触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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「変われるか?日本の教育」を斬る」を読んで(その2)

<BOOKS.> (36)                           2010.10.4 

「変われるか?日本の教育

-現場の視点から「教育改革」を斬るを読んで (その2)

著者 尾木 直樹

出版社: 新日本出版社 発売日: 2009/09

 この(その2)では、本書との出会い、私の感想、を書いていきます。その前に(その1)で紹介した内容の中で、もう少し解説しておいたほうがよいと思われてことを<言葉の解説>としました。実は、これは私自身がよく理解していないのでまとめてみたということでもあるのです。

<言葉の解説>

PDCAサイクル
 PDCAサイクル(ピーディーシーエー - 、PDCA cycle、plan-do-check-act cycle)は、事業活動における生産管理や品質管理などの管理業務を円滑に進める手法の一つ。Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)の 4 段階を繰り返すことによって、業務を継続的に改善する。

教育条理
 条理とは「物事の筋道」のことである。「適用すべき法がない場合は条理によるべきこと…」とか、また、「条理のうち法的効力を有するもので、たとえば教育は教師と子どもとの人間関係を要素に成立し、そこには一定の教育の自由・自主性が認められるとして法的効力を認めようとするときなどに使われる。」ともあった。「教育条理」とか「教育の条理」といった場合こうしたことを念頭において理解すればよいのではないか。(私の解釈です)

CEART勧告
 国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)の合同専門委員会(CEART)が、全教からの申し立てを受けて「指導力不足教員政策」及び「新教員評価制度」における「教員の地位勧告」違反の審査を進めていましたが、その一環として、 2008年4月に ILO/UNESCO「CEART実情調査団」を日本に送り込み、日本における「教員の地位勧告」の遵守状況を直接現地調査し。10月29日に文部科学省、都道府県教育委員会に勧告し、それを全世界に向けて発信・公開した。

教育鎖国
 教員の地位や労働条件などについて、ILOやユネスコだけでなくOECDも懸念を表明している。それはGDPに占める教育予算が低位であることや、私費負担の大きさだけでなく、教員が長時間労働に陥っている問題、1学級の人数が日本と韓国だけが30人学級を達成していないことなどを問題視している。広い国際的視点で眺めると日本が教育・文化においては、まるで江戸時代のような「鎖国」状態にある。

「不易」
 芭蕉一門の俳風を語った「不易流行其基一也」から引用。不易とは「人の心か社会の隆替まで世の中の森羅万象を司る不変の法則、時をこえた真理」。流行とは「時代性や環境条件により時に法則を打破するさまざまな変化」。しかもこの不易と流行の基はひとつ、不易が流行を、流行が不易を動かす・・・(サントリー不易流行研究所より引用)

人生前半の社会保障
 広井良典・千葉大教授がその著書などで提唱している考え方。―親の所得格差が露骨に子どもの教育環境の格差につながっている。不況などで学校に就学費用を納められない子も少なくない。社会保障費といえば介護や医療など人生後半に集中してきたが、活力ある社会にするため教育分野の公費支出を増やそうという考え方だ。

<本書との出会いと感想>

 10月2日の記事<BOOKS>「小中一貫教育を検証する」の紹介(その2)の感想のところで書きましたが、今、10月30日に「いま、子どもが危ない!-日本の将来と教育の果たす役割―」というメインテーマでリレー教育講演会を開く準備をしています。

 そのサブテーマに私たちの目指すべきものとして「ゆきとどいた教育で未来への希望を子どもたちに!」とました。しかし、そうはしたものの、会の役員会(9月22日)で話し合ってみて、これには今のところはっきりとした「正解」というものはないのではないかということでした。そして、それを見つけ出していく努力を積み重ねていこうということになりました。それでも、そのための何か材料(ベースとなるもの)がなければなりません。

 そこで、私は、最近読んだ尾木直樹氏の「教師格差」を持ち出しました。タイトルが教師格差となっていても書いてあることは苛酷な教育現場の実態が教育の現場に近い視点で書かれていること、そしてかなり適切な提言がされていると紹介しました。しかし、この提言の部分はまだ少し物足りない、しかもこの新書は3年前のもの。そこで、この後に、私たち自身も関わった「小中一貫教育を検証する」をきちんと紹介しなければと思い、10月1~2日の記事にまとめました。ここにある山本由美先生の「終章 対抗軸を模索する」は、貴重な指摘です。

