触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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移行期的混乱

<BOOKS> (39)                   2010.12.15   

若い人たちのためのブックガイド <その1 現在を把握するー③>                                                         
移行期的混乱―経済成長神話の終わり

著者/平川 克美   発行/筑摩書房 (2010/9/9)

<内容>(「BOOK」データベースより)

 人口が減少し、超高齢化が進み、経済活動が停滞する社会で、未来に向けてどのようなビジョンが語れるか?『経済成長という病』で大きな反響を呼んだ著者が、網野善彦、吉本隆明、小関智弘、エマニュエル・トッドらを援用しつつ説く、歴史の転換点を生き抜く知見。

<著者略歴>平川 克美

1950年東京生まれ。1975年、早稲田大学理工学部機械工学科卒業。渋谷道玄坂に翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを設立、代表取締役となる。99年、シリコンバレーのBusiness Cafe,Inc.の設立に参加。現在、株式会社リナックスカフェ代表取締役。

<目次>

まえがき
第1章 百年単位の時間軸で時代の転換期を読み解く
第2章 「義」のために働いた日本人―六〇年安保と高度経済成長の時代 1956‐1973
第3章 消費の時代の幕開け―一億総中流幻想の時代 1974‐1990
第4章 金銭一元的な価値観への収斂―グローバリズムの跋扈 1991‐2008
第5章 移行期的混乱―経済合理性の及ばない時代へ
終章 未来を語るときの方法について
付録 「右肩下がり時代」の労働哲学(鷲田清一×平川克美)
むすびにかえて

<内容の紹介>

まえがき

 本書は私たちの「現在」とは何かを問いかけるために書かれた。そして、今日的問題―人口の減少、経済の停滞、企業倫理の崩壊、倒産や自殺者の増加、格差の拡大など、-は、文明の進展、技術の発展、生活の変化といったものが複合してもたらす、長い時間の体積の結果として現れる現象と、急激に広がるグローバリゼーションの結果が、アマルガムのように溶着されて時代の表彰に浮き出てきた。この時代背景の変化と、めまぐるしく変わる現象が共同(複合)して「現在」を構成。第1章では、この「現在」を規定している時代的文脈を解体する。

第1章 百年単位の時間軸で時代の転換期を読み解く

転換期とは何を意味しているのか/私たちが今生きている時代は、どんな時代なのか。―現在が大きな時代の転換期であり、同時に移行期的な混乱期である。―(著者の仮説)それを百年を見渡す時間的なスパンで、上からの政治的・経済的転換とは違った、一定の時間の経過を経て事後的に確認するー下からの転換(自然史的な転換)=共同体の変質、貨幣経済の変質、価値観の転換、生活感覚の変化―で確認していく。

リーマン・ショックの波紋/2008年のリーマン・ショックは、単に景気浮沈という資金・資本流通の量的な問題ではなく、もっと質的な歴史的転換の中で起きた、移行期的な混乱。「社会史的・生活史的」な下からの構造的転換が起きている。資本主義的生産方式、デモクラシーを基盤として築かれてきた先進国の、ひとびとの生活意識そのものが揺らいでいる。最も顕著なのが日本。金融崩壊は、移行期的な混乱の中の一つの兆候。環境破壊、格差拡大、人口減少、長期的デフレ、言葉遣いや価値観の変化などともに移行期的な混乱の一つの局面であり、混乱の原因ではなく、結果である。

戦後日本の経済成長率はどう推移したか/戦後60年の間に、経済成長率はほぼ20年をひとつの単位として三段階のサイクルで変化。期間の平均経済成長率は、1956年~73年高度経済成長期約9%、74年~90年相対的安定期4%、91年~08年停滞期1%。2008年の金融崩壊は戦後三度目の新たな変化(経済成長の終焉)の前触れ。

経済成長の限界/同時期のGDPの推移。90年代に入るとGDPそのものも頭打ちに。
 人口動態と国民経済/民主化の進展、教育の普及、識字率の向上、女性の社会的な地位の上昇という一連のプロセスと出生率との間には、負の相関関係がある。(エマニュエル・トッドらの収斂仮説)「経済成長を維持しなければ、人口が減り国家が衰退する」「人口を維持することが経済成長の条件である」という議論は本末転倒。
 人口減少は由々しき事態なのか/2006年をピークとして人口増加から人口減少へとトレンドが反転。私たちの誰も、この総人口減少の局面を経験したことがない。想像できない。グローバル化した世界の国々の中で、貧困地域での人口爆発社会、BRICsの人口増大社会、先進国家の人口減少社会が、同時にまだら模様に存在している。さらに、人口増大から人口減少社会へと移行する社会は、大きな移行期的混乱に遭遇する。今後の経済政策、企業経営の戦略立案において、経済停滞、経済減少における生存戦略を描いておく必要性がある。それには「人口減少(成熟)社会における労働観・価値観の再構築」をめざす必要がある。その準備作業として、第2章以降では、まず、「日本人の労働に関する意識がどのように変遷していったか」を知るために、それぞれの期間に、労働の現場、会社の内部で何が進行していたのか、そのときの日本を覆っていた気分、ひとびとの生活を支配する価値観とはどんなものだったかを見ていく。

