触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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東日本大震災日記 (その13)

東日本大震災日記 (その13)

3月27日(日)17日目  

水ゆるむ3月末の日曜日のこと。

地域の共同作業(ジャリ敷き)に出て、

―水がゆるんで、日中は少し温かくなってきました。これから、この辺りは、いよいよ米作りの準備に入っていきます。冬の間、眠っていた田んぼをトラクターで起こす田起こしが始まろうとしています。その前に、この間、痛んだ農道を、ジャリを敷いて修復する、地域総出の共同作業が地域を3地区に分けて行われます。

この種の作業は、義父のところに連絡が入り、軽作業なら、義父がやってしまうこともあります。しかし、こうした力仕事は、私の役目となります。朝の8時に「川のところへ集合!」と言われていたのを、集合場所をしっかり確認していなくて、初め、別の場所へ行ってしまいました。それで、少々遅刻。しかし、その後から来た人もいますし、仕事はしっかりやりましたから、まあ、大丈夫でしょう。そもそも、婿で、都会育ちで、脱サラ組の私は、こうしたことには、地域の皆さんから期待されていません。

短時間で終わるかと思っていたら、何かとあっち、こっちとすることになってしまい、3時間もかかってしまいました。その間、ずっと力仕事をしていた訳ではなく、待ち時間も結構ありました。その間、ずっと雑談することになるのです。男どもの雑談ですから、いつもなら、他愛も無いことばかりなのですが、今回は、やはり、地震の被害のこと、身内・親戚の状況、沿岸部で窃盗・盗難が頻発していることなどでした。そして、何といっても、ガソリン情報の交換、○○では、必ずやっている。朝と昼の2回。××では、20リッターだけだけど毎朝から、並べば何とか入る。でも7時間待った。とか、3時間だった。とか、△△では、満タンにできた。など等。さすがに男ばかりで、タバコの確保については、出ましたが、食料品の確保については、やってはいても話しには出ません。それと原発問題です。健康被害だけでなく、やはり、農作物への影響を、皆さん、非常に心配していました。誤解、うわさの類もあり、どうした訳か、私にそれへの回答を求めてくるのです。

妻の友人が、自転車に乗ってやって来ました。

―今日は、日曜日です。朝、あまり家にいてもすることが無く、手持ち草の妻は、隣の地域に住む、今はシングルの友人(まだ、勤めている)に、TELで「家のハウスに、青菜がいっぱいあるわよ。ちょっと、遊びに来ない?」と誘っていました。午後になって、その彼女が、いつもは車でくるのですが、ガソリンが乏しく、少し温かくなったので、自転車に乗ってやって来ました。いつもよく来る彼女とは、私も少しは話をするのですが、今日は大変、話が盛り上がりました。地震が起きた時のこと、その後の大変な生活のこと、家族のことー仙台にいた息子が、今、帰っていて、これから郡山まで行くことになる。とか、その他、地域のことなど話はつきません。ああ、彼女も、いろいろ話したがっていたんだなあ、と思いました。被災時というのは、何か、人は“話す”ということで癒されるのだな、と思いました。(私たちもですが…)我が家のこの間の顛末(このブログに書いたことなど)を話すと、彼女には「不便な生活を、まるで、楽しんでいるみたい!」と言われてしまいました。

 夕方になって、宅急便が、来たではありませんか。第一便は、佐川急便でした。妻の震災前に注文した衣料品がやっと届いたのです。運転手に聞くと、「東京(本社)から商品とともに車の燃料(軽油)がドラム缶で送られてきた」とのことでした。

3月28日(月)18日目  

幸運にもガソリンの確保ができました。

ついに、ガソリンを確保しました。

―ガソリン確保騒動のことは、義父の耳にも達していました。義父は、私たちに向かって「何時間も並んで、2回も給油を受けて、満タンにしたに者もおるそうじゃ。」と珍しく嫌味を言いました。ふたりが、並んでも、1時間くらいで、直ぐに諦めて帰ってきてしまうことを捕らえ、さらに加えて「あんた達、我慢が足りないんじゃよ。」とお説教をされてしまいました。「ハイ、そうですか。」と応えたものの、いくらなんでも、自分たちでも、もういい加減何とかしなければ、と深く反省しました。そして、「今度こそ何とかするぞ」と、ふたりで、決心を固めました。

 今日は、何としてもガソリン確保するまで、何時間でも並ぶゾー!と居合いを入れ、覚悟を決めて、(6時50分)朝食、コーヒー、お菓子、本、Ipodまで持参で、いざ出陣!!。香川の娘から直後に携帯に連絡が入りました。ミクシー?で「今、○○で並んでいる。」と出ている。とか、「××でもやっている。」○○の方が20リットルまでだけど確実に入手できるそうで、そちらに並ぶと良いよ。」と、まるで遠隔操作されているようでした。そこで、まず、初めにその○○を目指して動きました。しかし、その途中のJAスタンドで、もう給油が始まっていました。そこに並ぶかどうするか迷ってしまいましたが、取り敢えず、娘の遠隔操作の指示通りに○○へ。ところが、物凄い列ができてしまっていて(1キロ以上か?)しかも、その先頭を見ても給油は、まだ始まっていないし、前日の張り紙であろうか「中止」となっているし、店員も、どこ?という状態でした。列の最後尾へ向かう途中で、妻とも相談し、考えを転換。これは、自分たちの見た眼を信じて、JAスタンドへ行こうと決心しました。

結果は、大当たり。最後尾に着くと、何人もの職員が総出で、見事な誘導をしているではありませんか。近所の家に迷惑がかからないように、上手く家の前には車を決して並ばせません。私たちは7時10分に並び始め、ほんの10分足らずでスタンドへ。7時少し前より始めたと言っていました。給油口が6つもあるので、どんどん列が裁けて行ってしまいます。そのそれぞれに複数で職員がついていましたから、JA栗っ子の総力を結集しているのか、若い人が多かったのですが、総数で20人以上いたでしょうか?その組織力に圧倒されました。感動的!!でした。並んですぐさま、昨日我が家に来てくれた妻の友人に、妻が携帯で連絡しました。「直ぐ来て!!今なら、必ず買えわるよ!」と。

 結局、私の軽ワゴン車に満タン、20リットルの携帯ガソリン缶にもいれてもらえました。合計で50リットルも確保できました。ガソリン缶の方は、帰ってきて、妻の車に入れました。この後、彼女から、我が家に「ありがとう!ガソリンが買えました。」とTELがありました。

我が家では、直ぐに義父に、ふたりは、大自慢して、報告。この後、叔父宅のことが心配でしたので、義父を連れて3人でガソリン満タンの私の車で行くことができました。叔父宅のこと、ガソリン確保と、この間の二つの懸案事項が、ひとまずクリアできて、ふたりで一安心しました。明日は、義父母と私たちの4人で、朝から鳴子の温泉に行くことにしました。

災害の中での認知症の義母

―このことについて、妻は、日頃から周りに対して、できる範囲で理解を求めようと努力をしています。それで、私のブログでも、このことについて取り上げるよう要請してきました。丁度、3月28日付け朝日新聞に支援通信「認知症 悪化に注意」という記事が出ました。そこで、この際、この認知症について、皆さんの理解を少し深めていただきたく、あくまで、私の義母の例ではありますが、書きたいと思います。

毎朝、妻は、その日にある予定、義父の動向などを小さなボードに書いておきます。地震が起き、ライフラインが止まって、「地震で電気、水道がこない」と書いておきました。初めそれを見ても、直ぐにリセットされてしまます。なかなか再び見ないので、「何で、電気が来ないの!」「水が出ない!」「コタツが入らない!」「テレビがつかない!」と怒鳴ります。何度、簡潔に説明しても、ダメです。

確かに、寒いのは辛いので、大変でした。訳が分からなければ、なおさら、我慢ができず、辛かっただろうなと思います。そこで、途中で、堀コタツに換気に気をつけながら、練炭七輪を入れました。電気が来て、風呂にホースで井戸水を入れておいても、その水が濁っていたため、義母は栓を抜いてしまいました。ソラーライトも、陽のよく当たる玄関先に置いても朝から隠してしまいました。大切な物は「取られてしまう」と考えてしまって、直ぐに隠すのですが、これは、だいぶ経って玄関の靴箱から見つけました。(その夜は明かり無しに)

また、母親を探すように娘(私の妻)を探す行動がこの間、多くなってきました。ここ何年かは一旦収まっていたことなのですが…

しかし、義母のような前々から、気丈な性格な人は、こうした非常時に、気持ちがへこむのではなく、かえって気合が入るように思われます。食料がないと、「私が頑張って野菜作らねば、」「私が稼がねば、」とか、言っています。そして、種芋を隠してみたり、台所に立つのですが、家事ができず、散らかすだけで、結局は空回りしてしまいます。義母を最初の日だけですが、心配もしていましたから、その実家の叔父宅に連れて行きました。しかし、真っ暗な中で怯えて、ベッドに寝たきりになっていた叔父夫婦を見ると、お説教を延々と始めました。しかし、基本的には、義父も私たち夫婦も、義母の好きなようにしてもらっています。広い家の周りと6年前に新築した使いやすい平屋の母屋と、ここには、それだけの空間的なスペースがあります。庭、畑の草むしりといった義母の仕事もたくさんあります。介護認定は受けていますが、今のところ、施設に入ったりする必要もありませんし、サービスも全く受けていません。

義母の認知症は、発病してから、もう15年ほどにもなります。最初のうちは、こちらも初めてのことなので、気付かなかったり、私などもよく義母と衝突していました。しかし、原因が分かり、それについて理解が深まっていくと、問題はいつもあるのですが、どうにか付き合っていけるものです。感情については、認知症は義母の場合ですが、ずっと有るし、むしろ鋭くなったようです。それも否定的な感情がです。これは悲しいことなのですが、仕方がありません。この否定的でも感情が強くあり、空回りでも気力があり続けているため、(それにある程度、体をうごかしているため、)この認知症の進行が義母の場合、極めて遅いと思われます。これに対して、義父が一番大変ですが、周りが、比較的ゆったりと付き合っているのが良いのだと思っています。

しかし、今回の地震、被災生活の中で、障害をもつ人、認知症だけでなく、自閉症などの人も、こうした災害時には、日常と違う状況の中でストレスが多くなり、混乱し、落ち着きがなくなったり、苛立ちが酷くなります。環境が大きく変化する避難所では、なおさらでしょう。周りに余裕がないと、そこで、生き抜いていくのが大変になってくると思います。

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東日本大震災日記 (その12)

東日本大震災日記 (その12)

3月25日(金)15日目 

思っていたより長期化してきて

相変わらずガソリンが入手できません。

―今日も朝から、ガソリンが、本当に残りわずかな私の車にふたりで乗って、ガソリン確保に出動しました。もういい加減、悠長に「ろう城生活」を決め込んでいる場合でも無いだろう、ということです。何処へ行くかということになり、前にも挑戦しましたが、また妻の行きつけのスタンドへということなりました。着いたのが8時少し前、数台の車が隣のラーメン店の駐車場の中まで並んでいました。すぐにその最後尾に並び、妻に偵察に行ってもらいました。どうもタンクローリーが来るかどうかが不明なようです。それから、1時間ほどは、辛抱してそのまま並んでいました。ふたりとも本持参。エンジンは切って待ちますから、暖かい格好をしてでです。何人もが時々、車外に出て話し合っています。そのうち、一台二台と前の方の車が諦めて離れて行きました。もう来ないと判断したようです。そこで、私たちも、サッサと立ち去ることしました。私の車の後には、もう、100台ほども並んでいました。次に栗駒のスタンドに向かいました。そこは、前回と同じように、最後尾にスタンドの店員が車でいて、「ここで終わりです。」という表示を出していました。今回は、少し話を聞きました。やはり「3時間前ほどが最後になる。」とのことで、ちなみに「明日は開けない。」と言ってくれました。もうこれ以上、今日は探してもガソリンの無駄遣いだと思って、サッサと帰ってきました。

 それで、その後は、我が家でゆっくりしていたのですが、お昼ごろ、突然、妻が歯を痛がりました。行きつけの一迫の歯医者にTELすると、「今なら、午前中の治療に間に合う」というので、急いで、今度は義父の車を借りて出かけました。その途中、地震直後に、「リッター200円で、おにぎりは3ヶ1000円で売っていた」という悪名高い一迫のスタンドを覗いて見ると、やはり閉まっていました。また明日から、しばらくの間、第2次の「ろう城生活」を続けるしかありません。

栗駒の体育館・プールが使用不可になって、

―妻の友人の栗駒のMさんよりTELがありました。彼女の収集した情報によると、栗駒の体育館(アリーナ)の被害は大きく(温水プールの方は?)元に戻るのに、3ヶ月ほどかかるのではないかというのです。どのみち、ガソリンが無ければその栗駒の体育館・プールまで少し距離があるので、行けません。それで、結局のところ、運動不足、とりわけ私の場合は、特に、有酸素運動ができなくなってしまうのが痛いのです。

 これまでの「私たちの健康増進のための運動」は、というと、毎週木曜日の午後、栗駒の体育館の会議室で、腰痛・膝通バイバイ体操を、ふうふで参加しています。妻は、毎朝のNHKTVでのテレビ体操、(最近、ようやく復活した)とこの教室。それに温水プールでの流水運動教室×週2回、同じくそこで、水泳初級教室×週1~2回、それに一関の体育館まで行って、屋内テニスのグループ練習。私は、これに加えて、温水プールでの中級水泳教室が週1回ほど、そこでの自主練習が週に2回ほど、それに加えて、今回の被災時にいた、くりこま高原駅に隣接したフィットネス施設「エポカ21」でのトレーニングが週2~3回。といったところです。ですから、この2つの施設とも使えないのは、非常に痛いのです。この2つの施設とも、その被害の状況や今後の営業・利用の見通しについて、もう地震から20日近くも経ったのですから、ホームページを通じて、市民に知らせるべきです。

Hさんよりの「沿岸部へのボランティア支援の誘い」に対して

―この日、昨日にFAXで届いたHさんより、沿岸被災地避難所等へのボランティア支援のお誘いがあったことに対して、一日、私なりに考えて、TELしました。そのHさんの誘いとは、河北新報のM氏からの提案―「震災後の避難所等の子どもたちの心のケアとして、紙芝居、読み聞かせなどができないだろうか」に応えようというものです。一番問題となるのは、現地までの往復のガソリンの確保です。それは、その河北新報のM氏によって、といいますが、それに頼ってまですることには、私自身は抵抗があります。TELでは、「できる人が、できることを、できることからする」ことが基本。しかし、それが多くの人の参加でする方が良い。まずは、図書館ボランティア「ひなたぼっこ」全体に働きかけ、結果、有志になってもグループですべきでは、と私の考えを伝えました。みなさん、支援に動きたいと思っていても、今は、その相談に集まることもできません。すぐできることからすることもいいけど、もう少し、先を考えて、長期の取り組みを作るべき。この3月31日には、図書館で延期されていた「ブックスタート」の打ち合わせが行われます。そこには、多くの人が集まってきます。その後に少し時間をもらって相談しようではありませんか。とHさんに提案しました。