 その後、尾木氏のもう少し最近書いたものはないかと探して、本書「変われるか?日本の教育」に出会いました。1年前の発行でしかも、政権交代直前に脱稿したようで、その辺は反映していません。しかし、1年が経過し、首相は、菅直人に代わっても、民主党政権の迷走ぶりは一段とはっきりとしてきています。そして、尾木氏がかなり詳しく本書で提言していることは、この1年間でも新政権は、ほとんど取り入れていないことがはっきりしています。それだけに、この本書の提言は今後、私たち自身でもよく消化して、国や自治体に要望して実現をはかるべきものが多くあります。

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「変われるか?日本の教育」を読んで(その1)

<BOOKS.> (36)                           2010.10.3 

「変われるか?日本の教育

-現場の視点から「教育改革」を斬るを読んで (その1)

著者 尾木 直樹

出版社: 新日本出版社 発売日: 2009/09
アマゾン 「変われるか?日本の教育」尾木直樹著

著者略歴/1947年滋賀県生まれ。早稲田大学卒業後、私立海城高校、公立中学校教師を経て、現在は、法政大学キャリアデザイン学部教授、早稲田大学大学院教育学研究科客員教授として、学生やゼミ・論文指導、「臨床教育相談論」、「現代社会と家族」、「道徳教育の研究」、「教育入門」等を講じている。また、全国への講演、テレビやラジオのコメンテーター、対談、新聞・雑誌等への執筆、単著の出版、教育相談、カウンセリング等に幅広く活躍している。主宰する臨床教育研究所「虹」では、所長として子どもと教育、メディア問題等に関する現場に密着した調査・研究活動にも、精力的に取り組んでいる。最近は、フジテレビ「ホンマでっか!?TV」などのバラエティ番組にも出演。「尾木ママ」(明石家さんま命名)という愛称で親しまれている。

<目次>

第1章 時代を逆走する「改正」教育基本法―まるで「クーデター」
第2章 吹き荒れる「数字の嵐」―これでは「教育破綻」
第3章 子どもや教員の味方になれない教育委員会―職員室に自由の風を
第4章 教職員も“伸びる”学校へ―職員会議は学校民主主義の原点
第5章 海外から見た「教育鎖国」日本―押しつぶされる「個」と民主主義
第6章 「教育条理」を貫く―子どもの心に寄り添いながら
終章 「五観」を転換させよう―「教育破綻」の臨床から提言する
おわりに

<内容の紹介>―「おわりに」より

「変われるか?日本の教育」。こんな問題意識から、臨床現場の視点に立って2000年以降の「教育改革」を分析―教育基本法、教育3法と言った基幹の法制度の改変。それらを生んだ視点・発想、その「手法」の問題点を明らかにする。それらによってもらされた悪影響-序列化を強めて子どもを失望させ、学力を低下させてきた全国学力テストや学校選択制。職員会議での「挙手禁止」を強いる東京都教委…。

 今日の教育界全体を貫いている思想は新自由主義であり、その発想は「市場原理」であり、何でも数値目標を掲げさせ、その達成のために「PDCAサイクル」で競争を煽る。「学力向上」に関しては「全国学力テスト」がその牽引的役割を果たし、これに小中学校の「学校選択制」がセットされ、学校の存続自体が“競争”にさらされるようになっている。

 しかも、市場原理によって教育の「商品化」が進行。「消費者」は親ですから、選別される学校側にとっては数値や選択の結果は絶対的な力。こうした“偽装”「教育改革」は、大学までも巻き込み、教育界全体を覆っている。こうなれば、弱肉強食、結果責任論の新自由主義にとっては怖いものなし。「選択と集中」-つまり数値という数の力を振りかざしの“偽装”「改革」が次々と断行される。これに教育行政における密室性の高いヒエラルキーが合体すれば、時代錯誤的で暴力的な権力が猛威を振るうことに。

