力など)に分解され、その要素に対応する訓練を施して獲得されれば形成できるという論理に貫かれている。

*.PISA型学力とのキーコンピテンシー

・中教審「答申」は、日本のPISA型学力把握は、「生きる力」と同じだという。

・だが、PISA型テストは、キーコンピテンシー(主要能力)の三つ全部ではなく、「①社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する力」としてのリテラシーを計測するテスト。PISA調査は、アンケートなども合わせることで、「②人間関係形成力」や「③自立的に行動する能力」をも若干は調査している。しかし、そういう「アンケート」には、テスト圧力は働かない。PISA型テストでは、ある程度「リテラシー」を競わせることはできても、「人間関係形成能力」、「自立的に行動する能力」の獲得それ自体を課題化し、競わせることはできないもの。

→ 「答申」は、PISA型テストが、3つのすべてのキーコンピテンシーを獲得目標にしたテストであるかのごとく誤解されている。

・「誤解」のため人間関係形成能力、自立的に行動する能力も「○○する態度」「○○しようとする姿勢」などとして躊躇なく数値的な学力評価に組み込まれ、人格を数値で評価、統制する危険性を持っている。

・松下佳代「リテラシーと学力」より
人間力戦略研究会のいう「人間力」は、(PISAの)コンピテンシーに含まれている「民主的プロセス」「連帯と社会的結合」「人権と平和」「公平、平等、差別のなさ」「生態学的な持続可能性」などの価値が軽視ないし無視されていると指摘し、それは「企業社会のコンピテンシー」であると指摘。

・重要なことは、人間関係形成能力、自立的に行動する能力というコンピテンシーの形成という生きることの土台を展開してこそ、その上にリテラシーというコンピテンシーが展開していく構造を持っている。
―リテラシーという概念は、主体的な目的と能動的な関係性を生きる主体によって使いこなされる知として把握されるべきもの。―関係を発展させないまま「人間関係」のコンピテンシーを育てたり、「目的」を子どもの中に育てないまま「自立的に行動する」コンピテンシーを獲得させることはでない。

*.「活用・応用」とは何か

・新指導要領の問題点―基礎・基本の獲得と活用・応用が、段階的に区分され、相互に矮小化されている。
 基礎的な知識が応用と結びつくには、ひとつひとつの概念や知識の獲得が、子どもの生活にどんな価値をもっているのか、世界をどのように切り開いてくれるものなのか、感動をもとなって学んでいくことが必要。また、その過程で、自分で考え、みんなで議論し、その新しい知識や概念を使って、新しい思考や表現や想像力等々を獲得していくことが不可欠。

・しかし、競争として、勝ち残りへの挑戦は、基礎・基本、活用・応用も、子どもの興味や意欲に主導されることなく「訓練」としていく返しされるものになる危険が大きい。→ PISA型「応用問題」をこなす受験学力、スキル訓練となる。

・「生きる力」は、教育の道徳主義化をいっそう強める可能性。「学力」の達成度は、具体的な行動や態度としてパフォーマンスで証明されなければならない。子どもの学習に「活動主義」「態度主義」が深く持ち込まれてくる。「関心、意欲、態度」評価。生きる力の「活用」「応用」として態度で演じることを強要される。教師による「人格統制」の危険性。教科にまで「道徳教育」の視点が強調されるようになった背景の1つ。

*.子どもがいまを生きられるようになる取り組みをこそ

・生きる力を高める学習は、現にいま、自分の生活の中で、人間として自分の存在に確信を持って生きるという状況の創出と深く結びつかなければならない。

・生きるとは、自らの目的を持って主体的に生きること。他者とつながり共同を作り、公共性をともに担い、関係の中で他者と支えあって生きるということ。だから、この中で、知識を使いこなすリテラシー獲得の学習意欲が喚起される。
―訓練プログラムによる要素的な「生きる力」の獲得では、生きること自体は、いっこうに発動しない。

・「答申」の「生きる力」に対抗するには、学力がないから「生きる」ことができないという論理を打ち破らなくてはならない。―主体的に生きるということは、力の有無にかかわらず、自分の目的を追求し、その目的を実現していく過程として日々の生活や学習を意欲的に生きるということ。そのためには、今、生きている生活の中の願いや希望、怒りや批判、等々の主体性の契機や芽をより意識化し、意識的目的や願いへの挑戦的過程として日々を、また学習生活を生きることが必要になる。―生きる力の形成は、能動的に生きるという主体のありようを作り出すことを核としてこそ実現される。

・参加とは・・・主体の能動性を実現する場。学習は、参加と結びついて展開される必要がある。すべての子どもが参加という関係の中に位置をしめることで、主体的に生きることが可能となり、能動的に学ぶことができるようになる。

・参加を支える力―①労働能力に関する知識、技術など ②統治と共同のための能力 ③それらの共通の土台としての批判的認識とコミュニケーション・表現の能力。日本の教育は①に偏重、縮小。/統治能力の剥奪、シチズンシップの視点の欠落―参加の能力を支える教育課程の全体性の回復が課題となっている。

・「答申」は、「学習意欲」を「学力の重要な要素」と位置づける。よって、学習意欲がないのは、学力がないからだ、という奇妙な論理に組み込まれる。学習意欲は、決して学力の「要素」ではない。人格と知識の関係性のあり方の中に学習意欲は存在する。人格が学習意欲を獲得するには、参加という場に子どもが主体的に参入することが不可欠。

第三章 教育実践としてのコミュニケーションの創造

*「コミュニケーション力」を獲得せよとのメッセージ

・新指導要領は、「生きる力」を、個人の所有する学力として把握し、社会参加の困難、生きられないという問いは、社会的背景に向かわず、個人の力の欠落としてみる。

・子どものリアリティ ー 居場所を確保するコミュニケーションバトル。学力競争空間、友だち地獄の空間でも、コミュニケーション力のないものは生きられない。人をつなげるものが、人を支配と従属の関係に組み込む方法として機能する。

*表現の自由の抑圧とコミュニケーションの「戦略化」

・コミュニケーション不全の第一の理由は表現の自由の剥奪。―コミュニケーションに異常な配慮を求められる「優しさを装うゲーム」の囚われ、そこから抜け出せないで疲れ果てているコミュニケーション病理。その空間の中で、他者から攻撃を受けないで自分を守る、孤立に陥ることを避けるには…という、その中でのサバイバル戦略としての「自己表現」に。真の自己表現としてのコミュニケーションが喪失。―「共存性の危機」が進行している。  

・教育の課題は、個人の「コミュニケーション力」の欠落を「自己責任」として追及することではなく、「共存性」を再構築するための新しいつながり、関係性の再構築にある。

・コミュニケーションは、他者との敵対的競争関係にある中では、生き残りの戦略の一環、戦略的コミュニケーションへと変質し、自己表現の反対物に転化していく。

・いじめ戦略―「孤立化」「無力化」「透明化」の段階を経る。「孤立化」の第一は「標的化」し、孤立化させる。そして、「無力化」-反撃が無力だと観念させ、内面をも支配し、加害者の感情に従属して生きるようにさせることで、いじめは「透明化」する。暴力を背景にした戦略的コミュニケーションによって、着々と達成されていく。(横湯園子)

・そうした空間では、苦しみや悩み不安の表現は抑圧され、封じ込められ、自己への共感や支えを求めるメッセージは封印される。いじめの戦略が行き交うコミュニケーション空間で、状況を把握できない教師によってSST(ソーシャルスキル・トレーニング)が持ち込まれると、被害者は、一層の惨めさや不安を味わうことに。

*新たなコミュニケーションの回復としての教育実践

・コミュニケーションは、個々人に所有されたスキルという部分を持ちつつも、もっとも重要な核心は、それがそこにある社会的関係に浸透されつつ、同時にその社会的関係を組み替え創造し直していく変革的実践として、まさに対抗的なものとして創出され続けていくものとして存在している。

・コミュニケーションの変質の中で、子どもたちは、新しい正義や価値規範を組み込んだ主体的な関係を構築できない状況に置かれ支配的システムの中で「成り行き任せの客体」として生きることを強いられている。個人の切実な思いを、公的な空間へ運び、他者と感受しあい、新しい公共空間をつくる力が、コミュニケーションから剥奪され、暴力的な空間の中で、生き残りのための同調と勝ち組に加わるためのパワーゲームの手段と化している。

・子どもの自由な表現とコミュニケーションの主体へ成長させる主体化と平和の教育が求められている。

*子どもの社会認識を閉ざすコミュニケーション

・子どもの中に、社会的関心、社会認識が育っていないと言われるが、同時に、自ら命を絶つほどの厳しさを生きている。
 子どもたちは、その生活をある仕方で必死に生きさせることを強いる認識の枠組み、世界像を持っている。―そこを読み解かずに、一方的に、子どもの「社会的無関心」を「空白」と捉え、その「空白」を「科学的」な、あるいは「道徳的」な社会認識で埋めようとしても、意味をなさないだろう。

・学力競争の中で、子どもたちは、競争に囚われ、そこでの自分の位置を確保するために懸命に生きている。その結果としての社会的関心の低さは、競争イメージによって描かれた社会認識枠組みの肥大化によって、それ以外の社会の意味が無価値化した結果である。

・コミュニケーション活動も、同調と孤立をめぐるパワーポリティクスの中で、生き延びるだめの戦略ゲームに転化。― 本音としての自己表現は抑圧される。関心は、その内部の関係へ拘束され、閉じられていく。

・子ども世界の同調と排除のシステムは、人権感覚を剥奪する。 異質なものを排除する同調ゲームに巻き込む。人間的共感力を閉ざし、誰がいじめに会おうが「平気」を装う感覚、世界の理不尽さを淡々と認める感性と力、「無感覚」が訓練される(中西新太郎)

・子どもの世界への暴力の浸透により、「人格の解体、子どもの「世界喪失」が引き起こされる。」(竹内常一)

・「学び」と「参加」に意味を見出せず、撤退していく。「世界」「他者」「自己」の呼びかけに応える人格主体であることをやめていく。

・現代の新自由主義の社会 ― 個人の力のむき出しの競争場へと後退させられていく。そういう社会が克服され変化するという感覚=歴史感覚も困難になり、変革不可能な土俵の上で競争が展開され、その結果は「勝ち組」と「負け組み」に社会を分断する。弱者は負け組として、共感しあい連帯する中で、新しい生き方や共同が立ちあがることを見通せなくなり、弱さを覆い隠さなければ生きていけない空間となる。

・その結果、青年の社会参加の意欲が減退していく。

*新たな公共性を立ち上げるコミュニケーションを

・社会認識の形成とは、外から「正しい」認識枠組みを持ち込むことではなく、子どもたちを拘束し厳しい生き方を強要している社会の現実を捉え、対象化し、それとは異なった新しい生き方を見出し、それを選択する認識や勇気を子どもの中に切り拓くこと。

・主体的な参加とは、人と人との関係の中に入り、その関係に介入し、その関係を変えていく。「介入的参加」

・システム、価値体系に同化する参加は、自分の位置を確保しようとする受動的参加。競争の中の強迫的同化。― この介入と同化の力学がコミュニケーションの質を左右する。

・コミュニケーションは、言葉に担われて発展。幼い子どもは、親密圏でのここちよい働きかけを受け、自らの思いを言葉に載せて表現する力を獲得し、また他者からの言葉の意味に対する感応力と応答責任力を獲得。それが暴力、競争による共同関係の破壊の中で、コミュニケーションは抑圧され、不全が生じる。

・親密圏における困難は、公共圏の立ち上げを困難にする。 
戦前/公とは御上、家族共同体の延長として把握されてきた。親密圏と公共圏の連続性。 
市民社会/国家は共同体の延長ではない。親密圏はそのまま公共圏に連続しない。親密圏で獲得した力量を土台に、独立した個々人の関係を、社会的な規範・約束を介して、社会関係を1人ひとりが改めて作り直すことが必要になる。 ― それにより、共通の規律と価値の上で共に生きる世界が立ち上っていく。―親密圏で、他者への感受能力、共感力、人の尊厳の感覚がどう獲得されてきたかが重要になる。

