触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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「善き人のためのソナタ」

 映画「善き人のためのソナタ」を見て感じたこと

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 映画に続きBSドキュメンタリーも見て

 1月10日、ドイツ映画「善き人のためのソナタ」という作品をTSUTAYAでDVDを借りてきて見ました。MOVIESというカテゴリーの最初にこれをとりあげようと考え中に、たまたま、12日NHKでBSドキュメンタリー「証言でつづる現代史 こうしてベルリンの壁は崩壊した 前編」を見てしまいました。映画とそれにダブってくるドキュメンタリー、次週には後編もある。どうしようかと思案しているうちに時間は経ち結局、19日の後編~首都が揺れた~まで見てからにと先送り…。こうして時間が経つ中で映画の感想以外のいろいろな思いまでも自分の頭の中で渦巻き始めてしまいました。どうにも収拾が付き辛く、やはりここはまた文章にすることによって整理することにします。

 映画の舞台ー1984年~91年の東ドイツ

 この映画「善き人のためのソナタ」の舞台は、ベルリンの壁崩壊の5年前、1984年の東ドイツ(ドイツ民主共和国)。当時、東ドイツ国家のシュタージという国家保安省の監視システムにいる人たち(正規局員9万1千人、17万人の非公式協力者がいた)は、社会全体を監視下に置き、国家の社会主義体制を批判する者、その方針に背く者を探り出し弾圧する「恐怖政治」を通して国家の安泰を図っていました。国家体制の維持と強化のため、隣人や友人、配偶者までも監視し、時には裏切り行為までさせるようになっていました。そのため反体制であると目をつけられたら最後、常に監視と脅迫まがいの牽制にさらされる生活に。市民は常に国家の思惑を伺って、息を潜めて生きていくしかない。その中で、市民の心は極限まで追い詰められ自殺者が急増していた時代です。

 映画の内容ー監視から見守りへ…

  この映画は、反体制的と疑いをかけられた劇作家ドライマンと彼の恋人で女優のクリスタの生活を屋根裏から監視することになったシュタージュの局員、ヴィースラーを主人公として展開する。彼は、監視を続けるうちにこの二人から人間性、心の温かさを教えられる。そして、ある晩、盗聴器から流れてきたのはドライマンが奏でる美しいピアノの調べ。この曲「善き人のためのソナタ」はドライマンが尊敬する高齢の演出家イェルスが彼に贈ったもの。イェルスは反体制分子と見なされ「職業停止」の処分を受けていて自殺してしまいました。その死を知ってドライマンは、涙を流しながらその曲をピアノで弾く…
 イェルカの自殺を契機にドライマンは政府が1977年以降自殺者の公表を止めたことを知ります。東ドイツの自殺者は本当はずっと一位だったのに…それも「自己殺人者」などと呼ばれるようになり、ドライマンはこの実態を暴き出そうと動き出します。その様子を屋根裏から全て把握しているヴィースラー。だが彼は、レポートには全く別のことを書きます。ヴィースラーは、腐敗しきった党上層部よりも、自分たちの信念をしっかり持ち、この国を何とかしようとするドライマンたち芸術家に人間として共感していきました。そして、彼らを見守る決意をし、この社会体制から彼らを守る行動にまで出ます。最後は、ベルリンの壁崩壊、ドイツ再統一の2年後、清々しいラストシーンへと続いていきます。
 この映画のもっと詳しいあらすじ、解説、多くの人の感想は Yahoo映画「善き人のためのソナタ公式ホームページでご覧ください。特に公式ホームページのインタビュー(ドナースマルク監督)を見れば、この映画の核心部分が分かると思います。