 こうした現状をあと10年も20年も放置はできない。その矛盾は限界に達し、子どもと教員が悲鳴をあげている。このまま新自由主義的「教育改革」を続け、「教育破綻」を加速させるなら、「教育鎖国」日本はこの歴史的転換期を、世界の国々と手を取り合って歩むこともできない。取り返しのつかない国家崩壊の危機に陥る。

 ILO・ユネスコの「CEART勧告」(2008年12月)や、子どもの幸福度が世界一といわれるオランダとの国際教育比較的な視座は、日本の問題の本質を浮き彫りにし、打開の方向と展望を明示した。

日本の教育を「変える」には、「子どもの最善の利益」に実現のために、教育学に裏付けされた「教育条理」に基づく「教育の原風景」を求めて実践することが重要。そのために行政はまず、子どもと教員にゆとりを与え、環境や条件整備にたっぷりと資金を投入すること。そして、現場の教員と子どもの声をじかに聴くことが重要。同時に子ども参加の視点ですべての教育施策を推進すること。

さらに、子育てと教育にかかわる一人ひとりが教員、教育委員会、保護者の立場を問わず自己の要求や思いを外に向かってしっかり表現すること、自由に発言し続けること。とくに教育関係者がそうすることは子どもたちに対する何よりの励まし、学びの意味を教える最高の心の教育そのもの。

第6章、終章で提起した「五観」の転換こそが今、私たち一人ひとりに問われています。もちろん一人では厳しい。だからこそ、横へとつながり、小さくとも「連帯と協働の絆」を無数に結び始める時です。

<内容の紹介>-第6章と終章

第6章 「教育条理」を貫く―子どもの心に寄り添いながら

1 体罰問題で考える「子ども観」

 法的には既に厳禁されているにもかかわらず未だに根強い「愛のむち」論にたいして、教員は「叱る」力量を高めよ、と。ここで問われるのは、「子ども観」です。教員がこどもを見下していたり、「指導してやる」といった視点や発想でいたりする限り体罰はなくならない。子どもを一個の人格として、大人と対等に尊重し尊敬する生徒指導観から考えるなら、体罰の発想そのものが入り込む余地はない。

2 教育の「原風景」-子どもの「心に寄り添う」

 教育の原点は「不易」。江戸時代の「寺子屋」から変わらぬ教員と子どもの信頼関係をもとに成り立っている。子ども同士の関係の重要さ、子どもが主人公であるということ、子どもは自然や日常生活の中で成長するということ、これらもまた「不易」。教育を成り立たせる「原風景」です。

 一人ひとりの「心に寄り添って」学力アップし、立ち直った都内の北区立神谷中。杉並区立和田中の「夜スペ」などのように授業を塾など外部に“丸投げ”する方式ではなく、昔から不易の学校力、教育力を発揮。「心がつながる」授業姿勢こそが生徒たちに無限のパワーを生み出させていく。

 「生活と教育の融合」-生活教育の大切さを教えてくれるのは、東京の私立自由学園。「育てたブタを食す」ことで、一連の「食の循環」を、実際の現場まで足を運んで見学、学校の給食などの食生活を通し、総合的、体験的に学び、実感として生きること、体験として命の大切さを体得いていった。実習で得た知識や技能が、各教科の体系化された科学的な「学校知」と融合し、学びが「生きる力」へと血肉化されていった。

 「ケータイ時代」は子どもが主役。子どもが主体のルールづくりに取り組んだ神奈川学園中学校・高等学校。ここではすでに数年前から生徒会が「自由にしても崩れない集団」をめざして、生徒自身の手でケータイについてもルールづくりを進めていた。東京の私立和光中学校でも、みんなで話し合い、ネットいじめを解決し、ルールづくりに挑戦。このように大人からの規制だけでなく子ども自身の生活から、ケータイ使用のどんな点が問題なのか、いちばんわかっているのは生徒自身。その生徒自身がオープンに議論し合えれば、いかに問題点を克服すればよいかという方向性や知恵と対策も、それぞれの学校らしくできあがっていくはず。