第2章 「義」のために働いた日本人―六〇年安保と高度経済成長の時代 1956‐1973

「声なき声」が聞こえる/零細企業の現場/青い鳥の時代/実証の日々/労働への覚醒/日本的労働エートス 
 日本の高度経済成長の底辺には、自分の身体が変形するほどに、仕事にのめり込み、打ち込むひとびとがすくなからずいた。当時の多くの日本人がこういった仕事観を当然のように共有していた。-日本に特殊な考え方。EX 西欧(アメリカも)的な労働観 ベンジャミンフランクリンー「労働は貨幣と等価で交換されるもの」「貨幣は労働の象徴である」その根底には貨幣にたいする信用、尊敬がある。日本人の場合には労働をする人間に対する尊敬であり、それを貨幣によって表象することはむしろ退けられていた。
 60年代は、このような「日本的労働エートス」が日本人に共有されていた時代。70年代はそれが「逝きし影」になった時代であり、同時に「消費の時代」の幕が開いた時代。ひとびとの主題的な関心は、いかにして働くかというところから、いかにして消費するかというところへ徐々にその軸足を移していく。

第3章 消費の時代の幕開け―一億総中流幻想の時代 1974‐1990

一億総中流の幻想/1973年~79年国民の半数以上が、中流であると意識。73年のエンゲル係数は、約30%、仕事と生活が分離したものになり、ひとびとは生活をより豊かに、楽しむために働くようになった。
日本列島改造論/地元(地方)への利益誘導と、高度経済成長後の日本の再構築へ。年功序列、株式の持合い、護送船団方式と金融安定化、産業保護政策が、落伍者を出さない運命共同体的なシステムを作り上げた。

コンビニエンスストアがもたらした家族形態の変容/ひとびとの消費動向と消費意識の変化に拍車をかけた。ライフスタイルの変化は、家族の性格というものまでを変えている契機になった。24時間の生活の利便性を提供する→いつでも時間を金と自由に交換することができるという観念、労働を金と交換することができるという観念がひとびとの価値観のなかに浸透していくことになった。

週休二日制という革命/日本人の労働意識、余暇に対する意識が決定的に転換したのが、1980年代、週休二日制の導入はその象徴的な出来事。週休二日制の実施は、勤労者が獲得したひとつの「成果」、これによって、多くの勤労者の生活が少しだけ変化。それ以上に変わったのは、勤労者の労働に対する意識。多くの勤労者にとって、生産が主題だった時代が終わり、消費が主題の時代が始まった。これは、これ以後の労働や生活の意識、価値観、生活実態、家族形態まで塗り替えるほど大きな出来事だった。

第4章 金銭一元的な価値観への収斂―グローバリズムの跋扈 1991‐2008 

失われた十年/保護主義的な経済システムに支えられた一億総中流の時代が持続することを、グローバル化する国際的な状況が許さなかった。一億総中流から市場原理的な競争社会移行するミレニアムをはさんだ前後十年。「失われた十年」といわれ、長い不況のトンネルを抜け出されない時期。資産デフレ、設備投資の後退、不安定な連立政権、金融機関の相次ぐ倒産などーこれは長期的な停滞の結果。古い民主主義がひとつの到達点を迎え、新たな段階を見出すまでの移行期的な混乱のひとつ。そして、後に続くもっと大きな混乱への序章が終わったに過ぎなかった。

ヨーロッパの激震/1990年をはさんで、ヨーロッパにおける政治情勢が動揺、イデオロギーに支配された世界の冷戦体制そのものが同時多発的に揺らぎ始めた。そして、驚くべき速度で進行し、冷戦体制は終焉した。日本は経済的にこの冷戦に大きな恩恵を受けてきた。