 映画についてー私の印象、感想

 ドキュメンタリーとの絡み合いに入って複雑になる前に、映画自体の印象、私がここはと思ったところなど少し、感想を出してみます。
  まず、ヴィースラーの葛藤や孤独感、感情を、ほとんど表情を変えることなく冷たくも温もりのある演技で魅せたウルリッヒ・ミューエについて。彼は、東ドイツ時代から活躍していた俳優で、当時の奥さん(女優でもある)にシュタージの命令のもと監視されていたといいます。この作品出演の少し後に亡くなったと聞きます。自分の人生をなぞるようなこの作品に全く逆の立場、監視されるから監視する役柄を見事に演じました。しかし、映画の最後のラストシーン、ドライマンの書いた「善き人のためのソナタ」という本の見開きにヴィースラーしか分からない言葉 「感謝を込めてHGWXX7に捧ぐ」 を見て「これは私の本だ」と一瞬輝くような微笑みを見せました。ヴィースラーだけでなく、演じているウルリッヒ・ミューエ自身も自分の人生を肯定できた瞬間だったのではないだろうか。
 次に、この素晴らしい映画を製作したフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督について。彼は1973年生まれで西側で育ち、ミュンヘン映像・映画大学の卒業作品としてこの映画を製作したという。(33歳の時)この映画を撮ろうと考えたのは、母親が東ドイツ出身で国境を越える時、両親が怯えていた子ども時代の記憶が原点だといいます。彼は4年間にわたって徹底したリサーチを行いました。文献で調べる、体験者、専門家などいろいろな人に会う、取材する。まだまだ人々の心に多くの傷跡が残る中、その傷はまだ癒えていないし人によっても違います。証言も相反するものもあったといいます。ヴィースラーのような変化をしたシュタージ職員の記録はないなど事実とは違うと指摘されている点もあるといいます。しかし、監督自身は語っています「歴史的なディテールに埋もれることなく事実以上に信憑性を持ったドラマを語ることを目指した」と。 また彼は映画づくりの中で役者やスタッフからいろいろな話を聞く。彼らの個人的経験がこの映画に多大の真実味を与えているといいます。そして、彼は最後には 「この時代とこの時代の抱えている問題をはっきり掴んだと確信した」といいます。私はこの映画を見て、この作品が伝える当時の東ドイツを支配していた空気は本物だと思いました。このことはこの後から述べるドキュメンタリーとの関連でもその感を一層強くしました。これほどまでの映画を作ったこの新人監督に驚きです。

 BSドキュメンタリー
「証言でつづる現代史 こうしてベルリンの壁は崩壊した」
の内容

   
    1989年11月9日深夜。東西ベルリンを隔てていた壁の門が開いた。チャー
   リー検問所。これを機に、東ベルリン市民は雪崩を打って西側へと向かう。若者
   達は壁に飛び乗り一斉に足下のコンクリートを砕き始めた。
   東欧民主革命を象徴する、最も鮮烈な光景だった。当時「社会主義の優等生」と
   呼ばれた東ドイツで、分厚い壁がもろくも崩れ、国家体制そのものも瞬く間に崩
   壊へと向かった。実はその発火点というべき動きが、ベルリンから遠く離れた古
   都ライプチヒを舞台に起っていた。
   800年の伝統を誇る教会を拠点にして、体制内変革を求める市民運動が10年
   以上にわたって密かに行われてきた。その運動が89年春以降次第に拡大、先鋭
   化。やがてベルリンなど他の都市での運動へと飛び火し、ベルリンの壁崩壊につ
   ながっていく。あれから20年近く、これまで口を閉ざしてきた関係者らが、よ
   うやく当時について語り始めた。  
   番組では、こうした証言を軸に旧東ドイツにおける民主革命のうねりをあらため
   て追い、その裏でどのような人間ドラマが展開し、どのような人々の思いが交錯
   していたのかを、前・後編で描く。

   後編(19日)では首都ベルリンに舞台を移し、改革の波に乗り遅れたドイツ社会
   主義統一党(SED)の幹部らの迷走ぶり、そして首都に飛び火した市民運動への対
   応が壁の開放へと急転したプロセスを追う。同時に「民主革命の主人公」の多く
   が決してその後の性急な「ドイツ統一」は望まず、2008年の今、苦い味の思
   いを噛みしめている現実にも迫る。
                    -「NHK BSオンライン」から転載ー

