触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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東日本大震災日記 (その22)

東日本大震災日記 (その22)

4月11日(月)1ヶ月目  

大震災から1ヶ月、新しい旅立ちへ。 

この日記を、一旦終わるにあたって。

―東日本大震災が起きた3月11日、その日から1週間が経った3月18日より、私のこの「東日本震災日記」は、始まりました。当初は、日記の日付より、1週間遅れてと、ずっとしばらくの間、少しズレたままでしたが、最後の方で追いつきました。この日記を付けた当初の目的、「自分になにが出来るか」「一人で出来なくとも仲間と助け合って何ができるか」課題を見つけることでした。

 こうして1ヶ月が経過し、この日記を終わるに当たって、こうした課題の答えが見つかったか、というと、まだ道半ばです。答えを出して行く材料は、いろいろ豊富に集まりました。昨日の「縁と絆」に引き続き、現時点での私の問題意識を整理してこの日記を締めたい(閉めたい)と考えます。その前に、もう少し。

 この日記を公開して、いろいろな反応がありました。遠く離れた子どもたち、親戚、千葉時代の仲間たちや、長い間、便りが無かった学生時代の友人から、果ては、見も知らぬ方よりの問い合わせもありました。明日以降は、これら一つ一つに丁寧に応えていこうと思っています。

「活性化ネット・三塚氏亡くなる」という突然の訃報が入る。

―午後2時46分、TVを見ながら、黙祷をささげ、少しだけ「ふるさと」を口ずさみました。その直後、突然、訃報が舞い込みました。NPO法人「くりはら活性化ネット」の事務局長の三塚敬之助氏がお亡くなりになったというTELが、理事であり、私と同じ企画運営委員をしているOさんから入りました。全ての「くりはら活性化ネット」の活動の屋台骨になっていた方です。非常に残念です。早速、理事長に知らせ、理事会を開催してもらい、善後策を取り始めなければなりません。「くりはら活性化ネット」は、3年前の宮城・岩手内陸地震の際とその後にわたって、継続的な被災者支援活動をしてきた団体です。今回もと考えていた矢先のことです。「一人で出来なくとも仲間と助け合って何ができるか」という、私の課題には、ここでのことも、想定していました。

現時点での私の問題意識

―私は、つい最近まで、これから先、国民の間に意識の差、ズレがこれから生じてくるのではないかと心配していました。しかし、先日、最大規模余震が起きたこと(それが引き続き続く可能性が高い)と、一向に見通しがつかない原発による放射能汚染の進行が、思っていた以上に深刻な問題である、と広く認識されてくるに従って意識の差―ズレは、少なくてすむかも知れない、と考えるようになりました。

その当初考えていた、国民の意識の差とは、―大津波の岩手・宮城沿岸部、原発被害の福島沿岸部、それと被災県でも少し内陸に入れば軽傷、まして首都圏(液状化の浦安など除いて)の緊張は緩んでいって、仕方ないこと。ではないか、ということです。さらに、被災地の方々の意識の差も出てきます。まだ、被災地や各地の避難所にいる方々の中には、気持ちが葛藤中の方々も多く、沿岸部の人たちの気持ちには、もう同じ所には、住めないという方が多い一方で、逆に、もう一度、どうしても、戻りたいという方とに分かれてくると思います。家、船,田畑、アルバムなど失ったものを少しでも取り戻したい。なじんだ地域、生業から離れがたい。でも、厳しい現実がある。一時避難をするのか、留まるのか。一時的にも、生活の場を他に見つけなければ…子どもの教育はどうするのか。仮設住宅までの一時避難か、仮設住宅から、その後地域での復興をどうするか。それとも、新天地を求めて出て行くのか。このように、様々に気持ちが、揺れて、分かれていると思います。後者の方の意識の差は、今は、仕方ないのです。もう少し時間がいるのです。落ち着いて、じっくりと考えればいいのではないでしょうか。

こうしたことの、その一方で、様々な復興ビジョンが、被災当事者を脇において、被災地地域以外から語られ始めています。復興ビジョンを早く示すことは、とても大事で、必要なことです。しかし、性急で強引な、とりわけ当事者抜きのビジョンづくりはやめていただきたいと思います。

反省し、今後の予測を。

―まずしなければならないのは、反省からです。原発問題と巨大地震ととりわけ大津波問題、その初期対応あるいは、それまでの想定-防災計画のどこに失敗の本質があったのか、その後に問題が露になったこの国の危機管理体制も、徹底検証をする必要があります。

次に今後、(同時進行になるかもしれませんが)予測として、明らかにしなければならないのは、

① 考えうる最悪の展開をした場合に放射能汚染はどこまで進むのか。

② その封じ込めにはどれだけの歳月を要するか。

③ その間国民生活は放射能汚染とどう共生するのか。

④ 農産・海産物の被害補償はどうなるのか。米が不足する事態が起こるのか、減反は?

⑤ 故郷を失う地域住民の新しいコミュニティー作りはどうするのか。

将来社会ビジョンの合意を。

―そして、最後がビジョンです。この間にも、ライフラインの復旧を急ぎ、地域復興も急がねばならないことは確かですが、それから先、「どんな社会を築いていくか、確かな合意」を、国民の間に、意識に、創っていかなければなりません。

戦後の経済技術大国がたどった原発依存の「オール電化社会」は砂上の楼閣だったことは明白です。それからの反省から出発し、原子力をどう取り扱っていくのか、エネルギー問題をどうするか、が問われます。そして、私たちの現代の生活を、その質をどうするのか、を論議し、合意していかなければなりません。日本だけでない、世界の文明が問われているような性格の日本史、世界史の大きな転換点、に来ているのです。この大きな転換点で、私たちの明日からの生活も、それに合わせて行くことになると思います。それは、おそらく、職住接近、ワークバランス、子どもたちと過ごす時間も、仕事をより良く社会貢献も、グローバルスキル(どこでも通用するキャリア)を、女性の各方面での積極的活用・登用・抜擢とクウォータ制、若者の積極的採用と権限委譲へ、などではないかと思います。教育も大きく変わっていかざるを得なくなるでしょう。ーパーツではない自己完結型人材とか、逆に調整型・協調型人材とか、「想定外」に対処できる人材を、グローバルに活躍できる人材を、と。勿論、今回のような過ちを二度と起こさない、基礎的科学・技術の重視も人材的に怠らないようにしなければなりません。

ただし、この「どんな社会を築いていくか、確かな合意」と「東北沿岸部の地域復興(ビジョン)」は、関連はしますが、少し分けて考える必要があります。前者は、国民全体で、後者はやはり、被災地域・被災者を中心にして進めなければなりません。これらは時間もかかるとこですので、それを進めていく月単位、年単位での時間軸の設定をして欲しいと思います。

若者を登用―ロートルは支援へ、世代交代をこの機会に。

―「若者の積極的採用と権限委譲へ」と述べましたが、基本は、全員参加の総力戦、とは思います。しかし、形ばかりの総力体制では、過去の失敗を問えません。同じ陣営で漠然と復興をめざして良いはずがありません。この際、思い切って、若い連中にバトンを渡してしまった方が、良いのです。

若者を積極的に採用・登用することが復興の活力になります。今回の震災で、現場の中間層や、優れた技能の多くが失われていると思われます。ロートルの世代は、若い人たちを支援し、技能、人格、責任感を育てることで、失われた技能を再び育てる役目があります。そして、彼らにより多くの権限を与え、様々な決定に参加させ、遅くないうちに主導権を渡してしまうのです。それこそが、復興に向けた大きな力になるはずです。

 私は、かつて(2008年12月10日の記事)「団塊の世代とロスジェネ世代」論を少し展開しました。そこでは、詳しく紹介しませんでしたが、当時、一部に「戦争待望論」というのがあったのを覚えています。それは、「戦争という『外圧』によって既得権者が一掃され、硬直化した社会構造が解体される事を願うしか無い」という極端な主張でした。私は、当時も,彼らは「解体を願う」というより、自分たちの「出番を得る」「自分たちこそ、日本社会の主人公になる」ということを考えている、と解釈していました。しかし、その当時、私は、そもそも現代の日本において、そんな事態になどなるはずが無いと考えていました。