テレビとインターネット/民主化とは、変化そのものへの欲求(人間ひとりひとりが権利を拡大していくプロセス、同時に他者の権利を剥奪していくプロセスを伴うもの)で、国民国家の中にしか生まれ得ないが、同時に国民国家を消滅させるところまで進展するもの。
 東欧革命とは、テレビという消費資本主義を象徴するメディアがその最後の光彩を放った象徴的なメディアによる革命。(テレビが伝えたのは、先進資本主義社会の幻想)東欧革命、ソ連邦の崩壊で、冷戦体制が崩れ世界がひとつの市場になった。世界のアメリカ化。グローバリズムの始まりであり、超資本主義の始まりであった。IT技術の革新、インターネットの隆盛がアメリカのグローバリズムを後押しした。(アメリカの国家戦略)それは一時的には大きな成功を収めたが…。
 技術の進歩と民主主義の進展が国民国家の枠組みを変質させて、世界を単一のひとつの市場へと押し出していった。そして、皮肉なことにアメリカが推し進めたグローバリズムは、思想的にも、実態的にも、この世界のグローバル化との乖離を広げていく結果になる。

人材派遣法とは何だったのか/日本的経営方式に代わって現れたのが成果主義、自己責任論。人材派遣という業態は、こういったビジネスパラダイムの転換の中で登場。もともとはアメリカで、戦後まもなくこの働き方は一般的に行われていた。80年代になると、日本にも人材派遣業というビジネスが目に付くように。実態は港湾労働者や、建設土木作業員などを過大なピンハネ率で現場に送り込む人材ブローカーが横行していた。
 最初の派遣法(86年)は、そうした違法なブローカービジネスを規制し、派遣労働者の権利を守る名目でスタートしたはず。業種をIT技能者などに制限、指揮権限を一本化し、明確にし、派遣元と派遣先の二重管理を禁止。
 ところが、90年以降の派遣法の改正では、この当初の精神とまったく異なる動機で発案・施行される。名目は、グローバル化する経済競争に打ち勝つため。派遣業種の拡大、製造業務への解禁。この04年の製造業務への解禁は、製造業にとって労働者を需要の変化に応じて自由に雇い入れ、解雇できることに。これで、生産コスト上の最大の問題―在庫調整が一挙に解決に。しかし、労働者の生活そのものは不安定にならざるを得なく。この背景には、激しさを増すグローバルな人件費コストの競争があり、アメリカ側の強い要請もあった。
 96年規制緩和委員会(審議会)の会長は宮内義彦。小泉内閣で総合規制改革会議となり、02年にこれを内閣に具申。そこでは、規制撤廃の結論あり期の論法が展開された。あたかも古くなって使えなくなった機械を新品と入れ替えるがごときの経営観で。ここには、労働者の声はほとんど反映されておらず、委員が労働者の声として「働き方の選択肢の拡大」「雇用機会の拡大」という規制撤廃の必要を代弁したかたちになっている。
 グローバル資本主義というアメリカが推し進めた、世界市場の標準化とは、アメリカの金融帝国主義ともいうべき国策であり、双子の赤字を抱え、製造業から金融にシフトせざるを得なかったアメリカ経済の延命策だった。しかし、2008年9月のリーマン・ブラザースの破綻で大きな挫折に。世界の富を略取するためのシステムがもはや国家の管理なくしては立ち行かなくなった。
 日本の労働改革は、戦後のGHQ主導の民主化政策の一環。労働三権(団結権、団体交渉権、団体行動権)の獲得は、組織労働者という新しい階級を作ったが、所詮大手企業内部での出来事に過ぎなかったともいえる。同一価値労働同一賃金という発想も零細だけでなく多くの組織労働者の中にもなじみ薄いものだった。家制度をモデルにした日本の雇用システム自体が、労使契約のもとで労働力を売買するといったヨーロッパ、アメリカモデルとそもそも相容れないものだった。

価値一元化への傾斜/60年代までは残っていた日本的な労働意識が、80年代後半の週休二日制を経て、90年代に大きく変質し、人々の価値観も180度転換していく。それは、同時に、産業資本主義が、消費資本主義を経て、金融資本主義へと変質していくプロセス。
 その時代、誰もが金銭一元的な価値観に収斂していく2000年以降の市場経済の時代と引き比べるとき、労働=贈与に対する返礼は必ずしもそれと等価のものや金銭ではなく、不等価であることに意味がある交換だった。商品交換の中にないもの、価値の創造。労働も、贈与も、その行為そのものが、他の何ものによっても置き換え不能な価値の創造だった。
 一見多様に見える消費生活を決定するのは、透明で万能の尺度である金銭価値。消費の時代においては、金銭そのものが労働の成果であって同時に目的でもあり、労働はそれが生み出すものの価格によってしかその価値を計測されなくなった。かつて金銭に還元されないと思われていた様々な人間活動(親切、もてなし、義務の遂行、贈与など)が金銭で計られるようになり、教育、医療、介護といったことまでも商品(サービス)として流通するようになっていく時代が到来。