 私も、3月11日に被災し、その後のライフラインの遮断が続く中で、自分とその周りの生活を維持、立て直すのに精一杯でした。それでも、初めは、ラジオの音のみ、続いて、新聞の写真(絵で)、そして4日後に、TV(動く画像と音)によって、沿岸被災地の凄まじい惨状を知るにつけ、何かできることはないか、何をすべきなのか、を考え続けました。そして、まずは、焦らずに、自分の身の回りの体制を整えること。そして、そこから、そこを基盤として、沿岸被災地にとどまらず、この栗原市内とその周辺(隣の登米市・大崎市くらいまで)の被災者受け入れ施設に出かけていくことを考えました。

3月26日(土)16日目  

ろう城も板について、思索にふける。

再び、ろう城生活(第2次)に入る。

―通常、土曜日は、様々な企画や取り組みがあって、それがダブっていたりして、いつも大忙しなのです。この日の午後は、図書館のお話し会での、読み聞かせ担当の当番でした。それと、ほぼ、どう時間に栗駒の温水プールで、今年度最後の平泳ぎの教室が行われることになっていました。このところ、私はどちらかと言うと苦手な「平泳ぎ」を何とかものにしようと頑張ってきました。ですから、これにはできたら出たいと。しかし、当番は当番であって、出なければいけないのです。私たち第2班のボランティアの方の担当者は、3人。だいたい、私は皆勤賞なので、この日は、残りの2人だけにお願いしようかなと思っていました。1週間前にはそれを伝えないといけません。丁度それが、地震のあった日でした。

 それで、何も予定の無い、急ぐことも無い、ゆったりとした、一日になりました。朝は、パン、サラダ、コーヒー。2日前に買出しをしましたので、第2次の「ろう城生活」は、2度目ということもあって、きつくはありません。お昼は、 キャベツスパゲティです。水道が回復して、ようやく、パスタを茹でることができるようになりました。ニンニクと唐辛子をそれにゲーコンを利かせた、和風の味付けの我が家の定番です。キャベツはたっぷりと使い、それにいつもは、アスパラ、今日はそれの代わりにうちのハウスの青菜を使いました。(義父母たちは、近くの親戚宅への顔出しに、車でちょっと出かけてしまいました。)夕食は、鳥の照り焼きと野菜炒め、エリンギとベーコン炒め、豆腐の味噌汁といったところです。もうすっかり、日常の食生活に近い状態になりました。
 妻は、毎土曜日の朝一番に、朝日新聞の数独に取り掛かります。それから、編み物、庭仕事など。私は、今日は、読書、調べ物、インターネット検索などをしています。それと、2日前にきたメールについて、いろいろ考えていました。

千葉のIさんから届いた質問―専門家は「想定外だった」というが…

―私のこの東日本大震災日記を読んでくれた、千葉時代の地域仲間の建築家のIさんより3月24日にメールが届きました。そのメールの要旨は、次のようなものです。

― 東北の沿岸部の惨状に対して、「自分だったらどうするだろうか」と。未曾有の震災。地震・津波・原子力の三重苦。これからの未来はと、と気になりなって仕方がない。

そして、災害が起こると専門家・学者は、「想定外が起きた」と。建築物は、仮定の上で構造計算して造られていますので、「数値以上で予想出来なかった」と。すべての事でこういう事なので、じゃ、どうすればいいのか?難問です。

最後に、人々の買えだめで店頭からの商品の消滅。人間って、もっと大きくならないのか、難問です。 -

これらの難問に対して、彼は、私に「どう考えたらいいのか」という質問をしてきているのです。

それは、専門家なる科学者・技術者が出てきて「津波が想定を大きく超えた」「想定外だった」と、「原発も、想定外のトラブルが起き、さらにそれが想定外のトラブルを呼んだ。」と解説する。確かに、現代社会の高度な科学技術は、この専門家なる科学者・技術者によって、支えられています。しかし、彼らの言うことを、鵜呑みにしてはいけないのです。彼らが責任を取ろうとせず、保身に走るならば、それはもう専門家とて失格なのです。

文系であって、科学・技術的な思考が少し弱い妻も、原発の専門家がTVに出てきて、この「想定外」を繰り返したいとことに非常に腹を立てていました。妻がおかしいと感じたように、想定外であったとしても、科学者・技術者は、専門家として、あくまでその責任は免れないのです。建築もデザインと同じように工学の中にあって少し文系の要素があります。私は、学生時代から、そして、公害問題に取り組んできて(千葉にいた時代まで)この辺りのことは、絶えず考えてきました。こちらに来て、キノコ工場での生産・経営という未経験分野に取り組んできました。「想定外のトラブル」など日常茶飯事のこと。問題はいかにそれを少なくするか、無くするかということです。それには、自分自身で、確かな情報を集め、比べ、選び取り、そして、いま何をすべきか、手順、方法などを確定し、実行していきます。そして、途中で問題が生じれば修正します。決して他人任せにはしない、自分で考えるしかないのです。

質問への答えになったかどうか分かりませんが、私は、こう考えているということです。

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東日本大震災日記 (その11)

東日本大震災日記 (その11)

3月24日(木)(14日目)


被災して、2週間が経過して

今回の夫婦内戦の釈明と解説について

―つい先日、珍しく妻より、「ブログ、何も言わないから、見せて」と、私のこのブログの「開示請求」が出されました。少し、ビクッとしましたが、見られたくない携帯メールでもあるまいし、直ぐOKしました。多分、娘のブログを見ていて、そこに私のブログについても書いているので、気になったのだと思います。これは、セーターのことを書いた直前のことです。また、セーターのことを書いた娘のブログを見れば、また直ぐ開示請求がなされるとは思っています。ですから、もう、すっかり、覚悟は決めています。そう、この今回の夫婦内戦のことを書いたことが、その時点では、バレてしまうのです。そこで、今から、予防線を張っておきます。

① 昨日の夫婦内戦に関しては、私の一方的な見方で書いたものであり、そこには、妻側の言い分は、一切書かれていません。そのことは、認めます。

② 勿論、妻の側にも、この件に関して、反論する権利があります。しかも、妻には、その反論を他者に明らかにする手段が限られています。そこで、妻側よりその反論権に基づき、反論の機会の提供が、私に求められた場合、速やかにそれに応じ、このブログなどの場で反論することなどを含め善処いたします。
さて、次に少し<解説>をさせていただきたいと思います。

 前日のブログでは、何か,私は、「綺麗好きで、気難しく、物事をキチンキチンとしないと気が済まない」性格と思われたのでは、と考えました。解説させていただきますと、事実は全く、そうではありません。これらの全くの正反対だとは言いませんが、全て、ほどほどなのです。

 こうしたことを言うと、妻の批判をするようでもあり、また妻の方より、反論はあろうかと思いますが、(そうであれば、また,受けて立ちます。)妻はどちらかというと、「見た目が、第一」です。何かにつけ、見た目を非常に重視する人です。中身、内実は二の次なのです。私は、どちらかというと「中身の重視」派です。しかし、「見た目はどうでもよい」とも思っていません。「見た目も非常に大切である。」ことは、私は、妻に教えられ、妻の影響力を非常に受けて来ました。(「妻に教育された」と言ってもいいと思います。)ですから、だいぶ以前の私に比べて、この点は、明らかに私自身が変わってきたことだと思います。そうしたことから、流しの中や台所は、ピカピカでなくともそれなりに、いつも一応片付いている。家の中も「ゴミ一つ無い」というのではなく、それなりに片付いていて、気持ちがいいこと。家の外も、内と調和して、それなりに片付いていることが大切だと思っています。

ろう城を一時停止し、久しぶりに外出。

―3月11日に被災してからもう2週間も経ちました。19日からは「ろう城生活」に突入し、はや6日目。しかし、昨日には、仙台からの救世軍が到着し、また、少し息をつくとこができ、まだまだ、ろう城を続けられるかと思いました。しかし、そろそろ、いくらなんでも、ガソリン確保をしておかないと、今後のことが心配になってきました。叔父宅へもしばらくサポートに行っていないし、病院に行けないので、私の持病(高脂血症)の薬も切れて2日です。妻は郵便局に用事があると言うし。あと、図書館は閉まり、ネットでは本が注文できなくなって、ふたりとも本を買いたくなっていました。それに食料品も、もう少し補給しておけたらと考えました。そろそろ、また、多目的で外出をしなければならないと決心しました。

そこで、6日ぶりにふたりで、ガソリンが残りわずかな私の車に乗って、外出しました。まず最初にガソリンスタンドへ、宮野地区の大きなJAともう一つはどちらもダメ。丁度その時、9時くらいでしたが、ビッグハウス(ス―パー)が開いて並んでいた20~30人が入っていくところでした。その後から私たちも直ぐに入りました。そこで入手できたものは、ヨーグルト、鶏肉、キャベツ、レタス、もやし、 (最後の) かいわれ2ケ、キノコ、豆腐、魚、(残りわずかな)コーヒー2ケ、焼きソバ、冷凍うどん、酒(これは妻がゲット)などです。カップめんは一つも残っていませんでした。ス-パー内の棚は空のところがまだ多く、入場して30分ほどで目ぼしいものは全て無くなってしまいました。

 この後、築館の街中にある病院に行って私の薬を貰ってきました。(その間、妻は車の中に)2週間分しか貰えませんでした。ついでに街中の3つのスタンドの様子を見るとどこもダメ、一つは緊急車両用専用でした。そして、TSUTAYAへ行きそれぞれ2冊ずつ本を購入し、最後に郵便局に行きました。それで帰るしかないのですが、念のためにもう一ヶ所栗駒のスタンドに寄ってみようということなりました。結果はここもダメでしたが、最後尾に店員の車がつき、張り紙で「ここでおしまい」と表示し、その後から、来る車に全て説明をしていました。(うっかり、明日はどうかと聞き忘れました。)
  
次々に予定の変更・キャンセルをして

―ガソリンが入手できず、叔父宅が心配でした、向こうから妻にTELしてきました。プロパンも湯沸しも直ったし、フロにも入れたので「来なくて大丈夫だ」というものでした。それでも物資が足りているか心配で、東京方面に住む叔父の兄弟たちに、郵便局の定形外郵便を使って物資の郵送をと催促しておきました。

交通網の遮断は今回、思っていた以上に深刻です。この4月初めには妻は、香川の娘のところへ、孫が1年生になるので、手伝いに行くことにしていました。すでに早割りの航空券を取っていたのですがキャンセルしました。次に妻は、妻は、東京時代の元同僚たちとこの時期4月に旅行をするのですが、今回は、妻が当番で米沢方面の旅館の予約をしていました。それもキャンセルをしました。今回、被害を受けていない観光地でも、アクセスの関係で、キャンセルが相次いでいるといいます。原発事故が影響して、外国からの観光客も激減しているとのことです。

車で出歩けない状況の中で、妻は、TELで盛んに友人と連絡を取り合っていました。スタンドの状況についても、妻は、やり取りや、情報交換をして、女性のネットワークを築いていきました。

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宮城県教育委員会への緊急要望 

<教育問題>

宮城県教育委員会への緊急要望     2011.3.29

このところ、数日遅れの東日本大震災日記を連載していますが、飛び込みでこの記事を入れます。連日配信していただいている「民主教育をすすめる宮城の会ニュース」(3月28日)で、宮城県の教職員人事異動に関して次のような内容で「お願い」「訴え」がありました。それを「転送して良い」とのことでしたので、紹介します。その「お願い」「訴え」にもとづき、私が、本日(3月29日)午後5時前に宮城県教育委員会宛に緊急の要望をメールで出しましたので、それも明らかにしておきます。

「お願い」と「訴え」

改めてお願いします!宮教組 書記長 瀬成田です。

県内はもちろん、全国から抗議の声を県教委に届けてください。

許せない事実が判明しました。

昨日、県教委が突然、異動名簿をホームページに掲載したのですが、亡くなった猪又聡さんが「志津川中への異動」と掲載されていたのです。

県教委は今朝の河北報道によると「異動対象者全員の安否確認ができ、保護者や自治体に広く周知する必要がある」との判断で急きょ方針転換し広報した、と報じられていました。

しかし、14日ごろ、県内の教職員で一番始めに死亡が確認された猪又さんが異動名簿に載るということは考えられないことです。天国の猪又さんも怒っていると思います。

「安否確認ができ」とは全くのウソで、県教委がいい加減な作業をしてきたということが証明されました。あまりにずさんです。被災地のことを県庁にいる役人たちは本気で考えていません。

やはり、教職員の犠牲者8名、行方不明者36名という状況での異動発表は無理だったのです。児童生徒も152名が死亡、818名が行方不明という中で教職員配置をすることもできないはずです。

すでに異動準備をしている人には申し訳ありませんが、やはり、一度凍結し、行方不明者が0になった時点で、改めて教職員の希望を聞き、適切な配置をすべきではないでしょうか。

県教委への抗議はもちろんですが、マスコミへの情報提供、県議会への声援などに緊急に取り組んで下さい。その輪を広げて下さい。

明日、県の自由法曹団(弁護士有志)も声明を出すそうです。29日には県議会の災害特別委員会が開かれます。私の友人の県議も怒っています。まだ、間に合います。

私からもあらためて訴えます。 富樫昌良

3月26日の「平成23年東北地方太平洋沖地震を踏まえた教職員人事異動について」では、当初4月20日までとした被災地・避難所の教職員について「兼務発令」が、最長1学期いっぱいとなりました。

「兼務発令によって被災を受けない学校に我慢を押し付けるなど」いろんな問題を含んでいますが、これはこれで宮城県教組や高教組などの抗議行動によって被災地の状況を無視できなくなったことの反映です。いの健加盟団体や個人、全国からの抗議行動や宮城県議会の災害対策特別委員会が全会一致で「人事異動の凍結」を求めるなどの動きに、一定譲歩せざるを得なくなったことの表れでもあると思います。

しかし、瀬成田書記長の報告によれば、今回の人事異動が現場の実態を無視した、まさに独善的で官僚的な県教委の姿勢を示す以外の何物でもありません。

犠牲になった教員を人事異動名簿に掲げて平然としている県教委、家族を失い、家を失った教員を強引に異動させようとする冷酷さに怒りを禁じ得ません。子どもたちを愛し、人を愛することの大切さを教えなければならない教育現場がこんな非人間的なやり方で混乱させられることは何としても食い止める必要があります。
今一番大事なことは、校長以下全教職員の力で、学校を学校らしく再建することであり、すべての子どもたちが安心して通うことのできる環境を整えることです。

そのためには、「非常事態」なのですから、原則的には「全県的な異動は凍結」し、石巻市立大川小学校のように教員の大半を失ったところへの補充や、被災地で救援活動に取り組まなければならない学校への教員の増員を基本とした異動にとどめるべきです。

また、特別の事情のもとに転出を希望する教職員を除いて、被災地の教員は子どもたちのためにも地域のためにも学校再建のためにも「原則として留任」にすべきです。
異動は必要最小限にとどめ、被災を免れた学校の教職員の協力と新任教員の配置によって対応することを基本とすべきです。

宮城県教育委員会への私の要望



宮城県教育委員会様

 宮城県自体は、この春の定期人事異動に際して、東日本大震災の発生で当初予定していた異動を大幅に凍結し、さらに退職者の3割を再任用し、現行部署に引き続き起用する災害復旧シフトを敷いています。ところが、宮城県教育委員会は、教職員人事異動を、そのような体制を取らず、多少の配慮はあるものの、従来通りの大幅な人事異動を行おうとしています。これでは教育現場は混乱してしまいます。この非常事態において一番大事なことは、校長以下全教職員の力で、学校は学校らしく再建させることであり、すべての子どもたちが安心して通うことができる環境を整えることです。

 宮城県の方は、「被害者支援や災害復旧が優先で、現行体制の維持が適当である。被災地の状況が落ち着けば、新年度の本格異動も検討する。」と話している、との新聞報道がされています。宮城県教育委員会も同様の処置を取るよう、次の4項目の実施を要望します。

① 教職員の定期の人事異動は今回凍結し、必要最小限にとどめること。

② 被災地・避難所に勤務する学校には教職員の増員をすること。

③ 校長の異動を凍結し、校長を先頭に全教職員の協力で学校の再建に当たることができるように考慮すること。

④ 被災教職員や被災した子どもたち、被災地に温かい教育行政を行なうこと。
                                                        -以上ー

「ゆきとどいた教育をすすめる栗原市民の会」佐藤 茂雄



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東日本大震災日記 (その10)

東日本大震災日記 (その10)

3月23日(水)(13日目) 

ろう城5日目で、夫婦の内戦勃発!!