しかし、現在の日本、この状況は、その戦争状態に近いものがあります。そう、今こそ、彼らの出番なのです。今が、ロスジェネ世代への世代交代をすすめる良い機会であり、それによって、日本の新しい旅立ちができるのです。

この世代交代を宣言することを、この日記の締めくくりとします。

                                       -完―

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東日本大震災日記 (その21)

東日本大震災日記 (その21)

4月10日(日)31日目  

種まきを無事に終わりました。

「縁と絆」を考える。

―「縁」=つながり、めぐりあわせ、人と人とのつづきあい、血縁、良縁、

 「絆」=断ち切ることができない人間どうしのつながり、

 この1ヶ月ほどの間、私自身が、被災生活をし、また、新聞記事をはじめ、周りの状況が分かってくる中で、ずっと考えてきた、感じてきたことが、「縁と絆」ということです。つまり、その大切さを、幾度ともなく、感じ、考えてきた1ケ月だったと思います。

朝日新聞の投書「ひととき」より、

―朝日新聞の生活欄に「ひととき」という投書コーナーがあります。その4月5日には、「強い意思と覚悟で」という宮城県岩沼市の68歳主婦の方のものが。被災して20日あまり、非常時に、人は自分自身と家族を守るここに必死で、他には向かず、一人暮らしで孤立した彼女には、誰からも声を掛けてもらえなかった、ということだったそうです。そして、「今回、『一人で生きるとは』を考え、自分の身は自分で守るしかなく、強い意志と覚悟がいると確信しました。」と述べています。

  同じコーナーの次の日には、「人の絆に力湧く」という横須賀市の31歳の主婦の方のものが。彼女の父と兄が福島原発の被災地で屋内退避指示に。周りが避難する中、当初、自宅にいて、数日後に避難。その間、彼女は、連絡も、行くことも出来なかったそうです。そうした中で、地元にいる友人が何度も、様子を知らせる連絡をくれたそうです。その後、無事に批難したことを友人に報告したところ、そのお母さんが「安心して泣いている」という。それは、他界した彼女のお母さんから、生前に父・兄のことを頼まれていたということ。つい最近の父の入院時にも尽力してくれていたとういことでもあったそうです。被災地での困難は、「このような人々の絆があれば、乗り越えていけるのではないかと力が湧いてくろのです。」と述べています。

  この2つの投書を読んで、この被災時に、そうした両方がたくさんあるのだなあ、と思いました。前者は、周りから、孤立化し、孤族化して、肩肘を張って生きて行こうとしています。後者は、絆をよりどころに、それを頼って、生かして行こうとしています。前者の主婦の方も、もっと周りに自分から働きかけを、絆を求めていって欲しいし、周りからも手を差し伸べて欲しいと思いました。

竹下景子さんのコメントから

―さらに次の日(4月7日)には、竹下景子さんの「〈生きていくあなたへ〉『キズナ』も共通語」というコメントが載っていました。彼女は、阪神大震災の被災者の詩を朗読する活動を12年間続けていて、現地で「被災した方と交流する中で、心の復興には長い時間がかかるのだと気づかされました。」といいます。「みんなが手を携えることで新たな絆が生まれました。地域の人同士だけでなく、見ず知らずの人、被災地外の人、いろんな人と人とのつながりが大きな力となり、愛するふるさとでの生活を再建することにつながった。」「皆さんを傷つけた『ツナミ』もそうだけれど、『キズナ』も世界共通語として知られているのです。」と述べています。

  阪神大震災の経験そのものを、そのまま、今回当てはめるのはどうかとも思いますが、学ぶべきことはたくさんあるはずです。今回は、阪神大震災の時以上のことが、これから求められていくわけですから、もう一度よくそれを復習することが必要です。竹下さんのように息の長い支援、「キズナ」づくりも必要です。

今日の作業―種まきをして、家風を考える。

―今日は朝から、苗床づくりー種まき、をしました。電気が回復し、天気も良く、風も弱く、とても良い環境ですることができました。その手伝いに同じ市内の別の地区に住む、義父の兄弟夫婦(2組)の4人がやってきました。もう1組(2人)ともよく共同作業をします。うちを含めてこの4組は、比較的大きな農家ばかりです。常に、お互いに助け合ったり、融通しあったりしています。そこに、私は、強い「縁と絆」を感じています。4組だけでなく、その家族、兄弟、親戚の冠婚葬祭から始まって、何から何までです。都会生まれで、都会育ちの私には、当初、ここへ来て「こんな、面倒くさいものを!」と思っていましたが、今ではその意味が、ようやく分かってきています。

 どうも、ここ佐藤家では、歴史的に、代々にわたって、この「縁と絆」を大切にする、家風?があるように思われます。周りの面倒をよくみてきたということがあるようです。親戚から、遠い親戚も、縁者までもです。ここは、古くからの大きな農家(江戸時代からの自作農)で、多くの米を作ってきた、そのため人手がいった。妻が幼かった頃には、さすがに「日どり」((4月5日朝日新聞で賢治の「雨ニモマケズ」中の「ヒドリ」です。)つまり、手間取りという1年間住み込みで、米2俵があてがわれる使用人は、いなくなっていた。ということですが、少し前には2人いたそうです。日どりがいなくても、当時、ここに14人という大勢が住んでいたといいます。遠い親戚の子がここから高校に通っていたとか、お米をもらいに遠くから縁者が来たとか、その数がとても多いようです。親戚・縁者に対して、その面倒見が良いのは、義父だけでなく、もう15年前に亡くなった祖母を見ていても分かります。一面では、「外面がいい、」とか、「周りに散在している、」とか身内からは、そのような批判をいわれています。義父、亡くなった祖母を見ていると、それによって「情けは人のためならず」のように、効用を期待していないのです。では、名誉か?というと、これは、全くは否定できませんが、それよりどちらかというと、自己満足。でも、とてもいい自己満足なのではないかと思っています。つまり、「自分の中で、納得がいけば,それでいい」という世界のようです。

  今、妻は、義父相手に家系図+(家の歴史)の作成にとりかかり始めています。いろいろな面白い事実が分かってきています。その内容自体が、「縁と絆」の世界ですから、どんどん広がっていってしまいます。私は、それを側面からサポートするくらいしかできませんが、協力します。それを、必ず次の世代へと伝えるのが、私たちの役割だと思っています。

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東日本大震災日記 (その20)

東日本大震災日記 (その20)

4月9日(土)30日目
 

 明日は、種まき。その準備に忙しく、 

余震騒ぎで、疲れが出て、

―私は、今日は朝から調子がよくありません。頭痛がします。しかも、少し風邪気味。一度起きましたが、薬を飲んで、再度少し寝ました。食欲もあまりなく、それでも軽くは食べました。薬が効いてきたのか、少しは持ち直してきました。再度の被災に遭っても、動き良く、それを上手く当面は、乗り切ったのですが、やはり疲れが出てきたようです。今日は、少しスローテンポで過ごすことにします。

 昨日の夜の内に、どうも、IP電話は通じるようになっていたようです。それで、今日の朝からはインターネットの接続ができるようになりました。そこで、まず、昨日のうちに書き上げておいたブログの記事をアップしました。それから、メールのチェックです。その後、のんびりしていたら妻から買出しを頼まれました。

買出しを頼まれてスーパーへ。

―電気が来ていなかったら延期するはずでしたが、何とか通電しましたから、明日は予定通り種まきをします。その手伝いに同じ市内の別の地区に住む、義父の兄弟夫婦の4人がやってきます。比較的大きな農家ばかりです。この間の、積もる話が、いっぱい出るだろうと思っています。妻はその食事などを用意することになっています。当初は、香川の孫の入学時手助けに行っている予定でしたが、この地震でキャンセルしました。(行っていれば、仕出し弁当にするつもりでした。)

 栗原市立中央病院近くのスーパーは、通常9時開店。昨日のうちに電気はきているはずなので、多分、開いているだろうと思い、10時スタートと少し遅れましたが、行ってみると、結構混んでいました。大規模余震直後で、私と同じように、ここなら開いていると、皆さん確信して、市内各地から、来ているのです。確かに、その周りの100円ショップとホームセンター、薬局は、まだ開いていません。棚の整理等で手間取っているようです。買い物の行列を見ていると、どうも少し余計に買い込んでいる様子も伺えました。1時間ほどで、結構商品は無くなってきていました。