第5章 移行期的混乱―経済合理性の及ばない時代へ

経済成長という病/経団連をはじめとする財界が「政府に成長戦略がないのが問題」と。しかし、問題なのは、成長戦略がないことではなく、成長しなくともやっていけるための戦略がないことが問題。
 経済成長がもたらしたものは、消費文明、民主主義の進展、都市の膨張、家族形態の変容あるいは崩壊、情勢の地位向上、婚姻の選択肢の拡大、出生率の低下。それらが総合した結果、いまの日本は有史以来の総人口の減少という局面を迎えている。日本は、戦後60年の長きにわたって続けてきた経済成長の結果として、総人口が減少し経済成長を続けることができない社会構造に、半ば必然的に移行してきた。
 民主化の進展は、因習的な世界を解体し、ひとりひとりが個人の自由な意志で生き方を決めるような、自己責任、自己決定、自己実現という新しい生活様式を急速に促していった。その結果として地域社会の互酬的な共同体はその存在理由を失い、やがて家族が分断され、お互いに無関心であるような孤独なひとびとを大量に排出するような社会が出来上がった。決まったパイを取り合うために、誰もが個人の自由意志や、権利を最大化するようにふるまえば、弱肉強弱の争奪が始まる。激しい競争が生まれ、ひとりが他のひとりの敵になるように振舞う。ひとびとが望んだ民主主義(最大多数の最大幸福)の進展は、それ自体が民主主義の精神への弱肉強弱に向かい、人間が人間らしくという理念はどこかで、自然淘汰が支配する動物の世界に近づいていく。
 日本における歴史上始まって以来の総人口減少という事態は、それまでの日本人の歴史(民主化の進展)そのものが、まったく新たなフェーズに入ったということ。これまで以上の、労働生産性を上げる、イノベーションの実現などの努力は、これまでの経済の拡大と比例して拡大してきた格差や、環境破壊、都市への一極集中などの矛盾をさらに拡大させる。 
 経済成長なしでもやっていける社会を考想し、その考想がひとびとに共有されたとき、人口動態も平衡を取り戻すはず。しかし、当分の間は、様々な試行錯誤と、行き過ぎた金銭信仰にため破壊された労働倫理、拡大を続ける格差などによる移行期的な混乱が続く。

商いの倫理崩壊/経済が停滞期に入ってからの20年間の企業倫理の崩壊には凄まじいものがあった。食品偽装、建築偽装といったものづくりの根幹に巣食った労働倫理に関わる病根。EX、不二家の賞味期限切れ原材料使用は、これこそが株式会社というシステムが持っている病が発病したひとつの顕著な例。かれらに倫理観が欠如していたからでなく、かれらの育てた共同体の倫理そのものが、社会の倫理とは倒立していた。二つの教訓を示している。① 良いものを作っていれば必ず売れるという時代が終わった。② 経営者が危険な禁じ手を使ってまで利益を確保しようとしたことには理由がある(市場原理が生み出した経営の倫理=利益を出すこと、に過大に従順であったがゆえに禁じ手を使った)