それは、食器洗いをめぐって起きた。

―私たち夫婦は、3月11日の東日本大震災以前は、ほとんど毎日、車で出かけていました。それが、ガソリンが無くなり止む無く、我が家は「ろう城生活」に突入しました。そして、この「ろう城生活」も、今日で5日目になりました。これまでに、何とか電気も水道も通信も回復しました。それに、食料品もそれまでに、若干開いたスーパーなどの店頭販売で多少は確保できました。さらに、娘と息子やその実家からの郵便局の定形外郵便を使っての物資補給によって何とか食いつなぐことができ、こうしてガソリンが無くとも、もう少しは「ろう城生活」を続けられる体制を維持してきました。

 我が家から何処へも出かけず、長い一日を過ごすには、妻は、編み物、家の内の片付け、読書、庭仕事を。私は、家の外の片付け、読書、それに調べ物したり、このブログを書いたりしてきました。また、一緒にTV,DVDなどを見たりしてきました。この日も、いつものように、私が作った朝食をとり、少し経ってからDVDで「インセプション」を一緒に見ました。その後、妻は、つなぎの部屋の片付けに取り掛かってしまい、食器を洗いませんでした。私は、急いで昼食にチャーハンとワカメスープを4人分作らねばなりません。そこで、我が家の夫婦の間で “内戦”が勃発してしまいました。

我が家では、食器は、食後に直ぐに洗うということが、地震前までは、習慣的になっていました。ところが、この間、断水が続き、そのやり方をこのところ変更せざるを得なくなっていました。その延長が続き、食器洗いが後回しになってしまっていたのです。妻が1年前に完全退職をしてからは、夕食のみは妻が母屋と我が家の4人分を、朝と昼は、基本的には、私と妻で半々に担当するとしていました。ところが実際には、朝・昼は、私が作ることが多くなりなっていました。特に地震後の非常時シフト(当初は、朝・昼・夕の3食とも我が家で準備した。そのうち、昼・夕のみに)では、食事作りに、私の出番が多くなってしまったのです。食器洗いは、以前は、ふたりのどちらがするという取り決めもなく、どちらかが、食後早めにしてしまうという状態でした。それが、朝・昼に、私のする比重が大きくなると、いつの間にか、妻の方が主に食器洗いをするようになりましたが、それでも、私も汚れたままの食器が残っているのが嫌なので、気付けば、していたのです。それが、この非常時シフトでは、完全に妻が全ての食器洗いは担当する体制になっていたはずです。

DVDを見終わったのが11時半を回っていました。12時には親たちは、もう食べる体制に入っています。特に認知症の義母は、12時を過ぎると、母屋の台所で何かを作ろうとしてしまいます。(実際には、何も食べられるものは出来ず、台所が散らかるだけなのですが…)ですから、私は、急いで4人分の昼食作りに入らねばならなかったのです。ところが妻は、つなぎの部屋の片付けに入ってしまい。山ほど貯まっていた汚れた食器を洗いません。昼食後にまとめてしようと考えていたようです。そこで私の方が久しぶりに切れました。先制口撃をしたのです。それに対し、妻の方も大型口砲で反撃をしてきました。4人分のチャーハンとワカメスープですから、それらを入れる食器がたくさん必要でした。妻が食器の用意くらい手伝ってくれても良いのに、それを要求しても全くしません。そこで、私は、さらに第二次の口撃を開始しました。それに対しても、妻はさらに大規模な反攻口撃に出て、内戦は激化するばかりで、事態は騒乱状態になり、収拾が全く着かなくなりました。

救世軍が来て、一時停戦から自然消滅へ、

―4人分の昼食が出来上がり、妻に告げると、内戦・騒乱状態の中、先に出来上がっていたチャーハンだけを、初め、母屋に運び、後から、ワカメスープも気付いて、運んでいきました。そして、妻は、自分だけは、すっかり、つなぎの部屋の片付けを終えてから、だいぶ後から冷めたのを一人で食べていました。

 こうして、この後も、気まずい膠着状態が続いていきました。再交戦はなくとも、火種はのこり、くすぶっていました。そこへ、仙台から救世軍が登場して来しました。義妹(三女)とその娘(次女)と大型イヌがワゴン車で救援物資をたくさん持参し、現れました。仙台でもライフラインが止まり、現在でも都市ガスがまだだということでした。義妹のところの子どもは、女4人。長女は東京に住み、今妊婦です。また、そこの娘はまだ小さく、水に放射性物質が含まれていて、乳幼児にはよくないので心配です。仙台では、義妹と3人の娘で、手分けして物資の確保に努め、ガソリンも入手できたので、こちらまで救援物資(豆腐、肉、タマゴ、牛乳、パン、お菓子、コロッケ、バナナ、など)を届けに、ついでにハウスに未だ沢山ある青菜類を取りに来たのです。大助かりです。その後も突然、土地家屋調査士がお客にやって来ました。もう、内戦も、その後の停戦もしていられる状況ではありませんでした。それで、我が家の夫婦の間で “内戦”は自然消滅をしてしまいました。地震時とその後の仙台とここ栗原の状況などを語り合ううちに、すっかり、いつのまにか内戦状態が消滅・鎮火してしまいました。これも非常時の良いところかもしれません。

 妻とふたりで、力あわせて、相談、確認、分担し、ペアで行動する、とした非常時のシフトを敷いたはずでした。被災生活が13日、ろう城生活も5日も維持して、それで、私たち夫婦は、「最強のペア」などという自信過剰があったのか?こんな夫婦の間で “内戦”が起きた今は、何だかこれまで気負っていたのが、少し恥ずかしくなりました。

 それにしても久しぶりの夫婦喧嘩でした。若い頃は、それは、しょっ中のことでした。それがいつの間にか、だんだん減り、最近は年に1・2度あるか無いか?初めのうちは、停戦までも時間がかかり、口を利かないのが一週間以上続くこともありました。それが今回みたいに、あっという間に停戦―消滅です。それも、停戦・終戦協定も何も無いのですから…あっさりとしたものです。お互いに我慢強くなった、というか、むしろ、あまり我慢もせず、何となく、上手く調整していってしまう、お互いの“間”の取り方が上手くなったのだと思います。夫婦をしてもうじき38年と40年近くにもなります。それだけ続けば、それは何とかこれしきの事はクリア出来てしまうのですね。

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東日本大震災日記 (その9)

東日本大震災日記 (その9)

3月22日(火)(12日目)
 

ろう城生活の過ごし方

毎日出かけていたのが、出来なくなり、

―ガソリン不足のため、車が使えず、3月19日(土)から、私たちは、止む無く「ろう城生活」に入り、この日で4日目になりました。今回の地震が起きる前まで、手帳を見て、ちょっと振り返ってみると、だいたい日常的に、毎日、二人とも、どこかへ出かけていることが分かりました。

 私は、必ずしも外出好きではないのですが、結果的には、結構、毎日、車で出歩いています。地震時にいた、くりこま高原駅に隣接したフィットネス施設「エポカ21」には、週に2~3回。栗駒の温水プール・アリーナ(体育館)には、週に、これも2~3回(自主水泳、中級水泳教室や体操教室)。それに栗原市立図書館には、週に1~2回(読み聞かせボランティアや勉強会・会議を含め)。市民活動支援センターには、週1回ほど(NPOや市民運動の会議など)。この他、日常的には買い物をしに出かけ、さらに時々ですが、様々なイベントへの参加や古川や一関まで出かけることもあります。全部まとめてみると週に7つを越えているのは、一日に2つ以上をこなしている日もあるからです。妻の方は、どちらかといえば家出不精です。(ですから、買い物も、私が外出したついでに、よく頼まれます。)それでも、栗駒の温水プール・アリーナ(体育館)に週3回(流水教室、初級水泳教室や体操教室)。一関の体育館に週1回(室内テニス)。築館の公民館に週1回(詩吟教室)栗原市立図書館にも、週に1回以上(本を借りにと勉強会も)と、やはり、出かけない日はほとんどありません。このペースは、私が3何前、キノコ生産をやめてから、妻が1年前に完全退職してからです。

 それが二人とも、車が使えなくなり、我が家での「ろう城生活」に入ると、その途端、一日の長い時間をどう使ったらいいか悩むことになってしまいました。しかし、妻の方は、もともとは出不精。どちらかといえば、家にいて、ずっと庭仕事などをしていたいので、それほど悩んではいないようです。

まず、外塀の瓦礫の撤去をして

―農家のこの時期は、農閑期で、まだ、米作りの準備の仕事はほとんどありません。私は、脱サラし、ここへ来てからは、キノコ生産一筋で来てしまいました。ですから今でも米作りは、義父が中心です。私は手伝い程度で、義父が米作りを断念すれば、委託に出さざるを得ないと考えています。

 我が家においては、当面の大きな仕事は、今回の地震で崩壊した外塀の瓦礫を撤去することでした。3月11日、地震の直後に、道路真ん中までも散乱した瓦礫の一部を、取り敢えず、車の通行の邪魔にならない程度まで隅に寄せておきました。そのうち、栗原市が道路のチェックを行いました。そして、寄せておいた瓦礫の前に、走行注意を促すための赤ランプつきのガードを設置していきました。そして、その後、この瓦礫の撤去が課題となってきました。理解し難いことですが、行政の方では、この瓦礫を受け入れてくれないと、早いうちに分かりました。最終処分は業者に頼むしかないとしても、一先ず自力で道路から、撤去するしかありません。当初,義父と一緒にしようと考えましたが、聞くと「肩、腰が痛い」といいます。もう、高齢なのですから仕方がありません。私一人で撤去することにしました。3月19日,20日と、二日かかってコツコツと行いました。その量は、ちょっと、半端なものではありません。そして、その大量の石(大谷石)を敷地内の元のオガクズ置き場にドカ、ドカと置いておきました。それで、すっかり道路は綺麗にし、車の通行の妨げはなくしました。おかげで、私は、一日置いた今日、すっかり筋肉痛になってしまいました。

一日の長い時間をどう使うか

―3月17日夜にインターネットが回復し、18日にはメールのチェック、返信をしました。そして、翌日の19日からはいよいよこのブログ「触媒生活」の作成に入りました。これの作成は、主に夜です。それが、いつも、深夜にもなってしまいます。日付が変わり、出来上がりが1時、2時になってしまうのです。朝は6時台には起きるので、このところ、すっかり、寝不足になってしまっています。

 妻の方は、主に、昼間は、初めのうち、編み物をしていることが多く、夜は読書が多いようです。そのうち、日中だけですが、ようやく暖かい日もでてきて、いよいよ庭仕事(今は、草取りや、庭の整理くらいしかできません。)を始めています。編み物をすることは、こうした被災生活が続く中では、気持ちを落ち着かさせる効果があるといわれています。以前から、特に庭仕事がしにくい、寒い間は、妻は、よく編み物をしていました。孫や娘、嫁、そして自分のもの、稀に気に入った人にプレゼントすることもあります。基本的に孫(男の子2人)は別として、男物は作りません。従って、私のものは、リクエストもしないのですが、作ってくれませんでした。その大昔、結婚の少し前、縞々の長いマフラーを作ってくれたくらいです。それが、どうした風の吹き回しか?この「ろう城生活」中で、私にセーターを編んでくれました。それが、なかなか良い出来なのです。気に入っています。(感謝!感謝!)

 あと、このところ、DVD(私が頼んで娘に送ってもらったもの)やTV録画した映画やドラマなども、ふたりで良く見ています。

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東日本大震災日記 (その8)

東日本大震災日記 (その8) 

3月20日(日)(10日目) 

ついに「ろう城生活」に突入!!

大震災から10日経った節目に

―この日の朝、久しぶりに防災無線放送が聞こえてきました。地震で数日後に使えなくなっていたものです。大震災から10日が経ち、一時は栗原市内60ヶ所に約3000人の一時避難者が出ました。それが、今は6ケ所111人に減少。(現在はもっと減って新聞に載らなくなってしました。)放送の中で、市長の挨拶があって、「南三陸町から500人規模の長期受け入れする」と表明していました。

世界最大級の巨大地震と大津波、原発事故の三重苦。復興までどれだけの困難が続くのか、今の段階では見当もつきません。恐らく、極めて長期になることだけははっきりしています。この苦悩、悲嘆を乗り越えて、再起のスタートラインに、私たちは、立たなければなりません。戦争後、廃墟から立ち上がって来たこの国は、また、再び、自らの手で、国と地方を建て直すしかありません。それには東北・関東の被災地域だけでなく、全国の全国民の協力が不可欠です。

まだ、10日しか経っていませんが、この時点で、私が考えさせられたことを、少し項目に起こしてまとめてみました。

・ ライフラインがいかに脆いか、改めて認識させられた。

・ 原子力発電への依存問題、(日米安保体制化の沖縄の基地問題と共通性もある)原発がいかに危険か、それから目を背けてきたツケが今、出ている。(公害反対の運動の経験・成果の引継ぎが不十分。)安全神話を広げた企業、政府、専門家、マスコミ、原発のCMをしてきたタレント、…の責任は?

