触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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恩師の米寿記念出版への寄稿文

<恩師の米寿記念出版への寄稿文>      2010.3.27

千葉川鉄公害とのたたかい
     ー稲葉先生と出会い、行動した日々」
 

                                       佐藤(磯村) 茂雄    


 私と稲葉先生との出会いは、今から38年前(1972年)の4月でした。川鉄公害とその被害の存在は、当時かなりはっきりしてきていました。しかし、その3月に、千葉市煤煙等影響調査会の疫学調査が発表され、その被害の大きさにあらためて驚嘆させられました。直後の4月、千葉県庁地下の県職労で、稲葉先生、田畑仁さん(当時県職労副委員長)と私ともう一人の4人が、初対面で意気投合し、その場で即座に「千葉市の公害を話す会」を作ってしまいました。当時、私は24歳の大学院2年生、稲葉先生はその倍以上の50歳でした。私は、学生でヒマなわけでもないのですが、事務局担当になりました。それからです、その年の10 月に「千葉市から公害をなくす会」になり、1973年に千葉県住民運動連絡会ができ、1974.年には、公害防止条例制定直接請求運動を起こし、1975年5月の千葉川鉄公害訴訟提訴と続きました。稲葉会長(代表)に対して私は、事務局(次)長あるいは、最後の裁判では、裁判を支援する会事務局長でした。

 先生との出会い前の私は、大学1~2年で川鉄周辺の寒川地区へセツルメント活動に入っていました。3~4年で私の学科が千葉では発火点となった大学紛争が起き、その渦中の中心にいました。大学院に入ってからは、科学技術論ゼミナールを結成し科学技術史の勉強会をしていました。その後、稲葉先生とともに市民運動を担っていく中で、先生に教えられて、研究室でその自主ゼミがSO2の自主測定を始めました。それから、修士論文作成へ入りました。内容は、歴史から現実(公害)の問題へ、です。「鉄鋼技術の発展に関する基礎的研究―鉄鋼業の発展と地域社会の変貌」(川鉄と千葉市を事例として)というものです。この内容は、その後の裁判の準備書面に反映されました。

 自主測定の方はその後1974年からNO2の簡易測定運動となり、6月の環境週間を中心に全県や首都圏に運動が拡大していきました。また、公害問題の解決には自治体の変革が課題となっていました。1974年の千葉市長選では、革新統一となったものの市民運動は加われませんでした。次の1977年の市長選から初めて市民運動が革新共同を提起し闘うことができました。個人的なことですが、さらに次の市長選(1981年)の最中に息子が難病を発病し、その後の療養(今は完治)生活を支えました。それを契機に千葉を離れ、妻の郷里宮城に行くとこを決意しました。千葉を離れる直前の1986年1月に川鉄公害訴訟共闘会議が結成され、私がいなくとも大丈夫な体制となりました。3月31日に千葉県職労を退職し、宮城に向かいました。当時36歳でした。その後、1988年に 千葉地裁判決、1992年に東京高裁勝利和解とつながっていきました。

 このように、稲葉先生と出会い、先生に影響を受け、ともに行動した「川鉄公害とのたたかい」は、私にとっては、市民(住民)のための科学と民主主義の学校でした。公害の住民運動と科学の結合、科学〔者〕運動、市民(住民)運動、被害者(救済)運動、政治〔変革〕運動、自治体闘争、裁判闘争、大企業の横暴を抑える闘争など様々な側面を持った多様な運動であり、学校でした。

 したがって、そこでの稲葉先生は様々な顔を持っていました。科学者として、市民運動家として、公害病患者(被害者)として等です。そうした中でもとりわけ印象的なのは、やはり科学者としての顔であり、私自身もそれに大きな感銘と影響を受けました。自らの自主測定と自治体のそれの両面から住民を苦しめる川鉄公害を執拗に追い詰める科学者としての熱い眼。公害裁判での汚染・被害立証を弁護団やともに闘う学者達と周到で膨大な準備過程をこなしていくドッカリと据わった胆(科学者としての確信)。裁判での証言、県議会での意見陳述、そして県庁の環境部職員(自治体労働組合員)とも率直な意見交換、これらすべてに私は同席させていただきましたが、そこで科学者としての自分の考えをまとめ述べる能力と相手に伝える言葉の力の大切さを稲葉先生から学ばせていただきました。

 その後、先生から学んだことをどれほど生かしてきたか自信はありません。今、私は、26年前に千葉を離れた当時の稲葉先生と同じ年齢(62歳)になっています。この先も離れた地ではありますが、その学んだことをもっと生かしていきたいと思っています。

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