触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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「栗原の学校統廃合を考えるつどい」報告―(その1)

2.7「栗原の学校統廃合を考えるつどい」
                            報告―(その1)
  2010.2.9

 「ゆきとどいた教育をすすめる栗原市民の会」主催の「栗原の学校統廃合を考えるつどい」が2月7日午後、今、この栗原市内で一番、統廃合問題がホットな金成地区(金成けやき会館)でもたれました。積雪が多いというあいにくの悪天候の中、49人もの参加がありました。地元や栗原市全域だけでなく、色麻町や隣の大崎市、仙台からも雪道を車で駆けつけていただきました。

 5年前平成の大合併の時期にここ栗原市は、旧栗原郡の10町村が1つの市になりました。その後に学校統廃合問題が市教委から出され、市民運動も「栗原の教育を考える会」から、昨年9月の「ゆきとどいた教育をすすめる栗原市民の会」への発展改組と進めてきました。

しかし、特にこの金成地区には、会員も少なく会の影響力も大きくありません。それでも市教委は広報を使って「金成地区の○○のPTA同意…」という記事を何回かこのところ載せてきています。同意といってもその中身が問題ですし、広報等では小中一貫校のメリットしか載せていません。一方的は情報の中に地域住民は置かれています。市教委はこの金成地区を突破口にして残りの地区の学校統廃合を推進しようとしていることは明らかでした。

会としては、例え影響力が小さくとも、この焦点となっている金成地区で「つどい」を持つ意義が大きいと判断しました。会の財政があまりない中でここだけ新聞折込の「つどい」の案内チラシを全戸配布。学校訪問、PTA地区役員への働きかけ、ポスター掲示、マスコミ依頼などできるだけのことはしてみました。結果は、確かに地元からの参加は決して多くはありませんでしたが、地元が注目する「つどい」にはなったと思います。何よりもメリットではなく、デメリットをいろいろ考え、心配している市民運動の存在を地域に知らせることができたと思います。

この間、私は「つどい」の準備に追われ(横約7メートルのカンバン書きなど)ていました。さらに、現在は、この後に山本先生の出す本への栗原市からの報告を代表が執筆する手伝いをする準備も始めます。「つどい」の報告はそれと関連するのですが、一気にはできそうにありません。妻も当日は司会を買って出てくれました。終わってからも感想をポツポツ言っています。2月27日には改めて会の役員会で反省会ももたれます。「つどい」の報告は、今月末以降までポツポツと続けていくことにします。

まず(その1)では、当日の私の発言から紹介します。

当日の私の発言(と準備したもの)

質問 テーマは「学校統廃合問題隠しの5年前の栗原市誕生。」ということです。

①「全国的に学校統廃合問題隠しの合併は、他にあるのでしょうか?」

②「市教育委員会は、財政問題という本音を言わないのですが、
   他の全国の事例では、どうですか?」


① 平成17年今から5年前に、10町村が合併し、この栗原市ができたのですが、私は、その前年、平成16年に住民ワークショップに築館町民として参加し、「まちづくりの基本計画策定」に関わりました。私の参加した分科会は、行政サービス・住民参画で、隣の教育・文化振興分科会にも顔を出していました。基本計画には、図書館ネットワークシステムを取り入れさせることができました。しかし、この両方の分科会、全体会でも、全く学校統廃合問題は出されていませんでした。

 この学校統廃合問題が表面化した平成19年になって、当時の合併協議会の議事録を調べ直して分かったことですが、「町村立学校の通学区域の取り扱いについて」という検討項目の中で、この表題とは違って、学校統廃合の問題が出されていました。議事録を読むといろいろ議論され、「児童生徒数の動向を踏まえ、新市によって検討を行うものとする」と明文化すると「読んだ方にこれが早速行われるという印象を与えるのではないかという危惧がある」という意見のもとに結局、学校統廃合問題は出さないとしてしまいました。このように問題を先送り・隠して決められました。だから、市教育委員会が言っている「合併して初めて、学校間の差異が大きいことが分かった」というのは全くのウソなのです。平成19年の学校再編の検討委員会の議事録を見ても市教育委員会が「旧金成町教育委員会から『学校再編「小学校の適正規模」について』の事務的な引き継ぎを受けている。」と言う記述がありました。