・公共圏で他者との応答関係を築けない状況 ― 「親密圏にいる人間に対しては関係の重さに疲弊するほど高度に気を遣って、お互いに『装った自分の表現』をしあっているけれども、公共圏にいる人間に対しては、匿名的な関係さえ成立しえないほどにまったく無関心で、一方的に『素の自分の表出』をしているだけの若者たち」

・公的世界に主体的な自分たちの公共圏を立ち上げない限り、公的世界は同化圧力を及ぼす支配システムにとどまる。

・主体的な参加は、公的世界に組み込まれた方法を使いこなし、積極的な自己表現と価値をめぐる衝突と合意を繰り返す、複雑で葛藤の世界。応答責任を介した公的世界の形成が困難になるとき、民主主義も立ち上がっていかない。政治参加が困難になるひとつの背景。

・子どもたちの世界に公共圏を立ち上げるためのシステムや自治と参加の制度を作り、子どもたちが担えるようにするためには、
 ①競争と暴力の支配的価値から解放し、新しい思考と価値創造主体としての自由を発揮できる平和の空間の保障。
 ②社会的弱者へと押しやられた自分を拠点とし、生活体験や社会関係から新しい価値を紡ぎだす学習。
 ③コミュニケーションを通じて公共圏を立ち上げ、公的世界を自ら主体的に生きる空間に組替えていくこと。

・「子どもを人格主体として尊重すること」/「自主的に判断し、行動する主体として遇すること」/不安や怒りは、つなぎ合わされ共感を得ることによってこそ、主体性を人々の中に発動させる。

・コミュニケーションとは、個人の能力である前に、人と人とが、他者との間に作り出す関係性として創出させるべきもの。 ― 子どもが模索しているとき、教師こそ、新しいコミュニケーションの担い手として登場する必要がある。

・関係をくみ換え、関係をひらき、そして公共圏を立ち上げる表現とコミュニケーションの力を子どもの中に組織し、子どもを「みずからの歴史をつくる主体」としてその生活に意識的に参加させる生きさせること、そしてその文脈の中に学習を位置づけ直し、学習の本来の構造を回復することこそ、学習意欲回復の基本的な方法とされなければならない。

第四章 コミュニケーションと道徳性

*今日の子どもは道徳性を欠落させているか。

・いま子どもたちは、仲間世界の規範や掟に縛られて身動きできなくなっている。集団の持つ作法に従うことで、集団の規範を強く内面化している。よって、大人社会から見ると、道徳が欠落しているように見える。

・子どもは、強迫的ともいえる仕方で、この集団の規範への同化の圧力のもとにおかれている。(道徳の欠如ではなく、)その集団の持つ関係性が引き起こす病理の中に囚われていることで生じている。

・もうひとつの事態、-「よい子」現象- 社会や親の期待にそって競争に参加し続け、必死に「よい子」像を演じている。「よい子」が「キレる」現象は、社会規範の内面化の努力が限界に達し、その同化圧力から脱出するために、他者との関係を暴力的に絶とうとするものであろう。道徳性を欠いているという論理は、事態の本質を正しく把握してない。

*コミュニケーションと道徳性

・コミュニケーション不全―社会的な価値規範に自己を強迫的に同化させるための行為としてダイエットを。圧力から自己を防衛する別の選択が「オタク」化。

・このコミュニケーション不全の契機となるのが、コミュニケーションの戦略化―表現から道徳性を削ぎ落とす。戦場のサバイバルゲームでは、相手の行動を先読みして他者を打ち負かし、自分に有利なポジションを確保するためのもの。そこでの表現は、本当の自己表現ではなく、計算された、装われた戦略行為となる。

・ハーバーマス コミュニケーション行為を、「発語内行為」と「発語媒介行為」とに区別する。
「発語媒介行為」― ある目標を達成するために、言語に媒介された戦略行為/制裁がその背後に持つ。
「発語内行為」―相手に働きかける行為、その効果は、内容が、受け取る相手の要求する「妥当要求」を満たすことによって、了解される場合にのみ実現される。/平和的、自由を保障によって実現される。

・本来のコミュニケーションは自己表現であり、自己を他者に伝達し、そこに共感や相互理解を形成し、他者と共に生きる営み。→それを反対物へと変化させる。自己の本心を明かすことは危険な行為となる。子どもはこの戦略的なゲームを通してその社会を支配している論理(新自由主義)を、どうしたらその空間でサバイバルできるかという視点から内面化する。競争と暴力の空間で必死に生きている子どもの必死の努力を無視して、大人世界の道徳規範を強制しても、子どもが自らの行動規範とすることはない。 ― そうすればサバイバル空間を生きていけなくなるから。

・コミュニケーションは、なぜ道徳性を成立させることができるか。
 規範にそった行動が利益となればルールが内面化される(Exパブロフの犬)が、それだけでは不十分。―共感力が大きな力。他者の思いに共感し、共感するものの心の内側に再創造される。それが個人の内側から、感情をともなって突き動かす。道徳性の基本原理は、他者への思いやりでなく、他者への共感を媒介に、むしろ自分自身を内的な思いに突き動かされた行為として創出される。

・道徳性の獲得は、共感力、すなわち他者との人間的な関係性の獲得として進められるべき。

*エンパワーメントとしての道徳性の獲得と応答責任性

・本当の自分を表現することに対する躊躇と断念は、弾圧だけでなく、他者との対立、葛藤の恐れからも生じる。
①自信喪失や表現すべき自分への信頼感の剥奪、自己責任論の蔓延。それらは、自分の弱点を他者から隠さねばという思いを強める。 ②暴力。特に継続的な暴力は、従順に振る舞う戦略を強要する。 ③強度の同調。同調の拒否による孤立がいじめの対象となる。「空気を読む」能力が求められる。

・ジュディス・ハーマン・精神科医「心的外傷と回復」
 トラウマを引き起こす外傷的事件は「対人的関係の破壊、それによる『セルフ』の解体、信念体系の空洞化、実存的危機」を引き起こす。「心的外傷の体験の中核」は、「無力化と他者からの離断である。だからこそ、回復の基礎はその後を生きる者に有力化を行い、他者との新しい結びつきを創ることにある」と指摘。―自己の無力化に抗する道を拓くには、本当の自己表現の回復が必要である。

・道徳性は、自己の抑制、縛るものと捉えられることもあるが、主体的な自己の創出過程と切り離せない。また、他者との関係性に対象化されて具体化されるとすれば、その関係性を積極的に切り開くことで創造される。

・道徳性の形成・回復は、人間的なコミュニケーションを回復し、共感を土台に、他者への働きかけ、関係を形成する力の増大と結びあわさるべきー道徳性の獲得とは、それ自体が人間的な力のエンパワーメントである。

・言語的コミュニケーションは、論理や価値を介して互いの了解を高めあう行為。キャッチボールの過程は、他者の判断力を依拠し、人々が自分の力を他者に及ばす過程。したがって、いかなる強制力にもよらない、平和的な働きかけであり、相手の自由を保障し、それに依拠してなりたつ。

・対話と表現の課程は、自分を対象化し、自分と向き合い、自己を他者との関係性の中に組み込み、応答責任関係を構築していく過程。他者の問いかけに誠実に応答し、そういう応答関係の中で、互いを尊厳を持つ他者として位置づけ、討論し、共につながって生きる共同の関係、「共世界」(ハーマン)を作り上げていくことが、この応答責任を互いに背負う関係の中で進められる。―対話における道徳性の核心は、この応答責任関係を引き受ける能力にほかならない。

*道徳教育政策の問題点

・道徳性は、他者との関係を律する、それ自体が社会関係的なもの。したがって道徳性の発達は、その社会的な他者との関係性の発達と切り離してはありえない。

・今日の道徳性の衰退、未発達は、社会関係事態の衰退、歪みと不可分に結びついている。

・「心のノート」―正解さがし、よい心の強制にうんざりした、建前と本音の区分する処世術を訓練する。または、道徳を心のあり様として、心理的な「自己責任」として対処させる。心理主義、個人還元主義。

・そのような「道徳教育」は、①正しいものを実行する自己「反省」により、社会的な不幸を受け入れ、堪え忍ぶ「自己責任」の力、「反省的な心」を求めるもの。②生きられないことを「学力欠落」による「自己責任」として受止める態度を形成する。③「コミュニケーション力」という個人の能力の問題とし、関係性の病理を「自己責任」に背負わせる。
―社会への同化を強制し、社会的な正義は何を考え、社会を対象化する思考の展開を断念させる道徳教育。

・心理主義的な道徳性は、不安定な自己に依拠せざるを得ない故に、絶対的な基準で補完されることを必要とする。そのため、「愛国心」や絶対的な国家共同体意識が注入される。

・個が分断され孤立化するとき、人と人との間に社会が立ち上がるイメージを持つこと自体が困難になる。ナショナリズムは、つながり感覚の希薄化、それ故のつながりへの渇望感につけ込む。

・しかし、そうした上から組織された共同性の中では、より一層、公定の価値観への同調圧力が増強され、表現の自由を奪い、内的自由を侵し、その共同性に沿わないものは異端として攻撃される。

・それに対して表現と表現の自由の回復による公共性の再建は、自分と他者との共同関係を下から積み上げることで、上からの共同性に囲い込む戦略に対抗して私たちの「共世界」を回復する方法。この政治的公共空間を、個人の意思のコミュニケートを介して新しい政治的共同性を作り上げていく装置として組み替えること、政治的公共の世界を、公共性の世界、公共圏へと組み替えることが必要となる。

・コミュニケーションは、親密圏から国家にまで及んで、個人が生きる空間を、主体的な自己実現の場として組替えていく方法として、活性化されなければならない。

Ⅱ 「学力」とは何か 
    
第一章 「学力」把握のためのモデル

*学力の三つの層

・学力の三つの層は、学習という過程が持っている三つの段階―①知識を習得し、②その知識を習熟の過程で使いこなし、③皿にそれらのプロセスで豊かにされた学力の諸要素をみずからの課題を実現するために統合して事故の目的を実現するチカラとして行使していくプロセス。に対応している。

1、 基礎知識の層 学力の第一の要素として、人格の外側にある知識、科学的な知、文化、等々を習得して、それを自分のものとしたものが占める。
2、 習熟の層 それを使いこなす過程で、その知識のありようやその知識を位置づけている「場」が次第に変容していく過程。①知識や技それ自体が持っている価値や意味が次第に深く捉えられ、その獲得者の意図や課題と結びついて能動化、主体化していく過程。②それを使いこなすために必要な内的な力=思考力(考える力、判断力、分析力等)が形成、蓄積されていく過程。-この二つの複合的なプロセス。
   習熟の過程は意識化と無意識化の両過程を含んだ過程。-意識化(常に新たな課題を解くべきものとして定立しつつそれに挑戦するプロセス)に主導されつつ、その内部に無意識かをとしての習熟を蓄積していく。
3、 表現・創造の層 基礎知識を獲得し、それらを習熟の過程を経て主体化し、同時に蓄積された内的な諸力を統合して、みずからの直面する課題に向かい、何かを解明し、創造し、実現するプロセスで発揮される統合的な力。主体的な目的の糸と、主体化された知識や技およびそれらを使いこなす内的な諸力とが統合されたものとして把握できる。その結果として、さまざまな作品や主張が生み出される。この層は、学力が生きる力として機能している状態にあるもの。

* 学力構図のダイナミズム

 基本的に主体的な学習は、この三つの層をともに豊富化していく過程。したがって学力とは、常にこの三つの層が互いに内的に深く結びつきながら、ひとつの力へと統合されるもの。その意味では三つの層に区分された三角形で学力を表すというよりも、同一の円の中にこれらの三つの要素が様々な仕方でつながりながら併存、混在している状態と把握したほうが、学力の機械的な段階論的把握に陥らないという点ではよい。(三層に区分することで、学習の質の発展を考える学力のモデルとして有効)

