触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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「コミュニティを問いなおす」を読んで

<BOOKS> (32)                              2010.1.29 

「コミュニティを問いなおす 
─つながり・都市・日本社会の未来」を読んで

著者/広井良典
発行/筑摩書房
(ちくま新書) 2009年8月10日発行

著者の紹介

/1961年岡山市生まれ。東京大学・同大学院修士課程修了後、厚生省勤務を経て2003年より千葉大学法経学部教授。この間マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。社会保障や環境、医療に関する政策研究から、時間、ケア等をめぐる哲学的考察まで、幅広い活動を行なっている。著書に『持続可能な福祉社会』『死生観を問いなおす』『ケアを問いなおす』(以上、ちくま新書)、『日本の社会保障』『定常型社会』(以上、岩波新書)、『グローバル定常型社会』『生命の政治学』(以上、岩波書店)、『ケア学』(医学書院)など多数。

この本の内容

 戦後の日本社会で人々は、会社や家族という「共同体」を築き、生活の基盤としてきた。

 だが、そうした「関係性」のあり方を可能にした経済成長の時代が終わるとともに、個人の社会的孤立は深刻化している。

 「個人」がしっかりと独立しつつ、いかにして新たなコミュニティを創造するか―この問いの探究こそが、わが国の未来そして地球社会の今後を展望するうえでの中心的課題となろう。

 本書は、都市、グローバル化、社会保障、地域再生、ケア、科学、公共政策などの多様な観点から、新たな「つながり」の形を掘り下げる大胆な試みである。

<目次>

プロローグ コミュニティへの問い
第1部 視座
(都市・城壁・市民―都市とコミュニティ;コミュニティの中心―空間とコミュニティ;ローカルからの出発―グローバル化とコミュニティ)
第2部 社会システム
(都市計画と福祉国家―土地/公共性とコミュニティ;ストックをめぐる社会保障―資本主義/社会主義とコミュニティ)
第3部 原理
(ケアとしての科学―科学とコミュニティ;独我論を超えて)
地球倫理の可能性―コミュニティと現代               

(以上、筑摩書房のホームページより)

<内容から>

プロローグ コミュニティへの問い

コミュニティ=「人間が、それに対して何らかの帰属意識をもち、かつその構成メンバーの間に一定の連帯ないし相互扶助(支え合い)の意識が働いているような集団」 著者はこのように定義し、その上で「コミュニティ」を以下の3つに区別し、「コミュニティ」を考える際に重要となる視点としている。

1)「生産のコミュニティ」と「生活のコミュニティ」

 日本ではかつて農村がそのまま生産のコミュニティであり生活のコミュニティであったが、高度成長期に急速な都市化・産業化の結果、「生産のコミュニティ」としての「会社」と「生活のコミュニティ」としての「核家族」とに分離し、生産のコミュニティである会社が圧倒的優位になっていった。

 本来対立するはずの「生産のコミュニティ」としての「会社」と「生活のコミュニティ」としての「核家族」を“つなぐ”役割を果たしたのが「国を挙げての経済成長」という目標で、会社に所属しその利益を追求すればパイの拡大に繋がり、個々の会社や家族の取り分の拡大に繋がるという好循環が生まれていたため、生活のコミュニティは核家族のように最小限で生産のコミュニティに全力を注ぎ込めば結果として充分ペイがあったのが高度経済成長期という時代だった。

 限りない成長・拡大(=「パイの拡大」)という時代が終わる中で、いわゆる格差問題や社会保障のあり方など、むしろ「パイの"分配"」という課題が前面に出るようになり、「パイの拡大が個人の利益の増加にそのまま結びつく」という予定調和的な状況や前提は、もはや存在しなくなっている。

2)「農村型コミュニティ」と「都市型コミュニティ」―「つながり」のあり方

コミュニティ形成原理の二つのタイプ

農村型コミュニティー共同体に一体化する(ないし吸収される)個人"ともいうべき関係のあり方を指し、それぞれの個人が、ある種の情緒的(ないし非言語的な)つながりの感覚をベースに、一定の「同質性」ということを前提として、凝集度の強い形で結びつくような関係性をいう。
特質―同心円を広げてつながる/内容―「共同体的な一体意識」/性格―情緒的(&非言語的) 
関連事項―文化・「共同性」・母性原理/ソーシャル・キャピタルー結合型(集団の内部における同質的な結びつき)

都市型コミュニティー"独立した個人と個人のつながり"ともいうべき関係のあり方を指し、個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づくもので、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の異質性を前提とするものである。
特質―独立した個人としてつながる/内容―「個人をベースとする公共意識」/性格―規範的(&言語的)
関連事項―文明・「公共性」・父性原理/ソーシャル・キャピタルー橋渡し型(異なる集団間の異質な人の結びつき)

 このような対比の上で、戦後の日本社会では都市へと移った人々によって会社や核家族という"都市の中の農村"が作られそれらは"閉じた集団"として、その枠を超えた結びつきが希薄化していった。そうしたムラ社会の「単位」が個人にまでいわば"縮小"し、人と人との孤立度が極限まで高まっているのが現在の日本社会ではないだろうか。

 日本社会における根本的な課題は、「個人と個人がつながる」ような「都市型コミュニティ」ないし関係性というものをいかに作っていけるか、という点に集約される。

3)「空間コミュニティ(地域コミュニティ)」と「時間コミュニティ(テーマコミュニティ)」

 これからの時代のコミュニティを考えていく上で無視できないのは、少子・高齢化という人口構造の大きな変化。この場合重要な視点は、「子どもの時期」と「高齢期」が地域への“土着性”が強い=「子どもと高齢者は地域との関わりが強い」ということ。戦後から高度成長期をへて最近までの時代とは、一貫して"「地域」との関わりが薄い人々"が増え続けた時代であり、それが現在は、逆に"「地域」との関わりが強い人々"が一貫した増加期に入る、その入り口の時期であるととらえることができる。