 一方で、合併直後の平成17年の市内10ヶ所での移動市長室でも、その翌年18年の市内10ヶ所での市政懇談会でも、学校統廃合についての話は出されていません。しかし、それに反してこれも後から調べて分かったことですが、その前の18年3月には既に市教育委員会は「小・中学校の適正規模および適正配置に関する基本的な考え方および適正化に向けた具体的方策」を打ち出しています。

 市長は、初当選の選挙前のローカルマニフェストでは、「学校教育環境検討委員会の設置」をして、「学区再編をする。」と言っていたのが、市長になってからの、次のローカルマニフェストでは、それが「適正規模、適正配置…」という内容につまり、学校再編にそっくり擦り替えを行っています。

 つまり、私の言いたいのは、行政側や一部有力者によって、この金成地区以外(その金成地区内部のことは、よく分かりかねますが、)その他の町村の一般住民には、学校統廃合問題隠しが行われて、合併がされたということです。

② 関連しますが、市教育委員会は、他にも、先生も一緒にて聞かれたと思いますが「財政問題は、目的でない。結果としては、そういうことになることは、否定しない。」と言っています。しかし、その一方では、「国が、基準を30人とかにすれば、それに沿ったものに直ぐする。」と言いました。これは実現性が高いことで、今の国の40人を今回の再編計画では35人まではするとしていますが、30人とか低学年25人とかにも直ぐ対応するようで、そもそもの人数の根拠を市教育委員会は、持っていません。本音は、財政問題であり、学校設備とその維持費、教員の人件費を抑えることにあることは明らかです。



 ここまでが当日の私の発言で、事前に文章にしておいたものです。ただこの中の「市長は…」の3行は、長すぎるということで司会の妻に言われ、自主カットしました。

 実は、この他にも、質問者が少ない場合も想定して意見交換の場で意見として2点用意しました。これは、完全にお蔵入りになったものですが、一応ここに載せることにします。

<発言できなかった意見1と2>

意見1 21世紀は、地域・コミュニティの時代、学校を地域創造の核に。

 再編計画は、地域・コミュニティ重視の時代の要請している方向に逆行している。

 私自身は、出身がここでないため、それほど強くは地域・コミュニティへの愛着はない方だと思います。でも、25年前に子ども二人を連れ、脱サラして千葉市から妻の実家の築館にやって来ました。子ども二人とも富野小学校から築中、築高・築女と通い、ここで育ち、地元での友達も多く、今も、年に何回か帰ってきて会っています。二人ともここが故郷であり、学校とその周辺は彼らの原風景です。自分たちの学校や、生まれ育った故郷への愛着心や誇りを持っています。親としてはそれを大切にしたいと思っています。

 地域から学校をなくすということは、地域から子どもと(若い世帯の)家庭を引き剥がしてしまうものです。再編計画では、子どもとその(若い世帯の)家庭は、地域に住みづらくなり、学校が集中する市街地(金成では一ヶ所、栗原市では、数箇所だけになる)に移り住んで行くことが懸念されます。それによって一層、各地域の過疎化は進みます。元来、日本の多くの小学校は国の予算によってではなく、むらびとの力で建てられ維持されてきました。そうした意味で「学校はもともと地域のもの」の筈です。再編計画は、「子どもの教育環境をよくする」、「学力の向上」などと言っています。しかし、その根本理念は、個々の子どもや保護者(家庭)をバラバラに分断して地域から引き離していくこと。子どもたちを一所に集め、競争させて、効率的よく画一的な教育をしようとするものです。子どもの成長、発達にとって地域は、どうしても欠かすことのできない要素です。地域・コミュニティから学校をなくせば、次の世代を担う子ども達がいなくなり、伝えるべき誇りも空洞化し、地域の伝統・文化の伝承もできなくなってしまいます。そして、地域の再生も不可能になってしまいます。