・ 私たちの快適?な日常生活が、いかに危うい基盤の上に辛うじて維持されているか、

・ これから、日本の新しい再生を、日本人全体で作り直していくとこが何よりも大事であること。

・ 人と人とのつながり、とりわけ地域の共同体の再生が必要になってきます。助け合い、共助、協働、…

・ 新しい国のカタチ、人と人、エネルギー、食糧、教育、福祉、…

昨日から、ろう城を始めました。(ろう城生活2日目)

―昨日(3月19日)より、私たちは、ろう城を決め込みました。まあ、何もすき好んでろう城生活に入ったのではありません。昨日、「省エネ耐乏生活は、案外、おもしろい?」と書きました。その延長に、この昨日からのろう城生活があるのです。確かに「おもしろい!」という表現は、沿岸部で厳しい避難生活を強いられている方々のことを慮らない、「不謹慎だ!」と言われそうです。ここ栗原市での被災生活も、決して楽なわけはないのであって、様々な不便さや不都合はまだまだ延々と続きます。だからこそ、悲観的になるのではなく、その状況を積極的に打開していくには、私は、この先を予測しつつ、前向きに、楽天的に対処していく必要があると考えています。とかくこれまで、大量消費の生活になりがちだったのを、この省エネ耐乏生活を経験したのを契機に、この際、前向きに、楽天的に「暮らしを見直して行こう」ということなのです。だから、私にとっては、「案外、おもしろい?」こと、楽しみながら試みてみることなのです。

車のガソリンが、妻の車が赤ランプ。私の車が残りごく僅か。義父の車はこの間、だいぶ使いましたから、ガソリン残量が2分の1あったものが4分の1を切りました。何とかガソリンを確保しようと探してみましたが、ダメでした。当初の被災生活での、ライフライン切断の困難―停電、通信遮断、断水は、順次回復してきました。食料品などの物資の不足も、農家であるため、米と野菜の備蓄は当初より十分にありました。冷蔵庫やその他若干の食品のストックもあって、しばらくの間は、大丈夫でした。食料品の補給も、品薄の中で、幸運にも、その都度、少ないチャンスに効率良く行うことができました。それに、大変有難いことに、遠くの子どもたちやその実家からの定形外郵便を使った「仕送り」によって息をつくことができました。

しかし、一週間以上が経過する中で、これまで、主に義父の車を使用して動くことができましたが、もう限界近くになりました。ガソリンが無ければ、農村地域での移動は不可能です。しかし、幸い、我が家(母屋も)は、全員リタイアしてしまっています。毎日、仕事場に行ったり、市場に行く必要もありません。沿岸部に家族・親族などがいて、その消息を探すということもありません。(だいたい内陸部に居住)ですから、本当に緊急を要する人に比べれば、まだガソリンは不要・不急だといえます。わずかな量を入手するために数時間も待ったり、そのためにガソリンを消費したりする必要性・合理性を感じません。ガソリンが無い無いで何とかなるだろうと、基本的には、スタンドでほぼ普通に入手できるまで気長に待ち、その間のろう城を決めました。この持久戦、どこまで持つか?まず、やってみないことには分かりません。

3月21日(月)(11日目) 

生き物をいつくしむ「春分の日」に 

「ろう城生活」3日目の特別メニュー紹介

―このタイトル、フザケているのか、楽しんでいるのか、自嘲気味になっているのか、私自身にも、さっぱり分かりませんが、まあ、気楽に付き合ってください。

朝食― ドライバナナ入りの焼きたてパン、サラダ、コーヒー
昼食― ナポリタンスパゲティ、スープ
夕食― 完熟トマトのハヤシライス、青菜と白菜のおひたし

この朝食の妻の手作りパンは、いつもは、クルミ、レーズン(これは子どもたちが来た時は×)も入れるのですが、今は切らしています。牛乳もバターも要るそうですが、これは粉末クリーム、バター風味のマーガリンで代用。それにいつもより少し砂糖を多く入れたそうです。これがなかなか上手く出来上がって、冷めても美味しかったです。

昼食のナポリタンスパゲティは、私が担当。水道が復旧するまでスパゲティ類は作れなかったのですが、ようやく可。ひき肉があれば、ミートソーススパゲティにするのですが、それも無く、送ってもらったレトルトの肉団子を入れて作りました。まずまずの出来でした。(自己評価ですが…)

夕食の完熟トマトのハヤシライスは、これは我が家の妻の定番の一つ。このルーは娘にリクエストして送ってもらいました。肉はないけど同じく送ってもらった魚肉ソーセージを代用にして作ってくれました。何とか、それらしくはなりました。

今日は、お彼岸。お墓参りに行きました。

―朝食後、急いで妻はお供えのダンゴを作り、適当なお菓子も準備して、義父母と私たち夫婦の4人でそろってお墓参りに行きました。お墓参りといっても、お墓は遠くにあるのではなく、地域のはずれの田んぼの中にあります。まあ、一応、ろう城生活は継続中ということに、… 

墓地には、すでに地震があった次の日に義父と一緒に見に行きましたが、ほとんどの墓に被害が出ていました。墓石が大きくズレたり、倒れてしまったもの、割れてしまったものもあり、我が家のものは、墓標が倒れて真っ二つ割れてしまいました。その他の付属の石も散乱していたため、他の参拝者の邪魔にならないよう少し片付けてきました。しかし、墓石はとてつもなく重く、専門の墓石業者に修理をお願いしなければなりません。我が家の墓石は、義父が私たち夫婦には全く相談無く、建てたもので、その墓地の中で一番背が高いのです。墓標も一番大きくて倒れやすかったのです。倒れたのが、墓石の方でなくて、少しは、幸いでした。この修理の費用の負担は、義父母の方ですることになっています。

教職員の死亡・行方不明―殉職について

―夜、メールをチェックしてみました。するとその中には、毎日「民主教育をすすめる宮城の会」の賀屋先生の方から送られてくるニュースがありました。「平成23年3月11日東北地方太平洋沖地震に伴う公立学校等の被害状況等について(調査継続中)」宮城県教育委員会 平成23年3月20日(日)17時現在 という資料を送ってきました。

それによると、教職員死者1人、不明(確認中含む)60人、児童・生徒死者38人、不明(確認中含む)1.894人と、多数の学校関係者の死亡者・行方不明者数が分かりました。

もう一本「河北新報」の3月20日付けの記事が紹介されているニュースも届き、その中で、「大津波にのみ込まれ、石巻市の大川小の児童108人中84人、教職員13人中10人が行方不明となっている」というものがありました。

3月19日のこの日記の最初ーはじめにーのことろで、私の知人の先生―猪俣聡氏の訃報が届いたことを紹介しました。その後も、妻の知人の先生方の訃報が次第に届けられてきています。この時点での宮城県教育委員会の調査は、まだまだ一部であり、その全貌は未だに分かりません。子どもたち、児童・生徒に関しては新聞などで取り上げられますが、先生方の殉職が、まだまだ表に出てきません。

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東日本大震災日記 (その7)

東日本大震災日記 (その7) 

3月18日(金)(8日目) 

ライフラインは、復旧してきたが…

5回目の叔父宅サポートへ、

―前回の4回目が3月15日(火)でしたから、3日経ちました。朝食を簡単にすませてから、叔父宅への差し入れを作りにかかりました。確保してある水は大切に使いますが、もう3日前から電気がきていますから、炊飯器でごはんを炊いて、妻はおにぎりを握りました。それと、私は、この間、大変好評な雑炊を、またまた作りました。具として入れるものは、もうたいしたものは残っていませんでしたが、最後の卵2ケを溶き卵として落とすことができました。でも味には、ちょっと自信があります。それに、定期外郵便で送ってきた缶詰やお菓子を少しお裾分けすることにしました。

 叔父宅に向かう途中、また、もしかして店頭販売をしているかもと思い、マックスバリュー金成店に寄ってみました。そうしたら、またまたラッキーにもお客が丁度並び始めたところでした。妻は、野菜・果物の方へ、私は、その他の食料品の所へと前回と同様に、二手に分かれました。妻のゲットしたものは、レタス・キュウリ・ニンジン・たまねぎ。それにバナナにとても大きなイチゴ(2パック)でした。私の方は、ご飯のふりかけ、マヨネーズ、ドレッシング、お菓子などです。

 叔父宅では、差し入れの雑炊とおにぎりなどをとても喜んでもらえました。丁度その時、地域の行政区々長がバイクに乗って見回りに来てくれていました。叔父夫婦の様子を伝え「この後もよろしく」とお願いしました。それから、叔父宅では、まだ水道水が出ていたので、それをポリ容器(20リットル)に入れて頂いてきました。一関の燃料店とは連絡が取れ、近々修理に来てくれるとのことでした。少し安心しました。

メールをチェックし、返信。

―我が家に着くと、さっそく、私は、昼食に3ケのカップめんに煮込みラーメン(乾麺)の残っていたものを足して、4人分のラーメンを作りました。野菜はハウスの青菜、保存していた白菜、それに定期外郵便で送ってもらった真空パック詰めの焼き豚などを加えた具だくさんラーメンです。

 それから、昨夜にやっと回復したインターネットを開いて、8日ぶりにメールのチェックをしました。メールは、思ったほど多くは貯まっていませんでした。100件を切っていました。これまで1週間ほどの海外旅行では300件ほどになっていたこともあります。

そのメールの中に3月11日の地震直後から、こちらの安否を気遣うものが多数寄せられていました。「返事を…」と求めるものもあって、これは急いで出さねばと考えました。まず、「大震災から一週間が経過して」というメール文章の雛形を作りました。そして、あとは個々の方々に即した内容にアレンジして出していくという方法をとりました。いろいろと詳しい内容を知らせたいのですが、取りあえず、返事を急がねばと考えました。
そこで詳しい内容の方は、これはもうブログで出すしかない、と考えました。このところ今年に入って、このブログ作成はスローテンポになっていました。気持ちを少し引き締めて、明日から「東日本大震災日記」というブログ作成に取り掛かると決心しました。しかし、明日、3月19日に3月11日の地震時からスタートしますから、日記の記述が、いつもスローテンポの私としては、実際の日付に何時になったら追いつくのやら検討がつきません。(スミマセン!)

続々と連絡を取り始めて、

―その一方で、TELによる連絡もこれ以後、続々と取り始めました。娘と息子はもちろん、東京の叔父の兄弟たちにも叔父夫婦の状況を報告しました。そのうち、私のメール返信に応えて、もう直接TELしてきた東京の友人もいました。それから、市民運動(教育)の代表、栗原市立図書館の司書のNさんにも。

実は、昨日も図書館にはTELを入れ、被害状況を聞きました。大量に書籍が飛び出し、まだ余震が続いていることから整理して下に置いているとのことでした。玄関のタイル、ドアに少し損傷があり、修理に少し時間がかかり、3月21日までは使用不可とのこと。昨日(17日)は4月から行うブックスタートの打ち合わせを行う予定でした。それを31日に延期する。また27日に予定していた私も関係している「ひとり語り」と「少し大きい子のためのお話会」は、やはり、中止せざるを得ないということでした。

また、この3月18日には、そもそも私が責任者の大きなイベント、「第5回ふれあい芸能まつり」(NPO法人「くりはら活性化ネット」主催)を行う予定になっていました。開催する準備は、着々とできていて、今回は150人超の参加になる勢いでした。その企画運営委員のHさんとは昨日ようやく連絡がとれ、もう一人のOさんには、ようやくこの日、初めて連絡がとれました。会の事務局長は今、仙台の病院に入院中で、彼とは携帯で地震後、早いうちから連絡がとれてこの企画の中止を知らせました。そして、最後に、この日の夜になって、会の理事長にも、ようやく連絡がとれ、 ①この企画ができなくなったことと、②今後の対策は、3月末か4月に理事会(企画運営委員会も)などを開き、相談・決定し ③各参加施設、出演者には、その後にお詫びの連絡をすること、を報告・進言しました。

イベントの中止・自粛について、

―ところで、「ふれあい芸能まつり」などのイベントを、こうした非常時に行うことの是非は、当然問われます。今回はそれ以前の問題として、主に物理的に開催できないのです。①会場が地区住民の避難所になっている。②参加者、出演者、スタッフとも連絡がとれない。③会場へ行く手段が無くなってしまった。などです。
 また、3月27日に開催を予定していた「ひとり語り」と「小学生のためのおはなし会」も、中止の理由は、①会場の栗原市立図書館と伊藤記念館に損傷が出て、使用不可である。②まだガソリン不足の状況の中で、参加者の交通手段の確保が不安定である。ということです。

大津波の被害がTVに映る映像はとてもキツく、見ている者に心理的なダメージを与えています。(個人差はあるでしょうが)もちろん、それを「見るな!」ということではありません。しかし、今後、この衝撃的な映像が、繰り返し映し出されると、9.11のあの衝撃的なシーンと同様に、人々に「虚無感」「無力感」「無常観」として定着し、その精神を蝕んでいく可能性があります。今、TVで民放各局がCMの挿入を自粛し、バラエティー番組が影を潜めています。こんな時「笑う気になれない」というのも分かります。しかし、「笑い」は絶対に必要です。「今はまだ、笑えない」かもしれません。でも、いつか、どこかで、いずれ、「もう、いつまでも、くよくよしないで、元気を出そうよ!」ということに必ずなります。ならなくてはいけないのです。

「ふれあい芸能まつり」は、毎回、社会福祉施設利用者や地域の高齢者等の参加者に大変好評で、みんなに笑いをもたらす至福のひとときを楽しんで頂いています。ボランティア出演のみなさんも、今回はプロの大衆劇団「ともえ座」の特別出演をはじめ、アマの日舞、サンバ、ハーモニカ、マジック、歌謡曲など多岐にわたります。
一方、「ひとり語り」は、栗原市立図書館のストリーテリング勉強会が主催し、妻の知人のセミプロの渋谷つつじさんを迎え、今回は、大人向きに昔話や民話を語っていただき、その「ひとり語り」の世界を楽しんでもらおうという企画でした。「小学生のためのおはなし会」は、図書館主催で、小学生低学年を対象に、これも昔話や民話を、その勉強会メンバーが語るという企画でした。

 いずれの企画も「この時期にふさわしくない」という、いわゆる自粛をして、中止になったのではありません。しかし、何となくそうした雰囲気が、今、あちこちに漂っていることは確かです。私は、この時期、むしろこうした企画・イベントをして、「みんなの心に明かりを」灯したいと思っています。今回、やむを得ず一応、中止となりましたが、できれば再度、多少アレンジしてでも実施できるような方向で、今後関係者と調整し、実質的には、延期に近いものにしたいと思っています。

夜、やっと待望の水が出た!!