3 どこをめざす?日本の教育の針路

 冷め始めた「教育改革」―保護者の意識にも変化の兆しが… どうも保護者は、わが子の学力を他の子と比較することによって安心したり,わが子の評価の目安にしたいよう。親たちは、自分たち自身が偏差値競争漬けだっただけに、学力の「本来」をなかなかイメージできなくて、理解しにくいよう。-こんなに競争主義に陥っている国は世界でも稀で、真の“学力”測定に関して国民的な理解を形成することは、今日の日本にとって重要なテーマ。

 注目すべき品川のアンケート(2008年7月20日「真相報道バンキシャ」)。-から多くの保護者が「教師の多忙化」を問題視し始めていること、品川の教育改革の目玉70億円以上もつぎ込んだ「小中一貫校」を必要と答えた親は5%、「どちらかといえば必要」をいれても15%。「不必要」は「どちらか…」も入れると24%にもなっている。-「教育改革」熱は明らかに急速に冷めてきている。しかし、その後に残ったものは、「教育の破綻」以外の何物でもない。

 この最近の「教育改革」は、どれも教育条理に反した、現場の実態に合わないものばかり。それでも教育基本法や教育3法の改正、教員免許更新制の法律改正と小中一貫校や学校選択制などが進んだのは、教育界からの要求や市民の要求からではなく、イデオロギッシュな政治力によるものばかり。表面上の変化をいち早く自らの政策に取り込んでパフォーマンスを発揮したい首長・教育長たちの圧力による施策でしかなかった。

 政治は教育をふり回すなー今、学校は数値目標を掲げた競争原理に走って、今日の経済構造や社会体制をつくっていくのに都合のよい人材を育成する、いわば“製造工場”“選別機関”に陥っている。高校全都道府県一学区制にして競わせれば、生徒全体の流動性が激しさを増し、結局一番からビリまで序列化される。しかし、個々の生徒の学力が向上するわけではない。公私を巻き込んで都道府県単位の狭いコップのなかで、受験学力が「本当の学力」かあやしいままで、大学合格をめざして競わせているに過ぎない。それどころか、挫折を味わい、大切な思春期に心に深い傷を負った、やる気の失せた自己肯定感の低い若者を大量に生み出すだけ。

 習熟度別授業、2学期制、授業時間増、「ゆとり」から「詰め込み」教育への転換など、最近の「教育改革」は、教育の機会均等を奪い、経済格差が学力格差、公私間格差を生むという悪循環の“構造”に陥っている。

 学校を自己肯定できる学びの場に

① 「学び」というものをとらえ直して、学校を、各種テストや評価によって子どもたちを“振り分ける機関”“序列化機関”としての役割から、」誰もがいつでも生涯にわたって学び成長し、“自己肯定していける機関”としてとらえる「学校観」に転換していくこと。

 ② 小泉・安部政権以来の「教育の構造改革」の発想や手法から根本的に転換する必要。教育界が政治にこびる姿勢をやめ、教育現場の実態や声、教員や保護者、そして何より子どもの声を大事にした「改革」に。

 ③ 青少年が本当に誇らしく思える国と社会をめざすことができるような「社会観」を私たちが獲得すること。
 授業料を無料にー「学習観」の確立をー小学校から大学まで、私学も含めてすべての授業料を“無料”にすべき。「教育は未来への投資」「知的公共財の育成」(フィンランド)「国の財産」(オランダ)、国家のライフラインの整備の課題であり、優先的に予算を当てるべき領域。日本の教育支出は私費負担の割合が高く「お金がなければ学べない国」になってしまっている。

 ライフラインとしての学力―子どもにも「社会保障」としてー実際の学力格差は親の経済格差、文化格差にほかならない。全国学力テストで「学校間格差」とそれぞれの「地域間格差」がタテとヨコの糸にクロスしながら緻密に織り上げられる、ここまで二重三重に全国くまなく差別化し、選別を強める教育内容や授業体制、評価システムを総合的、体系的に「完成」させてしまった国も珍しい。

