触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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「ブログ論壇の誕生」を読んで 

<BOOKS> ⑯
「ブログ論壇の誕生」を読んで 2008.11.28        

著者/佐々木俊尚 出版社/文芸春秋(文春新書)

この本の目次

はじめに ブログ論壇とは何か
Ⅰ ブログ論壇はマスコミを揺さぶる
 第1章 毎日新聞低俗記事事件
 第2章 あらたにす(朝日・読売・日経の三紙合同ポータルサイト)
 第3章 ウィキペディア
Ⅱ ブログ論壇は政治を動かす
 第4章 チベット問題で激突するウヨとサヨ
 第5章 「小沢の走狗」となったニコニコ動画
 第6章 志位和夫の国会質問
 第7章 安倍の窮地に暗躍した広告ロボット
Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する
 第8章 辛抱を説く団塊への猛反発
 第9章 トリアージ
 第10章 承認という問題
 第11章 ケータイが生み出す新たなネット論壇世界
Ⅳ ブログ論壇はどこに向かうのか
 弟12章 「JJ」モデルブログ
 第13章 光市「1.5人」発言―ブログの言論責任は誰にあるのか
 第14章 青少年ネット規制法
 第15章 「ブログ限界論」を超えて
おわりに
特別付録 佐々木俊尚が選んだ著名人ブロガーリスト

内容の紹介

「はじめに ブログ論壇とは何か」において、著者は、インターネット上のブログを用いた論壇、-ブログ論壇は、「社会的地位の度外視、タブーなき言論、参加自由」な空間だとしています。そのネット空間で繰り広げられている言説をめぐる「事件」等の動向がダイナミックに紹介されています。 そして、その世界がもたらすインパクトを解き明かしており、更にこのブログ論壇は、伝統的なマスメディアによる公共言論空間を補完しつつあり、やがて置き換わる可能性もあるとしています。

「Ⅰ ブログ論壇はマスコミを揺さぶる」では、毎日新聞社の海外向け英語サイト『毎日デイリーニューズ』の「日本女性低俗記事」事件、朝日・読売・日経による三紙合同ポータルサイト「あらたす」の不発、ウィキペディアをめぐる中央官庁職員等による書き換え・訂正事件の分析がされています。これらの事件から、ブログ論壇が、既存のマスコミを大きく揺さぶっていった様子、マスメディアとインターネットの非対称戦争の様子が、出されています。インターネットでは、新聞社も官庁もブロガーも同じ発信者としてしか扱われない、フラット化が働いています。更に、ウィキペディアによって官庁、大企業、マスコミもその中の人間が何を考え、どう外界と関係しようとしているか丸ごと見えてくるー可視カされていく。それが社会システムになる可能性があるとしています。

「Ⅱ ブログ論壇は政治を動かす」において、まず、ブログ論壇でのチベット問題の左右の論争を取り上げています。それを通して見えてきたのは、党派性は、インターネット空間には馴染まないということ。今後、課題ごとの議論が行われるような政治の枠組みー政治システムをインターネット上では実現可能だとしています。次に、動画について。動画は、情念をベースにした新たな圏域、そこへの参加のハードルを思いっきり下げてるといいます。小沢民主党代表の「ニコニコ動画」が荒れまくった様子。共産党の志位委員長の国会質問「ニコニコ動画」が評価された理由。それは、志位氏がロストジェネレーション問題を取り上げてことと、ブログ論壇的追及スタイルだったことを挙げています。こうしたことから「ニコニコ動画」のように情念を軸としたメディアが台頭してきたことによって「何でも可視化」現象は、ますます増大するとしています。そして、このように、すべてが見えてしまうインターネット空間は、政治を動かし、新たな日本型の「世間」的公共圏を誕生させる可能性があるとしています。

「Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する」では、「辛抱を説く団塊への猛反発」と題して、ネットで勃興しているロストジェネレーションの世代とネットにあまり馴染みのない団塊世代との激烈な世代間対立の構造があるとしています。ロストジェネレーションの若者の嘆きと絶望、怒りは、インターネット空間の中で渦巻いているだけで、マスメディアにはそのリアルな言説はほとんど紹介されていない。そのマスメディアが体現しているのは、団塊の世代の(つくった)言論空間(古い世界)。としています。この現在の世代間対立の後、やがてロストジェネレーションの世代の行動がその古い世界を変えていくだろうとしています。