本当は、今日、私は、図書館読み聞かせの当番で、その準備もできていました。しかし、やはりこの大規模余震で、再度、図書館にも被害が出て(内部のガラス破損など)4月11日まで閉館になりました。午後は、出かけないで済んだと思ったら、義父に「軽トラックのタイヤは?」と聞かれ、そういえば明日の種まきにその軽トラックも使うことを思い出しました。その運搬用の1台の軽トラックのタイヤ2本が修理に出してあるので、それを取りにと、その軽トラック用のガソリンの確保にまた午前と同じ方面に出かけることになりました。そこで、妻から「つでに、果物を買ってきて、」と注文が…。本来、妻が午後出かけたついでに、買ってくるといっていたのに…午後の予定(詩吟のレッスン)がこの余震で中止になったため、出かけない(妻は出無精です。)ということでした。

午後、その日、2度目のスーパーに行くと(午後3時過ぎ)、前にも増して混雑していました。商品は追加で出された物もあるようですが、棚が空っぽという所が多数ありました。その時間には、100円ショップとホームセンター、薬局も全て開いていました。ただし、店内に入るとまだ整理ができず、所々にロープで囲いがされていました。しかし、私が欲しいと思っていた、懐中電灯、単一電池、などはどの店も品切れでした。それが我が家で必要だというのではなく、叔父宅に必要だからです。ことらからソーラーランタンは昨日再び、持って行きましたが、叔父宅の懐中電灯が壊れていました。それで、その帰りにも探したのですがどこにも売っていませんでした。後で、ネットで調べたら、どうも首都圏までもがこの種のものが品薄のようです。計画停電のこと、あるいは、地震がそちらで起きたら、放射能が…ということなのかよく分かりません。こちらの余震に関しては、私だけでなく、多くの住民が、「もう危機が過ぎ去った」とは、思っていないのでしょう。何しろ,本震の規模が規模ですから、その後も何があるか分かりません。つまり、用心するに越したことはないということです。

JAスタンドを利用することにしました。

―帰りがけにガソリンの確保です。この地区では、午前中からいずれも大型のJAのスタンドとスーパー近くのセルフスタンドが開いていました。以前、私は、セルフスタンドを使っていましたが、今回から、JAスタンドに切り替えることにしました。それは、この災害時にスタンドが果たした役割が両者では全く違っていたからです。JAスタンドにもセルフもありますが半部は、店員によるサービスです。私が見るに、セルフスタンドは、ただ油が売れればいいというだけ、なのに対してJAの方は、地域における防災拠点になっていけると判断しました。プリペードカードを利用すれば、価格的にも両者の違いは無くなります。それで,早速それを買いました。

水道も、今日、夕食後の7時近くに出ました。電気も叔父宅では、こちらが昨日(4月8日)夜7時に復旧したのに対して、「今日の午後だった。」と東京に車で「無事に着きました。」という4人組みから連絡の時、知りました。叔父宅は,どうした訳か断水にはなりませんでした。しかし、栗原市内でも、まだまだ断水の所は多く有りそうです。ここ(築館・黒瀬地区)は、前にもいいましたが、築館の中心部の次に復旧して行く、という比較的恵まれた?所なのかも知れません。

しかし、2度の被災の修復、それに沿岸部からの避難被災者の援護、さらにこれからも来るかも知れぬ、余震と、まだまだ、当分の間気が抜けない状態が続きそうです。

それでも、電気が通じているうちー明日、種まきが終わってしまえば、後は、途中で停電になろうとも、5月の田植えはできるのだから、と楽観的に考えるしかありません。

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東日本大震災日記 (その19)

東日本大震災日記 (その19)

4月7日(木)28日目  

真夜中、突然、震度6強の最大規模余震が、

隣市に住む義弟がやってきました。

―この日、午前中に、義父と苗床に使う床土づくりをしました。大きな秤が見つからず、隣の叔父(義父の弟)から借りてきました。多分、また、義母がどこかに隠してしまったのでしょう。85歳の義父は、まだ、元気は元気なのですが、このところ「腰が少し痛い」と言い出しています。私が、カバーできるところはカバーしていますが、いつまでこの米作りができるか、少し暗雲が立ち込めてきています。まあ、やれるとことまで、義父に付き合ってやるつもりです。

隣の登米市に住む義弟がやって来ました。お米を取りに来たのです。彼は、1年前に退職(小学校校長)しています。それでも、いつもは義妹(次女)が来ます。彼女は、ちょくちょく我が家―母屋(実家)にやって来ます。学生時代からのバリバリのスーパーウーマンで、かつ非常に親思いなのです。彼女は、丁度沿岸部での勤務が外れ、今は、登米市内の小学校の校長をしています。その少し前まで、沿岸部勤務が長く続いて、今回の大津波でたくさんの知人を失っています。

この登米の義妹夫婦とは、地震直後、連絡が取れませんでした。しかし、彼女は、突如、地震の2日後夜、真っ暗な中を大型ワゴン車で乗り付けてきました。我が家も母屋も、ライフライン切断の最悪の状況の中、早めに4人とも寝床に就いた途端のことでした。車のライトで家の中をサーチライトのように照らされたのです。「おお、来た!来た!」と一同、ビックリ仰天しました。彼女のことですから、連絡がなくとも、心配していませんでしたが、その登場ぶりには驚かせられました。ガソリンは満タンだった、とのことで、学校関係の用で忙しくしていたようです。しかも、いつものように差し入れも持って来ました。それでも、私は、「足りないものは?」と聞き、こちらも非常に貴重でしたが、カセットボンベ1ケを譲りました。その後は、ガソリンも少なくなり、登米の義妹夫婦とは、TEL連絡だけになっていました。

義弟も、沿岸部勤務も長くしていて、その被害状況を詳しく話してくれました。話を聞いていても,想像を絶することばかりでした。義妹は、今日は同僚の奥さんの葬式に行っているとのことで、それも何とか火葬にすることができた、といっていました。積もる話は、また、少し時間が経ち、義妹が来られるようになってからだと思います。多分、今年も、5月初めの田植えを手伝いには来ると思います。義弟には、帰りにお米だけでなく、青菜をたくさん持っていってもらいました。

今、突然震度6強の最大規模余震が起こりました。(午後11時32分)

―今、来ました。突然のことです。この記事はここで、おしまいです。… … … … …            
 
 ここからは、4月8日午後7時半から書いています。

 ようやくその日のうちに、その日の日記を書き終えるという当たり前のことに、やっと追いついていました。それも、4月11日には、1ヶ月という節目で、一応、この日記の終了をしようとして矢先です。突然、ここで、思わぬアクシデント。何と、震度6強の非常に強い余震が(このようなのまでを、余震というのだろうか?)起こりました。パソコンを使いで、この記事をワードで書いていて、丁度書き終わって、ネットのブログに載せようとしていた時です。

非常に強い地震が、ドン、グラグラ… …。今回はそれほど長くはありませんでしたが、とてつもなく強力でした。停電で、パソコンは瞬時にプッツン、キューン。一瞬、「保存は?」と考えました。すべては後の祭り。まずは、慌てずに電源を切って、懐中電灯の確保。屋外のソーラーライトと小さな電池式灯りを2ケずつ探しました。母屋の義父母の安全確認。(ふたりとも、もう寝ていました。)妻は、あわてて2階の寝室から飛び起きてきました。

真暗な中、私は、懐中電灯の灯りでガラスの破片を集め、少し辺りを動けるように。次に、直ぐ水の確保に。ポリタンク20リットル×2、その他で合計60リットルの確保をしました。私は、風呂は、まだでしたので、少し温くなっていましたが、入りました。その後、風呂水をできるだけ足しました。次に、寝る場所の確保、そして最後に少し飲酒。スニーカー、懐中電灯、小さな電池式灯りを枕元に置いて、12時半ごろには、就寝しました。