* 縦ベクトルの学力と横ベクトルの学力

 1の獲得された知識<基礎知識の層>は、それを自分で使いこなす2の習熟過程を通じて思考力や応用力と結合され<習熟の層>、それらの知識や思考力などをみずからの主体的な目的や課題と結合して3の作品の創造や表現をおこなう力<表現・想像の層>へと統合されていく。その結果、獲得された知識や技、思考力等々の学力の価値は、自分の目的を支え、自分の課題を解くための力としてその意味が実証(実現)される。そのことによって学習は、生きることと結び付けられ、生きることを強めるという関係が成立する。即ち生きる力と学力とが繋がれる。―縦ベクトルの学力。

 それに対して、受験に効率よい学習は、テストに出題される「問題」を解く学力に限定され、2,3の習熟の層や表現・創造の層へ展開しないままで、主にその知識の量と一定の機械的な習熟(知識の記憶を確かにし、問題のパターンを判断してそれにあう会報を適用するスキル等)に学習の力点。新しい知識とそれを使いこなす限定的なスキルを、その学年の課題を超えて先取りするという方向ー受験学力の量的な競い合いーに向かう。-横ベクトルの学力。

 この学力を獲得する学習の目的は、競争に勝つことであり、知識を学ぶ動機はテストに出るからという受動的なもの。それは、2,3の「意識化としての習熟の過程」と<表現・創造の層>を欠いている。

 横ベクトルの学力の競争的な追求によって、日本の子どもたちの学力は大きなゆがみを背負わされている。
①縦ベクトルの学力展開がほとんどなく、知識を自分の課題に即して活用することができず、獲得した学力を自分で使いこなせない。こういう知識は記憶のみに頼っている部分が多く、早期に剥落する。②横ベクトルでは獲得された知識そのものは生きる目的や課題と直接には繋がらず、学習内容が生きることを支える意味や構造を欠いている。③横ベクトルにおいては、目的は競争として設定され、しかも獲得した知が生きることの具体的な内容を豊富化するという展開がないため、学習の目的はますます競争それ自体へと焦点化され、抽象化される。この関係の中では競争という目的は、学習目的の内発的発展(生きる目的の発達の過程に学習が働きかけて生きる目的自体が発達する)を妨げる。

 横ベクトルの学力では、常に評価が先んじるかたちで、学習が意味づけられる。評価者は選別する側であり、評価の基準は学習者の外側から与えられる。学習は、学習者の生きる文脈、参加の文脈から切断されて、知識や技の量を競い合う競争行為となり、その価値は、競争での高い順位に獲得によってはじめて実現されるものとなる。

 縦ベクトルの学力では、知が人間の実践に組み込まれ、知およびその学習の意味が、学習者の主体的な生きる営みの文脈の中で自覚され実現されていく循環構造を組み込んでいる。

 知は、1のその習得時に、「学ばれ」「理解」される(学力の第一の層)とともに、その知を必要とする課題に取り組む2の習熟の中で「学び直され」、「理解され直し」、文脈的な知へと組み替えられていく(学力の第二の層)そして参加を実現していく生きる主体的行為の一環として知的な営みに挑戦するとき、3の学力の第三の層が展開する。第三の層は、明確な目的と主体性の側から1,2を統合することで成立するもので、この統合によって、習熟によって蓄積された力は目的にそって問題を解決し、作品を創造し、意見を表現し、みずからの積極的な参加を実現する主体的能力として「活用」され実現される。3によって統合された学力の全体構造は、それ自体が生きる力となり、人格の能動性を支える内的な構造の一環となる。

 他者より達成度が低いとしても、それが自己実現にとって意味あることであるならば、他に代えがたい学習として、その達成度を喜ぶことができる自己評価が成立する。そのプロセスにおける各種の知と能力についての他者の評価(テストの点数、通知票)は、学習を支える援助者がおこなう教育活動を的確化し、促進するための補助的な評価(その正当な位置)へと相対化され、評価の肥大化が押しとどめられる。

* 学力と参加

 新指導要領が、表現力やコミュニケーション力を強調しているのは、横ベクトル型の日本型受験学力が、3の<表現・創造の層>を欠いていることへの危機感の現れ。そういう力を「表現力」を調べるテスト、「コミュニケーション力」を調べるテストなどとして子どもに課題化して獲得させようとしている点に、大きな矛盾と限界がある。中教審や新指導要領が組み込もうとしている「参加」が、子どもの真の意欲を引き出す構造を欠落させていることと結びついている。そのために、その破綻と無力に対して、「ナショナリズム:と「国家主義」から導き出される情念に依拠して、社会への参加の意欲を喚起するという方向が押し出されている。

* PISAのキーコンピテンシーをどう捉えるか

 PISA型学力は、キーコンテンシーというものによって構成。-子どもが生きるということの全体的な構造に対応して把握されている。

 学習によって獲得する<カテゴリー①>(リテラシー=知識、技を使いこなす力)は、常に<カテゴリー②>(人間関係形成力)<カテゴリー③>(自律的行動力)の能力(あるいは活動)によって支えられ、具体的な生きるという文脈の中に位置づけられていなければならない。子どもが生きるということは、この三つの能力(キーコンテンシー)が統合され、そのことによって生きるという全体構造が実現されることでもっとも主体的となる。
―この全体構造から<カテゴリー①>だけを取り出して、全体の文脈から孤立させて訓練することは本質的にできない。子どもの生きる力を回復するには、子どもを人間として生きる場に引き出すことが必要。それには、いま生きている生活の意味を意識化し子どもを意識的な生活者として社会に参加させることが必要。

 子どもの生活と生きる目的の喪失をもたらす日本の学力競争の土台の上で、「PISA型」リテラシーだけを競わせることは、本質的な参加の質を欠いた競争ゲームとしてのPISA型学力獲得競争へと子どもの学習を矮小化させる。結局、PISA型のテストへの競争圧力によって受験競争を生きさせ、日本型受験学力の構造をそのまま引継ぎ、また「横ベクトルの学力」を競わせることになる。-もはやこれは虐待。

* コミュニケーションの組み換えと学力の転換

 コミュニケーションは、他者との関係性をつくる方法、その関係の中に自己を意識的に組み込んでいく参加の方法、社会的主体性の発現形態、人間の共同性を実現していく方法。コミュニケーションには、参加のありよう、他者との関係性、自己実現、自己の主体性のありようが反映。-学力の質の転換は、その学習者のコミュニケーションの組み換えと一体のものとして進められなければならない。

 新自由主義の空間に抗して真の主体性を紡ぎ出すためには、自分の現実を生きるべき価値ある生活の基盤として、その現実を主体的に生きることが必要になる。そこに学びの土台をすえなければならない。

第二章 基礎学力と基礎知識 ―意識化の道具として捉え直すー

* 基礎学力という概念について

 すべての学力は、それを土台として展開される高次の学力に対しては、基礎学力としての性格を持つ。あらゆる学力は、その先に展開される学力との相対的位置関係において基礎学力と呼ばれるということに過ぎなくなる。基礎学力という概念は、ある特定の領域の知識や技能をその内的質の違いに即して区分け、明示する概念ではなく、あくまで相対的な位置関係を示すものとなる。基礎学力と呼ばれることによって、その学力が、それ自体として独立したひとつの全体性を持った学力であるという点が正しく把握されなくなる危険性を持つことになる。基礎学力とう言い方は、目的の欠落という、現代の学力問題の矛盾構造と結びつくとき、何かを将来において成すための基礎的な力を欠いては未来への希望はないという仕方で、それを学習する努力を強迫する。試験の結果や学力偏差値がその基礎学力の価値を照明する役割を担わされ、学力競争が激化することに反比例して、学習のリアティが失われる。

* 学力の「全体性」とは何か

 自己と対象(世界)との間の緊張状態を認識し、思考によってより深く対象を把握し、有効に対象に働きかけることのできる視点や方法を獲得するなどの主体的関与を作り出していく一連の過程に、知識は道具として参加し、その中で、学習者の能動性を実現するように働く。

 単なる記憶としての受験知識は、試験問題によって呼び覚まされる知識に過ぎないが、みずからの能動的認識に組み込まれた知識は、外的世界に対する関心と結合され、学習者の主体性を成り立たせる内的構造の中に「場」を持った知識へと組みかえられていく。内化された知識の獲得は、それ自体が関心や課題意識などの内的・主体的エネルギーを発展させ、自己と対象とを能動的につなぎ、新たな実践や知識獲得(学習)への要求を展開させる。本来の知識の道具性とはこのような性格を意味している。

* 意識化と知識の獲得

 意識化―世界に関心を持ち、世界に規定されている自分を読み解き、世界の意味を深め、自己の主体的な関与を創造して、世界の主体として世界に向かう姿勢を構築していく過程。意識化にとって重要なことは、学習の過程に、関心とそれを解く道具としての知識とが、縄のように撚り合わされて、したがって知識は方法としての能動性、世界を読み解く道具性を組み込んで、獲得されていく。

 知識の詰め込みを特徴とする受験学力の歪みとは、意識化という機能を封じられたまま、知識の量それ自体が価値として現れることから生み出されるもの。

* 知識の獲得と習熟の過程

 基礎知識の獲得は二つのプロセスと方法で実現される必要がある。①その最初の学習(知識の獲得過程)が、それ自体を、子どもの主体的な関心の形成・発展と既存の認識の組み替えとして実現するような学習方法。②知識が学び直され、新しい課題に対処する過程でその知識の意味が再発見され、より深くその知識の位置づく「場」、知識と認識のネットワークの中へと組み込まれていく過程。

 知識の意味は、学習と実践(応用)の長期にわたる過程で次第に深化していくものであるとしても、最初の習得の段階から意味の把握と習得行為とが不可分に結びついていなければならない。しかし、同時に意味が長期にわたる継続の過程、知識の使いこなしと応用の過程で深化するものだとするならば、その習熟の過程を、基礎知識の最初の習得過程―それ自体は知識の意味を発見する過程として組織されるべきものだがーとは別に、学習の独自のプロセスとして位置づけることが必要。

* 基礎学力の全体性


 基礎学力もまた、知識と関心との、したがってみずからの目的と知識との能動的結合を達成し、その知識をみずからの目的のために使うことのできる使いこなしに習熟し、対象に対して知識を使うことのできる形に組み替えて獲得されなければならない。自分でさまざまに問いと仮説を立て、他者と議論をして自己の論理を吟味し、次第に現実=対象に迫り、表現や主張を組み立てていく過程こそが能動的習熟の過程であり、それは本格的な思考過程でもある。-基礎学力もまた全体性を持ったものとして把握されなければならない。

第三章 習熟 -知識を生きる力へと組み替えるプロセスー

 習熟とは何か?-を深めるのは、①機械的な反復練習による習熟訓練が広まり、習熟という概念がそれと結びつい形で矮小化。②新指導要領は、反復訓練による基礎知識の習得を重視し、機械的な習熟訓練を推奨。一方でそれと切り離された活用という学習の段階を重視。③日本の子どもたちの学習に決定的に欠けている習熟について、その概念の深化させることが学習論の本格的展開にとって重要。

* 習熟の二つの内容

 習熟概念の二側面 - ①その習熟によって獲得される力とは何かという問題。 ②この過程が、意識化と無意識化の両側面を持って展開しているという性格。
 ①について 習熟の過程とは、(1)知識の記憶と理解が深化・定着していく過程であるとともに、(2)その知識を使いこなす中で、思考し・分析し、判断し、総合する等々の思考力が鍛えられて発達していく過程(内的なものの発達過程)。

 「内的なものの発達」という場合、「思考力」よりも広い領域を視野に置く必要がある。+「身体的な能力」(= EX職人の習熟・熟達過程は、思考力に加えて手や身体の使いこなし、技というものの獲得をも意味している。自分の意に従って身体を使いこなしていくような力―身体感覚、神経の繊細化と強化、身体的技などーの獲得・習熟が重要に。) +「コミュニケーションと表現力」も。