 「Ⅳ ブログ論壇はどこに向かうのか」では、ブログ論壇の抱えている問題として、「①企業のマーケティングや広告にブログが呑み込まれ、ブロガーの主体性や主観が失われつつあること。②匿名性をどう扱うのかという問題がある。」としています。そして最後の「「ブログ限界論」を超えて」では、ロストジェネレーションの世代よりもっと若い世代は、パソコンから携帯電話に移行して「ケータイ世代」になっていること。確かに、ブログ自体の地位は、相対的に低下して、SNS,ケータイへとインターネットの表現メディアが進化し、多様化し、拡大してきています。(ブログ論壇からネット論壇へ)そして、それに伴って、人々の無限の自己表現のノイズがひどくなり、玉石混淆の状態になっているとしています。

 「おわりに」では、ネット論壇のはらんでいる問題として、まず、衆愚化とカスケード化について取り上げています。ネット論壇のきわめてオープンな性質は、自由なタブー無き議論を可能すると同時に、個人への誹謗中傷・荒らし、といった「衆愚化」とインフルエンサー(情報発信能力が高く、影響力がある人)の意見に簡単に影響されるサイバーカスケードと呼ばれる「言論のなだれ現象」が起きやすいという。その次の問題として、ネット論壇がどのようにしてリアルの世界とつながり、政治や社会を変える原動力になっていけるかということがあるとしています。そこには、ネット論壇の集合知をまとめ、まとめ上げた総体としての力をポリティカルパワーへと統合していくため、集約システムの必要性があるといいます。そのシステムは、アメリカにおいて2004年の大統領選での民主党の政治コミュニティ(オンライン選挙事務所)として作用したようなネットの新たなテクノロジーかもしれない。あるいは、2002年の韓国でサッカー・ワールドカップと大統領選でノムヒヨン氏へのネットを活用した応援に見られた起爆剤となる出来事かもしれない。しかし、そのいずれも現状の日本には無いといいます。それでは日本はというと、ネット論壇が公共圏へ昇華するためには、次のことが必要だと。「インターネット論壇がこうしたマイノリティー意識(ロストジェネレーションの世代の「社会の中心を担っていく」という自信がない)を乗り越え『われわれの世論こそがリアルの世論である』という認識に達する日がやってくればーそして衆愚化を防ぐ何らかのアーキテクチャ(テクノロジー)を実現することができればーいずれこのネット論壇の世界は、公共圏へと昇華していくことになるだろう。」という著者の希望が語られています。

私の感想
団塊の世代とロスジェネ世代との世代間対立というが

 著者の年齢は、47歳で、団塊の世代とロスジェネ世代の中間です。私は、この本で槍玉に上がっているまさに団塊の世代の60歳。そして、私たちと世代間対立が激しくなってきているというロスジェネ世代は、二十代後半から三十代前半です。しかし、この世代は、かつて別名として、団塊ジュニアと呼ばれていました。そう、私たちの子どもたちの世代なのです。

 「第9章 トリアージ」で取り上げられている「全体や組織から見た最適」という戦略的発想は日本のマスメディア(団塊の世代が担っている)には無いとしつつも、社会の全体最適化の追求をする「上からの目線」は、あたかも団塊の世代・マスメディアがしているような印象にしています。そして、「いまや三十代後半にさしかかった貧困ロスジェネ世代は、ますます社会から疎外されつつある。そうした疎外者にとって、社会の全体最適化などという概念は、呪詛の対象でしかない。」としています。そして、「第10章 承認という問題」では、このロスジェネ世代は、「他者との適切なリレーション(関係)」「継続してつきあえる相手」を求める欲求が高まっているといいます。そして、自らが他の誰とも代替不可能な存在として認められるという「承認」欲求が高まっているといいます。この「承認」欲求は、「自己確認」欲求とも読めます。

