触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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「千葉あおぞら裁判記録集出版記念祝賀会」

11.17 「千葉あおぞら裁判記録集出版記念祝賀会」
にかけつけて
   2010.11.24 

千葉からの案内が…

 あれは確か10月の初め頃だったか、私の元に千葉から一通の案内が来ました。その「千葉あおぞら裁判記録集出版記念祝賀会」の案内には、

ーかつて大型の環境・公害訴訟としてとりくまれた千葉あおぞら裁判(千葉川鉄公害訴訟)、その訴訟も1992年の東京高裁での和解からすでに18年が経過しました。訴訟団事務局では、訴訟記録と映像をまとめて2枚のDVDを完成させました。そして、記録集最後の新聞記事特集が10月中旬にはできあがります。これらの記録集を完成させて、千葉川鉄公害訴訟団は訴訟団としての役割を事実上終えることになります。つきましては、…「千葉あおぞら裁判記録集出版記念祝賀会」を…開催します。―

とありました。これには次に詳しく述べる恩師・稲葉先生のの米寿記念出版の会に出席しなかったためもあり、即座に出席の返事を出しました。

恩師の米寿記念出版の会と告別式に駆けつけられず…

 その少し前の8月29日に、この千葉あおぞら裁判の原告団長であり、私たち夫婦の仲人でもあった稲葉先生の「稲葉正先生の米寿記念出版の会」を開催するという案内が、朝生先生などから知らせてきました。朝生先生は、原告団事務局長であり、稲葉先生の教え子でもあり、元同僚でもあり、いつも稲葉先生の一番身近にいる稲葉先生が最も信頼していた方です。それでその米寿記念出版には私も寄稿しました。

それは、3月27日の記事「千葉川鉄公害とのたたかいー稲葉先生と出会い、行動した日々」
http://sugar5030.blog98.fc2.com/blog-date-201003.html にあるとおりです。当初は行くつもりでした。しかし、「稲葉先生ご自身は3月に転倒して入院中で出られない」との知らせを受け、それにいろいろこちらでの日程が込み合ってきてパスしてしまいました。その時の様子は、「予想を上回る70名以上の参加で和気藹々の雰囲気で開かれました。稲葉さんと関わった人々の輪が交流を深めました。あらためて先生の影響力の大きさに驚き、かかわられたみなさまのご協力に感謝申し上げます。」という朝生先生からのメールが届きました。

そして、読売新聞でこの本「自然の理法 究めんと」-稲葉正 不屈の人生―和泉書房 の紹介がされている  
http://www.inaba-shuppan.org/kiji/20100903asouyomiuri.jpg
ということでした。

そして、11月7日に「稲葉正先生が 11日7日 午前1:05 肺炎のため ご逝去されました。」というメールが(午前8:39)に来ていました。この日は一日仙台に行っていて、メールを開いたのが夜でした。その後、「11月10日にお通夜、11日に告別式」というメールが入りました。しかし、これにも参列できませんでした。私自身、先生がそれほど危ないという認識を全く持っていませんでした。千葉を離れて26年。その間に、何度か夫婦二人で千葉市蘇我の自宅をお訪ねしました。2年前だったと思いますが、その時は元気そうでした。しかし、よく考えてみると先生は公害病患者でした。最後は肺炎で、というのは「やはり、そちらで…」ということです。宮城県の県北と千葉、それに11日は私が行かないと流れてしまう企画があって、地元の現在を優先してしまいました。(後で後悔しています。)その告別式の様子がまたメールで伝わってきました。

―稲葉先生らしい「式」でした。 ユニークだったのはその後の「故人挨拶」。30分以上にわたった稲葉さんの人生最後の「講義」でした。稲葉さんの「遺言」挨拶は、「人間いつかはかならず別れの時が来る。地球(宇宙)に還る宿命なのだから、自然の摂理をそのまま笑って受け入れたい、楽しんで下さい」と言うものだったそうです。その後の話は浄土真宗の盛んな富山の出身らしく、親鸞や蓮如とその教えの本質について分りやすい彼の解説を語り、このお話を傍らに
置かれた大画面モニターに生前の先生の動画映像と共に流したということでした。―(要約)

 それは、朝日新聞千葉版でも紹介されています。
 URL: http://mytown.asahi.com/chiba/news.php?k_id=12000001011120003