* 習熟を主導する意欲とエネルギー

 習熟の過程を遂行させる動因、エネルギーは、習熟それ自体への要求によるというよりも、ある課題を解きたいというエネルギーによる。わからないこと、できないことを理解し、操作し、できるようになるというプロセスに絶えず挑戦し続けることによってはじめて、より高度な思考力や作品創造力、制作力等々が獲得されていく。ただ自動化のみを目的とした習熟訓練は、思考力などの内的な能力の発達を直接の課題としないものとなり、そういう性格の習熟のイメージの上に、習熟概念を狭く位置づけると、習熟概念の矮小化をもたらす。

* 意識化と無意識化の習熟

 「無意識化」とは、意識しないでもその地や技が使いこなせるようになる過程。(自動化とも)「意識化」とは、解決すべき課題に向かって、どうすればいいのかの試行錯誤が繰り返され、認識と志向活動が一層深化・進展していく過程である。「意識化」のプロセスの中で繰り返しおこなわれる知的な営みによって使いこなされた部分が次第に自動化されていく。

 習熟は、無意識化と新たな領域への意識的な挑戦との統合された過程。繰り返しの中で無意識かされた力量を土台に、新しい課題に挑戦するなかでより高い技を開発し、次第にその能力や技をも無意識化し、さらに高度・繊細な課題を定立し、挑戦し続けることの繰り返しの中で、熟達化過程が進行していく。

 漢字、九九の暗記は、一定の有効性を持っているが(状況によっては百マス計算も)、重要なことは、習熟の過程は、学習者の明瞭な目的と課題意識によってこそ主導され、意欲されるということ。

 習熟は、それ自体が目的として達成されるのではなく、何かをしたい、実現したいという強い要求実現への繰り返しの挑戦として、したがってまたそれが次第に実現されていくことへの喜びや満足が獲得されていく過程をともなってこそ、主体的に達成されるもの。

* 習熟と学習の構造

 習熟の過程を経ることなくしては、知や技は、主体化・能動化されない。この習熟の過程は、基礎知識の習得という学力の第一の層の獲得物を、創造・表現という学習の第三の層のもとで主体的に活用されるものへと組み替え、構造化するために不可欠なプロセスをなしている。この層なしには、知識や科学は、一人ひとりの生きる上での課題や目的を達成する力へと組み替えられない。自分で自分の固有の課題に取り組んでいく力として学力が機能せず、応用力や創造力という内的力も形成されない。応用力や創造力は応用や創造という課題に幾度も挑戦し、試行錯誤を繰り返すことによってのみ、獲得されうるもの。縦ベクトルの学力がまさに縦方向に展開していくためにはこの習熟の過程が不可欠。

 習熟は、第三の層=固有の目的・課題の達成のために活動が展開される中においてこそ、より主体的に展開される。第二の習熟のそうと第三の表現・創造の層とは深く結びついており、この両者を教育(学習)実践課程においては、段階論的に区分すべきではない。

 知や技の習得は、ただ単にそれを単純な記憶によって身につけるというものではなく、それをある程度理解し、どういう意義を持っているのか、どういうケースに適用できるかなどを含んで獲得していくのであり、知を獲得するという行為はその最初から習熟の過程にはいる。-教育実践上、第一の層と第二の層とを段階論的に区分することはできない。

 日本の受験学力に決定的に欠落しているのは習熟の全体的過程。横ベクトルの学力においては、無意識化の習熟は一面的に重視・強調されているが、意識化の習熟はほとんど位置づけられていない。そのため、自分で主体的に問題を定立し、それを自分で解いていくような学習観と力量が形成されていない。

* 習熟と思考について

 ・概念の獲得と習熟 - 概念の獲得は、社会科学領域の学力の重要な要素となる。能動的な社会認識過程は、それまでに獲得された習熟された多くの概念に支えられているということができる。そういう概念についての習熟は、ただ言葉による概念規定を記憶することによってではなく、その概念の使用を繰り返し、生活の経験や歴史の経過や獲得した知識等々とその概念との突合せによる概念内容の豊富化、諸知識との関連の形成、価値意識の組み替え、等々と結びついて可能となるもの。

 ・共同学習と習熟 - 習熟は積極的な思考過程を伴って展開されなければならない。従来の機械的習熟論は、個人が何度も繰り返す作業として、習熟を把握してきた傾向が強い。そのような個人の習熟のプロセスは、唯一の正解を記憶する作業となり、正解を記憶し、ただひとつの思考や操作の回路を強化する訓練と化してしまっている。そのような習熟の過程には本格的な思考に習熟するという過程が欠落している。もし、本格的な思考の習熟を学習の過程の中に組み入れようとするならば、子どもたちを対立を含んだ多様な議論・論争の中におき、自分の思考をそういう多様性と抵抗の中で確立していく環境が不可欠。

第四章 学習意欲 -競争の意欲から参加・共同の意欲へー

* 学習意欲の構図


 学習を成立させる意欲の三つのタイプ
<a>生きる目的と直接結びついた学習意欲の回路
<b>文化・科学の力に依拠する学校的学習の意欲回路
<C>競争的学習意欲の回路
 日本の学校教育の学習改革の基本は、<C>に依拠した競争的学習、受験勉強的な学習を克服して<b>を回復すると共に、それに止まらず、<a>がつながるような学びのあり方を開拓していくこと。

* 日本型受験学力と学習意欲の空洞化

 日本型受験学力は、知識の記憶と単純なパターン化された応用訓練によって一定の高さを維持してきた。学習の意味がよく分からなくても、一定の訓練をおこなえばある程度の「学力」を証明できるようになるため、勉強をテストで点数をとるための苦役として耐え忍ぶこと、その訓練に耐える人格的な力が将来を保障するというような人間像が生み出されてもきた。だから知識を使って自分の課題を解いたり、未解決の課題を自分で調べ、どんな方法や概念を使用して解決すればよいのかなどを考える学力は獲得されない。しかしこのような日本型受験学力が展開した時代は、高度経済成長の時代でもあった。90年代のグローバル競争と格差社会の進展の中で、その社会的基盤が失われた。

 競争的学習意欲に依拠した受験学力は、いまの日本の学校を覆い尽くしている。中高一貫校が増加し中学受験が広がることで、そうゆう受験学力が、小学校高学年段階にも広がっている。そして社会の階層化と排除が広まり、多くの子どもから未来への希望が奪われていくなかで、そういう競争意欲自体が成立しなくなる状況も広がりつつある。

 PISA のコンピテンシー概念としての「リテラシー」は、本来そうした知識詰め込み型学力の克服という課題を含んだはずのものである。ところが、日本に移入されると、その「リテラシー」も学力競争によってこそ有効に獲得されるとされてしまう。競争に依拠して学習させるという受験学力の最大の欠陥は、主体的な目的と学習の循環を断ち切り、テストを解くために学習するという<テストー表カー学習>という一面的な意欲・目的循環を学習の中に組み込むという点にある。ここでは、「応用」は、「応用問題」のテストに対処するスキルを磨くことへと矮小化されざるを得ない。だからPISA型「応用問題」を学力テストで競わせれば「リテラシー」が身につくという矮小化把握が生まれてしまう。「応用」の学力の獲得は、学習者の側に「応用」への内発的な目的と意欲が不可欠だという視点が欠落している。

* 学習意欲と「参加」


 90年代半ばからのグローバル競争と格差社会の出現の中で、競争は、エリート上層に加わるかどうかの競争、一定の安定した正規雇用に入れるかどうかの競争、そしてワーキングプアへと押しやられるかどうかのラインをめぐる競争などに多様化、階層化されてきている。しかし、この階層化された競争は、大きな矛盾と破綻に直面している。大学受験を何よりの当面の競争目標として成立してきた高校での受験勉強は、いわゆる大学への「希望者全入」状況にあって、学力の中間・下部層では十分機能し得なくなってきている。貧困に押しやられた底辺では、生活崩壊や虐待、貧困、あるいは自尊感情の喪失等によって、子どもが最初から競争から降りてしまう状況が広がっている。高度成長期の「企業社会」が生み出したある種の「平等社会(幻想)」が崩壊し、社会格差が歴然と意識されるような状況が出現し、みんながそれなりの希望を持って競争に参加することは困難になっている。競争による学習意欲の喚起という教育政策は歴史的な破綻に直面している。

 時代の変化を学習意欲の問題として捉える上で「参加」という視点で見てみる。
「参加」とは、社会や集団の一員としてそこに加わり、その関係の中に自分の存在を位置づけ、その関係性の中において自分の役割を意識的に担うことにおいて、自己の存在の意義を実現することを意味する。

 学習は、労働、政治、地域の共同への参加等の文脈の中で意味づけられことと結合され、生きることを支えるものへと組み替えられる。受験競争への参加も、ある意味では自己を社会に参加させるための強力な方法。しかし、受験競争は、むしろ多くの子ども・青年を社会から引き剥がし、孤立させる機能を持っている。

* 競争の学習意欲から共同を担う学習意欲へ

 学習をその発達段階にふさわしい参加と目的の形成に結合する点での三つの困難。
① 競争が早期化しており、中高一貫校の拡大もあって小学校半ばから学力上位層の受験競争参加が普通になり始めている。しかし、発達特性からして、低年齢ほど、みずからの主体的な固有の学習意欲に形成という点で未熟であるだけに、この受験競争の圧力が人格形成に及ぼす影響はより深刻となる。② 高校生においても、具体的な職業的社会参加や政治的参加、日本や世界への主体的参加の関心は、極度に閉ざされたままである。競争社会イメージに社会への関心が閉じ込められ、自己責任と競争の論理で社会像を描いている限り、就職という回路以外の本格的な社会問題への関心、社会参加への意欲は形成されていない。③ 高校生を含んで青年期の目的の形成にために不可欠な「思想化」の営みが極度に弱い。青年期は、社会・世界における自己の主体性を確保するために、みずからの思想や価値観の形成が不可欠となる。

 「思想化」とは、社会を対象化し、思想や価値意識、科学やヒューマニズム等々の諸価値を統合して、社会や自己の生きる意味を見出し、その意味を基準にして現状を評価し、社会に主体的にかかわる内的な姿勢を作り出すことを意味する。青年期の学習意欲はこの思想化によって強く支えられなければならない。

 参加の視点の欠落 ― 日本の学校の学習は、労働の参加、それも高い一般的学習能力を身につけてより有利な職業的地位への参加を目ざすという仕方の職業参加に傾斜しており、統治への参加(市民社会の公共性への参加、政治的参加)の能力が学力の中に位置づいていない。その欠陥は、学習の性格に深く組み込まれている。- 
① 学校の学習が、唯一の「正解」を記憶していく学習空間となり、自分の思考と判断で正義や価値観を形成していく学習が組み込まれていない。
② 学習が自己表現と切断され、自己の意見の表明や抑制される学習空間となっている。
③ 対立的な問題を論じ、その中で合意や社会的正義を探求していく、公共の広場に適合した討論と合意形成のための学習が欠落している。
④ 高校生の自治活動が抑制・禁止されてきたことの影響も大きく民主主義のスキルが不足している。

 今の日本の教育は、こうした欠陥によって、職業的参加のみを「自己責任」に問題として強調するが、その背後でまさにこの職業的参加の舞台で排除が拡大し、多くの青年が社会の中に居場所を見つけられず、社会から期待されず、無力感を押し付けられている。職業的及び政治的参加の両方を子どもに豊かに保障することなしには、学習を意味づける主体性を子どもの中に育てることはできない。

 その問題の土台には、学力を個人の所有物として、個人の価値を測り、その所有物を競わせることで、人を競争させ差別し選別しようという論理がある。

 人間的価値意識や感覚、感情、正義感などを交流、コミュニケートさせる相互了解的なデスカッションによって、何が社会的正義であるのかの合意を作り出していく場こそが公共空間である。