 11月27日付けの朝日新聞の論壇時評で松原隆一郎氏は、「「ロスジェネ」論再考―社会を分断する市場競争」というタイトルで、この本の紹介、この「承認」に言及した後、続けて次のように言っています。「仕事は生計を立てる手段にとどまらず、社会の中で「承認」され、アイデンティティーを確立する手段でもある。それにもかかわらず競争が、社会を分断し、敗者のアイデンティティーは共同体の承認からも排除されている。問題は、市場競争が技術革新や不均衡を誘発する一方で、社会関係まで幾重にも分断されていることなのだ。」と述べています。そして次の項で、「「共感」の社会 再考を」と訴えています。

 著者は、団塊の世代とロスジェネ世代との世代間対立をしていると、表面的にしか描いていません。そこには、松原氏のような視点がすっぽりと抜け落ちてしまっています。さらに付け加えるならば、階層的な視点に加え、階級的な視点も必要です。私たち団塊の世代のその多くは、ロスジェネ世代の親として、決して彼らを「上からの目線」で見てきたわけではありません。彼らは、他者であると同時に身内でもあるのです。彼らが私たちにパラサイトシングルとして寄りかからざるを得なかった(今でも?)こともありました。彼らの就職氷河期とか、貧困化は、私たちのせいなのでしょうか。絶対に違います。「トリアージ」や「承認」で描かれた彼らの心情は、同感はできなくとも、理解する、共感する努力はしてきました。私たちは、彼らを支えてきましたし、今でも、支えようとしています。個人的には、ロスジェネ世代の私の娘と息子の存在は、それ自体が、私にとっては支えにもなっています。そうした意味では、支え、支えられ、支え合うという“絆”はあると確信しています。
 
 自分の子どもだけでなく、特に子育ての時期には、その周りの子どもたちも見てきました。今でも、子どもたちを通して少しはわかります。確かに、団塊の世代の中でいわゆる「勝ち組」や偉い社会的地位に就いた人の中には、様々な害毒を撒き散らしている人がいるかもしれません。しかし、それは、ほんの一部のはずです。それでいいというつもりはありませんが、役割として社会における主導的な立場に就いてきた、歯車としてそうせざるを得なかったという人が多いのではないでしょうか。これは、ネットの世界ではもう、意味を持たないわけですが、定年で仕事を辞めれば、普通のおじさん、おばさんになる訳で、それと同じことになります。

 確かに、世代間のズレというものはあります。この本の中でも、世代によって日常使うメディアが分かれている、という指摘がありました。非ネット世代である高齢者、パソコンが中心の中年、そしてケータイ世代である若者。団塊の世代は、ネット少々、パソコンはそこそこ使う。ロスジェネ世代は、ネット世代で、パソコンとケータイの両方といったところかと思います。各世代が使うメディアが違うことは、少し厄介なことで、ズレを大きくしてしまいます。この点では、これから時間的には、余裕ができてくる団塊の世代の方が、歩み寄らなくてはならないと思います。

団塊の世代は、これから、もっとネット世界に、論壇にもモラルを持って参加すべきでしょう。トリアージの最後のところで、著者は「インターネットでは、誰も第三者になれない。ネットの空間で第三者になれるのは、書かない人たちだけである。本当のモラルとは、みずからが傷つくことも恐れずに他者にきちんと向き合い、倫理を究極に研ぎ澄ませることなのだ。」といっています。また、著者は、チベット問題のところでも他のブログを引用して「倫理は首尾一貫しているべきではないか」としています。私は、そうしたモラルー倫理は、団塊の世代は取ることができると思っています。著者は、「ネット論壇の世界は、公共圏へと昇華していく」には、ロスジェネ世代のこれからの奮闘に期待していることがこの本から読み取れます。しかし、私は、それには、それに加え、団塊の世代がモラルー倫理を持って加わること、参戦する、加勢する(共闘する)ことが不可欠だと思っています。このことの先には、ロスジェネ世代を苦しめている格差社会の克服(なくしていくこと)という課題があります。それは、彼ら自身が主体となりますが、彼らの親である私たち団塊の世代は、それへの助力を惜しむべきではありません。

著者は、団塊の世代とロスジェネ世代との世代間対立という構図を強調して描いていますが、私から見るとこのことは、無益なこと、むしろ有害かもしれないと思っています。もっと、問題の本質に迫る分析・視点や、多くの国民が力を合わせて、問題解決ができるような提言が求められます。
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