4月8日(金)29日目

再度の被災、しかし、初動は素早く。

再び、ライフラインの遮断

―朝方、トイレに起きたのが5時半、今回も屋外へです。まだ眠いので、またフトンの中へ。6時ごろ、妻が何やら、ワサワサ動き出しました。残りのガラス破片の片付け、置物を元に戻したりと忙しくし始めました。6時半には、私も強制的に起こされました。妻は、その後の余震やサイレンの音などで、一睡もできなかったといいます。私は、今回は、お酒も入っていただけでなく、気温が少し上がってきたため暖かくめ眠れ、周りの騒ぎには全く気付きませんでした。

 今回も、停電に続き、断水も起きました。しかし、時間差があることが分かっていましたから、直後に60リットル、朝にもさらに、10リットルの飲料水の確保、お風呂の水の確保(トイレ用)ができました。通信も直ぐに遮断。母屋のTELのみが使えました。再び、ライフラインの遮断が起きてしまったのです。

 3月11日の大震災より、まだ復旧途上、1ヶ月足らずの間に、この最大規模余震です。今度大きな地震が来たら、こうしよう、ああしようと、いろいろと考えて、その準備をしようと思っていた矢先です。資材を揃えようにも、まだ物資があまり出回っていません。この間に、補給できているのは、ガソリンはある程度、カセットボンベ×3ケ、食料品―若干位なものです。我が家の常備職―ヨーグルト(まだ、ほとんど入手できず)リンゴジュース(リンゴ寒天に、これも安価のものが入手困難)も不足。やれやれです。

 今回は、ラジオをつけても、あまり情報が入ってきませんでした。しかし、沿岸部での津波の心配はないとの知らせで、一安心しました。今日も、妻は朝から、寝不足のためか、落ち着きがなく、調子が良くありません。私は、何か、すっかり地震慣れしてしまったようです。良いことかどうか分かりませんが、全く慌てないのです。おそらく、「前回よりはこのライフラインの遮断は、少し短期間だろう」と思っているのだな、と自分自身を分析しています。

今回の我が家の被害など、

―人身被害―ゼロ、(栗原市では、多くのけが人が出ています。)外塀は、また、別の場所で、上部の瓦など崩壊。母屋は、ほぼ無傷、我が家は、額が落下しガラス破損、置物一部破損、納屋の味噌部屋の中―食器破損・散乱、文庫等の本棚の本―大量転倒などです。周りの被害は、まだあまり動いていないのでよく分からないのですが、道路の一部陥没・亀裂、いたるところでブロック塀が転倒・傾斜・破損、屋根瓦の破損など見られ、何か3月11日の本地震より物的な被害が出ているように思われます。本地震で大きなダメージを受けていたのが、さらに今回の最大規模余震で駄目押しをしたようにも思われます。

再び、叔父宅へ向かう。

―叔父の東京在住の兄弟家族が4人、2日前(4月6日)、車でやって来ました。まず、我が家に寄り、そして叔父宅(そこが実家)に行きました。地元には、叔父(長男)義母(長女)のみがいて、あとは、全部東京に行っています。義父と妻がこの間、サポートしてきたのは、痴呆症の義母に代わってのことです。もっとも、妻は、その少女時代に、よくその義母の実家(今の叔父宅)に遊びに行っていたとのこと。そこで、もう、だいぶ前に亡くなった祖母に良く可愛がってもらっていたとのことです。私は、というと、その妻のサポートです。ですから、サポートのサポートといったところです。あくまで一歩引いています。

  この東京4人組みは、すでに皆さん、70歳代のロートルです。この間も、地震直後に実家が心配で、こちらに来ようとしていましたが高速道がストップしていたこと、ガソリン不足のことがあって、ここまで、延ばしていました。

  それが、こちらに来て2日目、被災救援に来たのに、そこで彼らも被災してしまったのです。2日前に我が家に来た時にいろいろ持っていってもらいましたが、それも役立ったようです。3月11日の本地震では、義父が人質としてその日、泊まりましたが、今回は、大勢いたので安心していました。ところが、それがそうでもなかったようでした。

  この日、9時過ぎに私たち夫婦、少し遅れて義父母が叔父宅に向かいました。再度、家の中が破損・散乱しているのを片付けに私たち夫婦が参上!したということです。(お昼食の材料も持って)この最大規模余震は、彼らにとって、とても大変な経験だったようです。東京の彼らには、妻がTELなどでこの間のことを伝えてきました。しかし、こうして実際、叔父宅(実家)にきて、実感、体験してもらえば、より深く叔父宅の問題を(このことについては、いろいろ問題が多岐にわたり、ここで詳細には触れません。)理解してもらえたと思いました。
今回、東京組が、この余震時にいて、その間、地元の自治会、親戚(叔母関係)から声掛けが何件もあったことが分かりました。私たち、駆けつけた時にも、来ていました。本地震時より、その経験からか、かなり地元の対応も改善されてきているようです。これも、一安心です。

追記―電気が来ました。

―今回も、早めの夕食を終え、Ipod を聞きながら、もう寝ようと床に就いた途端、午後7時過ぎ、突然電気が点きました。しかし、まだ、IP電話、インターネットは、ダメなようです。ここまでの記事を、今、午後10時15分、TVを見ながら、書き終えました。しかし、この記事のアップは、多分、明日になると思います。

  それでは、これで、おやすみなさい。

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東日本大震災日記 (その18)

東日本大震災日記 (その18)

4月5日(火)26日目 

 続・歌を、明日への力に、

―今日の朝日新聞に、岩手に生まれ育った詩人・宮沢賢治[1896-1933]の「雨ニモマケズ」が、大震災の惨禍に打ちひしがれている被災者へのメッセージとして、広がっていると紹介されていました。俳優の渡辺謙さんらが、詩を朗読するなどして、「絆」を訴えているとしています。詩もある意味では、「歌」であり、それを文字にして、言葉として、記します。声に出して、歌う。朗読する。それらのことは、必ず、明日への力になると、私は、確信しています。

 この宮沢賢治の「雨ニモマケズ」、昨日、紹介した「ふろさと」と「一人の手」をここに、記します。

「雨ニモマケズ」 作:宮沢賢治

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテヰル

一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジヨウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ陰ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ  行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ  クニモサレズ

サウイフモノニ  ワタシハ  ナリタイ


「ふるさと」作詞/高野辰之 作曲/岡野貞一

兎(うさぎ)追いし かの山  小鮒(こぶな)釣りし かの川

夢は今も めぐりて   忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何(いか)に在(い)ます 父母(ちちはは)  恙(つつが)なしや 友がき

雨に風に つけても   思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして  いつの日にか 帰らん

山は青き 故郷   水は清き 故郷



「一人の手」


訳詞:本田路津子/作曲:ピート・シーガー   訳詞:松山雅彦/高石ともや 
英語詞:アレクシス・コンフォート 

ひとりの小さな手 何もできないけど      一人じゃ見られない 遠くを見られない

それでも みんなの手とあわせれば       でも みんなの力でなら

何かできる 何 か できる           きっとできる その日がくる

ひとりの小さな目  何も見えないけど     一人じゃとどかない 歌ってもとどかない

それでも  みんなの瞳でみつめれば      でも みんなの力でなら

何か見える  何か見える            きっとできる その日がくる

ひとりの小さな声  何も言えないけど     一人じゃ断ち切れない 鎖は断ち切れない

それでも  みんなの声が集まれば       でも みんなの力でなら

何か言える  何か言える            きっとできる その日がくる

ひとりで歩く道  遠くてつらいけど       一人じゃ変えられない 世界を変えられない

それでも  みんなのあしぶみ響かせば     でも みんなの力でなら

楽しくなる  長い道も              きっとできる その日がくる

ひとりの人間は  とても弱いけど       一人じゃ生きられない この世は生きられない

それでも  みんなが集まれば          でも みんなの力でなら

強くなれる  強くなれる             きっとできる その日がくる

<追記>

―今、TVで、震災復興応援歌が、流れ始めています。それは、「見上げてごらん、夜の星を」と「上を向いて、歩こう」です。作曲者, いずみたく. 作詞者, 永 六輔.コンビの名作です。様々な方が歌っています。