 学習者同士の議論の中で、感情をも伴って価値的合意が形成され、それが多くの共通感覚、共通感情として共有されるとき、その価値の追求は、まさに協同的な営みとなる。

 公共性の空間を生徒の学習の場に作り出すことによって、人間の持つ共同性に支えられた意欲を学習の場に引き出してくることができる。知識や科学は、そういう共同性の実現に不可欠なものとして、その獲得と普及がみんなに意欲されるようになる。

 公共の場で、各自が自己の信念や価値意識を構築する思想化に取り組むとき、それは社会との接触と対決によって自己の、そして自分たちの主体性を絶えず再構築していく共同の営みとして、新しい社会的・歴史的主体の形成をもたらす。今日の学習は、ともに生きる世界を作るという共同性の構築の営みへと結合されることで、より深い学習意欲の源泉を捉えることができる。

Ⅲ 「共に生きる力」に向けて 

第一章 「意識化」と教師の役割

* 意識化という仕事

 いま何が起こっているのか、何が問われているのか、自分はそれにどう対応しようとしているのかという視点で意識化できるならば、その子どもは、本格的に考え、悩み、意識的に生きる勇気を次第に蓄積していく。意識化するとは、そういう課題に、あらためて子どもが、自分の選択として正面から向かい合う勇気と認識を獲得させる教育指導の方法。

* 子どもを力一杯意識的に生きさせること

 意識化とは、子ども自身を、みずからの人間の尊厳を実現する主体へと組織化していく方法。生きる力を育てるために本質的に求められることは、子どもを支配している現実の変革者へと子ども自身を意識化し、主体化すること。困難や矛盾の克服をめざしてみずからたたかい、教師と協同する主体の位置に子どもをつけること。 

 大人として、よりよく生きる知恵や方法として、正義や人間の高い精神のありようとして示すことができるならば、子どもは、自分をより良く実現する力として、道徳性を獲得していく。子どもが自分のかけがえのなさを実感し、また自分の思いに根ざして考えることの重さと素晴らしさに気づくならば、またそのように志向することが自分の権利でもあることを理解していくならば、さらには自分の思想信条の自由、内心の自由、表現の自由が、自分の尊厳を具体的に紡ぎ出していく方法であることを理解していくなら、自分と自分の生活に立脚して学び、表現し、主張するという生き方が、自覚的な要求とも課題ともなる。- このような子ども自身の内面のありようを切り拓くことなくして、子どもの生きる力を育てることはできない。

 子どもに生きる意欲がないというなら、子どもを全力で生きさせなければならない。その生きる場を奪い、親や社会に規範に沿って生きることを求め、そこからはみ出ることを取り締まる方法は、ますます子どもへの抑圧を強めるだけ。いま生きている ー困難や矛盾や疑問を持って生きているー リアルティに立脚し、その中での子どもの思いに共感し、子どもがその生をより意識的に、人間的で主体的に生きようとすることを支え、その生を共に寄り添って生きようとする教師と大人のまなざしと支えこそが、子どもの生きる力を引き出すことができる。意識化とはそのための教育の方法である。

第二章 「思想化」と公共性

* 国民精神の「漂流」


 思想化は、自分と他人、自分と世界を意識においてつなぐ主体的行為である。思春期が、主に同世代との直接的人格的なつながりを介して共に生きる能力を鍛えていく発達の時期であるとすれば、青年期とは、思想を介して、他者、世界と自分との関係を見出す時期。そういう思想を持つことで、自己の判断基準が形成され、孤立を恐れず、社会と歴史につながる意識を持ちうる。しかし、思想化が阻止され、競争が孤立を倍加し、世界の既存の秩序と意味が崩壊するとき、心理学的な孤立不安に襲われ、社会のファッションとしての大衆的な揺れ動きに巻き込まれ、「漂流」してしまう。

* 「脱思想化」状況

 現在においては、多くの青年が、思想的な対立を避けて、心情的な群れあいの中に共にいることで安心感を得ようとする。心情の一致のみが人を結びつける。心情はまさに主観の世界であり、共感するかしないかの世界となる。そして孤立を恐れるがゆえに、心情に依拠した脆弱な同調集団の共同幻想を切り裂く思想や政治批判を持ち込むことへの反発(恐れというべきか)が生じる。そういう作用の相乗の中で、思想はうさんくさく、警戒すべきもの、近寄りがたいものとして敬遠される雰囲気が続いている。そしてそのことが、日本社会が自立した個人による市民社会になること、各自が自立した社会主体になることを妨げる一要因として作用している。

* 思想化を妨げるもの -教育の責任―

 思想化という営みは、数学や自然科学的な意味での真理を発見・学習する営みとは性格が異なる。自然科学的な真理に関しては、誰が解いても単一の正解に至るが、思想や価値観に関しては「解」は多様である。その「解」が何故自分にとって真理であるのかは、一人ひとりの固有の内的論理の形成によって証明されなければならない。当然それは、思想の自由、価値観形成の自由が保障されるべき領域であり、多様性、異質性が保障されなければならない。

 しかし今日の学校では、思想は、自分の外の客観的な知識として学び取られるにすぎない。加えて、受験が、子ども・青年の思想化の営みを妨げる。テストによる評価は、ほとんど思想的な判断力を課題化しない。マスコミは、ファッションとして、感覚的レベルで物事を評価していく判断様式を日常化させ肥大化させる。また、教育の性格という点では、銀行預金型教育は、支配的価値への同化の教育であり、学習は「自分外し」の過程として機能している。

 思想化とは、自分の考えや感情や行為を意味化する営みであり、自分を土台として世界を組み立てていく営みである。したがって思想化なくして、世界の中に自己を定位することはできない。統治主体とは、世界を自己の思想によって把握し、その世界の意味を実現しようとする能動的な主体を意味する。それに対応する教育は、課題提起型教育、意識化の教育である。自分の生活や社会の意味の問い直しと再構成である。

* 思想化への試み


 「自分外し」、すなわち「おまえの価値はない」というメッセージは思想化を断念させる。学習だけでなく、小さい時から、他者にコントロールされて育つという強い日本的な圧力の中で子どもたちは成長している。―帰結としての、キレる、いじめや引きこもり。そうした「自分外し」の中では、自分の思いや課題を基盤として思想化を達成することはできなくなる。

 思想化は、① 自分の存在の肯定的受け入れを前提とする。親密圏(自己の存在を無条件に受け入れてくれる直接的人格関係によって成立する空間)における豊かな支え、自己存在への確信は、その親密圏から自立して孤立の中に身をさらし、再び意識的に自分の存在の意味を捉え返し、他者と世界とのつながりを再構成して自分の立脚点を構築する思想化の営みを支える土台となる。

② 意識化という契機を活性化しなければならない。思想化とは、自己の生きている土台をしっかりと捉え、その土台と自分に立脚して、自分の考えを立ち上げることであり、意識化はその土台に根ざす認識の方法。

③ 思想化という形をとった主体性が交流し、公共的な合意を形成していくことのできる空間が、教育の場につくり出されることが必要である。思想の自由、価値観形成の自由を保障すること。相互了解的なコミュニケーションを介して真理や正義が見出されていくような学習空間、公共的合意が生み出されていくような自治と民主主義が保障されること。教師と生徒の関係といえども、市民社会空間としての教室モデルにおいては、異質な思想や価値意識を持った他者として、両者は平等である。教師は、対等な一市民として、生徒と自分の異質性を前提として、生徒の市民的自立への格闘を支え、援助する。

* 公共性の構築と思想化

 思想化は、個性化(個の主体化)のベクトルと、普遍化(共同化)の二つのベクトルを持っている。
① 思想は、歴史事実や生活事実に依拠して打ちたてられる必要がある。歴史思想は、事実による実証を土台としてのみ、真の説得性を持つ。
② 思想化は意味の普遍化の方法としての側面を持っている。思想化は他者と断絶するためでなく、他者への説得性を持つための要件を組み込む科学化、普遍化の営み。
③ 根源的価値意識としての人間性への信頼、個の尊厳への共感の上に思想を築くという構えが求められる。

 いま、時代の課題を全身で受け止めるような社会への対峙が求められている。個人の困難を「自己責任」に閉じ込め、個々人の力のなさを内へ向かって追及する自己をさいなむまなざしを、人々が人間的に生きられる社会をつくりだすという共同と連帯のまなざしへと転換すること、そしてすべての人間の尊厳をどう実現するのかの社会探求へと向かうことが求められている。困難を抱えている弱者の位置に置かれている個人の人間的復権の見通しの中で、自己を世界の中に定位させていく新たな主体性と生きる意味の再構築のための「思想化」の営みを遂行していく必要がある。

 「思想化」とは、認識という舞台における社会との格闘によって自己の主体性を絶えず再構築していく営みに他ならない。それは社会の中に自己を定位し、能動的に参加させていく力となる。子どもを、厳しいサバイバル競争に曝すことで競争社会に同化させるのではなく、人間らしくいかに生きるかを構想する「思想化」によって、力一杯意識的、主体的に生きさせるという方向へ組み替えることが求められている。

第三章  学力像の転換と学校再生 ―大阪・私立千代田高校の実践からー

 社会の新自由主義的な改変が、いま子どもや学校のありように、特に教育困難を多く抱えた子どもたちが集まる学校に、すさまじいまでの影響を及ぼしつつある。経済的困難と教育困難とが深く連動して、社会の階層格差が学校システムを通して拡大されていくような悪循環が展開しつつある。千代田高校は、まさにそういう教育困難が集中して押し寄せてくるなかで、それに全力で立ち向かおうと試行錯誤している学校の一つ。

* 子どもへのメッセージの転換 -ヒドゥン・カリキュラムという視点からー

 いまの学校には、恐ろしいほどの非教育的で非人間的な、現代社会の論理を反映した、そしてまた学校に特有でもあるヒドゥン・カリキュラム(隠れたカリキュラムー意図されたカリキュラムとは異なったカリキュラム・メッセージとして働き、意図されたものとは異なる価値意識や認識を学習者に獲得させるもの)が無数に組み込まれている。

これらは、子ども・青年の成長意欲を抑圧するメッセージとして機能している。

① 成績と能力に関するもの ー競争に勝たないと人間らしく生きられない/能力の低いのは自己責任だ/能力の低さはどんなにあがいても変えられない/能力の低い人間は、給料が低くても仕方がない/能力に応じた差別処遇は正義である/能力のない者はワーキングプアとしてしか生きられない

② 正義や道徳性に関するもの ー自分の考える正義を主張すると孤立する/暴力には逆らえない/学校の秩序に従うことが道徳性である/先輩の言うことは絶対だ/腕力こそ力である/いじめをやめさせることなどできない

③ 科学、学習に対する認識に関するもの -教師は正解を知っている/真理は既に発見されている/頭がよくないと真理は理解できない/頭のいいものが言うことは正しい/生徒が発見できる真理・真実などない

④ 表現の自由、思想の自由にかんするもの -自分の考えが言えないのは学力がないからだ/先輩の言うことには反論できない/みんなと同じ考えでないと安全に生きられない/発言は危険な行為である/発言しないことが安全に生きる道だ/友達を批判すると孤立する…etc

 この非人間化の現実に対抗しようとする教育実践は、このヒドゥン・カリキュラムと対決し、教室空間を、人間的なメッセージで充たすことに全力を挙げなければならない。

* 生徒の学習宣言

 毎年の「生徒会議案書」は、高校生自身による人間的な誇りを回復するための学習宣言であり、同世代への連帯の呼びかけとなっている。生徒が学びを発見していくということが千代田高校の場合、学校の基本的なトーンであり、生徒会が、そういう学習の発見を最大の課題として、全力で取り組んでいる。さらにそういう自分の味わった喜びを、勉強ができない苦しみに打ちのめされてきたほかの生徒や新しい一年生につかんでほしいと、多くの生徒が、一生懸命に訴え、支援し、共に学ぼうとしている。