格差論の難しさ/「格差とは何を指し、何が問題か」と問えば、世帯間所得格差のデータは公表されているが、ニート、フリーター、単身高齢者など除外され統計その喪に問題があり、要するにデータだけではよく分からない。
 近代化のプロセスの中で、効率を最大化するためには競争ルールを採用することは必然であったが、同時に競争参加者の間に格差が拡大することも必然だった。「格差という物語」は、自らの立ち位置を格差の下位に定めるものと、競争社会というものをさらに推し進めようとするものが共同して紡ぎだした。
競争社会を推し進めようとするものたちは、この格差意識を利用する。格差の下位に甘んじたくなければ、努力せよ、機会は均等に与えられているのだから今のお前のポジションは自分の責任なのだという。
バラバラに切断された個人は、常に他者との比較、あるべき自己との比較において自らを同定しなければならない。その意識こそが意識格差を生み、再生産してゆく。格差とは、格差意識の問題であり、格差意識とはそのメンバーが属している社会そのものが構造的に生み出している問題。
 近代化と民主主義の発展は、この大きな共同体をひとつひとつの地域へと解体し、さらにひとつひとつの家族へと解体し、最後にひとりひとりの個人へと解体していった。共同体が解体されたことの意味は「同一性」よりも「差異性」が主題的となるような生き方が選択され続けてきたということ。自己評価の仕方、「自己実現」といった考え方が生まれてくる土壌と、「格差という物語」が生まれてくる土壌、経済成長を生み出す土壌は同じひとつのもの。このことが、民主化・都市化の進展が民主主義そのものを毀損するという意味である。
 現実の社会において経済成長が止まった後には、個人にとって格差意識は後退し、社会にとっては絶対的な貧困の存在をどうするかという政治課題がクローズアップされるはず。この問題を解決できるのは格差意識から解放された社会の中核メンバーによる社会構造の変更だけある。それによって納税者ひとりひとりの心理的な土壌が、競争から共生へと変革される必要がある。他者との「差異性」が主題となるような生き方よりも、他者との「共同性」が主題となるような生き方が規範となる必要。しかし、現在のところ、わたしたちの社会は経済成長への希望と、経済成長の中で拡大した格差意識とのギャップの狭間で揺れ動いている。

倒産の増加/中小・零細企業をめぐる環境は最悪。リーマン・ショックとそれに続く超円高不況、大手企業の業績悪化は中堅企業への発注減少、その下請けの中小企業、孫受けの零細企業へと下るにつれ、発注量減は酷さを増していった。
 大手企業から末端の零細企業までが、雇用を守りながら数珠つながりになってひとつの生産共同体を形成していたのが、日本的な下請けシステムだった。これまで戦後長い間、日本企業の強さを支えていたのは、この生産共同体の結束の強さと、中小・零細企業の蓄積された技術と職人気質であった。そこには職場に対する愛着、仕事に対する倫理が生き、「非合理的」労働エートスがあった。それが、人材派遣という新しい業態の出現、標準化という名の合理化、工場の海外移転、人手から機械化への技術革新とともに溶解していき、それとともに零細製造業は生き残るすべを失った。

自殺の増加/毎年3万人が自ら命を絶っている。その何十倍、何百倍のひとびとが自殺を考えたことがあるに違いない。自殺の増加も移行期的混乱のひとつのあらわれ。2009年現在で、日本の自殺率は世界第6位。日本より高いのは体制が変わり生活が激変した旧ソ連の国々で共通するところが。
 2000年以降に起きていることは30歳代の自殺の有意的な増加であり、50歳代の自殺の減少。増加する30歳代の自殺の要因は、セカンドチャンスを許さない社会というところにあるのか?むしろセカンドチャンスという言葉に説明されるような人間理解こそがかれらの死に加担している。
 もっともエネルギッシュで、脂の乗り切った人生の絶頂である30歳代で、リーマン・ショックが起こり、日本はついにゼロ成長の時代に入る。かれらの成長は、日本経済の衰退プロセスとみごとに負の相関関係に。時代が悪くなる一方なのに、目の前には誰にでも平等なチャンスが広がっている。それを掴み取れないのは自己責任をまっとうできないお前が悪いのだと言われているような気持ちになる。チャンスを掴むエネルギーが残っていない。ひとは、貧しさだけでは死を選ばない。貧しさを分かち合うものがどこにもいなくなったとき…死を選んでも不思議はない。

予想を超えてすすむ高齢化/人口減少局面とは、民主化の伸展によって女性の地位が向上し、家族形態が変化し、関係が分断され、個人中心の生き方ができるところまで文明が進んだことの複合的結果であり、自然としての人間と文明化した人間が作り出す社会形態のアンバランスを調整しようとする、歴史的な文脈の中で起きてきた出来事。
 人口調整が完了し一定のところで落ち着くまでの数十年間の間に起こる移行期的混乱に対して、十分な配慮と長期的な視野に立った対策が必要。
 介護を必要とする老人数はこれから先の数十年間、ドラスティックに増加する。現状の社会システム(医療制度、介護体制、保険制度)のままでは、老齢化圧力に対応するのは困難。システムの混乱、崩壊というかたちで顕在化してくる。それを新しい分野のビジネスマーケットととらえて、民間企業の大量参入によってまかなうという考え方もあるが、それはまた新たな混乱を引き起こすだろう。競争原理、市場原理でのビジネス化は新たな医療格差、介護格差を生み出すことに。(アメリカがいい例)