4月6日(水)27日目 

 「自粛」ムードは、やはりおかしい。

―最近の過度な自粛ムードは、大変、気になります。大学の卒業式の軒並み中止。文化的な公演、イベントなどが次々に中止になってしまっています。当初の3月の半ばまでは、余震や交通の混乱もあって、止むを得なかったと思います。しかし、それが、どうも、未だに続いて来ているようです。そこには、過度の自粛の空気があるようです。この一切の催しを中止する風潮は、経済を沈滞化させてしまう恐れがあります。私など、こんな時だからこそ「元気をだして、やろうよ!」と思ってしまう方です。そして、この自粛を打ち出しているのは、どうも文部科学省絡みが目立つように思われます。

  この歴史的な災厄に直面する日本社会に今、この「自粛」という「正しさ」への同調圧力が働き始めているのではないか、―と指摘する識者もいます。(4月5日朝日)その記事の中で、―内田樹氏も「『この非常時に、そんなふるまいが許されるか』という恫喝(どうかつ)から『非国民』という名指しまではわずかの距離しかない」と述べている。-と紹介しています。

  今日の読売新聞では、3月11日の震災後、全国で54ものマラソン大会やロードレースが中止となり、2大会が延期となった(4月1日現在)。として「マラソン大会中止の連鎖」を伝えています。震災の影響をほとんど受けていないと思われる西日本の大会も軒並み中止か延期になって、「こんな時に不謹慎ではないか」という、自粛ムードに配慮し、「右にならえ」の判断がなされたのではーと異常な自粛・萎縮ぶりを報じています。

  また、花見をめぐって、石原東京都知事(今は、候補者か?)が自粛を呼び掛け、波紋を広げています。被災地の様子を眺めて「天罰」と暴言を吐いたのに続き、これです。それで、東京都では事実上、「花見自粛令」が実行されるようです。これから、桜前線は北上が始まり、ここ、東北地方へとやって来ます。北上、盛岡、弘前、角館と。

  岩手県の達増拓也知事は、花見について「被災地の復興支援のためにも力強い経済が不可欠。経済が活性化するよう工夫してもらえればいい」と言っており、夜間照明などの演出を抑えたり、「がんばろう、東北!」「いわてに元気を!」などと、被災地支援を打ち出せばよいのです。

  私の周りでも、ようやく、TELでの連絡を取り始めてきています。この点、女性の方が、ネットワークが強いです。妻は、もういい加減、ろう城には、すっかり飽きてしまいました。このところ、友人らとTELで、「遊びに行こうね」と、次々に予定を入れ始め、スケジュールを埋めています。羨ましいかぎりです。私の方は、例年なら、花見の相談も入ってくるのに今年はありません。仕方がないので、今年は、ふたりで、車で花見に、北上しようかと思っています。

  しかし、今日、司書のNさんから、図書館でストリーテリングの今年度初めての勉強会を4月24日に開くという連絡が入ってきました。ここで、3月27日に開催予定で、中止(延期)になった「渋谷つつじさんの『ひとり語り』を楽しむ会」を何時するか、という相談をすることにしました。この他の「くりはら活性化ネット」の「ふれあい芸能まつり」についても、社会福祉施設対象から、ここ栗原に来ている避難被災者対象に変えるなどの工夫を、これから検討したいと思っています。

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東日本大震災日記 (その17)

東日本大震災日記 (その17)

4月3日(日)24日目  

日々、普通の生活が戻ってきて、

ほぼ、日常モードに近づいてきていますが、… 

―ガソリンの入手は、完全に震災と同じとはまだなっていませんが、混乱はほぼ、終息に近づいてきています。しかし、ここ宮城県北部においては、まだ、ガソリンが十分に行き渡っているとはいえません。食料や日常品も、まだ、欠けているものも多く有ります。しかし、それでも、無いなら無いで何とかできるまでには、流通も改善されつつあります。私の健康面、運動では、水泳は当面、ダメ。しかし、体操教室が、少し始まったりして、4月はともかく、5月ごろからは、施設の利用が、もう少し何とかできるようになり、そのうち何とかなっていきそうです。(その頃、田植えですが…)

 ただ、この一週間ほどは、まだ何をするにも動きが遅い、鈍い、と思われます。会合、会議がまだ入ってこないのです。

「ゆきとどいた教育をすすめる栗原市民の会」も、現職の教師の皆さんはともかく、それ以外のメンバーだけでも、そろそろ集まらねばなりません。この前代未聞の非常時にこの会が果たすべき役割を相談しなければなりません、NPO法人「くりはら活性化ネット」もそうです。3年前の宮城・岩手内陸地震では素早い動き、働きをしました。両方とも、この間の事情ですから、今回は、素早く動けなくともしかたがありません。しかし、それぞれに合った独自の役割を果たすため、これは長期戦になりますから、じっくり構えて体制をとって取り掛かるべきです。

久しぶりに図書館利用をして、

―その中でも、図書館関係は、上手くスタートできています。3月31日のブックスタート打ち合わせ会は、上手くいきました。続く図書館での読み聞かせも4月2日から始まっています。私は、4月9日が当番です。この日も、妻とふたりで(震災後は、乗り合わせが当たり前に)多目的外出―妻の友人宅へ青菜届け、JAのATM、買い物、それに図書館への本の返却・利用にと。

 図書館が4月1日より再開したといっても、まだ一部に利用制約がありました。●当分の間、平日の閉館時刻は午後6時に、●DVD、CDなどの館内視聴は休止、●市内図書館・図書室の資料のみの利用、リクエスト・予約の受付は休止、などです。もう1ケ月以上も借りていた4冊の本(通常、5冊2週間のきまり)を返し、新たに5冊借り(1冊は、もうだいぶ前にリクエストしておいたもの)ました。常備している月刊誌1冊を、いつものように予約しようとしたら、用紙がありません。私は、このところ、予約は、ほとんどネットでしていますが、事前チェックをしわすれていました。でも、そもそも、ダメなのです。(利用制限)まだ、多くの本が帰ってきていない。(紛失も?)県内などのネットワークがまだ使えない。などです。リクエスト・予約できないのは、止むを得ないのです。こんなに早く図書館が開き、本の貸出しが再開したのを、良しとしなければなりません。図書館は、まだ、普段の日曜日ほどの賑わいにはなっていませんが、それでもやって来る利用者の皆さん誰が、「開いて、良かった!」とほっとした顔をしていました。

4月4日(月)25日目 

本、歌、なども大きな役割が,


ここは、じっくり本などから吸収。

―この一週間ほどは、まだ何をするにも、動きが遅い、鈍い、という中で、会合、会議がまだ入ってこない状態が続きます。週の途中からでも入ってくれば、良い方かもしれません。まだまだ、外での運動・体操も数少ない状態。妻からの仕事の注文(庭仕事など)は、出てきそうですが、まだまだ本格化しません。(本格化したら、大変です。)そのように考えると、震災から1ケ月の4月11日を,契機に大きく動いて行きそうな感じを持っています。逆に言えば、それまでは安泰。少し時間が有りそうです。このブログも、その震災から1ケ月の4月11日をメドに一応、区切りをつける予定です。

 そこで、この一週間、ここは、じっくり本などを読んで、それからの吸収をしようと思っています。幸い、材料は揃いつつあります。① サンデー毎日4月10日増大号(総力特集―福島原発 大本営発表の罪)と、4月2日注文で、丁度、今日、アマゾンから宅配で送られてきた ② AERA 4.10臨時増刊号 東日本大震災 100人の証言「私たちはどう生きていけばいいのか」などです。参考になったには、 ①からは、a、岩見隆夫のコラムサンデー時評:石原慎太郎と高木敏子の「震災観」http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/と、b、萩原博子の幸せな老後への一歩:「未曾有の大災害」から「復興」するために「1回限り」の条件で「日銀引き受け」を! です。②は、C,簡潔にまとめられ様々な方の提言、d,香山リカの「復興の前に個人の感情を一斉に立ち上げる必要はない」http://diamond.jp/articles/-/11751と e、原発危機の6本の記事が参考になりました。

歌を、明日への力に、

―震災後に、私が、個人会員(但し、「図書館をもっと大きく育てる会(栗原市)」の代表として)になっている図書館友の会全国連絡会の メーリングリストから様々な情報が寄せらhttp://www.h6.dion.ne.jp/~sugiyama/diary.htmlれてきます。その紹介された情報の一つが、3月26日「絵本・児童書を被災地へ、走れトラック大作戦山梨ルート」というもの。「絵本を被災地へ」は、他にも、もう終わりましたが「ユニセフ ちっちゃな図書館」プロジェクトなどいくつも出てきています。

 その後に、今度は、4月2日にはメールの転載・回し、が届きました。 ―「ふるさと」 を(4月11日午後2時46分に)一緒に歌いませんか!この歌を、勝手に震災応援歌としました。http://komazawaharappa.blogspot.com/2011/04/blog-post.html―という内容のものです。私も、個人的には、大いに、賛同します。歌を、みんなで歌うことは、みんなへの励まし、明日への希望、復興への力になっていきます。しかし、ここ栗原市で、その日(4月11日)に、どれほどまで広げられるか不明です。とりあえず、個人的に、します。(ちょっと自己満足的か?)