* 自己の思いに正面から取り組む

 この千代田高校に入学してくると、自己責任というイデオロギーによって心の中に封じ込められてきた思いが、一挙に、生徒たちの口から語られるようになる。今までの苦しい、二度と味わいたくない「勉強」の問題点と、本当の学びを回復しようという教師の、そして生徒会の、上級生のメッセージが、生徒たちの封印されてきた思いを一挙に引き出し、そういう思いに打ちひしがれてきた自分を克服することへの意欲と希望が呼び起こされる。そうした思いが、友達の、先輩のそしてやがて自分自身の言葉によって語られることで、他者と自分の共通の苦しみへの共感と連帯が生まれ、問題が客観化・社会化され、課題化されていく。考えるということ(思考)が、そういうプロセスを経て、生徒の共感と希望を開く過程へと組み替えられ、自分が感情を伴って「思考」しているという状態に気づき、「思考」するということの人間的な価値を実感し、「わかる」という状態に感動し、そこに人間的な学びがあることを知る。

そのような学習の質の転換の中で、自分たちの生活現実が学習の対象、学習によって解明すべき課題へと据えられていく。

思春期や青年期に複雑な日常生活関係の中で、年齢にふさわしく獲得され発達を遂げている感覚的な判断力に対して、論理的な、あるいは社会科学的な説明、思考方法が与えられれば、この生活的な思考や感覚の回路と学習とがつながり、一挙に自分や社会が「わかる」という実感が実現される飛躍が現れる。そしてその「思考する」「わかる」という回路が、他の分野にも拡大し、学校の学習全体で思考が働くような方向へ展開していく。そう把握するならば、生徒が考えることを放棄して学校の勉強が何もわからなくなってしまっているのは、「頭が悪い」のではなく、生徒が日常生活で発達させている思考回路と学校での「教科学習で働かせる思考回路」とが分断されていることに、ひとつの原因があるのではないか。そしてむしろ生徒が必死で生きている生活の回路に学習が結合され、生活の現実を照らすものへと学習が 組み替えられるとき、わかることが一挙に広がるのではないか。千代田高校での勉強は、生活課題を学習課題に組み込むことで、生活的思考力として蓄えられた力を勉強の場に引き出している。

* KGノート、充実ノートのとりくみの意味

 KGノートは、その日の板書をまとめる家庭学習ノート、充実ノートはまとめに加えて授業の中身について思ったこと感じたことを書き、学習内容を充実させていくノート。

 一番の中心は、教師が板書し、講義したことで一番印象に残ったこと、あるいはそこで教師が考えて欲しいと意図していた内容がどういうものであったのかを思い起こし、メモとして記録し、さらにそれを自分の感覚で吟味すること(自分だったらどう思うか、本当にそう納得できるか、等々)。常に自分の問い=疑問を組み込むことで教師の授業内容を自分の文脈に引き寄せ、その文脈の中で、講義にどんな意味があるのかを問うのである。それを繰り返す中で、しだいに、学習が主体性をもった自己の問いへの回答として循環的に発展する。授業を対話の形式で呼び起こすことで、ノートの中でその授業に生徒は主体的に参加する。対話が生徒のイニシアティブで展開されるようになると、学習は生徒の主体性に依拠して自己展開し黒板に書かれた内容をただ書き写す受動的な学習から、自分の思考を記録し、自分の思いを本格的に思考していく過程へと発展していく。

 生徒の疑問を触発し、疑問に応える構造を持った授業へと講義自体を組み替えなければ、KGノートや充実ノートの発展はない。教師は絶えず、生徒の本質的な思考を触発する問題提起、討論の提供者、組織者、そして生徒を励ます支援者であることを求められている。

 こうした取り組みの過程は、生徒自身による「学習権」の発見の過程として位置づけられる。毎年の生徒会議案書は、生徒の手による「学習権宣言」と呼ぶにふさわしいものとなっている。そのような「学習権宣言」を可能ならしめているのは、

① 自分達の困難な生活と取り組み、それを「わかり」、どう生きていくかを発見するという、学習によって意識的に生きていく主体たることがはじめて出来るのだという学習の実感と感動、
② KGノートや充実ノートを通して、学習=勉強とは、自分が主体になって考えていくことだとわかり、そういう中でわかることの喜びと面白さを発見し、こういう学習こそやりたかったという思い、
③ わかる喜びを知ることでこんなにも日々の生活、人間としての能動性や積極性、生きる主体性、自信を回復できたという喜び、
④ そういう苦しみから喜びへの劇的転換を勉強がわかることで実現できるというその体験を、みんなに味わって欲しいという連帯の気持ち、

 そういう学習権をみんなが持っているという連帯の感覚は、友達の困難や悩みに共感する関係=コミュニケーションが深く組織されていくことによって、そしてまた差別的な受験競争環境を自己の苦しみをつくり出してきた原因として批判できる姿勢を獲得することによって、生徒の中に形成されていく。

* コミュニケーションの転換

 千代田高校は、生徒間の不自由な戦略的コミュニケーションを組み替え、弱者へと押しやられた自分たちの思いを自由に表現することができ、そしてその表現に共感してくれる他者がいるという空間をつくり出している。共通の困難に向かい合おうとしている他者(友)を見出し、他者への信頼感をも回復していく。そういう安心の中で、はじめて自分と正面から向かい合い、自分を受け入れ、自分の思いを意識的に生き抜くことへの勇気を回復する。

 千代田高校の教育実践は、その子どもたちのコミュニケーションの性格を組み替えることで、人間的情熱が発揮される空間をつくり出している。

* 生徒の力に依拠して学校をつくり変える

 千代田高校という空間においては、教師のメッセージ、生徒会の働きかけ、それらの蓄積の上に形成された学校内で取り交わされる言説が、いままで生徒の胸の中に閉じ込められ、しかし心に渦巻いていた思いを、その思いに共感してくれる他者と出会うことと相まって、一挙に「意識化」させる。そして教師と生徒たちが意識的な生活者として互いに支えあう共同の空間、精一杯の力で生きるに値する時間と空間が学校・教室の中に出現する。

 教師が自分達の願いと全力で取り組んでいることを知り、その教師の取り組みと心から協同しようとする生徒―教師の思いにふれて、自分自身の成長の課題を「意識化」した生徒ーが出現するとき、学校の教育力は一挙に飛躍する。いま、そういう生徒・子どもの力に依拠しなければ、そういう力を引き出さなければ、学校の再生はないし、また子ども・青年の意味ある生活をつくり出すことも出来ない。千代田高校の学校づくりの最大の特徴は、生徒自身が、自分たちが人間として成長できる関係空間としての学校をー自分がそういう空間で生きられることの喜びと感動をエネルギーとしてー本気になって、教師と一緒につくり出そうとしていること、そのために生徒が生徒に一生懸命働きかけようとしていることであろう。

<私の感想>

何故この本を選んだのか

 10月21日の記事「学力テスト体制とは何か」を書き上げて痛感したことです。その感想のところでも述べましたことと関連しますが、新自由主義イデオロギーの影響について、もっと私自身の認識を深めなければと考えていたことがあります。本書は、他の佐貫氏の著書とともに早くからチェックしていました。佐貫氏の共著の「新自由主義教育改革と日本」を図書館より借りて一通り主要な項目は目を通しておきました。本書はネットで注文しておき到着するのを待ちました。その前に「新自由主義の破局と決着」の読破が先になりました。そして、10月31日の記事になりました。教育問題・教育改革についてその理念や考え方をより詳しく知っていく前に、どうしてももっと全体的なところからの把握をしたかったからです。11月の初めより本書に取りかかったのですが、大変てこずりました。様々なことを同時にしているので、能率は悪いのですが読むのに一週間、記事を書くのにも一週間もかかってしまいました。

専門外の教育学の本ですが、いろいろ参考になりました。

 読んでいて思ったのは、先ず、こうした本は、教育関係者以外はあまり読まないだろうということです。私は、教師でもないし、教育関係者でもない。ただの行きがかりで地域の学校統廃合反対運動に巻き込まれてしまった市民(それも地元出身ではない)にすぎません。私自身、これといった専門などありませんが、強いていえば図書館問題と地方自治に関心を強く持っています。教育も関連はしますが、まったくの専門外です。ただ、妻が教師ですから散々、教育現場のことはずっと長いこと聞かされてきています。ですから、本書の中で、学習指導要領だ、基礎学力だ、学習意欲だ、教師の役割だ、などと書かれていても、自分自身とは少し縁遠いものですから、今ひとつ入っていけないところがありました。ですから余計に、読むのも、記事を書くにも時間がかかってしまいました。

 ですから、今の時点では、読んで何が書いてあったかを、自分なりに理解できるように、ようやくまとめ終えたという感じです。感想といっても、まだ断片的でしかありません。自分なりに理解したことを、今後、少しは生かしていこうと思います。

 断片的な感想では、「学力テスト体制とは何か」を読んで今ひとつはっきりしていなかった「PISA型学力」について、本書ではその日本でどのように矮小化されているかがわかりました。

「自己責任論」等についてもその影響が、教育現場だけでなく、いまの子どもたち・青年にどう影響しているか、さらに大人でも…その深刻な現状がその根っこのところからわかりました。しかし、私自身にもその考えの上でまったく影響がなかったとは言い切れないと反省もしています。今後、子ども・青年に関わっていく上で彼らへの見方で自分自身しっかりとした視点を持たねばと思いました。

「生きる力」とコミュニケーションのところ、「教育改革の視点」で教育労働について書かれています。そこで、教育以外にも保育、医療、福祉、自治体公務の労働―人と人とが直接繋がり人を支える労働、コミュニケーション的労働の人間的な質の維持・回復にふれています。「新自由主義の破局と決着」でもナショナル・ミニマム保障について現物給付原則(社会サービス労働を公的責任と公的資金のもとで保障する)についていっているこの社会サービス労働が、まったく同じものです。「子どもの貧困白書」の中でいっている広義のソーシャルワーカーも同じです。新自由主義の影響は、政権が変わっても、その中にもその影響はまだ色濃く残っています。まして、日本の社会の、世界中でも、まだまだ、あらゆる面に出ていて、とてつもなく強力です。それを跳ね返していくことは、容易ではありません。あらゆる分野で、連携して取り組んでいかなければなりません。

また、個人的には、「習熟」のところで意識化と無意識化は、趣味の水泳の上達のために、まったく同じことを日頃からしているので大変よく分かりました。

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「新自由主義の破局と決着」

<BOOKS> (28)                   2009.10.31
「新自由主義の破局と決着 階級社会から21世紀恐慌へ
を読んで


著者 /二宮厚美
発行 新日本出版社 2009年2月28日

著者の紹介/ 
 1947年生まれ。神戸大学発達科学部教授。経済学、社会環境論を専攻。主な著書は、『日本経済と危機管理論』(82年)『現代資本主義と新自由主義の暴走』(99年)『日本経済の危機と新福祉国家への道』(02年)『ジェンダー平等の経済学』(06年)〔以上は新日本出版社〕、『円高列島と産業の空洞化』(87年、労働 旬報社)、『自治体の公共性と民間委託』(2000年、自治体研究社)『格差社会の克服 さらば新自由主義』(07年山吹書店)など多数。

〔内容の紹介〕

新自由主義の延命を断つ国民的決着の方向を究明・整理した力作! 