11.17「千葉あおぞら裁判記録集出版記念祝賀会」では

11月17日の祝賀会というのは、22年前の最初の判決の日(1988年11月17日千葉地裁)であるためです。それは、千葉駅近くの京葉銀行文化プラザで開催されました。私は、会場に少し早く着いてしまいました。会場前のロビーで待っていると次々に懐かしい顔が登場してきました。26年前に千葉を去ってからも、何度かは千葉を訪れていますから途中で何人かには会っています。しかし、まるまる26年ぶりの方も多く、風貌もすっかり変わって(それはお互い様ですが…)しまって、声を聴くまで分からなかった方もいました。患者友の会のメンバー、高校の先生方、医療機関のみなさん、弁護団のみなさんと法律事務所の若いスタッフ(この方々は初対面でした)それに自治体労組の関係のかつての私の仲間たち(仲間というより元委員長クラスの偉い方が多かったのですが…)後はメディアや出版などの関係の方々でした。総勢で100人程にもなったと思いますがそのほとんどの方は知っている方ばかりで本当に懐かしかったです。

祝賀会は、まず、冒頭に弁護団事務局のN君(法律事務所事務長)の司会によって、黙祷から始まりました。これを行ったのは、勿論、直近にあった稲葉先生の逝去のことがあったからです。しかしそれだけではありません。この千葉あおぞら裁判は1975年提訴以来35年か経過、一応の区切りである1992年の東京高裁での和解からも、すでに18年が経過しました。裁判途中でも多くの患者原告の方が亡くなられていますし、その後の18年間に、この裁判を支えてきた中心人物の一人の田畑 仁さん、学者で証人に立っていただいた吉田 亮先生、塚谷恒雄先生など多くの方が亡くなっています。これら全ての方々に対し、ご冥福を祈りました。

弁護団を代表して高橋弁護士が挨拶をしました。まず、原告団団長の稲葉先生のことに多く触れました。それから、この祝賀会は、千葉あおぞら裁判記録集の出版記念ということだけでなく、その ①「千葉あおぞら裁判記録集」(新聞記事編と訴訟記録と映像をまとめた2枚のDVD)と ② 稲葉正先生の米寿記念「自然の理法 究めんと」③ 伊藤章夫氏による「千葉川鉄公害訴訟和解後の川崎製鉄千葉製鉄所/JFE及び自治体の公害・環境行政における対応検証」の三つを位置づけているといっていました。

亡くなった稲葉先生に代わり原告団事務局長の朝生先生が原告団を代表して稲葉先生のことに触れながら挨拶をしました。患者友の会からは、事務局長Sさんがこれも患者友の会会長でもあった稲葉先生のことに触れ、また現在も患者会は新たな救済制度を求めて運動していると相変わらず元気よく報告していました。彼は元川鉄の労働者で、「裁判所で公判の休廷中に企業側の弁護団に接近し、会社側が慌てて制止してきた」など当時の話もしてくれました。

会場には、パネルや大きな写真が貼りだされ、スライドも映写されました。各グループごとの挨拶に移り、みなさんまとまって壇上に上がりました。自治体労組の関係は、私も含め10人ほどにもなり一大勢力でした。遠くから駆けつけたこともあって、まず私が代表して話をしました。後は喋るのが好きな連中ですから、時間オーバーで4人ほども喋りました。時間があっという間に過ぎていってしまい、残りは事務局のN君が手配した二次会へということになりました。

後で分かったことですが、事務局のN君が、私にだけは、いち早く資料(①と③)を郵送したということでした。彼は私が千葉にいた当時というより、そもそもの当初から「縁の下の力持ち」実務的な作業をこなし、訴訟団を支えてきた人です。私が宮城に来てからも毎年、年賀の法律事務所だよりなどを送ってくれていました。しかし、何時ものことですがスタートが遅い私は、これをギリギリの宮城から千葉への移動中にやっと②も含めて目を通した次第です。

二次会の席上で突き上げ?追及を受ける!