 教育は「人生前半の社会保障」(広井良典)であり、その意味で“教育は福祉”であり、学力は国家にとっても活力を発揮するためのライフライン。個人も国家も生きていくうえでのセーフティネットの役割を担っている。一人ひとりが知的レベルを上げること、“底上げ教育”こそが、国としても「知的公共財」を豊かに育てていくことにつながり、結果的に社会も経済も発展していく。経済の市場原理を教育に逆適用するなどということは、実に馬鹿げている。今日の日本の経済格差と学力格差は、「教育破綻」だけでなくまさしく国家滅亡への道。「何はなくとも“希望”だけはある」(村上龍)といえる日本にしなければ、子どもたちの無限のパワーは全開しない。

終章 「五観」を転換させよう―「教育破綻」の臨床から提言する

教育の何が問題なのかー浮き彫りになった四つ矛盾

① 国会や地方議会を問わず、政治に振り回されすぎではなかったか。あまりにも直接的な「政治」の介入によって教育条理が無視され、「教育破綻」が進んだ。非常識なほど内部のヒエラルキーが強固に確立した教育行政が、平気でまかり通っている。学校現場と教育委員会との矛盾、そのあり方を抜本的に見直す必要が。

② 教員や学校の教育実践における自由度があまりにも低いこと。

③ 教員の働く条件と環境があまりにも低水準であるという問題。

④ 「教育の主役は子ども」であるという当たり前の視点がまだまだ弱い問題。

五観(子ども観、学校観、学力観、教師観、教育観)の転換を提言

① 子どもも「小さな仲間市民」という「子ども観」と感性 

 あらゆる領域への「子ども参加」の促進―学校関係だけでなく、児童館や公園、駅舎のデザインづくりなど地域の幅広い行政に子ども参画の機会を積極的に拡大を。
ゼロ・トレランスを撤回し、「体罰」をなくす。

豊かで幅広い「学校観」 

学校を「学び」と「成長」を保障する場にーまず、受験競争の緩和をめざし、「入ること」より「何を学ぶか」が目的になるような入試制度や学校観に転換させていくこと。各段階の入試など本来は不要であって、「高卒認定資格」こそ大学への入学資格でありパスポートにすべき。
 高校・大学まで授業料は無償にー国際社会なみに公私を問わず高等教育の段階的な無償化をめざすべき時期。
 25人学級の実現。

③ 「競争」に頼った「学力観」を見直すーもう一度考えたい「学力観」

 何でも競争させないことー学力は「競争の中でこそ伸びる」と考えるのはあまりに教育理論を無視した短絡的な暴論。まず、過度の受験競争はなくすこと。さらに、指導法や成績・評価の手段として安易に競争を取り入れることは避けるべき。全数調査の学力テストは中止か、サンプル調査に。

④ 教員も力を伸ばせるような「教師観」

 教員の定数を増やし、ゆとりのある職場にする。民主主義的な人事考課を工夫する。教員の階層化をやめる。免許更新制を廃止する。

政治にふり回されない「教育条理」による「教育観」

 「改正」教育基本法を憲法と「子どもの権利条約」の精神にそった内容に改善するため再検討を。
 教育予算を国際平均水準以上にして教育格差を是正する。教育予算をGDP比5.0%(義務課程)、1,0%(高等教育)以上に。



「変われるか?日本の教育―現場の視点から「教育改革」を斬る」を読んで(その2)
は、この本を選んだ経過、感想などを後日記事にします。

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「小中一貫教育を検証する」を読んで(その2)

<BOOKS>(35)                         2010.10.1

「小中一貫教育を検証する」の紹介(その2)

著者(編) 山本 由美 

出版社: 花伝社 発売日: 2010/08  

この(その2)では、第1章と終章の紹介を行います。

<主な内容の紹介>

第1章 小中一貫教育問題とは何か

現在、全国の自治体で小中一貫教育、小中一貫校が急増しています。しかし、どこでもその導入の是非については十分な議論が尽くされてるとはいえず、教育改革の一環を占める路線として既成事実となってしまった感があり、それも多くの場合、学校統廃合を行うための手段として全国に普及している。そして、民主党政権は、モデルとする教育改革のあり方を、新しいコミュニティと結びついた小中一貫校に見ている。