本書の特徴点(「あとがき」より)

 第一は、新自由主義が進めてきた一方での格差・貧困社会化と、他方での金融・経済危機の深化とを「新自由主義的蓄積様式」を媒介にして統一して把握しようとした。
 第二は、新自由主義の政治経済学的性格を種々の新自由主義論を参考にしつつ、あらためて正確に評価。
 第三は、「ポスト新自由主義」の選択をめぐるきわどい議論(「分権化論」と「ガバナンス論」について)を正面にすえて分析した。「分権化論」は、マスコミ界はもとより、学界にあっても一種の「殺し文句」。「一億国民葬分権化論」の様相。「ガバナンス論」概念も肯定的に受け止める傾向が支配的。これらに批判的な論評を加えた。
 このように、新自由主義的大不況をダイナミックかつ綿密に解明し、「ポスト新自由主義」に向けた国民的決着の方向を見誤らないための理論を明らかにする。

〔目次〕 

プロローグ――「百年に一度」の現在
第一章 格差社会のなかの新自由主義の破綻
格差社会から経済危機へ /深まる格差社会化の諸様相/格差社会化を招いた新自由主義レジーム/新自由主義的蓄積が呼び起こしたバブルとその破綻/新自由主義破綻の弁証法
第二章 新自由主義ベースの大不況と世界恐慌化
バブルとデフレの共進 /アメリカ式バブル経済の原型/二一世紀版カジノ経済化の特質/バブル経済化のなかの日米関係/アメリカ発金融危機から世界同時不況へ/ 新自由主義の破局後へ
第三章 新自由主義の歴史的位置と経済学的性格
「ポスト新自由主義」構想の前提/新自由主義をとらえる三つの理論的視点/グローバル化のなかの新自由主義の帝国主義的性格/ケインズ主義に対比される新自由主義の論理
第四章 改憲型分権国家か憲法型ナショナル・ミニマム保障かの選択
分権化論の位置 /分権国家論の登場とその構図/小泉構造改革の新自由主義的分権化路線/自民党新憲法草案の新自由主義的分権国家構想/分権国家構造の罠
第五章 ポスト新自由主義の新福祉国家か福祉ガバナンスかの選択
憲法に立脚した福祉国家原則と新自由主義との対決点/ポスト福祉国家論から福祉ガバナンス論へ/新自由主義との親和的・妥協的産物としての福祉ガバナンス/福祉ガバナンスと新自由主義との現実的な「同床異夢」
エピローグ――新自由主義に対する決着

[各章の内容からのピックアップ]

<第一章 格差社会のなかの新自由主義の破綻 から->

小泉政権以来の構造改革を主導してきた論理―「護送船団方式の撤廃」と「国内高コスト構造の是正」

1、「護送船団方式の撤廃」の大合唱

-は、格差容認主義の言い換え。それ自体には二重の機能が、―官僚機構が建設業界とか金融業界といった船団を丸ごと保護する体制のもとで、大企業や大銀行の高利潤、支配体制を保障する機能を発揮してきたこと。その船団の一員として、中小零企業等の存続にも一定の保障が与えられてきたこと。これがなくなると、無防備となった裸の弱者は生き延びることができなくなる。

 日本的経営の見直しも、これと同様に、「護送船団方式の撤廃」の名で進められた。

 地域・住民向けの施策も。―90年代後半以降、地方交付税は、「護送船団方式」の元凶と見なされるように。地方交付税は、ナショナル・ミニマム保障の理念にたって、日本列島のどこの地域でも維持しなければならない最低限の行政水準を守るための財政調整方式=どんな弱い地域であっても守り抜く「護送船団方式」の財政方式だったから。交付税のおかげで地域が競争しない、ぬるま湯に浸かったように自立しようとしない、国依存の甘えがのさばる、といった「分権化」論がここから流行。小泉政権による「三位一体改革」が三年間で5.1兆円もの交付税をカットしたのは、「護送船団方式の撤廃」を口実にしたもの。

 教育基本法改正にもこの考えが適用。戦後日本の教育基本法は子どもの平等な教育、一人の子どもといえども落ちこぼれを出さないといった理念をベースにしてきたから、護送船団方式の教育版だと批判。これでは伸びる子が伸びない、平等主義は見直すべきだというわけで、学校選択の自由、習熟度別の学級編成、全国学力テストの実施、学校間競争の推進等が進行し、総仕上げに教育基本法改正の強行が。

 護送船団方式を辞めれば、強者・優者はどんどん前に向かって進むが、弱者・劣者は見捨てられる傾向が強まる。「護送船団方式の撤廃」は階層別、能力別、地域別、産業別等の格差をあらゆる部面で広げる。これに抵抗するものは、新自由主義者によって既得権に安住する者、既得権擁護論者と見なされ、「改革」に対する抵抗勢力と罵られることになった。

2、「国内高コスト構造の是正」の名の所得配分・再配分の見直し

ー財界はまず、第一に企業内コストの削減から始め、1990年代後半から荒れ狂ったリストラ、総人件費の削減・圧縮、賃金・雇用の見直しをすさまじい勢いで。派遣労働の原則自由化、製造用における解禁へ。

 第二に、企業にとっての社会的コストの削減、公租公課、社会保険料の抑制を政府に要求。政府はそれに応え、福祉行財政の規模を全体として抑制(量的抑制)→「小さな政府」へ。(小泉政権末期の「骨太方針2006」より毎年2200億円の社会保障予算抑制策。)それと、福祉行財政の制度的見直し(質的再編)→所得再分配構造の垂直型より水平型への転換(応能負担原則にたった福祉財政へ、貧困層を含む大衆間で所得を分け合う、EX消費税)へ。

「構造改革ノー」の世論を背景にした小沢民主党の変身 

 小沢民主党以前の岡田・前原代表期の民主党は、当時の小泉政権と同じ新自由主義的改革路線で競争する政党。これが、小沢民主党で「対立型」の構図に参院選以来、路線転換。(・小泉政権以来の新自由主義構造改革の矛盾が累積してきた。・この矛盾の中で国民の「小泉=安倍構造改革離れ」が広がった。・小沢民主党が選挙戦術、集票を計算して、有権者に広がる「安倍離れ」「構造改革離れ」の受け皿を狙った) 

<第三章 新自由主義の歴史的位置と経済学的性格 から->

 新自由主義評価の階級的視点(階級的反新自由主義派)と市民的視点(市民的反新自由主義派)

EX セーフティ・ネットー階級的な支配から国民の生存や雇用を守る福祉国家内に位置づけるのか、市場の失敗・限界を是正するセーフティ・ネット(市場社会そのものを安定させるセーフティ・ネット)として位置づけるのか

 両派は、新自由主義に反対する点において一致。協力・連合、協働・連帯を。民主主義的人権擁護でも、実際の政治過程でも、新自由主義に対する対決型の選択肢を示してきた。(07年参院選とその後)「階級派」と「市民派」の双方が新自由主義派に率いられた構造改革路線に「対決型」で臨んだこと、それが「無党派」を含む国民多数が「構造改革離れ」「安倍離れ」に向かった。―07年参院選における小沢民主党の勝利の背景にはこうしたことが。

ケインズ主義に対比される新自由主義

 新自由主義が台頭し、戦後福祉国家の危機が叫ばれ、大きな曲がり角を迎えた1970年代後半、資本主義諸国の支配階級が階級支配の戦略的衣装をケインズ主義から新自由主義に衣替えをした。

 日本では、ヨーロッパのケインズ主義的福祉国家というよりも、ケインズ主義的土建国家の性格が濃厚。資本蓄積にとってその国内需要(内需)要因としての効果が無視できなかった。-ばらまき型公共事業は内需の大きな部分を構成し、とりわけ重厚長大型建設・素材産業等の企業にとって重要な意味を持っていた。ところが、90年代に進行した経済のグローバル化の中で、事情は大きく変わってくる。日本の支配的大企業は多国籍企業化し、ケインズ主義的福祉国家はもとより、土建国家部分についても、何よりもコスト要因と見なすようになっていく。(拡大する世界市場を相手にした多国籍企業が、個別資本の視点にたたざるを得ないことが背景として)

 小泉政権以来の構造改革が何よりも「国際競争力の強化」を第一の課題にしてきたには、「国民的競争国家」にそったもの、そのために、社会全体の需要不足というケインズ主義的問題は解決されないまま、消費不足による内需の萎縮が続くことになった。

<第四章 改憲型分権国家か憲法型ナショナル・ミニマム保障かの選択 からー>

分権化論の位置

 分権国家構想は、小泉構造改革の重要課題の一つ。分権国家構想は、憲法改正路線の中に組み込まれた国家改造戦略になっている。規制緩和型分権化、市町村合併の更なる推進、道州制の導入等において、自民党と民主党はほぼ一致した路線にある。市民的反新自由主義派が、こと分権化路線に関しては、新自由主義的分権化の潮流に呑み込まれ、そこに身を委ねつつあること。
階級的反新自由主義派―憲法のナショナル・ミニマム保障を重視する。市民的反新自由主義派―「市場=市民主義的分権」の道を優先する。

 「分権型社会」-国・地方の役割分担社会とでもいうべきもの 基礎自治体は「住民に身近な行政」という名の福祉国家的機能、広域的道州には開発行政等の社会資本整備の機能。国家は主に外交・司法・国防・通貨制度等の機能(権力国家的諸機能)-分権国家構想につながるもの。住民の福祉や地域の公共事業等は、それぞれの地域の負担でやらせる、国のほうは手を引く、という地域的受益者負担主義によっている。

地域単位の受益者負担主義のワナ

 ヨーロッパ地方自治憲章の「補完性の原理」では、地域的受益者負担主義はひとかけらも登場しない。「補完性の原理」にそった自治体の公的責任とは、住民の利益に最優先の責任を持つのは地方自治体であるということであって、その費用分担をどこに求めるかということはまったく別次元のことだから。ヨーロッパ地方自治憲章は、地域的受益者負担などは持ち出さずに、むしろ地域単位の受益者負担主義の是正を提唱している。ここのあるのは、分権化ではなく、むしろナショナル・ミニマム保障のあり方、自治体がナショナル・ミニマムを担う場合の財政府保障の方途である。

 自治体を「住民に身近な行政」を担う「総合的・自立的行政体」として位置づけ、その費用負担を住民に義務付けることを志向。→「一般財源主義」に。自治体が義務教育国庫負担金のような特定財源にはいっさい頼らず、使途の自由な一般財源だけで使用する、というもの。=ナショナル・ミニマム保障の欠落また軽視の思想。

<第五章 ポスト新自由主義の新福祉国家か福祉ガバナンスかの選択 からー>

新福祉国家(階級的反新自由主義派)福祉ガバナンス>(市民的反新自由主義派)

新自由主義VS.憲法体制の視点

 新自由主義の帝国主義的性格に対する反撃の武器はー憲法第9条。

 新自由主義の戦後福祉国家解体の階級的戦略に対してはー憲法25条の生存権をはじめとする憲法の社会権体系が武器になる。この「9条+25条」の陣地は、新自由主義路線、改憲型構造改革にたいする国民的な武器。

 生存権保障の万人妥当性と無条件性=ナショナル・ミニマムの基準

 憲法は、「健康で文化的な最低限度の生活」を万人(all people)の権利だとしていること、ウェルフェア(福祉)として無条件に保障されなければならないとしている。(国民生活の最低限保障)

ナショナル・ミニマム保障の領域と方法

 五つの領域―労働、教育、所得、社会サービス、住宅・環境(空間)
 保障の方法―第一は、現金給付による所得保障(児童手当、生活扶助、各種年金、失業手当、最低賃金など)。

第二は、現物給付(原則)による社会サービス保障。現物給付というのは、社会サービス(保育・教育・介護・看護・医療・保健等)を供給する教育・福祉・医療労働等が、公的に保障される体制のこと。現物給付原則とは、社会サービス労働を公的責任と公的資金のもとで保障し、利用者に給付する方法または体制のこと。

第三は、生存・教育・労働権を保障するため公的規制、ルール・基準の設定。(その領域にまたがって、労働・食品・衛生の安全基準、施設・職員配置基準、環境保全ルール、営業・事業規制、公務労働の必置規制、各種ミニマム基準等、公的な関与や取り締まり、監督、ルール制定が必ず必要になる。)