 BSドキュメンタリーを見て

 <前編>

  1989年11月9日のベルリンの壁崩壊はリアルタイムでニュースとして世界中に配信されたため、当時のことは覚えています。そしてそれを発端として、同年末までの短期間に東欧の社会主義政権が連鎖反応的に倒れていったこと。それは、この時期の東欧の民主化に影響を与えていたソ連のゴルバチョフの進めるペレストロイカにも跳ね返り、ついには、1991年のソ連崩壊にまで至ったこと。こうしたことは、既に分かっていました。しかし、そのベルリンのある東ドイツの中で何が起きていたのか、それが古都ライプチヒ(人口約50万人)が発火点だったことを初めて知りました。市民が自由に討論できる場として聖トーマス教会があり、毎週月曜の夜、ここから出発するデモが小規模ながら何年も続いてたという。89年春、ポーランドの政変に引き続き、夏には東ドイツ住民が西ドイツに大量脱出していきました。ライプチヒでも月曜デモはしだいに拡がり、そして10月9日にむけて最大規模のデモが準備されていきました。市民の求めていたことは、旅行の自由、表現の自由など体制内変革でした。9日、政府はデモ鎮圧のため軍隊を導入しますが、市民たちはローソクを手にかざし非暴力をアピール。「私たちは一つの国民」というスローガンを街中に張り出し、軍隊と市民が敵対していないことを示しました。そして、デモの最中には「非業力」というコール、最後には「われわれが人民だ」というコール…7万人にも膨れ上がった市民デモは、一滴の血も流さず、国の主人公は自分たち市民であることを示して成功しました。ドキュメンタリーでは19年前のこの出来事を市民の側だけでなく、当時の党関係者、軍、そして間に入った芸術家(指揮者)などの回想、証言を引き出していました。

 <後編>

  このライプチヒの7万人デモの成功は、たちまち東ドイツ各地に飛び火し、一ヵ月後のベルリンの壁崩壊へとつながっていきました。この年(1989年)の東ベルリン、壁を越える者は、2月に一人死者を出して以後ありません。既に別ルートから国を棄てて不法出国する市民が大量に出ていました。これに対し最高指導者ホーネッカー議長は冷血な言葉で非難するだけ、無策を露呈。危機感を持った若手党官僚が彼を退陣に追い込みました。東ベルリンのドイツ座には知識人、芸術家たち1千人が集まって「ライプチヒのように流血なしで政府に抗議できないか」と話され、ともかく合法的にデモ申請をしようということに。シュタージュは警告を発するものの許可は下り、11月4日に2~3万人の想定で市民デモをすることに。当日のAM10時から子ども、年配者も多く市民は歩き出し、「我々が人民だ、主人公だ。」「自由な民主的な選挙を」…などとコール。その規模は数十万人に膨れ上がり、最終的には100万人にも達し市民の巨大なエネルギーが噴出しました。この後、政府は「海外旅行自由化法案」をだすものの不評。権力の空白もあって混乱する中、11月9日夕、政府の法案実施の記者会見でのミスがもとで検問所に多くの市民が押し寄せ、門を開けさせてしまいました。深夜、やがて壁も砕き始めました。ドキュメンタリーではここでも市民の側だけでなく、権力の側、当時の党関係者などの証言を引き出し、権力内で起きた迷走、混乱ぶりを明らかにしています。


   私の思いの中で
     ー映画とドキュメンタリーから少し離れて


 この映画とドキュメンタリーを両方見た人、片方しか見ていない人、これから見る人…いろいろだと思います。そして、その捉え方自体も人それぞれ、いろいろ違ってくると思います。これはあくまで私の捉え方、私の思いであり、はじめにことわったように感想以外のいろいろな思いです。

 ① 国家(組織)と人間(個人)について、
       その間に生じる人間(個人)の感情について


 前者が消滅、あるいは変わった時、後者はどうするだろうか?その個人が国家(組織)にどう係わり(地位、役割)、どう評価していたか(帰属意識)、そして現在はどう評価しているか?その個人は国家(組織)に対し何を求め、どう変わること(変革の中味)を求めていたのか?こうしたことによりその内容は違ってはくるものの、多くの東ドイツ市民の求めていたものは体制内変革(組織改革→存続)でした。しかし、結果は西ドイツへの統合(吸収・合併)でした。そして統一し、急激な市場経済化した旧東ドイツ地域は大きな経済格差と旧国営企業の倒産、失業者の増大(リストラ)に見舞われることになりました。これを緩和する政府の財政出費は巨大なものとなり西側地域の市民も大きな痛みを受けました。旧東ドイツ地域の多くの市民にとっては40年にも及ぶ長い時が全面否定されてしまうような、そんな感情、喪失感、心の傷が残り、それが癒えていくのには非常に長い時が必要だと思いました。