 もう一つ、この歌を、歌うことで、TVを見ていて思ったことがあります。宮城の沿岸部の被災した小学校で、離れ離れになって行く、1年生の子どもたちを前に、女教師が、子どもたちみんなと歌っていた、「一人の手」も、とてもよい歌だと思いました。この「一人の手」は、本田路津子のものhttp://homepage2.nifty.com/4453/code/hitorinote.htmを歌っていましたが、高橋友也バージョンhttp://bunbun.boo.jp/okera/haho/hitori_te.htmも、味があってとても良く、私は、好きです。何かの機会にこの「一人の手」を、みんなで歌えたら、いいなと思っています。

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東日本大震災日記 (その16)

東日本大震災日記 (その16)

4月1日(金)22日目  

さあ、AMプロジェクト始動

続・避難被災者支援についてー


―昨日の記述だけでは、どうも説明不足の気がして、さらに、続…として述べます。「4月3日に若柳で歓迎会への参加など検討され」、さらに、沿岸被災地避難所へも派遣が検討された内容は、河北新報のM氏の要望から、内陸地震復興の願いを紙芝居にした、Tさんの「白い馬」でした。それについてHさんより知らされた時、私は、強い違和感を感じました。この作品は3年前に起きた宮城・岩手内陸地震を題材にして、その2年を経過した時点で作られたもの。それを、今のこの大災害の直後に、被災者に披露すべきことなのか?ということです。少なくとも1年が経過し、「区切りとなるメモリアルに」ということであれば分かりますが…。

作品論に立ち入ることは、08年1月13日の「絵本「RAPUNZEL」で、その方法をめぐって、私自身、自己批判したように非常に難しいことです。ですから、このことに関しても、私は当初、若干躊躇しました。しかし、そうも言ってはいられません。作品論に入らなくとも、誰に対して(対象者)、どのような時(時期)、どこで(場所)ということにも、きちんと物を言わなければ、と考えました。そのことを、昨日の「ひなたぼっこ」の打ち合わせで話したところ、皆さんの賛同を得ました。Hさんも納得されて、Tさんには、「他の楽しいものを、」と提案するということでした。私も、長年の友人・Hさんが、「何か、早くしなければ…」と、はやる気持ちは良く分かります。「落ち着いて、することは山ほどあるのだから、」「もう、若い人たちが動いている。私たちは、その邪魔にならないように、」と言っています。

私の考える対案
―「荒牧 光子さんを被災地に、プロジェクト」(AMプロジェクト)
 

私は、それで、少しは自分自身で納得したのですが、一方で「何か物足りなさ」を感じてしまいました。今、最も辛い思いをしている被災者の皆さんに対して、Tさんが「白い馬」を、この時点で、演じることは、結果として、双方が「傷つく」ことになってしまはないか、というのが、私の考えです。しかし、それが、取り越し苦労である可能性もあります。さらに、お互いに「傷つく」ことを恐れていては、何も始まらないのです。そして何よりも、私の感じるこの「物足りなさ」とは、Tさんの「白い馬」に対する対案がないからだと気付きました。

 このところTVを見ていると、避難所で、様々な人が活躍し手いるのが映しだされています。腹話術を披露して周りを楽しませているオジさん、東京からギター1本持って駆けつけた若いミュージシャン、タレントでは、物まねなどをするコロッケさんが、私には一番凄い!!と思わせました。私には、彼らほどの力はありません。私にできることは、避難所などで、子どもたちに(あるいは、大人、お年寄りにも)寄り添って本を読んであげることだけです。3月26日の朝日新聞で落合恵子さんが「『積極的その日暮らし』抱きしめる時空」の中で、被災地ですぐできることとして、次のことをあげていました。「いつもより長く、ゆっくりと、お気に入りの絵本を読んであげてください。声にして読む大人もゆっくりできます。その、ゆっくりが、お子さんにも伝わるはずです。」

 しかし、これだけでは少し?なのです。そこで私が考え付いた対案が、「荒牧 光子さんを被災地に、プロジェクト」(略称:AMプロジェクト)というものです。彼女は、千葉時代、娘たちの学童保育の指導員でした。今は遊び塾「はらっぱ」を主宰。レクリエーションの幅は、手遊び・集団遊び・工作・科学遊びなど。人気のある芸は、顔芸?だそうです。このように「遊びのスペシャリスト」です。妻(長年、小学校教師をしていた)と、この間のことを話していて、「いた、いた、最適任者が、強力な助っ人が…」とふたりでガッテン!!しました。千葉からこちらに来て、しばらくしてからです。その当時、我が家の隣で開設していた地域文庫「風の子文庫」に、ご夫婦で、来て公演してもらいました。最近でも、3年前、私たち夫婦が千葉に行った時です。当時の学童保育の親たちとの飲み会に、また、ご夫婦を呼んで交流しました。その時に、彼女は、大人対象の教室(心のケア)や、介護施設など高齢者相手の企画もこなしていることを知りました。赤ちゃん(0歳)から、100歳までを対象にした、それぞれを楽しませる(全部まとめてでも?)ことができる、マルチタレントです。

 そこで、娘に彼女の携帯の番号を教えてもらい、さっそく連絡してみました。すでに、震災後に那須の方へ行って、そこで、避難して来た人たちにパホーマンスをして来たということでした。彼女からも、是非、こちらの被災者支援に協力したいという意向を聞きました。しかし、このことは、まだ、私(と妻)の段階のことです。そこで、まず、私が、① 栗原市の被災避難者の受け入れ状況を把握する。② 私(と妻)だけでなく、このプロジェクトの主体を広げること。③ どんな内容のものを、どのように、いつするか、について検討すること。など課題があります。少し先のことですが、今のところ、これは確実と考えているのは、次のことです。8月17日まで、丁度また那須の方で企画があり、その後の18日から8月末までの10日間程度なら今から空けておけるということでした。一口に「被災者の支援」といっても、様々な条件のもと、様々な状況の中で、などと多様性・個別性があります。さらに、時期についても、その直後、~1ヶ月、~3ヶ月、~6ヶ月、~1年、それ以上、とそれぞれに一番合ったものでなくてはなりません。それに、支援する側の体制の問題もあります。

 ともかく、これから、少しずつ、この「荒牧 光子さんを被災地に、プロジェクト」(略称:AMプロジェクト)実現に向けて、始動しようと思っています。

一関まで行って来ました。

―4月1日、この日久しぶりに、ふたりで、一関まで行って来ました。その前に、市役所の築館支所に寄り、妻と私の健康保険の書き換えを、妻が行い、(私は、その間に、香川の孫の入学祝を贈りに郵便局へ)その後、一関へ。途中、宮城県内は相変わらず、どこもスタンドが、開いていませんでした。しかし、一旦、隣の岩手県一関市に入ると、スタンドが、全て開いているではありませんか。それも並んでいません。セルフで148円も見つけました。(通常150~155円)お店の開き具合もこちらの方が良いようです。まず、行きつけのブックオフへ。私は、新書6冊(地震災害、公共事業、町村合併問題、など、この震災後に必要となってくるもの)を、妻は文庫本数冊などを買いました。