会場の近くの居酒屋での二次会となったのですが、弁護団数人と患者友の会2人と東京電力(千葉火力)元労働者1人と当時I診療所の事務をしていたW君、あと自治体労組仲間の連中のほとんどが残って20人ほどになりました。東電の彼は当時賃金差別を受けていて、この裁判の支援に加わる中で、自らの差別撤廃訴訟に仲間と立ち上がったと言っていました。また、W君は、弁護団事務局のN君と並ぶ、もう1人のこの裁判の「縁の下の力持ち」でした。久しぶりの参加で、私も非常に懐かしく思いました。彼は全ての公害病患者のサポートをしていました。しかし、いつも行動を共にしていても患者さんを常に前面に立てていたため、祝賀会会場に張り出されたパネル、写真に彼は一切写っていないことをこの二次会の席で初めて聞かされました。

この二次会、何しろ弁護士も、労組の幹部たちも喋るのが商売みたいな人たちばかりで、その騒々しいといったらありませんでした。しかし、私の正面に座った患者友の会のHさん(お子さんが患者)と私が千葉を離れた26年前に一番若かった弁護士のN氏(二次会で一番騒がしかった)からも、私は少々思ってもみない突き上げ?追及を受けました。

その内容は「そもそものこの裁判の仕掛け人であったお前が、何故、途中で消えたのか?」というものでした。その理由として私は、「千葉川鉄公害とのたたかいー稲葉先生と出会い、行動した日々」にも述べています。息子の難病の発病(今は完治)を契機に、じっくり子育てができる環境、妻の郷里、宮城への移住でした。しかし、私が支援する会事務局長を辞めるに当たっては、訴訟の支援を個人会員中心の「支援する会」から団体の支援が中心の「支援共闘会議」に切り替えることができ、それを見届けたからです。そのためには、この日も多く参加してくれた自治体労組の関係者には大変世話になっているわけで、そのことを改めて説明しました。丁度、隣に座った当時の委員長だったI氏は、「田畑さんや君みたいに正面に立っては、多くはできなかったけど、内部では環境部の問題とかサポートするのに大変だった」と言われました。I氏は、この席で知ったのですが、朝生先生と同級生、つまり稲葉先生の教え子でもあったわけです。「しかし、あの時、思い切って支援共闘会議に切り替えてからこそ、労組が本腰入れて支援出来た。」とも言ってくれました。

「仕掛けた」と言われた私は、さらに反論しました。「そもそも稲葉先生も田畑さんも私も、裁判をしたくてしたわけでない。何よりも、それ以上の被害を食い止めたかった。そこで、公害差し止めができる環境権を柱とした公害防止基本条例の直接請求運動をした。その延長で、被害を食い止めるためには、やむを得ず裁判提訴にいった。裁判を通して川鉄の横暴と自治体の姿勢をある程度変えることができた。伊藤章夫さんが書いたこの本(③)は、もし、私が残っていれば、私が書かなければならなかったもの。(田畑さんが生きていれば彼もその義務が…)誰かが大企業の横暴だけでなく、それを手助けしてきた自治体の問題を取り上げないといけなかった。裁判後の残された課題も明らかにしなければならない。それを環境部にいた伊藤さんがしたのだから内部告発に近いものです。」と伊藤さんは遠慮がちな人ではないのですが、自分でその本の宣伝をしないものだから私がすることになってしまいました。(N君はそれを見越して私に早くよこしたのか?)

自治体労組の仲間とも久しぶりに会っていろいろ話ができました。元職場の県職労の職場のこと、自治体の組合活動の現状や、ここに来ていない人たちの近況報告など…中でもⅠ氏の後に委員長をして、今は千葉県自治体問題研究所の事務局長をしているS氏には、宮城県では情報が入ってこない全国の自治体問題研究所の情報を聞くことができ、宮城県内でのこの分野での取り組みの必要性を痛感しました。

翌日(11月18日)に稲葉先生宅を弔問して

 この祝賀会の席上に、東京に住む稲葉先生の娘さんがいらしていたので、朝生先生に紹介してもらって、告別式に参列できなかったことをお詫びするともに、翌朝に蘇我のお宅に弔問に伺ってよいかお聞きしました。午前中なら、ということでしたから朝の10時にお伺いすることにしました。二次会の帰りがけに伊藤さんと話していたら、朝9時に、車を出して、稲葉先生宅に行く前にあちこち案内してくれるということになりました。