「地域」というコミュニティがこれからの時代に重要なものとして浮かび上がってくる。現役世代についても、これからのポスト産業化時代には、地域とのかかわりが相対的に増加する。
現在の日本社会において、様々なNPO,協同組合、社会企業家等々による「新しいコミュニティ」づくりの試みが百花繚乱のように生成している。「ミッション(使命)志向型のコミュニティは、伝統的な地域コミュニティとどのような形でクロスし、また今後の展望が開けていくか。

人間にとってコミュニティとは何か

 「コミュニティ」は、重層社会における中間的な集団であり、その成立の起源から本来的に、“外部”に対して「開いた」性格のもの。コミュニティづくり自体の中に「外部につながる」という要素が含まれている。そうした「外部につながる」ことから、コミュニティは、「創造性」というテーマとも結びつくことになる。


 こうしたことを問題意識として、著者は、第1部~第3部を展開している。この中で、第1部(視座)では、コミュニティを考えていくための視座、枠組みを新しい角度から展開する、-「都市」というテーマ、グローバル化とコミュニティというテーマを議論。第2部(社会システム)では、これからのコミュニティ、日本社会を考えていくにあたって重要なる「政策」や「制度」のあり方を提言。第3部(原理)では、「科学」とコミュニティの関わり、自己と他者あるいは「つながり」の根拠に関する考察を行い、これからの時代における価値原理のあり方について展望を描く。-としています。

第1部(視座)

第1章 都市・城壁・市民―都市とコミュニティ

 ヨーロッパなどの街と日本の街との、根本的な違い

 日本―「集団が内側に向かって閉じる」「見知らぬ者」どうしの関係の希薄さ、コニュニケーションの不在、“外”の者に対する潜在的な排他性が伴う(“身内”における気遣いの過度なまでの濃密さとの表裏の関係―“稲作の遺伝子”自然環境や生産構造、社会構造等の変化の中でそれに適応しつつ「進化」する。=「関係性の進化」)

 ヨーロッパなど-ハードあるいは空間面における「都市」“街並み”“都市景観”の特徴は、都市の中心部を少し離れただけで、田園風景がすぐに広がる。「都市」の外延がはっきりしており、「都市と農村」の“境界”がある程度明確な形で存在。→「城壁」(日本の場合、都市計画もなきに等しかったため、曖昧。)都市というものがひとつの実質的な「まとまり」をもっている「団体」としての性格をもつ。「市民」という概念もこの点と不可分。市民とはある種の「身分的資格」でありー権利・義務を伴うーメンバーシップ。(こうした内容を伴った都市は、日本では存在しなかった。)

市民あるいは都市の排他性?

①「都市型コミュニティ」も「農村型コミュニティ」も、無際限に「開かれた」ものではなく、その“外部”をもっている。しかしながら、成員間の「つながりの原理」において両者は異なる。

②「都市型コミュニティ」と「農村型コミュニティ」は、それぞれが長所・短所をもち、両者は補完的であり、最終的にはその両方が重要。

第2章 コミュニティの中心-空間とコミュニティ 

「コミュニティの中心」という視点

 ヨーロッパの国々では、「コミューン」という地方自治の単位となっている地域の中心部に、必ず教会が位置している。中世において教会が行っていた福祉的な事業や税の徴収を国家がひきついだ。(高水準の「福祉国家」が生まれた背景)昔の日本では地域や共同体の中心に神社やお寺があった。

 コミュニティ政策に関する市町村アンケート調査(2007年)

 1位=学校、2位=福祉・医療関連施設… 明治以降、学校・学区が地域コミュニティの中心かつ主要単位であった。改めたその重要性が浮かび上がった。今後急激に増えていく高齢者の対応するのが2位の福祉・医療関連施設。これからの福祉・医療関連施設は、これまでのような「閉じられた空間」ではなく、地域に開かれた「コミュニティの拠点」的な機能が求められている。

 「コミュニティの単位」-日本における地域コミュニティの原型とは 

 市町村合併等により、「コミュニティの単位」という発想自体が希薄になっているのが日本の現状。明治初期には神社の数は約18万余で自然村の数とほぼ同じ。明治22年自然村を大字・小字に格下げし、市制・町村制を敷き、義務教育を行う学区と国民教化・国民道徳の基盤としての神社の編成・統合を進める。昭和の大合併で、自治体の数は、約1万から約3000に、そして、「平成の大合併」でさらに2000弱(1760)に減少。農村から都市への人口大移動と平行に進んだ事態であり、少なくとも都市圏に関する限り、神社や「鎮守の森」と地域コミュニティの関連といったものはほとんど消滅。

 “外部への窓”としての「コミュニティの中心」

 「コミュニティの中心」として歴史上重要な役割を担った着た場所は、「外部」との接点、あるいはコミュニティにとっての「外に開かれた“窓”」ともいうべき場所 

①「神社・お寺」などの宗教施設は、“彼岸あるいは異世界”(あちらの世界、「コミュニティ」の成員としての死者の世界)との接点であり、
②「学校」は、”新しい知識“という「外の世界」との接点であり、
③「商店街」(あるいは市場)は、“他の共同体”という「外の世界」との接点であり、
④「自然関係」は、文字通り“自然”という人間にとっての「外の世界」との接点であり、
⑤「福祉・医療関連施設」は、「病い」や「障害」という、ある種の“不日常性”という意味での「外部」との接点である。