交換から贈与へ/ビジネスの基本要件は、売り手と買い手と商品。商品が貨幣と等価交換されるところが市場。ビジネスがビジネスであるためには、交換が繰り返し行われることが必要。この交換の繰り返しを担保するものは、買い手の売り手に対する信用、信頼。市場では単に、商品と貨幣だけが交換されているのではなく、売り手の技術や、誠意というものと、買い手の信用、信頼というものも一緒に交換されている。(ビジネスの二重の交換)市場とは、商品交換の場であるとともに信用創造の場でもある。
 この理路を踏まえると、医療ビジネス、介護ビジネス、教育ビジネス、宗教ビジネスは、ビジネスの要件を満たしていない。例えば、医療ビジネスにおいて、医療サービスを提供するものと、それを享受するものとの関係は、はじめから対等な関係ではない。非対称的な関係のなかでは、等価交換による商品交換はその本来の透明性を確保していくことが難しくなる。医療行為は等価交換というよりは、ほとんど情報や技術の贈与に近いものとなる。贈与の精神が生かされているからこそ、人は安心して医師に身をあずけることができる。贈与というのは経済合理性の及ばない人間的諸活動であり、その最も純粋な形式は、親の子供に対する愛情である。親が子供に注ぐ愛情には理由がない。いや、文化人類学上の、生物生態学上の、哲学上の、歴史学上の理由があるに違いないが、経済学や商品交換で説明できるような理由だけがない。
 現在まで進んできた民主主義、市場経済、フリートレード、人権の拡大というものはこれから先も止むことはないだろう。そういった社会の経済的進歩と、経済合理性の及ばない人間的諸活動を分別する知を早急に立ち上げる必要がある。家族や、共同体、地域社会とその中での、医療、介護、教育、宗教といったことを等価交換の価値観で計量することに、どれほど慎重になるべきかを学ぶべき。それらを学ぶ適切な言葉遣いを立ち上げることが今要請されている。

終章 未来を語るときの方法について

文明の衝突か、文明の接近か/前者はサミュエル・P・ハチントン、後者はエマニュエル・トッド。後者の場合は、宗教や文化の違いの対立軸としての役割は限定的であり、文明の歴史的伸展によって次第に地域間の差異は消滅する方向に向かっており、文明の差異を強調することは現在進行しているほんとうの問題(自由主義、資本主義経済システムが歴史的賞味期限を迎えている)を隠蔽することであり、現実を歪曲しようとする政治的な意図。と。
 両者の見解の違いは思想的な立ち位置の違いにすぎない。未来予測より、未来に向けてどのような遂行的な努力がなされたかが重要。そのために必要なことは、現在をどう理解するかということ。歴史を駆動している、見えない必然の歯車を探り出すことができるかどうかということこそがわたしたちに要請されている知的課題。

歴史への立ち位置/イデオロギーの正当性を争った時代が終わって以後、異なる場所、異なる生活習慣、異なる宗教をもつひとびとと相対したときに、かれらを仮想敵としてイメージするのか、将来の友人としてイメージするのかは、イメージする人間の個人的かつ内的な体験や資質に多く依存している。
 未来について語るものの立ち位置は、その語り口に顕れる。エマニュエル・トッドという学者の語り口の中に含まれている公平さ、世界を切りさばく手つきに大いに関心を持った。

世界を説明する方法/人口動態は民主主義の進展と深いつながりがあるという仮説をもとに「世界が民主主義を発見し、政治的にはアメリカなしでやって行くすべを学びつつあるまさにその時、アメリカの方は、その民主主義的性格を失おうとしており、己が経済的に世界なしでやって行けないことを発見しつつある」という結論を導き出す。『帝国以後』
 『文明の接近』では、世界中のイスラム文化圏の統計数字を調べ上げ結論を。「イスラムは、識字率や人口動態とは関わりなく世界中に分散しており、それゆえに、それぞれの国の民主化の進展と有意な相関はない。イスラムは、他の宗教と比して歴史発展を阻害する特殊性などは持っていない」と。
 歴史がこの先どのような帰趨を辿るのかを説明するため単一の指標というものは存在しない。トッドの慧眼は何を指標にしたらよいかということは、さしあたりいくつかの曖昧な変数を見出すことは可能だが、何を変数としてはいけないかということだけは、明確にすることができることを発見したところ。