―今日の午後は、各方面と続々と連絡を取り始めました。夕食(夕食は、五目ごはん、豚汁、大根キューリサラダ、レトルト角煮、)をとり、一段落をした頃です。そう、7時をちょっと回っていましたか、義父が母屋から我が家にやって来て、「何だか、風呂の浴槽の水が溢れている。」と言うのです。何のことなのか、さっぱり分からず、行ってみると浴槽の蛇口から少しづつ水が出ているではありませんか。次に台所の蛇口を上げると確かに勢いはないのですが、水は出ました。

 水道もようやく回復したのです。一週間ぶりのことです。やっぱり、水道水が使えないのが、一週間というのはきつかったです。でも、ここ築館・黒瀬地区は、やはり電気と同じく栗原市内では比較的早くに復旧した方でした。この後もずっと回復が遅れた地区がいっぱいありました。(3月25日現在も、まだのところがあります。)

3月19日(土)(9日目) 


ガソリン枯渇が、省エネ耐乏生活へ転換させる。

ガソリン枯渇長びき、深刻に、


―昨日(3月18日)JA栗っこ災害対策本部より「緊急連絡」の文書が、各組合員宛に届きました。その一番初めには「ガソリン及び灯油販売のお知らせ」が書いてありました。内容は、「燃料供給事情が全国的に逼迫しておりますが、確保出来たガソリン等を以下の通り販売いたします。①ガソリン 明日19日のみ市内4ケ所で1台13.3リットル、2000円 ②灯油 20日のみ市内4ケ所で1人18リットル、1620円 」という内容の通知でした。
この日の夜のうちから行列ができてしまいました。朝からでは7時間待ち、それも無くなればそれで終わりです。私には、7時間も待って、たったの13.3リットルは、効率が悪すぎて意味のないことに思われました。
3月16日付けの河北新報の大きな見出しでは、―「ガソリン枯渇深刻」給油求め長蛇の列―とあり、その混乱ぶりは異常です。長い車の列では言い争い、交通の妨げ,店員ともトラブルなどが絶えません。岩手県でのことですが、夜中から待っている車中で七輪を焚いて一酸化中毒で死亡者まで出しています。

ー18日の河北新報での大きな写真「一関で、再開がみていにもかかわらずできた給油待ちの車の長い列に、案内を掲げるガソリンスタンド関係者(17日のこと)」が載っていました。従業員を増やし、車列整理し、混乱回避へ知恵を絞るスタンドもあります。しかし、ここのJA栗っこのスタンドや、妻の行きつけのスタンドでは、張り紙1枚に「中止」とだけあったり、いつ販売するか分からない中、期待して延々と車が待っているケースが多く見られます。店員は全く現れず、この新聞の写真の一関のような、そんなことは全くしていません。これでは、混乱をますます助長させるだけで、全く不誠実です。私は、この後、事態が落ち着いても、こんなスタンドは利用しません。
ちなみに、少し新聞記事を良く見ると17日時点では、一般向け販売をしているスタンドは、宮城県内では、たった4店。18日でも、東北全体で315店、宮城県内での営業はたった5%の33店ということでした。(緊急車両用に開けているスタンドもここでは結構あります。)

  これに対して15日には、宮城県村井知事は「もう少し我慢を」と呼びかけ、「近く燃料供給の見通しを明らかにする」と言明。この日、3月19日の河北新報には、(18日の臨時の記者会見で)「調達のめどが立った。少しずつだが、県民に行き渡るようになる。」との見通しを示し、燃料「安心」宣言をしました。このように、いずれ遠くない時期にガソリン不足は解消され「買いだめは必要ない」と発信しています。
この「いずれ遠くない時期」というのは、曲者で、今一つはっきりしません。しかし、行政のトップ、首長が、このように見通しをはっきりと語ること、メッセージを出すことは好感が持てます。県民の「いつまで、この状態が続くのか」という不安が、今、とても強いだけに、多少はそれを取り除き、安心感を与えます。(例え、多少、間違っていてでもです。)

省エネ耐乏生活は、案外、おもしろい?


―一週間が経過しましたが、水もようやく、ここへ来て復旧しました。(3月18日)一安心です。あとは、物資と輸送(流通)の問題が残っています。いろんな物資が不足してきています。そしてなんといってもガソリンが足りません。ここより格段にいろんな大量な物資を必要としているのが、大津波で壊滅状態になった沿岸部です。そしてその不足した物資をそこに運ぶガソリンがないのです。

 しかし、私たちのこの間の省エネ耐乏生活は、(私たちも、まだ少しは不便な生活は続いていますが…)少し、負け惜しみ気味なのかも知れませんが、案外いい〔おもしろい〕経験ではないかと思っています。このように言うと、いま尚、厳しい避難生活を強いられている方々には、真に申し訳ありません。でも、水は大切に使う。ゴミはほとんど出さない。生ゴミも少ない(EMぼかしで堆肥作りしている)。エネルギー消費は極めて少ない。TVは、見なくてもいい。早寝・早起きをする。実質的にダイエットしてしまった。ガソリンはあまり使わないようになった(ないから出歩かない)。あらゆるものを節約して大切にする。お金もほとんど使わない。来月に請求が来る電気料、電話料、水道代などやカードの支払い(通販などで物を買っていない)が極端に減るはずです。これって、究極のいわゆる「地球に優しい生活」というやつなのかも知れません。自分の体にも優しい、おまけに財布にも…。と良いことづくめです。

 ただし、これでは、お金が動かない、回っていかない、消費不況をさらに進めてしまい、全体の経済がおかしくなってしまいます。こうした経済的なことだけでなく、家族で協力する、地域で共助し合う、遠い親戚や子どもや友人(遠くの)ともようやく〔久しぶりに〕連絡が取れて…などのメリットもたくさん生まれました。
さて、この今回の省エネ耐乏生活をした後は、どうなるのか?また以前の大量消費生活に戻ってしまうのか?まあ、私たちの場合、以前もそれほど大量消費生活をしていたわけではありません。それでもかなりこの間の生活が一変してしまいまった、この省エネ耐乏生活で身に付けた良い習慣がそのまま、今も妻も私もどうした訳か、生き続けています。これから、お金はそれなりに使っていきますが、(使い方も変わるような気がしますが)どうも、生活スタイルの方は、今回の省エネ耐乏生活が、色濃く反映したものに変化していくように思われます。

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東日本大震災日記(その6)

東日本大震災日記 (その6)

3月17日(木)(7日目) 

「メディアと災害」について考えさせられる。

井戸水で6日分の洗濯。

―2日前、激震地の中では4日後というのは、比較的、早い方でしたが、3月15日の午後3時頃にようやく電気が回復しました。そこで昨日、6日ぶりに、あまり綺麗ではない井戸水を使ってですが、母屋も我が家もお風呂に入ることができました。そして、今日、この6日間、溜まりに溜まってしまった洗濯物を、母屋と我が家と2軒分、水道が断水のままなので、その濁った風呂水を使って洗濯をしました。電気が来ても、両方とも全自動洗濯機(我が家はドラム式乾燥洗濯機)で水道水しか使えません。風呂水をポンプで使うことは、昔の二槽式洗濯機なら容易にできたはずです。(全自動でも工夫すればできるのかも知れませんが…)

 そこで、2ケ所の風呂場で、浴槽と漬物用の大きなプラスティク樽を使って、原始的な足踏み洗濯を、私は、初めて(両方ですから、)2回もしました。私は、戦後生まれの団塊世代で、しかも、ここ栗原・築館黒瀬という「ど田舎」(←これ、娘の表現です。)に26年前に来るまで、都会生まれの都会育ちでした。幼い頃、確かに「タライに洗濯板」という世界は見ています。しかし、昔話にでも出てくる(お婆さんが)「川で洗濯をして」はありませんでした。けれども、妻によれば、この地域では、近所の人は当たり前にそうしていたということです。(ここは、井戸水でしていた。)

 水道の断水は、まだまだ当分の間、続きそうでした。この頃には、もう各家庭では、旧町村に1ケ所の給水所まで行くガソリンが無くなってきていて、自転車でいける各小学校などにまで、きめ細かく給水車が来るようになっていました。

只今、白井建築K君営業中!!

―この白井建築というのは、6年前、母屋の新築建て替えと、2年前に我が家の当時築24年のセキスイハウスを1階部分を中心にリフォームしてもらった施工者です。そこの次男K君は、妻の教え子で、大工工事もしますが、主に営業担当。彼は、3年前の宮城・岩手内陸地震の時も、いち早く被害を確認しに駆けつけてくれましたが、嬉しいことに、今回も来てくれました。「ガソリンはどうした?」と聞くと「直ぐに、秋田に行って、確保しました。その後はもう…」ということでした。つい先日も、明るく元気な彼女を連れてきて、「この4月に結婚します!」と報告し、妻にスピーチを頼んでいきました。丁度、息子と同じ世代の好青年で、とてもフットワークが良く、大変、頼もしく、私も大好きです。被害が無いか、2軒分の内部・外部をチェックし、母屋の食器棚ストッパーの部品が無くなってしまったので、注文しました。さらに、外塀の崩壊状況を見てもらい、今後の対応策を相談しました。そして、瓦礫の撤去や全面的な建て替えをお願いすることにしました。瓦礫の撤去方法、撤去場所などについても、アイデアを出してくれて大変助かりました。地震の被害の見舞いをすると同時に、りっぱに営業もして行きました。ただ、今回の大震災で彼の仕事は超多忙になると思われ、4月の結婚式、5月の海外への新婚旅行も、どうも怪しくなってきているみたいです。

 白井建築のアドレスを紹介します。http://www.shirai-kenchiku.com/cms/building/index.php?1そこの「施工実績の紹介2」の「S様邸(宮城県栗原市)」が母屋のことです。

夜、インターネットがやっと接続。

―この日、夜の10時過ぎになって、インターネット回線が回復・接続し、ようやくインターネット使えるようになりました。電気は、2日前には回復して、同時に電話の方はすぐさまつながりました。しかし、インターネットの方がどういう訳なのかつながりませんでした。幾度も、幾度もトライしましたがダメでした。それが突然なのか、この日、夜10時過ぎにトライして、やっと接続しました。これで入手できる情報量が格段に多くなりました。多くなっただけでなく、より多様で、多角的になりました。

 このインターネットについては、他のメディアに比べて、その人の持っているメディアリテラシーが、どの程度のものか、どう活用できるか、がより問われます。私自身が、それが十分に備わっているとは思いません。しかし、私は、4年前よりこのブログ「触媒生活」をスタートさせ、それを用いて、私なりの情報発信をしてきてきました。インターネットが、これで接続したことによって、それまで様々な各メディアからの「情報」に対して、私自身が、ただの「受身」であったのが、これからは、私なりの考えを発信する「情報」の「送り手」に変身することができます。しかし、私に、それがどれほど出来るものか、あまり自信はありません。けれども、今回のこの同時多発的な相次ぐ巨大地震、大津波、原発事故の発生とその被害の広がりは、誰も想定していなかったことなのです。ですから、いまのところ、誰もこの全体の状況を、正確に、十分に、多角的に把握できていないと思います。微力ながら、地方の片田舎の地域からですが、ある意味で、そこからしか見えないものを見つけ、私なりに、この「東日本震災日記」を付けていきます。

災害時に、各メディアの果たす役割は重要です。 

 11日午後2時46分の地震発生時から、時間経過を追って活用でできたメディアを見ていくと、そのメディアの種類の違いによって、その特徴がはっきりと分かってきました。

 まず、初めから活用できたのはラジオでした。普段、私は、車でもカーステレオを愛用し、妻のようにカーラジオを聴いていません。青春時代も深夜ラジオ族ではありませんでした。むしろ、子育て時代からの子どもの本の読み聞かせ、図書館づくり運動や図書館ボランティアをする中で、ラジオで人が話(声)を「耳で聴く」という行為の大切さを再認識しました。今回は、災害直後から時々刻々と変わる災害情報を伝えるのに、ラジオほど大きな役割を果たしたメディアはありません。停電が長期になり、暗闇でも、移動中でも、持って歩くことができました。電池式携帯ラジオ2ケは、我が家でも、叔父宅でもTVが映るまでは、ラジオからリアルな情報を得て、的確な状況把握をし、安心することができました。

 その次に来たのが、新聞です。直後は日常のように早朝に届くというわけにはいきませんでした。しかし、地元紙の河北新報は、驚いたことには、もう午後には配達されてきました。特別紙面を組んで、ページは大幅に減らしていました。しかし、その「宮城 震度7 大津波」の強烈な見出し、沿岸部の惨状を撮った巨大な航空写真は、極めて衝撃的でした。これが現実なのか!!と自分の目を疑いました。ラジオで、既に状況は、耳から聴いていたのですが…。この河北新報は母屋でとっていて、我が家のは朝日新聞です。翌々日(3月13日)の昼、我が家に突然、タクシーが乗り付けてきました。こんな時、誰なのかと見ると、販売店の社長でした。朝日新聞は、2日分をまとめて配達しにきたのです。その後もこの2紙はきちんと毎朝届けられました。この間、毎朝、この2紙を私は隅から隅まで読んで、状況の把握・分析をし、自分なりに今後の見通しを立てます。そして、一日の行動予定を決めています。新聞は、詳細性、記録性、一覧性、論評性において極めて優れた特性を持っていることが再認識させられました。

 そして、TVです。TVは、地震発生時から4日後(3月15日)に電気の回復と同時につきました。私は、すでに少し前から新聞で沿岸部の惨状を、見てはいますが、TVによって、それが、より視覚的に訴える力が強烈に感じられました。映像の迫真性、臨場性、そして、すぐさま伝わる速報性。加えて、画面に部分的に地域情報が書き出され、知らされます。情報が多重に伝えられます。しかし一方では、それが長く続けられると私たち(視聴者)にとって刺激が薄まっていきます。麻痺してくるようです。時間とともに被災者と視聴者の関係がどうなっていくのか、規模や内容がこれまでの災害を大きく超えているだけに難しい問題があります。それに基本的には映像はその場限りのものです。(いずれ、忘れられてしまう。)また、このところ増えてきている原発事故の映像やその伝え方は、津波被災者の取り扱いとの比重や、原発問題の性格からしても複雑化していきそうです。TVは、速報性が極めて高く、私たちの生活への浸透性においても他のメディアに比較にならないほど強力で、その影響力は絶大です。デジタルへの移行で双方という側面も出てきていますが、まだまだ全国民に一方的に絶大な影響を与え続ける恐ろしい巨大メディアです。

 インターネットに関しては、この前の項で述べて通りです。

 「災害とメディア」に関しては、今回の巨大地震・大津波・原発事故と被害の全体像すらまだまだ把握できていません。さらに、それが今、与え、影響してくる地域経済と日本経済や国民生活全般に至る問題については、まだいまの段階でメディアがそれをどう伝え、どのような役割を果たしてくのか、またそこに、どんな問題があるのか、解明途中ということです。また改めて後日、この続きは述べたいと思います。ただ一点、インターネット以外は、必ずその発信される「情報」は、コントロールされているという点は押さえておかなければなりません。

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東日本大震災日記 (その5)

東日本大震災日記 (その5)

3月16日(水)(6日目) 

非常時シフトに移行、情報把握と的確な判断が鍵。

ガソリン確保に動いて、

―被災生活も6日目に入り、ガソリン不足の非常時に効率よく動くには、①多目的に、②2人ペアで、ということで、朝食後2人で、ガソリンが少なくなっている私の車に乗って、9時前に出かけました。まず、この間、叔父宅に何度か行く時、通った途中の妻の行きつけのガソリンスタンド(生協のカードで支払い)を思い浮かべました。そこで何度かタンクローリー車を見かけたからです。でもしかし、そこよりも、栗原市立病院近くの大きなスタンドが2ケ所(1つは私の行きつけ)に、その近くにスーパーとホームセンターもあるので、そこに行こうということになりました。