第3章 ローカルからの出発―グローバル化とコミュニティ

「公-共-私」をめぐる構造の歴史的変容

「公」-政府(原理―再分配) 「共」-コミュニティ(原理―互酬性) 「私」-市場(原理―交換)

 近代以前の社会―人間の活動の大半は概ね「ローカル」な領域に限定、「公-共-私」は、農村共同体などの「共」的関係を基盤としつつ、半ば未分化な形で渾然一体的に存在。近代社会以降、ローカルな地域的境界を越えた商業活動が飛躍的に拡大し、市場経済の領域が大きく展開していく中で、「公-共-私」の関係構造が根本から変容。

 近代的なシステムにおいて前提となった構図は、「共」的な原理(コミュニティ)→ローカル 「公」な原理(政府)→ナショナル 「私」な原理(市場)→グローバル と構造的な対応関係(基本的な振り分け)が作られた。

工業化時代における「国家」への収斂

 しかし、実際には、19世紀以降の産業化(工業化)の大きなうねりの中で生じたのは、―「共」的な原理(コミュニティ)も、「私」な原理(市場)も、すべてが、ナショナル・レベル=国家に集約されるーという事態であった。

 「産業化」という現象の持つ空間的な性格(射程)が、この時代におけるナショナル・レベル=国家に集約される状況を生んだ基本的な要因。(それが、最適な空間的単位に)

金融化・情報化とその先

 時代は、やがて「金融化=情報化」の時代へと。あらゆる国境ないし境界を越えた「世界市場」が成立していく。市場経済の「最適な空間的単位」がグローバル・レベルに移った。

 これからの時代の基本的な方向は、① 各レベルにおける「公-共-私」の分立とバランス ② ローカル・レベルからの出発 という二点が重要となる。

 ポスト産業化そしてその先に展開しつつある定常化の時代においては、「時間の消費」と呼びうるような、コミュニティや自然等に関する、現在充足的な志向を持った人々の欲求が新たに大きく展開し、福祉、環境、医療、文化、スピリチュアリティ等に関する領域が発展していく。これらはその内容からローカルなコミュニティに基盤を置く性格のものであり、その「最適な空間的単位」は、ローカル・レベルにある。

ローカルからグローバルへの役割分担

 今後の世界、地球における経済活動は、「生産/消費の重層的な自立と分業」を基調としたものであるべき。

① 物質的生産、特に食料生産及び「ケア」はできる限りローカルな地域単位で。…ローカル~ナショナル
② 工業製品やエネルギーについてより広範単位で。…ナショナル~リージョナル
③ 情報の生産/消費ないし流通についてはもっとも広範囲に。…グローバル
④ 時間の消費(コミュニティや自然等に関わる欲求ないし市場経済を超える活動)はローカルに。

時間的な解決から空間的な解決へ

 日本全体をユニットとして考えるのではなく、ローカルな地域の固有性に目を向け、それを自立的なユニットとして考えていく。今後は、「時間的な解決から空間的な解決へ」ということの重要性が高まり、あるいはそもそもそうした解決や改善の仕方に人々が気づいて」いく時代。

 グローバル・レベルにおいても地球上の各地域の地理的・風土的多様性や、固有の価値に人々の関心が向かう時代である。

第2部 社会システム 

第4章 都市計画と福祉国家―土地/公共性とコミュニティ

 ヨーロッパにおいて、都市計画を中心とする都市政策と、福祉国家の冠する政策とが、通底する理念の下でパラレルに展開してきた。日本の場合、この両者がほとんどタテワリに、全くの異領域として展開。両者をつなげて考えていくことが現在の日本に求められている。

1、 福祉国家と都市計画の国際比較

北欧―「公」(政府)中心のシステム 

 社会保障は「普遍主義モデル」(大きな社会保障給付と税財源)。土地所有は公有地割合が大きい。住宅政策も公的な住宅(社会住宅)の割合大。都市計画は公的規制が強(二層規制―非拘束的地域計画と拘束的地区計画)。このように「公」(政府)の役割が非常に大きい。

大陸ヨーロッパ(特にドイツ)-「共」(コミュニティ)的基盤と「公」

 社会保障は「社会保険モデル」(中規模の社会保障、社会保険料中心)。公有地割合は中程度。住宅政策は民間非営利の主体による社会住宅の割合大。都市計画は公的規制が強(二層規制―非拘束的地域計画と拘束的地区計画)。このようにコミュニティとしての「共」(相互扶助)が基盤に強くありつつ、市民の「公共性」の実現のひとつの装置として「政府(公)」があり、相互作用する中で社会保障や都市計画が展開。

アメリカ及びイギリスー「私」(市場)中心のシステム 

 アメリカは市場型モデル(小規模の社会保障、民間保険中心)。公有地割合と社会住宅割合が低。都市計画の公的規制は中(ゾーニング規制)。全体として「私(市場)」中心。
 社会保障はアメリカより大、税中心。公有地割合は中。社会住宅割合は高。都市計画の公的規制は強。全体として「折衷的」。市場中心のシステムでありつつ、アメリカに比べてより公的部門の割合が強い。

日本―折衷型システムと「公共性/都市」をめぐる課題

 混合型(ベースは社会保険だが社会保障の規模は小)土地所有は公有地割合が低。社会住宅割合も低。都市計画は矛盾がもっとも顕著に。(公的規制は弱(ソーニング規制)であり、「開発優先」志向の強さ、都市への人口集中の急激さ、建造物における無秩序な共存等々の要因が重なって、景観や居住環境の劣悪さ等に)全体としては、「私」(市場)中心のシステムという性格が近年強まっており、その背景には「共」的基盤が弱体化し、それに代わる「新しいコミュニティ」(ないし公共性)と呼ぶべき人と人との関係性や価値原理がなお未確立であることがある。