人口減少の意味/半世紀にも満たない期間の中で、経済が急速に拡大し、人口が増加し、ひとびとの暮らしの利便性が向上し、文明がその爛熟期へ向けて発展し続けている。戦後日本の歴史は、まさに文明の拡大再生産の歴史であり、日本人の思考法もまた拡大再生産の文脈の中で形成されてきた。
 2006年をピークに総人口が急激に減少、経済成長率が徐々にゼロベースに、若年層の自殺が増え続けている、企業不祥事の質が以前と変化、…これまでの右肩上がり、拡大再生産の歴史プロセスに変化が起きている。
 移行期的混乱とは、これまでの時代の価値観や、方法論、問題への処方といったものの台座そのものが揺らぐことによって起こる歴史の転換過程である。

付録 「右肩下がり時代」の労働哲学(鷲田清一×平川克美)

有史以来の危機/「百年に一度」の経済危機にしては、実際に出てきた政策は極めて対処的なもの。これは、有史以来で、初めて経験するような局面に立っている。社会が進展した結果として現状がある。社会が成熟していった時の労働観や価値観といったものを脱構築し再構築することを誰もやっていない。今は、数千年にわたって増え続けた人口が頂点に到達して、これから減少していく「移行期的混乱期」。

戦後の仕事観の変遷/戦後社会の仕事観は三つのフェーズに分けられる。① 敗戦後の復興期から高度成長期あたりまで、働くことに「義」をかんじることができた時代。② 80年代に高度消費社会に変換。「消費」そのものが経済活動の基準に。消費者の「ニーズ」が準拠点。③ 金融市場、マネーゲームが表に出てきて金で金を買う。外に準拠点を持たないで、内側で金を回すという閉回路をとるように。

「ほしいものが、ほしいわ」/欲望は他者の欲望を欲望し、他者に欲望されたいと欲望する構造に。どこまでも拡大再生産していく、幻想の領域。欲望が幻想化していったプロセスが、70年代、80年代。マネーゲームも一種の所有の所有で、所有権を所有する、守銭奴になってしまう。そういう一種の閉回路に陥ってしまう。

レイバーとコーリング/労働観に二種類ある。レイバーは、要するに骨折り仕事。仕事をネガティーブにとらえることに。同時にこれは少しでも少ないレイバーでより多くの価値を、と考えるように=効率。機械化、労働からの解放されることが成功だと。人を使って自分は資本家になればいいんだと。最後に行き着くのがマネーゲーム。
 コーリングというのは、呼ばれる、召還されるという意味。自分の仕事は、ある種の務め、この勤めを果たすべく自分が呼び出されている。神から、社会から、同胞からなど(プロテスタンティズムの労働観)自分が呼び出されているという感覚が増せば増すほど、充実感が高まる。

なぜ貧乏自慢をしなくなったのか?/贈与経済とは、他者とのコミュニケーション。人に喜んでもらったり、驚いてもらうこと。ギフト。労働もギフトであると見なすこともできる。忌むべきもので、なるべく少ないほど良いという価値観とは対極にある労働観。6・70年代まではそうしたエートスが残っていた。それにやたらに貧乏自慢も。贈与経済は、等価交換ではない。物をもらう代わりに他者から称賛をもらうとか、交換できないものの交換だからこそコミュニケーションなのです。経済としては等価でない交換が行われてほうが循環型の交換が可能。
 本来、勤勉で正直で一生懸命やっているからお金がついてくるという結果が、いつからかお金を持っている人は勤勉な人でレイジー(怠惰)ではないというふうに、金がまさに勤勉性や聡明性だとかのシンボルに。だから、みんなそれを欲しがる。金で人間のある種の特性を買えると勘違いした。

「前傾姿勢」の時代感覚/工業においては少しの時間で最大の生産量を目指すべきですが、農業のほうは急いでしまったら最悪。前近代的な産業社会は、そういう対立する二つのベクトルを持った時間感覚を一人ひとりが持ち合わせていた時代。ところが一次産業の縮小と同時に、待つという感覚がどんどんなくなっていった。(前傾姿勢)
 企業の仕事は、すべて「プロ(Pro)」という言葉が付いている。「前傾姿勢」です。先読み、前のめり。結局「プロ」で考えてしまうと現在をないがしろにする。未来のために今すべきことを考えることは、現在を犠牲にすること。