それから久しぶりの外食、そして、毛糸店、メガネ店を回り、最後にサティに。食料品とそこの本屋に用がありました。サティ内のスーパーは、あるものは栗原と余り変わりませんでした。しかし、本屋は、週刊誌が置いてありました。この週、火曜日からあちこちと栗原市内で、週刊誌を探していたのですが皆無でした。(私は、通常、週刊誌は読みませんが…)それが、一関にはあるのです。買ったのは、4月10日号「サンデー毎日」震災特大号です。(翌日、新聞に4月2日発刊予定のAERA特別号の広告がありました。これは、ようやく復活したアマゾンでネット注文しました。)

4月2日(土)23日目 

大震災から、3週間が経過。

朝7時、JAスタンドへ、待ち時間0(ゼロ)に。

―3月28日朝、幸運にも、JA栗っ子のスタンドに、たったの10分並んだだけで50リットルのガソリンを確保。続く3月29日,鳴子の温泉に行った帰り、これもたまたま幸運に、目の前のスタンドが開き、たったの5分で、20リットルの確保。この間よく使ってきた義父の乗用車にもガソリン缶より20リットルの内の半分の10リットル注ぎ、だいたいの車のタンクは満たされました。そこへ、昨日、JAより組合員宛に、各戸―20リットル(3000円分)配給のチケットが配られました。これを義父の車に入れれば、丁度満タンになります。「黒瀬地区は、4月2日の6時と8時を中心に来てください。」という案内でした。そこで、今度は、何も持たずに、私が義父の車で朝の7時くらいに着くように出かけました。JAスタンドに向かう途中で、もう帰ってくる同じ地区の車と、多くすれ違いました。スタンドでは、28日と違って、今度は若い店員は減り、代わって組合役員らしき人たちが、上手に誘導してくれました。今度は、待ち時間が、ついに0(ゼロ)になりました。

このチケット方式は、各地区を分散させ、構成する組合員に、平等に、確実に、迅速に、ガソリンを配給できます。私は、この混乱が始まった時点で、このようにすればと、個人的には思っていました。もう、この大震災から3週間ですから、少し遅かったようにも思いますが、大変うれしいことです。

久しぶりの菅原(特別)体操教室に参加。

―地震直後4日目、3月14日の日記にも書いていますが、この被災生活中、まったくの運動不足になってしまっていました。日常的にしていた栗駒の温水プールでの水泳は、全くできなくなり、フィットネス施設(「エポカ21」)でのストレッチ+筋力トレーニング+約1時間の有酸素運動も同様でした。仕方なく、自宅ですることになり、まず、筋力トレーニングはマシーン無しのものにし、あとストレッチも問題ないのですが、有酸素運動は、やりようがありませんでした。

ところが昨夜、栗駒のY子さん(栗駒プールの主のような方)より突然TELがあり、「明日(4月2日)の午後2時から、栗駒体育館のトレーニング室で、菅原先生(菅原流水健康塾)の特別体操教室をするから、来ない?」とのお誘いがありました。当然、私だけでなく妻も対象です。これには直ぐに「ふたりで行きます。」と返事をしました。

3週間ぶりの栗駒の体育館・温水プールです。丁度一週間前に栗駒に住む妻の友人のMさんよりその被害状況を知らせてきました。しかし、自分たちの目で見るのはこの日が初めてです。プールは、またもやその天井の板が少し落ちていました。しかし、3年前ほどではありません。取り掛かれば1週間くらいで直るはずです。(ただし資材の入手が?)一方、アリーナ(体育館本体)の方は、中がめちゃくちゃになっていました。両方ともまだ修理に取り掛かっておらず、アリーナに関しては、確かに2~3ヶ月は掛かりそうです。

さて、特別体操教室ですが、2時から1時間半ほどストレッチ、マシーンを使っての筋力トレーニング、エアロバイク(自転車漕ぎ)と、みっちりとやりました。参加者は急だったこともあって、5人だけでした。取り合えず、来週もするということで、もう少し広く参加を働きかけることにしました。私は、菅原先生の水泳教室には、年に数回は参加でき、その都度、重要な課題を見つけることができていました。しかし、体操教室は、ほとんどここでは開いていないこともあって、もう数年前から、私は、参加していません。フィットネス施設(「エポカ21」)でも、初心者以上の講習が、行われなくなってからもう何年も経っています。もう完全に自己流になっていました。

私は、5年前より「計るだけダイエット」に近い、タニタの体脂肪体重計を使った「健康管理シート」の記入を毎朝行ってきています。毎年、冬場は少し数値が高く出て、春から低くなる傾向があるのですが、この3月11日の震災です。一週間ほどは、計ることもできませんでした。震災前、2週間後、3週間後と3つを比較すると、体重、体脂肪、内臓脂肪レベルの推移は、2週間ほどまでは、運動不足の割には高くなっていないのです。食糧不足で、結果的に、被災生活ダイエットになってしまったのです。ところが3週間後には、食糧事情は改善されたのに運動不足。そこで、一気に悪化しました。私にとってのイエローゾーンに入ってしまっています。この日も最後に、15分ほどでしたが、エアロバイクを汗が少し滲む出るほどまでしました。翌朝少しは期待して体重計に乗りましたが、結果は見事にダメ。15分ほどでは効果ナシということです。もうそろそろ、本格的に有酸素運動をたっぷりしないとヤバイことになりそうです。

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東日本大震災日記 (その15)

東日本大震災日記 (その15)

3月31日(木)21日目  

そろそろ、活動を再開し始める。

足をつっても、1日で回復。

―朝、フトンの中で右足ふくらはぎをつりました。とっさに、それ以上、ひどくならないように、マッサージなどをしました。しばらく安静にしてから起きました。そして、痛み止めのゲルを塗りました。それからしばらくの間、足を少し引きずるようにしていました。ところが、そのうち、痛みは治まってきて、その日のうちには回復しました。数年前には、1ヶ月。1昨年は、2週間。昨年は1週間から始まって、そのうち2~3日で治るようになっていました。それが、今回、さらにそれを更新。1日で治りました。数年前からの、特に冬、それも、水泳教室の泳法が背泳ぎになった途端に、足をつる回数が増えていきました。それで、塗り薬やマッサージなどの工夫を始め、特に、今シーズンは、風呂上りや朝一番に、徹底的な足のメンテナンスを続けてきました。今回、地震が起き、不便で寒い被災生活が続く中でも、それは決して欠かしませんでした。今朝は、「それでも、またつってしまったか!」と思いましたが、それがほぼ1日で回復。やっぱり効果があったのだな、と思いました。

延期されていたブックスタート打ち合わせ会が、開催。

―ブックスタートとは、「すべての赤ちゃんの周りで楽しく温かいひと時が持たれることが願い、一人ひとりの赤ちゃんに、絵本を開く楽しい体験と一緒に、絵本を手渡す活動です。」この日午後、栗原市立図書館の視聴覚室で、読み聞かせボランティア・ブックスタートの打ち合わせ会が開かれました。これは、当初、3月17日に予定されていたものですが、地震により延期されたものです。それでも、中止・延期から実施へと移された会合としては、かなり迅速な対応がされたと評価できます。それも、3~4ケ月健診時に行われるこの事業は、当初の予定通りに、もう、この4月6・7日から月に3回ほど行われていくからです。

会合は、市内各地域の読み聞かせボランティアのグループ5団体から20人の出席で行われました。このところ団体間の交流が持たれてきていますが、まで私も全員の顔は分かりません。うちの「ひなたぼっこ」からは、4人のみの出席。登録はメンバーの約半数の7人です。もっとも全体の登録メンバーも40人で出席20人ですから同じようなものですが、何しろ地元ですから、少し寂しく思われました。それもやはり、まだ各自、ガソリンの確保がままならないからでしょう。隣の栗駒地区の「おはなしポケット」は、まとまってバスできたと言っていました。