歴史的展開における福祉国家と都市計画(日本における「土地の公共性」をめぐる課題)

第一期:近代化・市場経済の浸透として私的所有権…18~19世紀/日本における展開―「土地の公共性」をめぐって

 江戸期までの土地の共同体的所有から、十分な個人所有化をへぬまま大土地所有へと展開したことになり、その課題は一周遅れの形で第二次大戦後の農地改革に持ち越されることになる。さらにこの時期のもうひとつ不徹底な課題―「地籍」の未整備がある。その後の都市計画の弱さも。

 日本では、そこに「公共性」の論理による規制が働かず、私的利益の追求が野放しで展開していった。農村的な論理(素朴な私益と「公共性」の薄さ)が、共同体的な制約から解き放たれる中で都市的な論理の一部(私的所有権という発想)と奇妙に、中途半端に結びついた帰結。→今後求められるのは、①本来の都市的なものの確立=公共性ということと、②「共」的なモノ(コモンズなど)の再評価・再構築。

第二期(産業化前期):急速な都市化と「近代的都市計画」&社会保険…19世紀後半~20世紀前半

第三期(産業化後期):ケインズ政策・福祉国家の時代とその変容…20世紀後半

第四期:経済の成熟期・定常化と福祉政策・都市政策
(・環境政策)

 ヨーロッパにおいて(第三期を中心に)土地・住宅・都市の「社会化」が強化されていったのと異なり、日本の場合、農地改革等帰結として、また強い「開発」基調の中で急激な都市化を背景として、「公共性」を欠落する形でかえって土地所有の私的性格が強まっていった。農地改革は両義的意味を持っている。(土地所有の平等化というホジティブ面と私的所有の対象としての土地という観念の強化というネガティブ面―ヨーロッパに比べ一周おくれの私有化への展開)こうしたネガティブな遺産が、社会保障においても、また住宅や都市計画、土地政策においても一気に顕在化しているが現在の状況。→「公」や「共」の強化を中心に、社会保障政策と土地・住宅・都市政策そして環境政策を通じた包括的なビジョンや政策展開が必要になっている。

第5章 ストックをめぐる社会保障―資本主義/社会主義とコミュニティ 

 日本での課題と改革の方向を考える。

「ストックをめぐる社会保障」とは

 格差が大きいのは、「フロー」(所得)よりも土地等の「ストック」(資産)面。戦後直ぐの政策展開は資産面での「機会の平等」(農地改革=「土地の再配分」、新制中学の義務化=教育の機会平等)であり、個人の「共通のスタートライン」の実現に寄与し、その後の経済発展の大きな基盤になった。そのことの再評価とそのような「機会の平等にための再分配」政策がいま再び問われている。

 こうした問題意識の展開は、競技の社会保障、福祉政策のあり方のみの議論にとどまらず、「公有地」のあり方を含む土地政策、住宅政策、都市計画や「空間格差」社会的排除をめぐる課題等を含む都市政策全般にも射程が広がる。これら全体が「コミュニティ」をめぐる課題に連動。これを踏まえ、以下「福祉政策と都市政策の統合」という新たな方向を併せて提案する。

1 これからの社会保障政策/福祉国家の方向性

 事後から事前へー福祉国家の意味 

 福祉国家は、「市場経済プラス“事後的な”再配分」という社会システム。先ず「個人の自由な競争」としての市場経済の仕組みを前提とし、そこで生じる経済格差ないし富の分配の不平等といった問題を、社会保障などによって事後的に是正する考え方。しかし、現在、福祉国家が想定している前提自体が揺らいでいる。①福祉国家が発展して社会保障の規模が大きくなればなるほど、そのための財源は個人や企業の所得から差し引かれることになるから、経済活動のインセンティブを損なうものになり、福祉国家の基盤自体を揺るがすという問題 ②資産面を含む人々の間の格差が次第に拡大し、個人が“チャンス(機会)の平等”を有しているという状況が揺らぎ、その結果、福祉国家が想定している「個人の自由な競争」という前提そのものが大きく崩れてきている。

 それに対し発想の転換をー市場経済に対する「事後的な再配分」ではなく「事前的な配分」とも呼ぶべき対応が必要。

 「個人のチャンスの保障」という、自由主義的ないし資本主義的な理念を実現するために、社会主義的ともいえるような関与(例えば相続税を強化しそれを通じた富の再配分を行うこと等)が必要になる。(←ある種のパラドックス)

 定常型社会と「市場経済を超える領域」の生成

 「私利の追求」を有効なインセンティブとして拡大・発展した市場経済の領域が、今むしろ飽和しつつある。これに代わって「時間の消費」=コミュニティや自然や公共性、スピリチュアリティといった領域に関する人間の欲求が大きく展開しつつあり、組織的にはNPOや社会企業家といった携帯が浮上。「市場経済を超える領域」の展開において、営利と非営利貨幣経済と非貨幣経済が交差する。

 労働面から見ても、先進国はいわば“生産性が上がりすぎた社会”ある種の構造的な「生産過剰」状態にあり、その結果失業が慢性化する状況にある。むしろ賃労働の時間は減らし、そのぶんをコミュニティや自然等に関する活動の時間にあてることが、失業削減にもつながると同時に「市場経済を超える領域」に発展につながることになる。

フローからストックへ

「公―共-私」をめぐるダイナミックス

 日本の場合、(政府という意味での)「公」の役割がなお脆弱であり、「公的部門の強化」-これには社会保障など政府の様々な再配分政策や公的規制が含まれるーという点がきわめて大きい課題として残されている。今後は、①“共”的な領域の発展(NPO,新しいコミュニティ、コモンズなど)②公的部門の強化(政府による再分配や規制、土地所有のあり方など)の両者が重要な課題であり、「公―共-私」のクロス・オーバーということが進展していくことに。