 しかし、もう2ケ所とも長い車の列ができていて、その1つは街の1区画を回っていました。もう1つの少ない方に並び、20台目くらいでした。でもなかなか先には進みません。そもそもそのスタンドが開いているのか、開く予定があるのか、不明なのに並んでいるのです。そこで、2人で来た意味があるのです。妻の方が降りて調べに行きました。その結果、開いていないし、その予定もないことが判明。それも、たまたまそこへ来ていた店員の家族から妻が聞き出したのです。そこで、方向転換し、もう一つのスタンドへ。そこでも私が車で並ぶ一方で、妻が調べに行きました。結果は、ここもダメ。その近くのお店も開かないことも分かり、そこで、近くいる人たちにも、そのことを知らせてから、最初に検討したスタンドへ向かいました。その途中で、ニヤニヤしながら車の行列を見ながら自転車に乗っている地元のオヤジさんを発見しました。(向こうは私に気付かなかったようです。)彼は、地元通の有力者で、事情は良く知っているはずです。

 ふたりで車の中で「ダメだったけれど、無駄に並ばないで済んだんだから、良しとしないとネ」と話し合いました。次に、妻の行きつけのスタンドに行きましたが、車は並んでおらず、「停電のため給油できません。」と張り紙がしてありました。事情を聞こうと隣の2階部分が住居になっている所に行きチャイムを鳴らしても出てきません。諦めてもう帰ろうと思いましたが、その近くのマックスバリュー金成店まで、また行ってみようということになりました。

 結果は、正解。また、丁度、店頭販売を始めていました。もうこれで暫く店頭販売はできないと言っていました。そこで必要なものを購入し、家に向かいましたら、また、丁度、その近くのセブンーイレブンが、たまたま、まさに瞬間的に(ちょっとオーバーですが)開きました。この間、叔父宅にその前を幾度も通ったのですが、ずっと閉まっていました。店内の片づけをして、売れる商品だけを最後に処分しようとしていたのです。そこでは私は、酒類―水割りウイスキーと黒糖入りの梅酒1瓶を買いました。

6日ぶりにお風呂に、

―昨日の午後、ようやく電気が来るようになって、一気に、母屋も、我が家も、明るくなりました。まだ、水道が回復していませんが、それによって、井戸水がポンプで汲み上げられるようになりました。その井戸水が来ているのは、母屋と我が家のトイレ(合併浄化槽)。それに、母屋と我が家をつなぐ部屋(つなぎの部屋といっています)の前の屋外にある蛇口、あと、離れたハウスなど遠くに2ケ所です。その近くの屋外蛇口から、2本のホースを継ぎ足し15メートルほどにして、母屋と我が家のお風呂に井戸水を入れることができました。その井戸水は、かなり緑がかった色をしていて(川水のように)とても綺麗とはいえません。しかし、そんな贅沢なことは言ってられません。6日ぶりにお風呂を沸かし、入浴しました。妻の方は、もう限界近くになっていたようで、貴重な飲み水を沸かして体を拭くのに使う(それだけかな?)と言い出していたところでした。私は、まあ、1週間くらい、風呂に入らなくとも平気なのですが、それより頭が痒くて仕方ありませんでした。勿論、妻の方のシャンプー願望の方が、もっと強いものであったと思います。6日ぶりの風呂とシャンプーは、とても気持ちが良かったです。


郵便局の定形外郵便が有効!!

―子どもたちがこちらの物資の不足を心配して、何とか宅配便などが使えないか試みたようでした。しかし、ヤマトも佐川も、すぐさま取り扱いを停止するようになりました。勿論、郵便局のゆうパックも同様です。しかし、そのうち、我が家には、通常の郵便は届くようになっていました。ハガキ、封書が主ですが、どうももう少し大きい、定形外も大丈夫なようでした。一方、子どもたちは、あれこれと試行錯誤しみて、この郵便局の定形外郵便物がここ、被災地でもあっても、宮城県栗原市の築館・黒瀬という地域には届くということを見つけ出してくれました。その定形外郵便を使っての物資が到着するようになりました。中身は、日持ちがして、かさばらない真空パックされたハム、ベーコン、お菓子などです。

 何かと不自由な被災生活が長く続くと、時間を持て余し、気持ちも滅入ってきます。気晴らしや娯楽も必要です。私は、娘にTELで「母さんが好きそうなDVDを送ってくれないか」と注文を出しておいたら、そうしてくれましくれました。さっそく、ふたりで娘がお勧めDVDを見ることにします。このDVDは、娘が今度こちらに来た時か、こちらからのゆうパック(再開されたら)に入れて返します。

 定形外郵便はその名の通り、定形の郵便物から外れたもので、規格は、 タテ + ヨコ + タカサ の合計が、90cmまで(一辺の最大が 60cm)重さが、4kgまでのものです。これは、実際には、かなり大きな物にも対応しています。このように、受け取り先に通常の郵便が送れるのであれば、定形、定形外にかかわらず大丈夫なはずです。このことは、混雑を避けるためか、何故だか分かりませんが、全くといっていいほど宣伝していません。(問い合わせたり、調べれば分かることなのに、)

正確に情報を把握し、的確な判断を。

 私自身、当初考えていた以上に今回の被災生活は、長引いていくとことがだんだんはっきりと分かってきました。これには、非常時のシフトをとらなければなりません。家族で、妻とふたりで、力あわせて、相談、確認、分担し、または、ふたりペアで行動する。義父とも良く相談し、力になってもらったり、力を貸したりすること。義母は、不安がったり、不安定になっているけれども、こちらが余裕を持って、優しく説明すること。

 様々な日々、入ってくる情報をしっかり確認すること。その中から、正しい情報を正確に把握し、それに基づいて的確な判断をすること。毎朝、新聞をよく読み、チェックし、分析すること。そして、自分なりの見通しを立てる。それを紙に書いて整理をする。妻にもそれを伝えること。

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東日本大震災日記 (その4)

東日本大震災日記 (その4)

3月14日(月)(4日目) 

通信の遮断で、深刻な影響が、…

学習会開催が出来なくなって 

前日の3月13日(日)に行われるはずだった予定は、「ゆきとどいた教育をすすめる栗原市民の会」の第2回学習会です。栗原市市民活動支援センター2階で午後1時半より開催の予定でした。内容は ?新学習指導要領の改訂について、?学校再編について、?学校関係施設の入札について です。1月の30日に行った第1回の新春学習会には、読書会として「小中一貫教育を検証する」(花伝社)のチューターを私がしました。今回も担当にはなっていませんが、?については、この4月から小学校で英語の必修化されることについての問題点を、資料をまとめて提出しようと思っていました。?についても「公共工事の価格は適正でない」とし、官製談合が横行している現状に警鐘を鳴らす岐阜の建設会社「希望社」社長のインタビュー記事を用意していました。そして、この後5月ごろには「新学習指導要領の改訂に伴う教育現場の現状と今後どのようになるか。」という学習会を開くことになっていました。

この学習会に限らず、2日目の日記にも書いた3月12日(土)の料理教室の方もその中止を知らせる手段が全くありませんでした。この後も次々に予定の延期、中止などの変更の連絡が全く出来ないという事態が続きます。そして、それが果たしていつまで続くのか、今のところ、全く見当がつきません。しかし、今後それらをスムーズに復活・再生させていくには、今一度、本来行われるべきだったものは、一体何だったのか、しっかり確認しておく必要があります。しかし、今回の東日本大震災という未曾有の大惨事の前に、それとの関連で今後、大幅に軌道修正していくことも必要になってきます。

もろかった通信手段

 地震が起きて即、電気がストップしたため、我が家の電話での通話はできなくなりました。しかし、暫くの間は、私の携帯は、相手が遠方の場合に限って混雑していない限り、ある程度使えました。(13日までに仙台、東京、香川と)しかし、近いところ、栗原市内に関しては全く連絡が取れない状態になりました。妻のは、私と同じソフトバンクでしたが使用不可に。そのうち私の携帯のバッテリーは切れてしまいました。

NTTの固定電話が無料で使えるというアナウンスがラジオでしたので、叔父からの依頼で一関の燃料店に国道4号線沿いで12日、13日と何ケ所もトライしてみましてが全くダメでした。我が家の電話はIP電話で、電話線とは別に電源が必要で使えません。しかし、母屋の電話は、アナログ回線なので、電話線が大丈夫であれば停電時でも使えるはずでした。そして、暫くしてから、この日(3月14日)には回復し、使えるようになりました。それで、東京に私の実家があり、兄弟家族が多く住むので、その何ケ所にもトライしてやっと兄嫁とつながりました。そこから、実家と兄弟に私の周りが皆無事であることを知らせてもらうことにしました。そして、遠く離れた娘と息子と、そのつれあいの実家からも連絡が入りました。この後、次々に叔父の兄弟、私たちの大学時代の仲間、千葉時代の仲間、宮城県内の各地からも、市内の親戚、知人・友人とも連絡がとれるようになってきました。(15日から18日にかけて)最後、19日には、私の東京の実家の姉より電話がありました。途中で99歳になる父と代わりましたが、悲しいかな、どうも息子のことは認識出来ないようでした。

今回の東日本大震災では、被災地を中心に電話などの通信手段が使えなくなり、被災者の安否確認が困難な状態に陥りました。携帯電話やインターネットの普及など、通信手段が格段に進化した今、なぜこんな状況になったのか、不思議で理解できません。どこに問題があったのかという検証と、どうすればそれが解消されるのかという対策が取られるよう望みます。

子どもたちが、大変心配して

 それにしても遠く離れた子どもたち、娘(香川県高松市)と息子(東京・川崎市)があまりに心配していたので、正直、ビックリしました。2人とも、親の私が言うのは何ですが、確かに心優しい子に育てたので、妻と一緒にちょっと嬉しい気持ちになりました。

娘は、今回、一番の激震地の栗原市の様子がニュースで全く流れず、不安でたまらなかったようです。こちらの家族や友人のことが気がかりで、「寒い中どんな辛い生活をしているのか」と心配し、他のことが全く手につかない状態だったといいます。

息子もこちらのことが心配で、1時間おきに電話したといいます。東京に行っている友人らと栗原に一緒にまとまって帰ってくると伝えてきました。息子は、これまで地元に残って地域おこしのイベントなどをしている仲間に協力するなど大変、栗原の地域想いなので、分かるのですが、「今しばらく待つように」と私はストップをかけました。

運動不足で、体調も崩しがちに


 私は、地震が起きた最初の日(3月11日)だけは、1階の居間で妻と掘りコタツを挟んで2階の寝室から布団を持ち込み寝ました。枕元にはスニカーを置いて、フードつきのパーカーを着て暖かくして寝たつもりでした。しかし、夜中には幾度も大きい余震が続き、その都度、起こされただけでなく、ともかく非常に寒くて眠れないのです。暖房はないし、お風呂に入って温かまることもできません。それに一晩、居間で寝て、寝心地が悪くて背中・腰を痛めてしまいました。2日目からは私だけ2階のベットで寝ることにしました。

通常は夜中にトイレに行くのは1回かせいぜい2回、それが2時間おきくらいになってしまいました。まだ少し明るいうちに夕食の準備をしますから、食べるのも早め、暗くてあとは長い夜を寝るしかありません。10時間くらいは布団の中(いつもは6時間ほど)、ですからいつもトイレに行くことになりました。それも私の場合、小の方は屋外に行くことにしましたので(妻は「同じ場所でしないで!」と)余計に寒い、冷えるのです。一時は病気になったのでは思ってしまいました。(電気が点き、暖房が入ると、また通常に)

更に私は毎冬、足のかかとがひび割れになり易く、ふくらはぎもツリ易くなります。ですから特にこの冬は念入りに足のメンテナンスをしてきました。しかし、暖房なしの被災生活が続いてくると、いくらクリームを塗り、マッサージをしても効果は薄く、ひび割れどころか傷のような裂け目までできてしまいました。

私は、健康維持のために、日常的に食生活にも気を使っています。それがこうした非常時には出来にくくなってしまいました。野菜ジュースだけは、幸運にも、丁度まとめ買いした後で、1リットルのものを1ダース確保できていました。しかし、ヨーグルトとリンゴジュース(1リットルのリンゴジュースに大匙2杯の粉寒天を入れ加熱してリンゴ寒天を作る)は、毎週火曜日頃に1週間分買っておいていたのが、やはり途中で終わりになりました。仕方なく、リンゴジュースの代わりに野菜ジュースで作ってみましたが、不味い。今は、これは、黒糖入りのコーヒー寒天に変更しています。

運動では、日常的にしていた、温水プールでの水泳は全くできなくなりました。また、フィットネス施設でのストレッチ+筋力トレーニング+有酸素運動(6.3~7.5キロ/毎時を、途中休憩5分を挟み25分×2の早足ウォークキング)も同様です。仕方なく、自宅ですることになりました。まず、筋力トレーニングはマシーン無しのものにし、あとストレッチも問題ないのですが、有酸素運動は、現在のところやりようがありません。

長い避難所暮らしや車中泊で、被災者は長時間窮屈な姿勢を強いられ、足にむくみや血栓ができやすくなります。それによって、エコノミークラス症候群を引き起こす恐れがあります。予防には、こまめな水分補給や屈伸などの運動などが有効で、こうした指導や働きかけが十分に行われるように願っています。

冷蔵庫の残りの食材など確かめて

やりくりを 被災生活も4日目に入り、冷蔵庫の中はほとんどなくなってしまいました。もともと冷蔵庫には貯め込まない主義なのですが、今回ばかりは、ちょと、裏目に出てしまったか?それにしても電気が来ないのですから、この間、早めにその中の食材を優先的に使ってきました。この時期、我が家の台所は寒く、下手をすると冷蔵庫の中の方が温度が高いこともあります。この時点で既に冷蔵庫の冷蔵分の食材は調味料などを除きほぼ使い終えていました。それでも残り少ない、燻製ベーコンやウインナーを冷凍室の方に移しました。その他の備蓄?(まとめ買いはしますが)の食材も含め、冷蔵庫の残っている食材をうまく使って、確かめて、やりくりをしなければなりません。

その主なメニューは、前に紹介した雑炊は何回もしました。冷凍しておいたごはんを、自然解凍しておいてから土鍋で煮込むというもので、それが捨てないで、大量に残っていたため助かりました。冷凍シーフードもそれに入れました。雑炊だけでなく、この日の昼食は何とかチャーハン(4人分)にしてみました。それにも入れた燻製ベーコンは、細かく刻み何回も使えました。更に、ほぼ解けてしまった500CCのバニラアイス。この日の朝食は、冷凍しておいたけど少し柔らかくなった食パンをこのバニラアイスに浸して、フレンチトーストを作りました。翌朝は、残り半分の解けたバニラアイスを牛乳・卵の代わりとして使って、妻がホットケーキを焼いてくれました。更に、この日の夕食は、もう冷凍庫でも溶けてしまって柔らかくなった冷凍(だった)日本ソバを使い切りました。

3月15日(火)(5日目) 