 先日(1月31日)NHKで「無縁社会~『無縁死』3万2千人の衝撃~」とうい放送をしていました。私は、他人事とは思えない衝撃を受けました。地域・コミュニティが再生不能、無くなっていくということは、無縁社会化を進め、数多くの無縁死を作っていくことに他なりません。

(21世紀は、地域・コミュニティの時代、学校を地域創造の核に。)

 21世紀の少子・高齢化という人口構造の大きな変化の中で、栗原市のような地方の地域こそ、その多くの特色を生かし、生命を育む地域として、主役になっていくべきです。地方の地域は、老年人口の増加に加え、団塊の世代のリタイアの受け皿としての役割も期待されています。同時に、豊かな自然があり、生命を育むこの地域の中ででこそ、子どもたちを、世代間交流をしながら育てていきたいものです。

 グローバル・レベルにおいても21世紀は、地球上の各地域の地理的・風土的多様性や、固有の価値に人々の関心が向かう時代です。また、地域再生についても、「最適な空間的単位」は、ローカル・レベルにあります。これからの日本(世界も)その向かうべき方向性は、明らかに、「ローカル・レベルの重視へ」ということだと思います。

再編計画の方向は、この地域・コミュニティ重視の、時代の要請する方向に逆行しています。確かに住民人口減、年少人口減とはなるわけですが、このまま再編計画どおりに学校統廃合が実施されていくとそれに拍車がかかり、地域はさらに衰退していってしまいます。そうした選択ではなく、地域にしっかりと支えられて学校が残る。学校を地域創造の核として活用していくような方向こそ、グローバリズムに押し流されない、ローカルであっても、しっかりとユニバーサル(普遍性)を併せ持つ、グローバル・レベルでもしぶとく生き抜くような将来像を描くことが出来ると思います。

意見2 競争歓迎論とは別の道―連帯・共同・共生の道<ほんとうの幸福論>について

 小泉構造改革以後の格差・貧困社会の進行の中で、未だに「切磋琢磨論」「子どもの競争歓迎論」「自己選択、自己責任論」が幅をきかせています。

 何が何でも競争しないとダメなのでしょうか?本当の「生きる力」は、競争だけから生まれるのでしょうか?競争社会では、誰もが「勝ち組」になれるのでしょうか?「勝ち組」につくこと、従うこと(その近くでの生存)が幸せになることなのでしょうか?経済のグローバル化に、飲み込まれるしか生きる道はないのでしょうか?

 「このようにしなければ幸福・幸せになれない」というのは、思い込みにすぎないのではないでしょうか?
 そして、競争についていけないことは「自己責任」なのでしょうか?子ども自身の「自己選択」といっても、そのように大人が追い詰めているのではないでしょうか?

 世間のいう「幸福行き」の列車に乗りたい、乗り遅れまいと思い、そのレールから外れたら不幸になると、大人たち自らや、子どもたちをも駆り立てているのではないでしょうか?

 そうした中では、子どもたちは、ゆがんだ画一的なものさしで、他人や自分を測るよう、習慣づけられてきているのではないでしょうか?そして、その結果、子どもたちから考える力や生きる力を奪ってしまっているのではないでしょうか?

 私たち、大人がこのように、子どもたちに良かれと思っていても、結果として選択肢を狭めたり、追い詰めているのではないでしょうか?

 こうしたことと別の道― 子どもたちが、自分の頭で考え抜き、他人と意見をぶつけ合いながら、人間関係を培っていく中で、本当の意味での自己・「個」を形成していく、そして、他人と連帯し、共感し、共生し、共同(ともに関わり)し、協働(ともに働き)協同(ともに、力と心を合わせて事をする)という道はないのでしょうか?
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