2 ストックをめぐる格差と土地・住宅政策

 ストック(資産)をめぐる格差の動向

自治体に対する土地・住宅政策に関するアンケート調査より

 財政難や人口減少、少子・高齢化等といった構造変化を背景に、多くの自治体では公有地を持て余し気味であり、現在に基調は売却等を通じていかにそれらを縮小していくかという点にある。←はたして公有地という存在について、単純な縮小・合理化でよいのかーより有効で積極的な意味を持った公有地の活用のあり方を。

 公営住宅というものの持つ意味やそれをめぐる課題のあり方が、小規模の自治体と比較的大規模の年圏域の自治体とで大きく異なっていると同時に、しかし異なる形ではあれ公営住宅というもののもつ新たな意義ないし重要性が生じている。 

3 福祉政策と都市政策の統合ー「持続可能な福祉都市」へ
 
今後の政策として重要となるもの

①「人生前半の社会保障」の強化 ②住宅の保障機能の強化 ③福祉(社会保障)政策と都市政策の統合―「持続可能な福祉都市」へ ④課税・財源のあり方

「人生前半の社会保障」の強化

 子ども・家族関係、若者関係、積極的雇用政策、失業保障、住宅関連、傷害関連等を広く含むとともに、重要な要素として「教育」が深く関連している。個人の人生における最大の資産となり、また失業などの生活リスクを減らす最大の要因となるのは教育である。人生前半の社会保障及び公的教育支出の規模は主要国の中で日本が最も低い。

住宅の保障機能の強化

 戦後日本の住宅政策は、量的不十分さに加え、経済成長の一環という性格が強く、それが福祉政策ないし社会保障政策の一部門として位置づけられるという側面が希薄であり、低所得者や母子家庭等の脆弱な層への「住宅の生活保障機能」という面が後退しがちであった。「住宅の生活保障機能」という点を正面から位置づけ、また「ストックに関する社会保障」の重要性という新たな視点を踏まえた上で、公営住宅・公的住宅等の役割の強化を図っていく必要がある。

公有地の積極的活用―土地所有・利用の社会化へ

 今後の具体的な政策の方向は、 ・公有地の積極的活用 ・都市計画の強化と福祉政策との連動、・空間格差や社会的排除を生みにくい都市のあり方。
的排除を生みにくい都市のあり方。

「福祉都市」の視点

 都市政策や街づくりの中に「福祉」的な視点を、また逆に福祉政策の中に「都市」あるいは「空間」的な視点を、導入することが必要。この場合の「福祉」は、①格差や貧困などの社会経済的要素もあれば、②高齢者や障害者を含めて人々が歩いてゆっくり楽しめる等といった要素、③様々な世代のコミュニケーションや世代間の継承性といった要素を広く含む。

空間格差や社会的排除を生みにくい都市のあり方―「持続可能な福祉都市」

課税・財源のあり方

 今後は相続税、土地課税、環境税について強化を行い、それを社会保障とりわけ「人生前半の社会保障」の財源として活用し、これを通じて「ストックの再配分」を図ることともに、土地課税・環境税については資源・環境制約との調和という趣旨も盛り込み、これによって「分配の公正」と「持続可能性」の両者を実現していくことが本質的な重要性をもつ。

第3部 原理

第6章 ケアとしての科学―科学とコミュニティ

・ これからの科学あるいは知的探求において「コミュニティ」という主題が中核的な重要性をもつものになる。
・ それはこれまでの「近代科学」のありかたそのものを大きく問いなおす意味を持つ。
・ そうした探求は、人文科学、社会科学、自然科学といった境界を越えるような(接点となるような)性格を持つ。

「現代の病」への対応―医療技術とケアをめぐる議論

 「現代の病」は、「特定病因論」の考え方のみでは解決が困難なものが一般的になっている。病は身体内部の要因のみならず、ストレスなどの心理的要因、労働時間や社会との関わりなど社会的要因、自然との関わりを含む環境的要因など、無数ともいえる要因が複雑に絡み合った帰結としての心身の状態として生じている。-「複雑系としての病」

 こうした医療モデルから出発し、慢性疾患における予防・環境モデルや心理モデルを経て、高齢者ケアや精神疾患等における生活モデルへと続く。しかしこれも「1対1モデル」「ケアする者ーケアされる者」という関係の見方。

個人を超えた人間理解とコミュニティ

 しかしこうした見方だけではケア、人間の全体性をとられえることはできない。生活モデルの三段階「①疾病から障害へ(種々の介護サービスの充実等)②受動性から主体性へ(グループホームでの実践等)③コミュニティ/環境に開かれたケアへ(高齢者・子ども統合ケアや自然との関わりを通じたケア等)」。

現代科学は「古人の知恵」に還る

 脳科学などが発達して人間という存在の複雑性が明らかになればなるほど、ベッドに寝かしきりで薬漬けの“治療”ではなく、日常的な他者との関わりや「ふつうの生活」ができるようなサポート体制こそが、最大の治療や予防であることが示されるであろう。そのとき科学や医学はもっと人間や生活に寄り添った本来のものとなりうる。←「ケアとしての科学」

情報・生命・コミュニティ

 近代科学は、人間と自然の明確な分離、要素還元主義という基本的性格を持っていた。19世紀以降、科学的探究の対象がもっとも複雑な自然現象たる生命に及ぶようになっていき、「生命」というものを、物理的・化学的な現象・法則に還元できない固有の現象として捉える見方も登場した。その後20世紀の途中から「情報」を鍵概念としてあらゆる生命現象を解明する方向に進む。