電気が回復し、一安心。

もうすぐ春なのに、異常な寒波が続

 3月も半ばを過ぎたというのに、今年はどうした訳か、一旦、寒さが緩んだのに、また真冬に逆戻りしたようでした。 雪は降ってきて積もるし、猛烈な寒さで、真冬日(日中の最高温度が0度C以下)に何日もなってしまいました。県北のここ栗原市築館は宮城県の中で一番、寒暖の差が激しい所です。市街地・平地では、県内で最も寒くなる所で、この後ずっと冷え込みが続き、ついに3月18日の明け方には、マイナス8度Cを記録しました。これがまた、「後出しじゃんけん」なのです。いつも私は、インターネットで2日後までの天気・気温の変化をチェックするのですが、今はインターネットが使えません。しかし、新聞では予報がマイナス4度Cだったのです。それが結果は、またもやハズレです。マイナス6~7度Cで我が家では水道管が凍結します。対策は前の晩からチョロチョロ水を出しっぱなしにするしかありません。この予報が、マイナス4度C位で、結果がマイナス7~8度Cというのが度々起こるのです。それが「後出しじゃんけん」。私は、非常に腹が立つのです。しかし、どのみち今回は断水していたので影響はありませんが…

避難者高齢の義父母、親たちには、私たち以上に、この異常な寒さは、大変、辛かったと思います。被災生活が、更に長期化することを想定して、練炭(七輪で)は、最後の燃料として煮炊きを兼ねて使おうと考えていました。しかし、この前日(3月14日)に義父母は、公民館分館に、暖を取りに出かけて行ったのを見てそれは止めました。今日一日、母屋の堀コタツに練炭を入れることにしました。明日は明日で、バーベキュー用の木炭でしようと考えていました。(部屋の喚起には気をつけて) 
     
「ふれあい芸能まつり」準備の会議も開けず

この日(3月15日)の午前10時から、栗原市市民活動支援センター2階ロビーで、NPO法人「くりはら活性化ネット」の第6回の企画運営委員会が開かれることになっていました。間近に迫った3月18日開催の「第5回ふれあい芸能まつり」準備の最後の打ち合わせの会議でした。この「ふれあい芸能まつり」は、栗原市の金成地区を中心に、社会福祉施設と社会福祉関係団体を利用している方々、及び地域の高齢者等の方々を招待し、至福のひとときを楽しんで頂こうというものです。既に大勢の方々の参加申し込みがあり、スタッフ、出演者など含めると150人位の規模になるものでした。私は、その企画運営委員会の責任者です。あと委員が2名、それにこの日は、スタッフの参加も求めていました。

 それが、3月11日の大震災によって、一瞬にして、全く連絡が取れなくなってしまったのです。やむを得ず、当日、当時間に栗原市市民活動支援センターに、義父の車で出かけました。恐らく誰も来られないのではと思いましたが、そこは私は、責任者ですから行かないわけにはいきません。ガソリンがある程度あるのが義父の車だけで、その後の行動も兼ねて効率的に動くことにしました。つまり、ここから4回目となる叔父宅に向かうことにしていました。ですから、妻も同乗してです。

ガソリン不足で多目的に車を使って

 10時前に栗原市市民活動支援センターに着きました。1階の市役所の築館支所は、築館地区の災害救援センターになっていて、2階は使用不可でした。10時まで待ち、直ぐ叔父宅に行こうとしましたが、丁度給水車が来ていましたので、2人分の配給水の確保―(ポリ20リットルとペットボトル5本(10リットル)と配給のビニール袋に10リットル)ができました。またそこには、築館地区の災害ゴミの受け入れ窓口があり、対象のトップが ?がれき類となっていたため、我が家の外塀の大量の瓦礫の搬入について相談しました。そうしたら、ブロック塀などはダメ、瓦もダメ、木くず類だけと言われました。対象の ?が木くず類で、「この記述では、全く不正確、不親切だ」と強く指摘しました。しかも、「受け入れは今日で終わるかもしれない」とまで言いました。「それでは、災害ゴミ受け付けにならない!」と抗議しました。

 腹立たしい中、無能な市職員に付き合っておれず、先を急ぎました。叔父宅に向かう途中、焼き肉店の駐車場で屋台の鯛焼き屋さんが、丁度、鯛焼き作り始めていました。そこで少し待ってそれを6匹買いました。またそのうち、そこで、焼き肉店が店頭で冷蔵庫がダメになったためか、お店に出す上質の肉の販売を準備していました。それを一足先に、一番に千円分売ってもらいました。そこへ電気店から自家発電用の発電機が到着しました。これからお店の再開を準備するのだなと思いました。

 この後、叔父宅へ行く途中にある3月18日の会場となる予定だった「金成やすらぎセンター」に寄りました。中を見ると、そこは、この金成地区の被災者避難所となっていて、数十人の避難者で溢れ返っていました。市役所金成支所の担当者に会うと、私に「当日は会場を貸せなくなった」と連絡をしようとしたが出来なかったので「わざわざ来ていただいて助かった」とお礼を言われました。次に当日のスタッフ用の昼食、おにぎり2ケパック15ケを予約しておいた直ぐ近くのマックスバリュー金成店に寄ってキャンセルをしました。(本当は個人的には貰えると助かるのですが、―これ冗談です。)わざわざの申し入れに恐縮していました。またここで、丁度、店頭販売をしていたので、妻と二手に別れ、妻は、野菜、果物などが、私は、お菓子、炊き込みご飯の素などが買えました。行列は少し作りましたが、前と同じようにテキパキと店員さんがしてくれ、お客も慌てず、ゆっくり買えました。

 叔父宅へは、また食料品の差し入れと、居間をもう少し綺麗にして、快適に過ごせるようにしました。よく見ると旧式の石油ストーブが綺麗になっていたり台所も少し、手が入っていて、その後、娘さんが来たことが判明しました。叔父夫婦の顔が、最初に来た時とはすっかり変わって、表情が明るくなって、血色が良くなっていました。やはり娘が一番良いのだと思いました。最後に、危険物を入れた肥料用のビニール袋3ケを持ち帰りました。それをさっき寄った市役所金成支所に戻り、そこの駐車場にあった金成地区の災害ゴミ集積所に持って行きました。受付で氏名(叔父の名前)地区、電話を記入し ?ガラス・せともの類の所に出しました。しかし、その隣の ?家電4品目には、明らかに今回の地震でのものでない「便乗の家電ゴミ」が非常にたくさん搬入されていました。3年前にも有った事ですが、とても情けないことです。

ようやく3時に電気が回復

我が家に着いて、少し遅い昼食を摂りました。(義父母の方は、先にカップめんを食べたようでした。)しばらくすると、突然、前触れもなく電気が点きました。築館地区では、まず、栗原市立病院の電気が回復し、続いて、その近辺の宮野地区が前日までに来ていました。その次がいきなり黒瀬地区になりました。確かに宮野地区に隣接しているので納得できますが、栗原市内でも中心部でもないここ、黒瀬地区が早めに回復するのは、何だか少し他地域に悪いかなと思ってしまいます。それでも、我が家、母屋も大喜びです。

これによって、我が家のIP電話もつながり、すぐさまタイミング良く香川の娘のつれあいの実家より久しぶりにそのお父さんから、お見舞いの電話がかかってきました。私は、何だか嬉しくて、興奮して応対してしまったようです。また早速、炊飯器でごはんを炊くことにしました。そして、夕食まで待てなくて、妻におにぎりを作って貰い、早速、それをほうばりました。その何とも美味しいことと言ったらありません。その後、既にいつ電気が来ても良いように準備をしていた携帯電話とIpod nanoの充電をしました。また、これで、井戸水がポンプで汲み上げられるようになり、トイレも大丈夫、TVも点いて途端に情報量が飛躍的に多くなりました。しかし、インターネットはまだ、水道もまだまだです。そう、一番大切なこと、夜に明かりがあるということ、そして何よりも暖をとることができるようになりました。やっと一安心です。夕食には昼間にたまたま買うことができた上質の肉で焼き肉をしました。こんな柔らかて美味い焼き肉は、普段は食べていないと思い大変満足しました。

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東日本大震災日記(その3)

東日本大震災日記 (その3)

3月12日(土)(2日目) 

被災生活が本格的に始まって、

叔父夫婦の安否の確認(つづき)

-前日〔3月11日の地震当日〕、義父は一旦、戻ってきて、家族に叔父宅の被害の様子を話しました。結局、誰かが取り合えず一晩泊まらねばならないとなり、義父が「オレが泊まる」と言ってくれました。そこで、まず、叔父の姉である義母も連れて(暗い中1人で置いておけないので)、4人で、残りのガソリン僅かの妻の車に乗って出かけました。国道4号線の下りは渋滞していなとのことで暗い中(かえって車はライトがついて安全)ゆっくり信号が消えた道を行き、叔父宅に到着しました。
玄関を入ると靴箱から靴は飛び出し、置物は落ちて破損、ガラスの破片が散乱し大変危険な状況でした。叔父夫婦は怯えるようにして2人とも寝室のベットに寝たきり、その周りの物が散乱していました。義母は叔父にお説教を始めましたが、妻と私は取り合えず寝室の周りを片付け始めました。さらに暗い中、廊下のガラス破片をかき集め、一定の場所の安全を確保して、義父だけを残してその日は帰りました。ソーラーライト1ケ、電池式ラジオ1ケ、カップめん数個を置いて真夜中に帰ってきました。妻の車は、丁度燃料が赤い警告のライプが点きました。私はガソリンがまだ半分くらいある義父の車に乗って帰ってきました。

義父を迎えに、再び叔父宅へ

-翌朝、急いでありあわせの材料でカセットコンロを使い、雑炊を作り食べて、夫婦2人で、義父の車で叔父宅に出かけました。その途中、地域の公民館分館の周りでは、既に自治会役員たちが慌しく動いていました。
 持っていったものは、カップめん、缶詰、お菓子などの食料、ビニール袋〔肥料用の丈夫なもの〕などです。3人の無事を確かめてから、夫婦2人で本格的な屋内の片付けに入りました。私は、廊下と玄関のガラス破片の撤去や障子の建付けなどを直し、妻は叔父夫婦がくつろげる居間の整理を行いました。台所をはじめ、どこもかも散らかっていて、地震でさらにそれが手もつけられない状態になったという感じでした。燃料、水の確保を確かめようとして調べるとプロパンガスは、一瞬点いたのですが直ぐ消えてしまいました。外に出てみると大きなプロパンガスボンベ2つは倒れていて素人ではどうすることもできません。しかし、散らかった物置からカセットコンロ1ケとボンベ3つ見つけました。これで当分は大丈夫です。さらにトイレへの廊下の安全を確保し、洗面所の蛇口をひねると水道がどうしたわけか、生きていました。(どうもここがこの地域で少し低いところにあるためか?)

お墓の被害を見て、我が家と地域のことも 

-このようにして一応の叔父宅での作業をすませました。帰りがけに叔父に、燃料店(一関)への修理を頼む電話連絡と、古川に住む娘への連絡を頼まれました。こうして、大事な役割を果たした人質の義父を無事に奪還?し、3人で義父の車で帰ってきました。その途中、義父の要望で、帰りに隣地区にあるのお寺と家の前を通り過ぎて、地域の神社とずーとはずれにある墓地を見に行きました。お寺は建て替えたばかりの門柱が倒れ、神社はほぼ無傷、墓地は多くの墓に被害が出ていました。家の墓は、お彼岸が間近なのに、墓標(江戸時代からの祖先の記述がある)が真っ二つに割れて、転倒、散乱していました。墓石自体が転倒してしまったところも多数ありました。

 家に帰ってきて、待っていた義父母を含め4人分の昼食は私が作る塩ラーメン(一つの鍋で済んでしまいます)。いつもは夕食だけ妻が4人分作り、朝と昼は母屋と我が家は別々でした。(我が家の朝と昼は半々の筈が、いつの間にか私の担当が多くなっています。母屋は義父がよく作っている。)今は非常時、細かいことは言ってられません。この後、妻は、自治会の衛生部の部員で、地域の自治会の行っている炊き出しの手伝いに行きました。朝、通っていった公民館分館が地域住民の避難所になっているのです。私は、昨日簡単に母屋と我が家の1階部分の片付けはしましたが、ようやく本格的に我が家の片付けに取り掛かりました。我が家の2階部分も一人で片付け始めました。また、外塀については、散乱した瓦礫を少し寄せて、取り合えず交通の妨げにならないように昨日のうちにしておきました。

そうした最中に、かなり遅れて母屋が購読している河北新報が配達されてきました。我が家の朝日新聞は、仕方がないことですが、この日はとうとう配達されて来ませんでした。

 夕食は、いつも通り妻担当で、これも一つの鍋でできる冷凍うどんを使った煮込みうどん。夜明かりがないので、いつもより早い午後5時頃に食べることになってしまいます。

娘などとようやく連絡が取れて

- その合間に、携帯での通話を妻の方では上手くできず、私の方で、遠方の四国に住む娘、仙台に住む義妹に何回か試みてやっとできました。娘はあとで娘のブログを見て分かったのですが、大変な心配をしていたようでした。しかし、その後暫くはそれもできなくなりました。また、叔父に頼まれた古川に住む娘への連絡に成功し、直ぐに妻と電話を代わりました。叔父の娘は養子で小さい子から仙台まで行っている高校生までの4人の子持ち、叔父宅までは40キロもあり、時々は親の世話に通っているがとてもいつもできる状態ではありません。この地震でも一家は近くの学校の体育館に避難しているとのこと、子どもたちの安否もようやく取れたという。妻は、叔父夫婦の様子を伝え、会いたがっていたので、「落ち着いたら会いに」と進言していました。

フランス料理を食べるはずが… 

-本来のこの3月12日(土)の予定は、午前中からお昼にかけて、栗駒の「みちのく伝創館」調理室で「春のお祝い料理」教室に2人で参加することになっていました。菅原敏幸先生の指導で作るのは ①オードブルパリエ②春野菜と魚介類ノスープ③牛ヒレ肉のストロガニフ他 というものです。フランス料理と思われるこの料理教室は夫婦で参加するのは今回が2回目のはずでした。私の場合、ただ、食べに行くのでなく、作るのを覚えられさせる〔妻に〕ため?なのです。いつが、落ち着いたら、このような企画はまたやると思いますが、フランス料理を作って食べているはずが、大震災でとんでもないとこになってしまいました。

3月13日(日)(3日目) 

震災で、地域での共助は、今…

朝食は雑炊6人分を作って 

-この日の朝食は、たまたまフカヒレスープ缶と蟹缶が備蓄?してあったので、それを使って、私たち2人はフカヒレスープ缶で雑炊、あと蟹缶で雑炊を4人分作り半分をまず義父母に、残りの半分を土鍋に蓋をして叔父宅に持ち込みました。炊いておいたごはんは既になく、だいぶ前に余ってしまって冷凍しておいたごはんを、少し自然解凍しておいてからまた土鍋で煮込むというものです。味付けは「味覇(ウェイ パァー)」という中華スープの素の大缶、それに燻製にしたベーコンの塊、このベーコンは電気が止まってから冷蔵から凍り付いていた冷凍へ移し、長く使い続けました。

店頭販売に運良く出合わせて 

-朝食後、義父の車を使い、2人で3日連続、叔父宅に行く前に、その途中のマックスバリューとホーマックに寄りました。9時少し前でしたか、丁度マックスバリューでは、店頭販売を始めており、その反対側のホーマックでもその前に人が集まり出していました。妻がマックスバリューに行って食料品を、私がホーマックに行って入り口のアコーデオン扉の前で並び始めました。