 千葉の街も26年前と比べ、すっかり様変わりしてしまいました。この26年の間にも稲葉先生宅や県庁など他に、元住んでいた地域―みつわ台の仲間に何度か会いに来ているのですが、その都度、変わっているようにも思われます。しかし、一番変わってしまったのは、川鉄、いや、今は、JFEというのか、その本工場〔跡〕です。その後の川鉄を見るのは久しぶりでした。そこは住民の住居地域に極端に近く、施設も老朽化して汚染源としても大きなものでした。それが鉄鋼生産の縮小化の中で、訴訟提訴後に本格稼動した少し沖合いに造った西工場に生産を集中させています。本工場のあった場所は、まだ事務所や研究所や壊しかけの旧い高炉なども残っていましたが、大半の土地は他へ売り払っています。(元々ここはタダよい安く川鉄が千葉市より買ったものです)まず目に入ったのは、日本一になった千葉ロッテの本拠地、千葉マリンスタジアムです。その他、KSデンキ、YAMADAデンキ、ショピングセンター、スポーツセンターなど大型施設ばかりでした。港の方にまわって西工場がよく見えるところまで行きました。市民にはこの西工場はよく見えなくなっていますが、今も大きな公害汚染源であることは確かです。

 稲葉先生宅では、娘さんは新聞記者さんの相手をされていました。稲葉先生の奥さんに久しぶりにお会いし、伊藤さんと二人でいろいろお話をお伺いしました。お二人の馴れ初めや、富山、福井でのことなど初めて聞くことばかりでした。有名な天井裏のほこりの話、それを市長の目の前で磁石でどれぼど鉄粉が混ざっているか見せたこと。(私もそこにいて見ていました)その天井裏に通じる押入れの中の梯子段を初めて見させてもらいました。奥さんは、こうして2年前に来た時よりも、しっかりしていらして少し安心しました。伊藤さんには最後、千葉駅まで送っていただき、千葉を後にすることができました。

あの運動が、私の原点だった。

 朝日新聞の11月22日社説「脱公害に学ぶ―原点を忘れていないか」
http://www.asahi.com/paper/editorial20101122.html#Edit2
に、その中で、40年前に、日本が脱公害へかじを切った「公害国会」があったとし、ー「40年前の力の源泉は何だったのか。住民運動が生まれ、市民や研究者、法曹界、マスメディアもそれぞれの役割を果たし、産業界や政府を動かす大きな力になった。原点は生活環境と命を脅かすものへの危機感だったろう。」と言っています。40年前の「公害国会」で確かに脱公害へかじは切ったものの、その後の事態は、実際には、そう簡単なものではありませんでした。さらに、その後10年間程は激しく市民と産業界あるいは政府との攻防は続いていったのですから…社説では、最後に「身の回りでは異常な豪雨や熱波が増えた。西淀川では青空が戻っても別要因でのアレルギー、ぜんそくが増えている。世界では途上国が公害に苦しむ。脱公害時代のエネルギーに学びつつ、環境を考える上でより鋭い感性や広い視野が必要な時代だ。」といっています。大阪の西淀川と千葉の川鉄周辺とでは、今も大きな違いはありません。千葉でも、千葉川鉄公害訴訟団は、訴訟団としての役割を終えることになりましたが、残された課題もあります。

 今回の千葉での出版祝賀会で私は、私の現状報告をほとんどしてきませんでした。何をしているか、何となく分かる手作りの名刺を何人かに渡しただけです。説明してもよく分からないかもしれないし、それにあまりみなさん、興味があるようには思えなかったからです。「何か頑張ってやっているのだろうな」位しか思われていないでしょう。でもそれで、いいのです。それよりも今回の千葉行きでの私にとっての成果は、改めて「あの運動が、私の原点だった。」と再確認できたことです。

 学生時代に大学では紛争が起こり、そこで、大学で学ぶ意義を問われました。それに結論を出せないでいる時、その同時期に、その大学の直ぐ近くで公害が拡がり、被害者が続出しているという現実がありました。さらにそこに、新たな汚染源を増やそうとの動きがあった時、それを止めさせるためには、もうその現実の中に自分の身を置くしかありませんでした。運動がなければ、自分で作るしかなく、科学的に明らかにされていなければ、自分で研究するしかありませんでした。でも、こうしたことを始め、多くの人たちに繋がりを求めていくと、同じように思っていたり、何とかしなければと、動き出す人は私だけでないと分かり、運動が拡がってここまできたのです。

この千葉での公害・環境破壊に反対し、被害者を救済する運動は、様々な人々を結びつけてきました。1992年の東京高裁での和解から18年が経過し訴訟団はここで、一区切りをつけました。しかし、その原点・精神は、私自身がそうであるように、今、それぞれの方が係わっているところでも、生かされていることでしょう。さらに、これまでの人と人の繋がりは、結びつきは、それらに充分、生かされていくでしょうし、さらに大きく拡がっていくものと期待しています。
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