 「情報」のうち脳情報とその伝達に科学的探究が向かい、「個人」のベースにある「コミュニティ」のレベルに科学が歩みを進めることに。→「個人」という存在をコミュニティから切り離すことによって成立した近代科学の基本的なパラダイムを根本から変えることに。

 さらに「生命」を単に「情報」概念によって説明するのではなく“生命そのもの”を探求の対象とする方向に科学が向かうとすると「自然」の次元にまで歩みを進めることに。→“「人間と自然」の切断”という近代かがくのもう一つの基本パラダイムを修正することになる。①「個体を完結してとらえるのではなく、他者とのコミュニケーションや関係性において理解する」、②「人間と自然を分離してとらえるのではなく、その一体性や相互作用に注目する」という二重の意味で科学は「ケア」としての性格をもつようになる。

第7章 独我論を超えて

独我論と「普遍的な価値原理」

①独我論という問題(~個人や集団の孤立) ②普遍的価値原理の不在 ③経済成長という目標への一元化 の三者は相互に深く連動している。それは戦後の高度成長期を中心とする日本社会のありようという、社会的な構造や時代背景をもつテーマでもあった。

対応のあり方―「生きづらさ」をめぐって

 以上から基本的な方向自体は、明らかに。
 市場経済の拡大ということが、人々の需要の面からも、また生産過剰という労働や供給の面からも、ある種の飽和状態に至り限界に達しつつあることを認識し、賃労働時間を減らすとともにそれをコミュニティや自然等に関する活動の時間に振り向けていく(時間の再配分)。そこに生成するのが「市場経済を超える領域」であり、それは従来の営利と非営利、貨幣経済と非貨幣経済が交差するような領域であると同時に、「新しいコミュニティ」の舞台ともなる。それはまた、これまでの「公―共-私」がクロスしていく性格をもっている。

 これからの日本社会における「新しいコミュニティ」「都市型コミュニティ」を作っていくうえでポイントとなるのは、①ごく日常的レベルでの、挨拶などを含む「見知らぬ者」どうしのコミュニケーションや行動様式 ②各地域でのNPO、協同組合、社会的起業その他の「新しいコミュニティ」づくりに向けた多様な活動 ③普遍的な価値基準の構築 

二つの「社会」 

 (a)物事の対応や解決が、主として「個々の場面での関係や調整」によってなされるような社会
 (b)物事の対応や解決が、主として「普遍的なルールないし原理・原則」によってなされるような社会 

日本社会のありよう

 (a)は、「農村型コミュニティ」、(b)は、「都市型コミュニティ」に基本的に重なる。現在の日本社会にとって、少なくとも相対的に(b)の要素、人と人とが、独立しながら、ルールや規範によってつながるような「都市型コミュニティ」の関係性のありようが特に求められている。重要なのは(a)と(b)双方のバランスであり、特に「農村―都市」という対比を軸として、その社会の置かれた自然環境や生産構造、規模等に応じて、それに適応したバランスのあり方が存在する。←「関係性の進化」ということの実質。

普遍的な原理が個人をつなぐ「通路」になる

 不特定多数の個人からなる「都市」的な社会においては、人と人とを結びつけるのはむしろ「普遍的な原理やルール」

終章 地球倫理の可能性―コミュニティと現代

普遍的な思想の“同時多発性” 

 「普遍的価値原理」が、人間の歴史上のある時期に、地球上のいくつかの地域で“同時多発的”に生じている。2500年前、ギリシャにおける哲学的思考、インドでの仏教思想、中国での孔子をはじめとする諸子百家の思想、イスラエルの置ける旧約の思想が一気に生まれた。

異なるコミュニティを「つなぐ(橋渡しをする)」思想

 「精神革命」の時代に生成した思想、「歴史宗教」は、(exとして儒教も)―異なるコミュニティ(ないし民族、文化)が共存していくための原理として、複数のコミュニティを「つなぐ」原理として生成した。それらの思想がいずれも「普遍的」な志向、特定のコミュニティや「集団」を超えた中立性ないし不偏不党性をもつ。

「普遍的な思想」の「多様性」と“リージョナルな住み分け”

 歴史上のある時期に同時多発的に生まれた普遍的思想は、その内容において互いに大きく異なり「多様」な性格のものだった。それらの思想の生成した地球上の諸地域の「風土的な相違や多様性」がもっとも大きな背景としてあった。人間と自然の関係のありようが、生命観ないし「人間―自然-神(あるいは超越的な存在)」の理解のあり方に根本的な相違をもたらした。一方で、これらの普遍性を内包した思想群は、それぞれ一定の「グローバル」な伝播を果たしていった。しかし、現在のような強い意味でのグローバル化に比べその範囲は「リージョナル」な範囲に。

なぜこの時代に「普遍的な原理」を志向する思想が生まれたのか

 “水平的な要因”-異なるコミュニティの接触―と同時に“垂直的な要因”=「農耕文明の成熟化・定常化」というべき事態がその背景にあった。

文明の成熟化・定常化と規範原理

 人間の歴史には三度の「拡大・成長」と「成熟化・定常化」のサイクルがあった。人口変動を概観すると、第一の人口増加は10万年以上前(人類が道具の使用・製作を始めた時期)。第二は紀元前8000年~同4000年頃(農業を始め、また都市を作るようになった時期)。第三は18世紀以降から現在に続く時期(近代科学が生まれ産業化がスタートした時期)(狩猟段階―農耕段階―産業化(工業化)段階)