保護者や住民は、学校統廃合に対しては抵抗感が強いが、子どもたちにとって「新しい教育効果も高い小中一貫教育」という触れ込みの小中一貫校の新設は歓迎しがち。行政側の小中一貫校のメリット(俗説だが)についての一方的な情報提供を積極的に行い、多数の保護者の賛成と地域から学校がなくなってしまうことを危惧する地域住民の反対という流れが生まれている。行政にとって、小中一貫校は、保護書と地域住民の間を分断しやすくする改革であり、また、大量の校数を一度に一校にまとめることができるため、うまみが多い改革である。

このように小中一貫校が学校統廃合につながっているケースとして全国の自治体では似通った事態が急速に出現し、その具体例として宮城県栗原市のケースが取り上げられています。
(詳しくは私のブログ「触媒生活」 宮城県栗原市金成地区 も参照のこと)

小中一貫校を設置することで地域の小規模校が廃校になり、自治体の中で選別され切り捨てられる地域が生まれている。それは、ここの自治体だけの問題でなく、地域を「中核部」と「切り捨てられる部分」に区分けしていき、後者からはできるだけ学校などの公的施設を切り捨てて身軽にしていく、道州制を見すえた地域の大再編が起きている。

終章 対抗軸を模索する

 小中一貫教育は、小学校と中学校がそれぞれ持っていた理念や文化や具体的なカリキュラムを根こそぎ別なものにしてしまう制度である。これは、公教育を序列的に再編していく新自由主義教育改革にとって、最大の障害であった従来の学校自治的な関係を取り除き、教職員の意識改革を進めるうえで有効に働く。そのような「改革」が、まだ十分に 検証されていない小中一貫教育の「有効性」を提示することで、保護者にはすんなり受け入れられてしまう。

 子どもたちは大人が思う以上に身近な親密な関係の中で生活している。それは人格形成にとって必要とされるステージだったはず。そこで培った力や地域に人間関係によって、やがて厳しい思春期を乗り越えて自我を確立させていった。でも、この“世界”が大きく別なものになってしまう。

 都市部における教職員と保護者の共同の可能性 

都市部の場合、小中一貫教育の持つ問題点を教職員と保護者が共有できれば、簡単には事態は進められていない。大阪府門真市では、教職員組合が「市教委が『小中一貫教育推進』『中一プロブレム解消』『学力向上』などの教育問題で、『攻撃的』に学校つぶしを進める中で、教職員組合はそれらの欺瞞を打ち破る理論的・政策的な力量を高める必要がある」と運動を位置づけているのは対抗軸の方向性を示している。行政は単に“学校つぶし”すなわち統廃合をしたいだけなのだ、という位置づけができた場合、反対運動は組織されやすい。

 過疎地における反対運動の困難さ

 絶対的な子どもの数の少ない、地方の過疎地における小中一貫校に対して異議を唱えていくことは難しい。多くの住民にとって、地域の産業が衰退し人口が減り、何よりも子どもの数が少なくなっていくなかで、新しい小中一貫校に明るい未来を見るしかない。行政の教育効果に対する宣伝も有効に使われる。特に、児童が減り複式学級が生じた場合、保護者の不安は大きくなる。

 そのような煽られた不安感は、道州制に向けて地域を再編して育成策に巧みに利用されていく。この間の総務省や地方分権推進委員会などの地方改革構想が、「限界集落」と「コンパクトシティ」をセットにした政策を提起していることに注視する必要がある。過疎地における小中一貫校はまさにこの政策に合致する。

 また、民主党政権は、これまで行われてきた義務教育国庫負担制度のもとでナショナルミニマムが規定され、どんな小規模校にも学級数に応じて教員が配置される制度を見直し、例えば一括交付金の中から自治体の責任で教員給与を捻出しなければならないような制度へ転換する方向性を示している。自治体にとっては、たくさんの小規模校をまとめていくことによるコスト削減は緊急の課題となっていく。