リベラルとは気前がいいことである!?/「リベラル」という言葉の英和辞典で、一番目の意味は「気前がいい」、二番目が「たっぷりある」、三番目が「寛容である」、そして四番目が「自由な」「自由主義の」と出てくる。「リベラリティ」は、「気前のよさ」という意味。贈与経済につながるような本当の意味での自由というのは、「人に振る舞ってやる自分こそが自由だ」といったような広々としたものでは。「タイム・イズ・マネー」も「時間はお金ほど大事なものなんだ。だから、自分の時間を人にもっと振る舞え」という意味で考えることもできる。気前のよさの交換みたいなイメージでリベラルという言葉を考えたほうがいい。
 「危機」という言葉に乗ってはいけない/危機と言った瞬間に思考停止になる。20世紀は「危機、危機」と言い続けてきた世紀。それでかろうじて生き延びてきた面もある。

<私の感想>


 若い人たちのためのブックガイドー<その1 現在を把握する>の三冊紹介する最後の三冊目。紹介するにつれ、段々長文になってしまった。しかし、この三冊目が一番タイトルの「現在を把握する」にふさわしい、読み応えのある本です。そこで、内容を要約しながら、文章・言葉を確認していったら、初めはスラッと読み飛ばしていたのに、ブックガイドにするとなると偉く時間が掛かってしまった。

 私たちの「現在」とは何かを問うた時、著者は、それは「大きな時代の転換期であり、同時に移行期的な混乱期である。」とする。その論証を、本書では「社会史的・生活史的」に思考をめぐらせ丁寧に行っている。自らが企業経営者でもあってか、労働観、雇用システム、格差と貧困、企業倫理、ビジネス論などに著者の特徴や考えがよく出ています。

 日本人の労働観についての分析にも、著者自身の経験や環境がよく反映されています。しかし、少し物足りない点もありました。最後に、鷲田氏との労働哲学についての対談で、西欧の「コーリング」や「ギフト」という捉え方について出されています。そこでは日本人の労働観との相違、共通点までは述べていません。これからの日本人のそれがどうなって行くのかも含めてもう少し深めて欲しいところです。それでも、本書で、現在、法改正が問題となっている人材派遣法については、その当初の事情とその後の経緯がはっきり分かりました。そして、私は、日本の労働界改革は、もう一度初めからきちんと整備し直すことの必要性を強く感じました。

 「医療、介護、教育、宗教は、経済合理性の及ばない人間的諸活動」というビジネス論から見た見識は、「なるほど!」と思いました。さらに言えば、公務労働とは、自治体の仕事は、… 医療、介護、教育、の諸活動とさらに、医療労働、介護労働、教育労働とは、と労働論からも詳しく見ていく必要があります。(宗教は?)ここでも、「コーリング」や「ギフト」という視点も大切だと思います。

 著者には、エマニュエル・トッドの視点がよく援用されているようです。私は、原著に当たっていないので今のところ著者の評価しか分かりませんが、その視点、語り口は、魅力的です。人口動態で見る。何を変数とすることが可能か(限界も)何を変数としてはいけないか。そのために徹底的な数字を追っていく作業。魅力的ですが、私には、真似ができそうもありません。しかし、私にも「国との関連での自治体の行財政分析をする」という大きな課題がありました。(ほとんど進んでいません。)どうもこのトッドの視点、語り口は、この他にも応用、活用できるような気がします。

 「「前傾姿勢」の時代感覚」と「リベラルとは気前が…」のところでの工業と農業の二つの時間感覚の違いについて。私自身、つい最近まで工場制農業(きのこ栽培)と普通の農業をしていましたから、分かります。工場制は確かにどうしても前傾姿勢になってしまいます。それで結局、自分自身の体を壊すというところまで行ってしまったのです。(今は治癒)二つの時間の問題は、地域再生・創造、地域づくりにも関連してくるように思われます。また、私は、今は、リタイアしていますから、リベラル…のところで言っているように、「自分の時間をどう使うか」→「人のためにも振る舞う」ようなこともしているつもりです。それがボランティアや市民活動であったりしているのです。このリベラルと時間の贈与というようなことも地域再生、地域づくりに関連してきます。

 本書ではこの移行期的混乱への対応について「問題なのは、成長戦略がないことではなく、成長しなくともやっていけるための戦略がないことが問題。」といっています。しかし、それでも、本書の中には、具体的な対応策は何も書かれていません。ただ、「人口調整が完了し一定のところで落ち着くまでの数十年間に起こる移行期的混乱に対して、十分な配慮と長期的な視野に立った対策が必要。」としているだけです。試行錯誤も覚悟し、結局は、時が解決してくれる?時を待つ?ようなところもあるようです。しかし、それでも「現在」とは何か、「現在を把握する」ことがきちんと出来ていないと、より良い戦略や対応策も、立てられませんし、問題を上手に先送りすることすらもできません。
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