 これを人類史に関する把握(「人類革命―農業革命-都市革命―精神革命-科学革命」)と合わせると、紀元前5世紀を中心とする普遍的な価値原理ないし規範原理を志向する思想の生成は、人間の歴史において、農業文明がある種の成熟化そして定常化の時代を迎えつつあった時代に起こった。紀元前5世紀前後に生成した普遍的な思想は、「普遍性」への志向と同時にもうひとつの特質として“物質的な拡大・成長から、内面的な深化や、欲望の際限なき拡大の「抑制」へ”という方向を共通して持っていたのではないだろうか。これは「規範原理」「自己規律」というこことも重なる。

 農業を基盤とする社会や文明が、ある程度以上発達した段階で、自然・資源制約にぶつかたり、あるいは何らかの生産過剰に陥るー農業文明のある種の成熟期(ないしは過渡期)において、それをいち早く予見し、警鐘を発する形で、「物質的・量的な拡大から内的な深化へ」という志向をもった思想が生成したのでは。

「定常化の時代」としての現在―精神革命期との同型性と差異

 現在の私たちは、人間の歴史の中で三度目の「定常化」の時代―19世紀後半の産業革命以降の、約200年強の急速な産業化及びそれの伴う人間の経済活動や生産・消費の飛躍的な拡大とその飽和・成熟化―を迎えつつある。それは紀元前5世紀前後に普遍的な原理を志向する思想が地球上で“同時多発的”に生成した時代とある意味で同型の時代状況―拡大・成長から成熟化・定常化への移行という点においてーであり、その意味において、再びそうして何らかの新たな根本的な思想の生成が待たれている時代ではないか。

 “宇宙における人間の位置”という発想あるいは問題設定に対して、無限の「宇宙」はむしろ有限性をもった「地球」に置き換わり、-“果てのない全体”ではなく“果てのある全体”-、他方「人間」のほうは、普遍性や独立性をもった存在であると同時に、“「地球というコミュニティ」の一員としての存在”という意識が、おそらく世界史上初めての形で生成しつつある。

地理的多様性」を組み込んだ思想

 紀元前5世紀前後の普遍的な原理を志向する思想は、“リージョナルな住み分け”という形で“共存”することができたが、現在のグローバル化の時代にはこうした形での共存が根本的に困難。
 これへの対応は、「普遍性」よりもむしろ「多様性」ということを積極的に組み込んだ思想ないし哲学の可能性であり、地球上の各地域の風土的・文化的な多様性ヤローカルな独自性を重視して、そこから出発するという方向に。歴史より地理を、時間よりも空間を重要な基礎概念とする思想になるはず。この点は単に哲学や理念の問題ではなく、ローカルからグローバルに至る様々な制度や社会システムをどう構想していくかという、ごく現実的な次元とも直結する。

 「ローカルからの出発」という方向を考えていく場合でも、コミュニティ相互のコミュニケーションやグローバル・レベルの普遍的な価値原理というテーマを無視できない。むしろその二つの、ローカルとグローバルに向かうベクトル「コミュニティ」の内と外に向かうベクトルの緊張関係のうちにそうした思想は生成していくべき。(これは人間のコミュニティの「関係の二重性」(内部的な関係性と外部的な関係性)ということと重なっている。)

おわりにーコミュニティと時代構造


 狩猟段階―農耕段階―産業化段階それぞれの前半期をなす拡大・成長の時代とは「人間と自然」の関係が大きく変わる時代ー人間が自然を“収奪”する度合いが増幅する時代―であった。各段階の後半期たる定常化の時代とは、資源制約の顕在化やある種の生産過剰の結果として、人々の主たる関心が「人間と人間」に関係あるいは「人」そのものに移り、自然の新たな収奪や物質的・量的拡大という方向ではなく、個人や文化の内的な発展あるいは質的深化とともに「ケア」、そして(人と人との関係のありようという意味の)コミュニティというテーマが前面に出る時代となる。同時にそこでは、新たな価値原理の追求が課題となる。-「コミュニティ」というテーマが大きく浮上する第一の文脈。(人類史的な次元)

 18-19世紀前後から大きく進行してきた市場経済の拡大ひいては資本主義の展開という流れが成熟ないし定常期に入り、その飽和とともに「市場経済を超える領域」が大きく展開する時代であり、そこでは「新しいコミュニティ」の創造ということが中心的な課題となる。

 加えて、資本主義がその展開の極において「働くこと」の動機付けにおける“非貨幣的な価値”の重要性の高まりや、コミュニティあるいは「場所」というものの意味の再発見といった新たな局面に向かう。←資本主義が本来内包しない価値群、資本主義の“反転”を示唆すると同時に、その先に展望されるのは、市場と政府とコミュニティ、あるいは「資本主義と社会主義とエコロジー」がクロス・オーバーするような社会像。コミュニティというテーマをめぐる“ポスト資本主義的な次元”。-第二の文脈。(ポスト資本主義の次元)

 後発型の都市化や産業化のプロセスを、急激にかつ文化の改編を伴う形で行ってきた日本という社会が、固有の形で、「関係性の組み換え」あるいは「独立した個人のつながり」の確立という、困難な課題としてくぐり抜けようとしている。-第三の文脈。(日本社会固有の次元)

 「コミュニティ」をめぐる課題群は、以上の三重の意味で、私たちが生きる時代の構造変化の核に位置する。その新たな生成に向けて様々な対応や具体的実践が行われていくことが求められている。