ホーマックのその中では、店員が真っ暗な店内からヘルメットを被って取り合えず売れる商品を取り出していました。それに一つ一つ価格をつけ並べるのにかなり手間取っていました。私の後ろにはもう100人近くにも人が集まっていました。10人ずつ入って下さいということで、私は幸運にも最初の10人になりました。どうしても欲しかったのは、勿論、ガスボンベです。カセットコンロは20ケくらいありましたが、ボンベは10セット(3ケ1組)ほどしかありませんでした。余裕を持って2セット欲しかったのですが、後の人のことを考えて1セットにしました。あと、紙コップ・皿などを買いました。

叔父宅へ行った帰りにも、丁度、ウジエスーパーで店頭販売が始まっていて、食料品は、それぞれ2ケまでというので、カップめん2箱、バナナ2房を買いました。
それぞれの各お店の対応を見るといろいろ考えさせられました。地域で商売をしている(地域貢献)ということで、電気が来ていないので大変な中でお店を開くこと自体、大いに評価ができます。(この時点では、災害時協定のようなものがあるはずなのに、コンビニなどは全く開いていません)しかし、ホーマックでは、電卓を使っても慣れていなく計算し直しをして、それを細かい分類までしてノートに記入してと、時間がかかるばかりでした。一方、2つのスーパーは、価格つけもおおざっぱで、お金のやり取りもテキパキとしていました。

 また、お客さんも皆さん、よく秩序を守っていました。順番を守る、取りすぎない、分け合う、情報を知らせ合うなどしていました。

叔父宅の片付けの続き 

-3回目となる叔父宅では、今回は、主に台所など片付けをしました。片づけをしていて、どうも今回の地震以前からこの台所は片付いていなかったのではないかと思われてしようがありませんでした。娘があまり来れない、しかし、ヘルパーは入っているはずなのに?台所の物の配置が出来ていない、洗っていない食器があちこちに散乱、それらをすべて綺麗に掃除し、配置しました。それで、燃えるゴミは我が家に持ち帰ることにしました。危険物は、肥料用のビニール袋に入れて後日処理することにしました。

帰りに妻は叔父から近くの叔母の親戚への連絡を頼まれました。そこで、車で寄って、叔父からの「瓦の落ちたのを片付けに来てくれ」という伝言をしました。

公民館分館に出かけて行き 

-お昼過ぎには我が家に戻れました。その頃、朝日新聞の2日分が配達店社長がタクシーに乗って(チャーターしたのか?)配達にきました。その後、妻はまた公民館分館に、うちの精米とハウスで育った青物をたくさん持って、炊き出しの手伝いに行きました。私は、外塀の瓦礫を集めてあるものの一部撤去(半分くらいか)をして、道路の通行をよりし易くしました。義父はどうも午前中、お寺のこと(被害と修理か?)で近くの何軒かに打ち合わせに出ていたようです。そして、午後には、帰って来た車で義母を連れて、地域の大勢の年寄りたちが避難している公民館分館に、暖を取りに出かけて行きました。母屋にも我が家にも旧式の石油ストーブがありません。年寄りには連日のこの寒さはきつく、妻が手伝いに行っていることもあって行き易くなったのだと思います。また、義父はこの地域の老人会の会長でもあり、皆のいるところへ顔見せ、お茶のみに行ったのです。それで、夕食はそこでカレーライスを頂いてきました。    

今、地域の共助力が試されている 

-私たちが住む地域―ここは「築館黒瀬」という行政区ですが、ここの地域、自治会・行政区各自治組織など、この今回震災に際しての初動は、素早いものでした。直ぐに、役員などを中心にして、公民館分館を避難所に立ち上げました。それは数日で済みましたが、数十人の年寄り、子どもの安全を確保しました。自家発電機を用い、大きなストーブで暖房をし、炊き出しをしました。他からの救援物資が多少は来ましたが、ほとんどは自前でしています。地域の自力で立ち上げ、地域で共助をしているのです。私も役員を十年前くらいに持ち回りの公民館分館(行政区)の主事(庶務)を経験しました。今は、妻が役員の一員(衛生部員)で出ています。妻は今回叔父夫婦のことがあって参加が少し遅れました。妻の話を聞くと、役員全てが参加できているわけではないが、避難住民の家族からの役員以外の参加(ボランティア)もあるといいます。妻から、その中の女性陣のやり取りを聞かされるのですが、(私に言うことによって妻は分析したり、自分の考えをまとめている)どうも中心は同世代の仲間です。

 一方、叔父の住む地域での動きは、非常に鈍いと感じられました。叔父夫婦の場合、その状態からして「孤族化」に近いものがあります。明らかに今回は極めて危険が迫っていました。市内でも地域によって今回の震災に対しての取り組み状況はまちまちです。まさに、地域の共助力が今、試されています。地域での人と人との結びつき、つながり、役員だからということだけでなく、出来ることを、出来ることから、出来る人がする。それをし易いように自治組織が環境を整える。そうしたことが、今、すべての地域で求められていると思います。


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東日本震災日記 (その2)

東日本大震災日記 (その2)

3月11日(1日目)

震度7の激震、被災生活の始まりと叔父夫婦の安否確認へ

 この日、私はほぼこの金曜日午後に日課としている健康増進のためのトレーニングをしていました。場所は、東北新幹線のくりこま高原駅に隣接した「エポカ21」というフィットネス施設です。トレーニングルームで一汗かき、脱衣場で汗まみれのウエアーを脱いだところで非常に大きな横揺れに襲われました。バランスを崩しながら急いでウエアー身につけました。浴室の湯船のお湯は波立ち、素っ裸の男たちが飛び出してきました。狭い脱衣場は危険で急いで広い廊下に脱出しましたが揺れが激しくて立っていられません。そこの手すりにしがみつきました。周りの客にも私は、「早く手すりにつかまって!」と叫びました。流水プールの方を見るとプールの水が大きくうねり、周りの器材が空中に飛び散りました。手すりにしがみついていたのが何分だったか、(非常に長く感じましたが、)少し揺れが収まると、更衣室へ急ぎました。いくつもロッカーが倒れていましたが、幸い私が使用していたものは大丈夫で、急いで汗で濡れたウエアーの上に服を着ました。受付の靴箱の鍵は飛び散っていましたがスペアキーで開けてもらい、急いで屋外に出ました。

 駐車場の車は、みんな良くサイドブレーキかけられていたためか異常なし。落ち着いて乗車し、運転。道路にはまだ車は少なく、ゆっくりと徐行運転し、家路に。しかし良く辺りを確認すると、恐ろしいことに信号機、標識などが大きく揺れているではありませんか。路面を見ると橋梁の前後は10センチ以上の段差が生じていました。地震が起きたのが午後2時46分。3時過ぎにはエポカを出て、いつもは10分足らずで家に着きますが、この日は3時半ごろか。

 家に近づくと、驚いたことに我が家の外塀が、無残にもほとんど倒壊状態になっていました。この外塀は3年前の宮城・岩手内陸地震で亀裂が入るなど、既にかなりのダメージを受けていたのですが辛うじて保っていたものです。妻は、私より少し近いところに出かけていたので一足先に家についていました。家に入ると先ず、我が家と繋がっている義父母が住む母屋へ、義父母の無事を確認。妻の開口一番は、「携帯を持っていかなかったネ…」そう、お互いに携帯を持ち歩く習慣がなく、また二人で反省。

 それから家の中の点検を。母屋は6年前に新築。2階建てから平屋にし、物を高く積まない、食器棚はストッパー付きに、火を使わないIH式の台所(オール電化)。結果は、今回も被害は極小(3年前も)。壁掛けの時計が落ちてそのガラスが割れた位。(そういえば、3年前にも時計が落ちた。)我が家は、2年前にリフォームし、母屋と同じ様式にしました。1階は壁掛けの絵画がいくつも落下した位。しかし、2階は、それなりの対策はしたものの3年前ほどではありませんが、今回も書棚は倒れ、クロゼットもメチャクチャに。隣の2階建ての物置では、1階の味噌部屋(食器庫)では、前に我が家で使っていた観音扉の食器棚からは食器が飛び出し破損など大被害。2階の文庫も今回も絵本等が散乱(棚は作り付け)し、足の踏み場もないほどに。

 そんな被害の確認をしてから、ようやく必要なものの確認・確保へ。もう午後4時を大きく回り、暗くなるまで2時間を切っていました。そう、後で分かったことなのですが、この今回の東日本大震災は、マグニチュード9と最大規模、しかも、私が住むここ栗原市築館が震度7と最激震地でした。即座に、停電、断水、通信遮断。それが、当初は、3年前ほどかとしか考えず、そのうち直ぐ回復すると思っていました。その後に来た巨大津波、福島の原発事故と最悪の事態の連続になるとは、この時点では全く予想できませんでした。そして、それが、今現在どころが、この先どれほどまで期間と規模で影響が出てくるか、未だにかいもく見当がつかないほどの恐ろしい非常事態です。

 早速、水道水を貯め始めましたが、大きな鍋2つに入れた位でストップ。但し、日常的に2箇所で確保している純水がたまたま2ケ満杯で計10リットル、それに少し消費期限の切れた2リットルの備蓄水が6本(これは加熱後使用)、それに風呂水(これはトイレ用)懐中電灯4つ、乾電池も多数集め、庭のソーラーライト3つ、カセットコンロ2つにボンベのストックは2つ(これが備蓄不足!!)、それに一応ローソクも。練炭は1ケ、それにバーベキュー用の木炭も。それに電池式の小型ラジオが2ケ。食糧は、精米後の米はたっぷり(但し、炊飯器が使えない)、ハウスには青物もたっぷり、缶詰はある程度は備蓄、カップ麺等も少々、しかし、日常的に我が家も母屋も冷蔵庫の中はいっぱいにはしない主義。ただし、私がよく料理をすることもあって、調味料類は結構たくさん揃っていました。このようにまず手持ちのものをしっかり確認することから始めました。

 とはいうものの、ここでこの後一番重要となってくる燃料の確保が私の普段のチェックリストから落ちていました。燃料はカセットボンベも不足ですし、何よりもガソリンが抜け落ちていました。この時点で妻、私ともに残量が僅か、たまたま義父の乗用車のガソリンが半分ほどはあったため何とか暫くは耐えられるか?という状態でした。私の場合、このところのガソリン高の中で、週末が少し安くなる翌日の土曜日に入れる予定でした。農村地帯では公共交通に頼れず、各家での車の複数所有は当たり前です。(我が家はこの乗用車3台の他に軽トラックがさらに2台あります。しかし、ガソリンは僅かしか入っていませんでした。)しかし、灯油の方はたっぷりありました。ところがストーブは全て電気の要るもので、旧式の石油ストーブは既に処分していました。オール電化は安全なのですが、こうした時、弱点になります。3年前は我が家の方がまだリフォーム前で、プロパンガスでした。確か、衝撃で一度は止まりましたが、後で回復できたと記憶しています。トイレもこの辺りはまだ汲み取り式が多く、(農村でも市街地は広域下水に)我が家は母屋新築時に合併浄化槽にしました。まあこれは普通の下水でないため、面倒ですが風呂水で対処できました。

 そうこうしている内に辺りは暗くなり始め、いつもより早めに夕食をとりました。居間の掘りコタツの上にソーラーライトをはじめ必需品を置き、その周りに布団を敷き、枕元にはスニカーを置いて、防寒服を着て寝ることにしました。度々、大きい余震が続いていました。

 ところが、我が家以外のことで一つ大きな心配事がありました。それは、同じ市内なのですが10キロほど離れたところに住む義母の実家のことです。ここには義母の弟夫婦が住んでいるのですが、叔父は2年ほど前に怪我をし、身障者に、叔母はうつ病がひどく寝たり起きたりの状態。それで、この二人の安否が心配になりました。(介護サービスは受けているのですが…)一番関係の深い義母自身はもうアルツハイマーの10年超選手?(しかも足腰も悪いけど、その割りには、元気すぎる!)であって、従って、義父や妻がこのところサポートに入っていました。そこで、義父がまず、そこへ、一晩、今夜泊まりに出かけるということになりました。(義父自身が一番の高齢で85歳。しかし、心身ともまだ元気で、米と野菜作りの中心です。)何か人質になりに行くみたいな感じですが、明日、私たち夫婦で救出?(実際には、差し入れと地震被害の片付けに)に行くことにしました。

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東日本大震災日記 (その1) はじめに

東日本大震災日記 (その1)

―はじめにー

 3月11日午後2時46分から始まった今回の東日本大震災は、私が住むここ栗原市築館が震度7と最激震地でした。ここで甚大な被害を出した3年前の前回の宮城・岩手内陸地震が確か震度6台でしたからそれを遥かに上回るものでした。しかし、前回はドン!!と大きなタテ揺れから始まったのに比べ今回は、非常に大きな横揺れがかなりの長時間(十数分か)続きしかもその後も大中小の余震がいまだに続いています。(さすがに現在は、大きな余震は少なくなってきました。)幸いにしてここでは人的な被害は少なく、うちの家族(私、妻、義父母)も無事。近くの親戚、知人・友人も皆無事。巨大津波に襲われた海岸部に比較的近い、仙台の義妹家族、多賀城の叔父家族も皆無事が確認されています。物的な被害は我が家の外塀が無残に崩れるなどありますが、大したことはありません。

 電気が使えるようになったのがようやく3日前、電話とインターネットが昨晩ですから、外との連絡もままなりませんでした。今日3月18日は、11日の東日本大震災から丁度一週間が経ちました。久しぶりにPCを開くとメールが溜まっており、そのチェックをしている時、午後2時46分には、たまたまTVをつけており黙祷が行われましたので妻とともに私も行いました。その後、ようやく返信をしました。そして、水道がようやくこの記事を書き始めたころ18日夜より出始めました。

 またメールを返信した反応で、「民主教育をすすめる宮城の会」事務局長の賀屋義郎氏より知人の訃報が届きました。昨年「ゆきとどいた教育進める栗原市民の会」の勉強会で、小中一貫校問題で話題提供してくれた宮教組迫支部の前書記長だった猪又聡氏(現戸倉中学校教諭)が「今回の地震と津波で亡くなりました。生徒を避難誘導している最中だったということです。」という内容でした。彼とは、昨年11月7日の「子どもの未来をひらくみやぎ教育のつどい」の分科会(彼は司会者でした)などでもよく会っていました。大変有能な方で非常に残念です。時間が経つにつれ、これから何人かの知人などの訃報が届くような気がしてきました。

 沿岸部が今、非常に困難な状況の中、それに反して、私自身の身の回りはライフラインの回復とともに明るさが出てきた中での訃報でした。自分ができることは限られています。でも、この一週間の間にも人と人との結びつきの大切さを感じました。

 ガソリンがもう底をつき、入手困難であってここ3~4日は家に篭らざるをえません。外塀の片付けもまだ大量に残っています。明日から暫くは少し暖かくなり天気がよさそうです。そこで、外作業の合間に、この一週間を振り返り「東日本大震災日記」をまとめようと思っています。その中からこの先、自分に何ができるか、一人でできなくとも仲間と助け合えば何ができるか考えることができればと思っています。

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