司書のNさんから、事業説明をうけ、事例紹介のDVDを見ました。健診の流れ、ブックスタートバッグの中身、渡し方、注意点など説明され、質疑応答。さらに具体的な担当スケジュールの打ち合わせを行いました。20人のうち、男性は、私と同じ「ひなたぼっこ」のK氏、それに栗駒から、教育市民の会代表でもある鈴木氏の3人です。担当表を見ると、鈴木氏は、奥さんといつもペアになっていました。彼から「今日、S子さんは、」と妻のことを聞かれ、「うちのは、勉強会は、一緒ですが、ボランティアの方はしてないので…」と答えました。でも夫婦で、若いお母さんと赤ちゃんにブックスタートをするのも、「ああ、それもいいなあ」と少し、羨ましく思いました。

図書館で避難被災者支援を話し合う。

―3月25日の日記で「Hさんよりの『沿岸部へのボランティア支援の誘い』に対して」について書きました。この日、ブックスタート打ち合わせ会終了後にそのまま図書館でこの問題について相談をしようとHさんに提案していました。司書のNさんにも前の日に大筋は話しておきました。4人だけの参加でしたが、(昨夜に、この会合には出られない代表のOさんにはTELで私が基本的な了解をいただいていました。)2階ロビーで打ち合わせをしました。私は、この打ち合わせに向けて、資料を作成しました。新聞の記事を集めた「子どもたちに本を <その1><その2>」や「ユニセフのちっちゃな図書館」プロジェクトです。

当初、4月3日に若柳で歓迎会への参加など検討されましたがそれは×。栗駒の「おはなしポケット」は、伝創館への避難被災者への支援を今、申し込んでいる、とのこと。花山の青少年自然の家、金成の延年閣にも受け入れが行われる予定で、特に花山について考えて見る必要がある。その他、河北新報のM氏などの要請にも、(ただガソリンがまだ、…)応えていこうなどと話されました。

 その結果、① 避難被災者への図書館ボランティアとしての支援活動を「ひなたぼっこ」として行う。② 副代表のHさんに、その活動の担当・窓口になってもらい、栗原市(被災地支援プロジェクト本部)や、河北新報のM氏などとの連絡を取ってもらう。③ 被災地へ行くことよりも、栗原市で受け入れた避難被災者・家族に対する支援をメインに ④ 後で、「ひなたぼっこ」の全体が集まった時に、事後承諾を皆さんからもらう。などを決めました。

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東日本大震災日記 (その13)

東日本大震災日記 (その14)

  3月29日(火)19日目

 温泉に行って、疲れを癒しました。 

まずは、親孝行―鳴子の温泉へ。

―昨日、私の車(軽のワゴン車)に、ほぼ1ケ月ぶりにガソリンを満タンに入れられました。そこで、義父母と私たちの4人で、朝から鳴子の温泉に行くことにしました。義父母には、この間、不便で、寒く、つらい生活を強いてきましたので、ガソリンが入手できて、余裕ができれば、まず、最初に、親孝行をしようと決めていました。行き先は、鳴子の温泉、正確には、その少し先の中山平温泉の「しんとろの湯」です。数日前より、ネットで、宮城県内の日帰り温泉の開いている所をチェックしていました。栗原市内では閉鎖中。そこで、少し離れた鳴子方面することにし、調べました。「しんとろの湯」はまだ行ったことがありませんでした。しかし、中山平のうなぎの湯(肌がぬるぬるする温泉)は、何回も試し済みでした。そうしたいい湯で、食べ物などの持込ができ、ゆっくりくつろげそうな所、ということで選びました。

 朝の9時過ぎ、私の軽ワゴン車に、運転手が私、ナビゲーター(船頭)がどうした訳か妻と義父のふたり、義母はただのお客?で出発。現地までの道順を巡って、義父と妻が、「あっちが近道」、「こっちへ行くのが早い」、と船頭ふたりに。耳が少し遠くなっている義父相手に、妻は、狭い車中で、大声で話します。しかし、結局、あちこちで通行止めがあって、その通りには行けない。おまけに妻の友人宅と元の勤務小学校の2ケ所に青菜2箱届けにいくことも加わっていました。そんなふたりを尻目に、義母は、果たして、この車で何処へ連れて行かれるやらと思い、義母「何処へ行くの?」私「温泉に、」義母「ここ、何処?」私「今、○○」…それを何回か繰り返し、義母「こんな、山の中通って…」私「そう、母さんは、近くの向山くらいじゃ、歩いて帰って来てしまうもの」「帰って来られない、遠い山へ姥捨てにこれから行きます。」と皆で大笑い。

 途中で池月の道の駅により、お昼に食べるもの、お菓子などを調達。おにぎり、おこわ、ダンゴ、温泉卵、おから、せんべい、クッキーなどを入手しました。道の駅は、まだ食堂などは開いていませんでした。道路にもまだ車の数は少なく、お店が開いているところもまだ限られていました。温泉につくと、まずひと風呂入りに、その後、休憩室で昼食。妻の元同僚からは、揚げ小魚の煮付けと漬物をいただきましたので、さっそくそれも頂きました。その後は、家族全員、お昼ねタイムに。被災生活が長く続き、疲れがどっと出てきてしまったようでした。温泉によって、それが体の芯まで温まることができました。暖房が利かせていなくても温泉ですから、休憩室もポカポカ暖かかったでした。
 
帰りがけに、更にガソリン追加確保。

―温泉の帰りがけ、丁度、午後3時5分、鳴子の街中にあった出光のスタンドで、2~3台並び始めたのを走行中に発見!!。方向転換し、そのあとに直ぐ並びました。それで、20リットル缶に入れて貰いました。リッター150円でした。この間、たったの10分です。非常にラッキーでした。(これは、うちに帰ったから、半分を義父の乗用車に、残り半分を燃料切れで止まってしまっていた軽トラックに入れました。)昨日といい、今日といい、二日続けて宝くじに当たったような感じでした。

3月30日(水)20日目 

日常の生活に近づいてきています。

車で、自分の用事が済ませられるようになって、

―ようやく家族の車にガソリンがほぼ行き渡りました。それまで、車で出かけるのは、いつも、多目的に、妻とペアで行きました。しかし、ようやく、自分の車で、いつものように、自分の用事が済ませられるようになってきました。この日は、まず、朝から宮城県の栗原地域事務所(築館にある県の合同庁舎内)にパスポートを取りに行きました。3月24日にはできていたのですがこの震災で取りに行くのを延ばしていました。次に栗原市立図書館へ行きました。被害状況を確かめ、軽微であったため、4月1日より開館すると確認してきました。それから明日午後1時からの、ブックスタートの打ち合わせについて、担当のN司書と話しました。その後、図書館ボランティアの方で被災者救援活動について打ち合わせをするので、会場を使わせてと頼んできました。

  その後、久しぶりにくりこま高原駅方面へ行きました。私が、3月11日の地震時にいた、近くのフィットネス施設「エポカ21」を外から中を覗いてみると,流水プールがまだ片付け中でした。それから、イオンスーパーへ行きました。店内の商品がまだ少なく、品揃えもまだまだでした。しかし、お客はだいぶ、増えて来ていました。いつものように、無料の純水も確保しました。また、その近くのウジエにも寄りました。こちらもまだ品揃えが、…。ヨーグルトは、少しありましたが高価で、450グラムで、200円。牛乳、ヨーグルトなどはまだ東北地方では、生産できていないとのこと、東京方面からの輸送だそうです。
 
兄夫婦より見舞金届く。

―東京に住む、兄(長男)夫婦と姪(その娘)より見舞金が届きました。姪はアメリカ在住ですが、彼女とは娘が連絡を取り合っているようで(娘の方にも、いろいろ贈って貰っている。)我が家の様子が伝わっているようです。夜、TELをし、外塀の修理費用の一部に使わせてもらうとお礼を述べました。

 そう言えば、兄夫婦には、もう30数年前の私たちの結婚時にも、お祝いに、沖縄への新婚旅行の往復の航空券と、大型カラーテレビを戴いたのを思い出しました。当時のカラーテレビは、三種の神器の時代で、非常に高価なものでした。結婚当時、妻はすで東京の小学校に勤めていましたが、遅れて大学を出た私は、今で言うフリーター状態でした。「この高価なカラーテレビ、壊れたら買い換えられないなあ」と思ったのを記憶しています。その当時から、兄夫婦にはいろいろお世話になっています。

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