<私の感想>

本書との出会いは、

 昨年末の12月10日、たまたま一関に出かけていて、いつも立ち寄る北上書房で時間つぶしに立ち読みをしていました。新書コーナーで、ふと気になってしまって買ってしまったのが本書です。広井氏の本はこれまでにも、「日本の社会保障」1999年「定常型社会」2001年「持続可能な福祉社会」2006年と読んできています。ですから8月10日に出た本書もここで初めて手に取るものでしたが「コミュニティ」ついての考察か…ちょうど私が参加している「ゆきとどいた教育をすすめる栗原市民の会」が当面の政策課題としている三点の一つ 「地域の課題の方向性を出していく必要性について(地域経済と地域コミュニティの再生の問題と教育の課題は密接に結びついている。)」とも本書は関連してくると思いました。これは、BOOKS-書評ではその直後に出ている「新自由主義か新福祉国家か」が先になりましたが、同じような位置づけです。本書を買って、いわゆる“積読(ツンドク)”になるかと思っていたのですが、12月13日の朝日新聞で本書が第9回大佛次郎論壇賞を受賞したことを知りました。その解説や選考委員の方々の感想を読んで、これは早めに読んでおかなければいけないと思いました。当然、BOOKS-書評でも取り上げなければならないと考えました。(記事アップが少々遅れましたが…)

多彩な視点の本書をどう生かしていくか

 前述したように、現在の私の問題意識が「地域」、「地域の課題」、「地域経済と地域コミュニティの再生」といったこと、それと「教育・学校」というところにあります。

 本書では、地域・コミュニティの重要性がいたるところで強調されています。「平成の大合併」によって自治体数が減少し、神社、「鎮守の森」と地域コミュニティの関連といったものが消滅し、現在の“外部への窓”としての「地域コミュニティの中心」のひとつが「学校」としています。しかし、ここ宮城県栗原市では「平成の大合併」で、その「学校」ですら「地域コミュニティの中心」から排除されようとしています。(全国各地でも同様でしょうが…)

 また、地域再生についても、「最適な空間的単位」は、ローカル・レベルにあること、これからの日本(世界も)その向かうべき方向性は、「ローカル・レベルの重視へ」いかざるをえないこと、それも都市政策、福祉政策からも、ローカルな地域の固有性に目を向け、そうした内容の価値原理への転換、確立が求められていることを述べています。
このことは、前述したBOOKSで取り上げた「新自由主義か新福祉国家か」(12月31日の記事)の「新しい福祉国家」の方向が、①教育や再配分問題に重点を置いていること、②持続可能な地域をつくること等地方自治体や「住民自治」を重視していることと通じます。そして、経済評論家の内橋克人氏のFEC自給圏(F食料 Eエネルギー Cケア を自給し、そこに雇用を作り出し地域の活性化を)という主張とも通じています。
 
 こうした「コミュニティ」をめぐる諸課題(政策的、実践的)への対応が、これからの私たちに求められているのだろうと思われました。本書をただ読むだけにとどまらず、さらにこうした形でブログにまとめる作業をしてみて、自分なりに整理をすることができました。広井氏が本書で問題提起し、論点を展開していることは、極めて多岐にわたっています。日本はともかく、地球規模・地球社会といった次元、それとの関連でのポスト資本主義といったこと(もちろん、日本の今後もそれらと密接に関連しているわけですが…)を改めてじっくりと考えなくてはと思いました。私自身は、これらを現時点で十分には消化しているとは思われません。しかし、未消化であっても、この自分自身でまとめてみたこの記事をもとにして、今後、さまざまな面で生かしてみようと考えています。 


補足の感想 1 イタリア旅行をして

 
 昨年11月末にイタリア旅行をしました。初めてのヨーロッパです。本書の「第1章 都市・城壁・市民」で書かれていることを、短い期間でしたが現地に自分自身をおくことによって少し実感することが出来ました。都市国家やその城壁の持つ意味、都市景観・街並み、教会が中心部に位置していることやその意味、そこにおける現在の市民の生活(過去は想像して…)などです。しかし、都市計画と福祉国家の関係は、本書を読んだのが旅行の後ということもありますが(私の問題意識になく)チェックできていません。また別の機会、別のヨーロッパの国になるかも知れませんがきちんと問題意識をもって見て来たいと思います。

補足の感想 2 広井氏の紹介文を読んで

 同じ12月13日の朝日新聞の広井氏の紹介文“「地球倫理」がつなぐ共同体”を読んで、私自身、少し個人的にも親近感を感じました。年齢は10歳以上も離れていて、教えている大学が私の出身大学といっても接点はまったくありません。しかし、生まれ育った「原風景」が、岡山市の商店街というのは、私は名古屋市の商店街。学生時代にセツルメント活動というのもまったく同じです。年齢が大きくちがっても、原風景や原点に何か近いものを感じてしまうのです。私自身に「しなやかな発想」があるかどうかは疑問ですが、「人類史に遡る長い射程」「人間への信頼感」というのは、私自身も心がけていることです。まだまだ若い広井氏の今後の活躍に大いに期待したいと思います。

さらに補足の感想 受賞スピーチを見て

 1月29日朝日新聞の朝刊に前日の贈呈式で大佛次郎論壇賞を受けた広井氏の受賞スピーチが載っていました。その中で氏が大学での専攻を法律から科学史・科学哲学に転じたと言っていました。氏の専門は社会福祉・公共政策と思っていました。それはそうでしょうが、元々が科学史・科学哲学から出発したということだと思いました。12月13日の新聞で「人類史に遡る長い射程」とあったので親近感を持ったのですが、私自身の元々もそれに近い技術史・技術論でしたので、余計に自分勝手に近さを感じます。私の場合は、当時はその道で学者になることなどほとんど不可能な時代でした。学生達と科学技術論ゼミナール(サークル)を立ち上げ科学史の勉強会をしていました。そこに現実の課題、千葉という地域の課題である公害問題が飛び込んできました。いや、飛び込んできたというより、セツルメント活動の延長のように私自身が飛び込んでいったのです。千葉時代は、それから仕事をしながら公害問題と地域問題に取り組んでいくことになりました。ですから、宮城に移ってきてからも、相変わらず地域問題を何かしらやっているという次第です。

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