ナショナル・ミニマムに襲いかかる新自由主義的攻勢

 これら三つの方法に、小泉構造改革以来、新自由主義が襲いかかってきた。公的規制、ルール・基準の設定には、規制の緩和・撤廃路線が、最近ではこれに分権化に結びつけて推進しようとする動き。現物給付原則のもとにおかれてきた社会サービスの領域では、「民間委託・民営化→市場化」の政策が。(EX保育の准市場化―)

憲法のナショナル・ミニマム保障からみた「福祉ガバナンス論」の特質 

 「福祉ガバナンス」は、福祉国家におけるナショナル・ミニマム原則よりも、地方分権化を重視する、分権化による福祉社会(ないし市民社会)の実現や、福祉国家ではなく福祉ガバナンスの発展を期さねばならない、と考える。

 公的規制、ルールー規制・基準・ルールの全国的統一性・共通性・普遍性よりも、分権化を推進する立場から、地域的な多様性・柔軟性・自主性を重視。(規制緩和に迎合する性格が強い。)

新自由主義との親和的・妥協的産物としての福祉カバナンス論

 「福祉カバナンス論」は新自由主義と「同床異夢」の関係において構想されてきた。新自由主義と接点を持ちつつ、迎合するわけでもなく、対決もしない。イギリスのブレア政権期の「第三の道」に近い立場にたつ。営利企業やNPOを含む制度的複合体のガバナンスは、必ずしも民主主義的な統治方式を意味するものでない。「福祉カバナンス」によって担われる保育・教育・医療・介護等が、必ず国民の生存権や発達権を保障する方向に向かうという保証は一切ない。(非民主主義的性格)

福祉カバナンスと新自由主義との現実的な「同床異夢」

 新自由主義派と福祉カバナンス派とは「IT革命の進行→技能の陳腐化→低生産性労働者の労働市場からの排除→労働市場への参加→包摂」という流れの中で、同床異夢=呉越同舟の関係に入っている。ただし、この同床異夢関係は、失業者や不安定就労者層を福祉国家的社会保障に包摂する方向に向かったものではない。

 「福祉カバナンス論」に主張するアクティベーション支援策は、「セーフティネット」というより「トランポリン」であるというから、安倍政権期の再チャレンジ支援策のような新自由主義的職業訓練策に向かわざるを得ない。

→全国民に普遍的な所得面でのナショナル・ミニマム保障原則があいまいになる。「生活の自己責任論」に手を貸すことにならざるを得ない。(現代の格差・貧困問題解決の第一歩にはなりえない。)

「新しい公共空間論」と同じ「福祉の准市場化論」

 「福祉カバナンス論」が社会サービスの「准市場化(疑似市場化)論」を主張して、新自由主義的行革論と同じ方向に向かうことになった。総務省の「新しい公共空間論」と同じものになり、現物給付型社会サービスの重視どころか、その反対の「社会サービスの現金給付化」に向かうことに。

現物給付型社会サービスの現金給付化の問題点

・ 「保育の准市場化論」が現実化するようになると、戦後保育制度は大転換を遂げることになる。


・ すでに現金給付化した介護保険制度や障害者自立支援制度の改革課題に逆行するもの。介護保険や障害者福祉では、制度が現金給付型の利用者補助金方式に変わって、それらのサービスのほとんどが民間によって担われることになり、独立採算型事業経営の浸透の結果、一方ではコムスンの破綻にみるような不祥事の発生、他方では福祉労働者のワーキングプア化の進行という事態が呼び起こされている。

・ 「福祉カバナンス論」が自治体における「新しい公共空間論」と同じ構図を構成し、いま自治体レベルで進行中の「福祉国家の分権的解体」の動きに手を貸す面がある。
福祉の分野では、いま重要なのは分権化が進んでいないという点にあるのではなく、むしろナショナル・ミニマムが危機に陥っている点にある。社会サービスの供給主体が多元化していない点に「ニーズ表出型」の社会サービスが行き渡らない原因があるのではなく、社会サービスを公務労働から市場労働に転換しようとする動きが活発になっている点にその原因がある。

  対人社会サービス労働はそもそもコミュニケーションを方法・媒介にした労働という特質があるために、仮に「ニーズ表出型」のものとして発展されようとする場合にも、現物給付型の公務労働として位置づけることがふさわしい労働。このことは、保育・介護のあり方だけでなく、保育・教育・医療・保健・看護・介護等の対人社会サービス全体にかかわること。コミュニケーションを媒介・方法とする社会サービス労働は、その労働そのものが現物給付原則にそって、公的に保障されなければならない。現物給付原則の担い手は、福祉カバナンスではなく、憲法にもとづく福祉国家である。

<エピローグから->

新自由主義の五面にわたる破綻

① 社会的破綻。新自由主義がよってたつ社会的基盤が崩れるということ。新自由主義は支配階級の戦略的道具として用いられ、まず、階級的格差を拡大し、国民各層を貫く格差、貧困、雇用、生活不安を深刻化した。だだし、これによって新自由主義は自らの支持基盤を萎縮し、諸階層を社会的に統合する力を失うことに。

② 経済的破綻。格差社会に立脚した新自由主義的蓄積が今回の金融・経済危機を呼び起こした主要因。金融危機の引き金となったアメリカの住宅・証券バブルや、金融主導の新自由主義的バブルの崩壊とともに、世界各国を根こそぎ襲うことになった大不況の嵐は、新自由主義の帰結としての過剰資本の投機資本化、過剰設備・生産化の破綻を物語るもの。

③ 財政的破綻。経済危機は、税収の減少を招く一方で、景気対策や失業・貧困対策等の財政需要を膨張させ、財政危機を深化させる。「経済危機→財政危機の深化」は、新自由主義的構造改革そのものに破綻宣告を突きつけた。

④ イデオロギー的破綻。新自由主義の身内から造反が出ている。グリーンスパンの告白や中谷巌氏の「懺悔録」など根本的な批判になってはいないが…イデオロギー的危機に。
安倍政権から麻生政権に至る政権の自壊構造。政治危機は、政権に対する国民の不支持が高まるばかりでなく、支配層自身が支配体制を維持できなくなるときに、初めて本物に。

―これら五面にわたる破綻だけでは、新自由主義に対する決着がついたとはまだいえない。決着をつける主体は国民自身。決着のつけ方その政治的選択のいかんにかかっている。―

新自由主義に決着・決別を告げるための指針

 決着をつける武器は、憲法体制。(=新福祉国家構想) その課題は、

① 格差・貧困の克服。階級的格差にメスをふるって、国民諸階層間、地域間、産業・企業間の格差を是正していくこと、その武器として憲法のナショナル・ミニマム保障原則を活用すること。

② 経済危機の打開。経済危機打開の基本的ベクトルは、国民の生活・福祉の拡充に結びついた内需の拡大、福祉充実型内需拡大の方向に。

③ 財政危機打開の方向を示すこと。垂直的所得再配分の徹底を。税制面では応能負担の強化を進めて、財源の確保を。新福祉国家構想は、過剰資本を破壊するのではなく、それを課税で吸い上げ、福祉充実にまわして有効に活用する。(これは、新自由主義との正面衝突となる。よほどの政治力が必要。)

④ 新自由主義を相手に関が原の合戦に挑む政治主体は、福祉国家的公共圏に生きる住民。(・地域社会の住民は住民自治の担い手。・国民国家単位の住民は、国民主権の担い手に。・国際(関係)社会に生きる住民はインターナショナリズムの担い手に。地球市民に。 ―新自由主義に決着をつける政治主体はが、すでに、この三つの舞台において、めざましく活躍し始めている。― 

⑤ 新自由主義に決着をつけようとする住民・国民の運動に、一つの理論的指針、または判断材料を提供すること。

[私の感想]

何故この本を選んだのか

 10月21日の記事「「学力テスト体制とは何か」を読んで」の<私の感想>の最後の方に、この本について、次のように少し触れています。

― 新自由主義(その一部の教育改革)に対する理論的決着は、現在進行中のグローバルな金融・経済危機の中で明確になってきています。すでに今年の1月末に書かれた本でこの後に読む、二宮 厚美氏の「新自由主義の破局と決着―格差社会から21世紀恐慌へ」に「ポスト新自由主義」に向けた国民的決着の方向が出てるようです。 ―

 私の問題意識は、教育問題から出発したのですが、新自由主義的イデオロギー全般の理解(その全体像と問題点、克服の方向性など)をする必要性を感じて選びました。教育改革については、山本由美氏の「学力テスト体制とは何か」だけでなく、あと数冊ピックアップして、読むスタンバイもしていました。しかし、その前に、どうしても、もっと全体像の把握をと考えたのです。ネットでいろいろと調べた結果(図書館でも探しましたが)、この本にたどり着きました。私は、二宮氏の著作をもう20年ほど前からぽちぽちと読んでおり、時代の大きな構図を把握する上でよく参考にしてきています。読む前に記事に書いてしまい、自分にプレッシャーをかけて臨みました。教育問題にしろ、この本の経済学や二宮氏の詳しい福祉・保育といったことにも、私自身はこれまであまり勉強してきませんでした。(運動のかかわりもなくて…)ただ、自治体問題や住民自治に関しては、若い頃から運動にも少しは関わってきていますから二宮氏の本も読んでいるわけです。それにしても、この本の細部にいたっては知らないことばかりで、まだまだ多くが未消化のままです。少しでも消化しようと思って、長々とした<各章の内容からのピックアップ>になりました。

民主党政権誕生後、今後の方向を切り出す上で重要

 この本は、発行が今年2月28日、「あとがき」からして1月下旬に書き上げたことがわかります。その後に、政権交代、民主党政権誕生ですから、どうなのかなと思われるかもしれません。しかし、いや、そうなったからこそ、この本の分析が的確だったと思われる箇所が数多くあります。1月下旬の段階で、というよりもっと前、07年参院選あたりからもう、政権交代(小沢民主党の勝利)を計算に入れていたとしか思われません

 私自身のこの間の記事、9月21日の「教育と貧困問題―「ナショナルミニマムと地方分権」について考える。」の中で、私の感想として、「民主党政権で「ナショナルミニマムと地方分権」がはっきりしない」と述べました。また、湯浅誠氏の文から引用で「地方間格差の是正を十分論議せずに地方分権を進めていけば、国民の暮らしは壊れる。…国民の最低限の生活を保障する「ナショナルミニマム」については国が責任を持ち、それ以上の上乗せ部分を地方が独自にやる。中央と地方に関係はそういうかたちにしていくべきで、ナショナルミニマムを崩壊させるような地方分権はすべきではない。」と紹介しました。そして、私の10月5日の記事「「しのびよる貧困 子どもたちを救えるか」を見て」でも、「「公共事業から、人への配分、人の配置」には、国民、市民の意識変革、考え方の切り替えが必要になってきます。この放送の論議でも出されましたが、今、国民、市民の間で議論を大いに巻き起こしていくことが求められています。私は、特に地方のレベルでの意識変革がそのカギになるのではないか」とも述べました。

 新福祉国家(階級的反新自由主義派)か福祉ガバナンス(市民的反新自由主義派)か

-この違いがこの本によっていくらかは理解できたとは思います。しかし、本書が前者ですが、確かに厳密に(学問的に)は、「階級的」という表現でいいのですが、一般的には説明しづらいです。それに、後者では、これまでそれほどその主張に違和感を感じてこなかった(幾つかの著作も読んでいる)神野直彦、金子 勝 の両氏が代表格だそうで、それと、宮本太郎氏(名前だけ知っていたー宮本顕治氏の長男)を特に重点的に批判しています。

 今回、民主党政権に神野氏は関わりました。おそらく、民主党は、市民的反新自由主義に近いか、イギリスのブレア政権期の「第三の道」に近い立場にたつのではないかと思われます。ですから、福祉ガバナンス(市民的反新自由主義派)の問題点(限界)は、しっかり把握した上で関わっていく必要があります。特に、民主党のいう、地方分権、地域主権には、その中身、ナショナルミニマムとの関連性で切り結んでいかなければなりません。 







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