 地域づくり構想の中に学校を位置づけて

 過疎化、少子高齢化により学校統廃合がおこなわれた自治体でさらに若年層が流出して限界集落化し、基幹産業であった農業、特に稲作が衰退していくというサイクルが見られる。近年、政府の農業政策の混乱も反映して農業経営は困難な状況にあり、さらに人口減、少子化は顕著に。産業構造の転換に成功しない限りこの状況を変えていくことは難しく、いたずらな学校統廃合が問題の抜本的な解決策になるわけではない。親の不安を煽り、安易に小中一貫校という学校統廃合を進めることは、地域にとって抜本的な問題解決をさぐる努力をそいでしまうことなる。

 将来的な産業構造の展望も含めた、地域づくり、まちづくりのプランニングを、住民参加のもとで進めていくことの中に、望ましい学校のあり方も位置づけられなければならない。たとえ極端な少子化でやむをえず統合する場合でも、地域住民にとって望ましい学校像について時間をかけて検討していくことはできないか。また、将来の地域の担い手としての子どもたち、子どもの成長、発達にとって地域に価値といったものに配慮していくことが必要。

<私の感想>

全国的な動き、流れの中での過疎地におけるケースとして栗原市が本書によって取り上げられ、その位置づけがはっきりしてきました。

ここ栗原市でも、町村合併から5年が経過して、学校統廃合だけでなく「行政改革」の名のもとに、自治体内での周辺地域の切捨て、身軽に、という流れが急速に行われてきています。しかし、これが「道州制との…」といわれてもまだちょっと不勉強でピンときません。

民主党政権の教育政策についてもまだ良く理解できません。たしかに教育改革を「新しいコミュニティと結びついた小中一貫校に見ている」という点はあるとは思います。民主党政権の義務教育国庫負担制度のもとでナショナルミニマムが規定され、どんな小規模校にも学級数に応じて教員が配置される制度を見直すという動きは一括交付金がらみでも注視していく必要はあります。しかし、従来の文科省の流れとどう変わってくるのか?延長なのか?よく分かりません。

民主党の地域主権の方向性も同様です。片山氏が総務大臣になったことによって、私自身は、期待をもっています。しかし、片山氏は、民主党の枠の中からの出発ですからどれだけできるかは、まだ未知数です。彼は、一貫して、住民自治を重視しており、生活者からの民主主義も重きをおいています。ですから、町村合併には否定的であり、「コンパクトシティ」という考え方にも懐疑的だと思われます。しかし、道州制や市場経済(競争)というものには容認的だと思われます。自治体に対して、ぎちぎちとコスト削減を迫るようなことはする筈はないのですが、逆に「ナショナルミニマムを放棄して財源も自治体にある程度十分渡しますから、それを道路に使うか、学校に使うかは自治体(その構成員の市民・住民)で決めてください。」となりかねません。ここで試されるのは、私たち自身ということになります。国の責任と自治体の責任、そして市民・住民(の責任)が何をするかをはっきりさせていかなければならなくなります。ここでは為政者にお任せするーお任せ民主主義などというものは通用しなくなります。自治体(市職員)、首長、議会(議員)、さらに地域審議会や自治会、様々なコニュニティ、NPOなどとの関係で、場面で、繰り返し議論をし、『合意形成』を積み重ねていくことが必要になってきます。

教育・学校統廃合に関して言うならば、そこに「子どもにとって、の視点」をきちんと入れていかなければなりません。「ゆきとどいた教育をすすめる栗原市民の会」では、10月30日には、「いま、子どもが危ない!-日本の将来と教育の果たす役割―」というメインテーマでリレー教育講演会を開きます。しかし、実は、危ないのは、子どもだけでなく、私たち大人、現代の人間社会自体が危ない、危ういものになっているのです。3つのサブテーマの最後を「ゆきとどいた教育で未来への希望を子どもたちに!」とました。しかし、そうはしたものの、会の役員会で話し合ってみて、これには今のところはっきりとした「正解」というものはないという結論になりました。それを見つけ出していく努力を積み重ねていくしかありません。それを私たち、総体でやっていかなければならない、そうした(大人の)姿を、姿勢を子どもたちにも見せていかなければならないと考えています。その場合、この本書の終章「対抗軸を模索する」はそのベースとなるものだと思っています。

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