 ② 東ドイツという国は何であったのか

 東ドイツ(ドイツ民主共和国)とは、第2次世界大戦後の1949年、ドイツの東部、ソ連の占領地域に建国された国家。ドイツの西部と南部の米、英、仏の占領地域に建国されたドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)とともにドイツを二分した分断国家の一つ。1990年にドイツ連邦共和国に吸収される形で消滅しました。東ドイツは建国時その名が示すように人民民主主義の国としてスタートしました。しかし、ソ連は東欧をソ連防衛の前線基地として確保しソ連型社会主義を押し付けていきました。複数政党制がしかれていても議会制民主主義は存在しません。普遍的な人権概念も存在せず、党のイデオロギーが公的イデオロギーとして支配していました。人民(市民)抑圧体制、監視国家はこうした中で強化されていきました。これは、人民(市民)自身が望んでたことではなかった筈です。ソ連に押し付けられたということだけでなく社会主義にある種のユートピア、民主的で平等で安定した社会を描いていたと思います。それが逆ユートピアになってしまいました。第二次大戦後のドイツは、少なくとも遅れた資本主義国ではありませんでした。東ドイツで社会主義体制になり、40年続きました。ここでの社会主義体制の失敗、崩壊そして資本主義への再移行の問題には、まだまだ未解明な点が多く残されています。

 ③ 人間の感情は社会体制によって統制できない

 私たち人間が持っている、人間らしさ、感情は国家・社会体制によって統制、抑制、コントロールしようとしてもしきれるものでありません。私たち人間の行動、活動をコントロールできてもです。国家は、社会体制は、私たち人間の心の中まで支配できないのです。愛し合うこと、信頼すること、自由に憧れること、良心を大切にすること、善き行いをすること。これはすべて「善き人」ですが…勿論、人間の感情の中にはこうした善とともに悪も存在し、実際にはその判別は難しいと思います。これまでの世界の歴史を振り返った時、人民の、人々の人間らしさ、感情を統制してきた国・社会体制は長続きしていません。いずれも崩壊してきましたし、まだ残っている国・社会体制もいずれ必ず崩壊します。(人間の感情の悪の問題ーこれは、これから重要になってきますがまた別の機会に)

④ 同時代に生きてきた私は何をどのように見てきたのか

 最後にこれは、私の反省です。この映画の始まり、1984年当時私は、脱サラして千葉からこの東北の地に慣れない農業の新規参入者(妻の両親の家業を継ぐ)として四苦八苦している状態でした。言い訳じみていますが、世界のことに広く関心を持つことはなかったと思います。89年はポーランドの連帯の勝利に関するニュース、そしてベルリンの壁崩壊へと続き、私にとっては大変衝撃的でした。その後の東欧民主革命、91年のソ連の崩壊とたて続きに事態は進展し、私はその原因、そこに至る過程などを把握するのに手まどいました。私はソ連、東欧の社会主義国にそれまでいささかの幻想を持っていませんでしたが、これ程までになっていたとは想像できませんでした。むしろこれまでになる過程をしっかり知ろうとしていなかったと反省しています。今、私の本棚に一冊の本が残っています。「科学論 その哲学的諸問題」(K・マルクス大学哲学研究集団 著)というものです。この大学はライプチヒにあり(統一後は名称をライプチヒ大学に変更)、本は1967年にでき日本では70年に出版されています。学生時代に購入していますが、よく読んではいないようです。しかし、当時の東ドイツは「社会主義の優等生」といわれ、私自身もソ連に幻滅を感じていても「東ドイツの科学ー技術革命はすごい」などと思っていたようです。もう1961年までにベルリンの壁はできており、壁をめぐる悲劇も伝わってきていました。しかし、私はそれをよく見ようとはしなかった。見るべきものを見なかったのです。東ドイツの過去の史実の解明は、まだまだ途中です。この解明の中から新しいユートピアの構想が生まれるであろうか?、私は、今後もしっかりと注視していきたいと思います。
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