触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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東日本震災日記 (その2)

東日本大震災日記 (その2)

3月11日(1日目)

震度7の激震、被災生活の始まりと叔父夫婦の安否確認へ

 この日、私はほぼこの金曜日午後に日課としている健康増進のためのトレーニングをしていました。場所は、東北新幹線のくりこま高原駅に隣接した「エポカ21」というフィットネス施設です。トレーニングルームで一汗かき、脱衣場で汗まみれのウエアーを脱いだところで非常に大きな横揺れに襲われました。バランスを崩しながら急いでウエアー身につけました。浴室の湯船のお湯は波立ち、素っ裸の男たちが飛び出してきました。狭い脱衣場は危険で急いで広い廊下に脱出しましたが揺れが激しくて立っていられません。そこの手すりにしがみつきました。周りの客にも私は、「早く手すりにつかまって!」と叫びました。流水プールの方を見るとプールの水が大きくうねり、周りの器材が空中に飛び散りました。手すりにしがみついていたのが何分だったか、(非常に長く感じましたが、)少し揺れが収まると、更衣室へ急ぎました。いくつもロッカーが倒れていましたが、幸い私が使用していたものは大丈夫で、急いで汗で濡れたウエアーの上に服を着ました。受付の靴箱の鍵は飛び散っていましたがスペアキーで開けてもらい、急いで屋外に出ました。

 駐車場の車は、みんな良くサイドブレーキかけられていたためか異常なし。落ち着いて乗車し、運転。道路にはまだ車は少なく、ゆっくりと徐行運転し、家路に。しかし良く辺りを確認すると、恐ろしいことに信号機、標識などが大きく揺れているではありませんか。路面を見ると橋梁の前後は10センチ以上の段差が生じていました。地震が起きたのが午後2時46分。3時過ぎにはエポカを出て、いつもは10分足らずで家に着きますが、この日は3時半ごろか。

 家に近づくと、驚いたことに我が家の外塀が、無残にもほとんど倒壊状態になっていました。この外塀は3年前の宮城・岩手内陸地震で亀裂が入るなど、既にかなりのダメージを受けていたのですが辛うじて保っていたものです。妻は、私より少し近いところに出かけていたので一足先に家についていました。家に入ると先ず、我が家と繋がっている義父母が住む母屋へ、義父母の無事を確認。妻の開口一番は、「携帯を持っていかなかったネ…」そう、お互いに携帯を持ち歩く習慣がなく、また二人で反省。

 それから家の中の点検を。母屋は6年前に新築。2階建てから平屋にし、物を高く積まない、食器棚はストッパー付きに、火を使わないIH式の台所(オール電化)。結果は、今回も被害は極小(3年前も)。壁掛けの時計が落ちてそのガラスが割れた位。(そういえば、3年前にも時計が落ちた。)我が家は、2年前にリフォームし、母屋と同じ様式にしました。1階は壁掛けの絵画がいくつも落下した位。しかし、2階は、それなりの対策はしたものの3年前ほどではありませんが、今回も書棚は倒れ、クロゼットもメチャクチャに。隣の2階建ての物置では、1階の味噌部屋(食器庫)では、前に我が家で使っていた観音扉の食器棚からは食器が飛び出し破損など大被害。2階の文庫も今回も絵本等が散乱(棚は作り付け)し、足の踏み場もないほどに。

 そんな被害の確認をしてから、ようやく必要なものの確認・確保へ。もう午後4時を大きく回り、暗くなるまで2時間を切っていました。そう、後で分かったことなのですが、この今回の東日本大震災は、マグニチュード9と最大規模、しかも、私が住むここ栗原市築館が震度7と最激震地でした。即座に、停電、断水、通信遮断。それが、当初は、3年前ほどかとしか考えず、そのうち直ぐ回復すると思っていました。その後に来た巨大津波、福島の原発事故と最悪の事態の連続になるとは、この時点では全く予想できませんでした。そして、それが、今現在どころが、この先どれほどまで期間と規模で影響が出てくるか、未だにかいもく見当がつかないほどの恐ろしい非常事態です。

 早速、水道水を貯め始めましたが、大きな鍋2つに入れた位でストップ。但し、日常的に2箇所で確保している純水がたまたま2ケ満杯で計10リットル、それに少し消費期限の切れた2リットルの備蓄水が6本(これは加熱後使用)、それに風呂水(これはトイレ用)懐中電灯4つ、乾電池も多数集め、庭のソーラーライト3つ、カセットコンロ2つにボンベのストックは2つ(これが備蓄不足!!)、それに一応ローソクも。練炭は1ケ、それにバーベキュー用の木炭も。それに電池式の小型ラジオが2ケ。食糧は、精米後の米はたっぷり(但し、炊飯器が使えない)、ハウスには青物もたっぷり、缶詰はある程度は備蓄、カップ麺等も少々、しかし、日常的に我が家も母屋も冷蔵庫の中はいっぱいにはしない主義。ただし、私がよく料理をすることもあって、調味料類は結構たくさん揃っていました。このようにまず手持ちのものをしっかり確認することから始めました。

 とはいうものの、ここでこの後一番重要となってくる燃料の確保が私の普段のチェックリストから落ちていました。燃料はカセットボンベも不足ですし、何よりもガソリンが抜け落ちていました。この時点で妻、私ともに残量が僅か、たまたま義父の乗用車のガソリンが半分ほどはあったため何とか暫くは耐えられるか?という状態でした。私の場合、このところのガソリン高の中で、週末が少し安くなる翌日の土曜日に入れる予定でした。農村地帯では公共交通に頼れず、各家での車の複数所有は当たり前です。(我が家はこの乗用車3台の他に軽トラックがさらに2台あります。しかし、ガソリンは僅かしか入っていませんでした。)しかし、灯油の方はたっぷりありました。ところがストーブは全て電気の要るもので、旧式の石油ストーブは既に処分していました。オール電化は安全なのですが、こうした時、弱点になります。3年前は我が家の方がまだリフォーム前で、プロパンガスでした。確か、衝撃で一度は止まりましたが、後で回復できたと記憶しています。トイレもこの辺りはまだ汲み取り式が多く、(農村でも市街地は広域下水に)我が家は母屋新築時に合併浄化槽にしました。まあこれは普通の下水でないため、面倒ですが風呂水で対処できました。

 そうこうしている内に辺りは暗くなり始め、いつもより早めに夕食をとりました。居間の掘りコタツの上にソーラーライトをはじめ必需品を置き、その周りに布団を敷き、枕元にはスニカーを置いて、防寒服を着て寝ることにしました。度々、大きい余震が続いていました。

 ところが、我が家以外のことで一つ大きな心配事がありました。それは、同じ市内なのですが10キロほど離れたところに住む義母の実家のことです。ここには義母の弟夫婦が住んでいるのですが、叔父は2年ほど前に怪我をし、身障者に、叔母はうつ病がひどく寝たり起きたりの状態。それで、この二人の安否が心配になりました。(介護サービスは受けているのですが…)一番関係の深い義母自身はもうアルツハイマーの10年超選手?(しかも足腰も悪いけど、その割りには、元気すぎる!)であって、従って、義父や妻がこのところサポートに入っていました。そこで、義父がまず、そこへ、一晩、今夜泊まりに出かけるということになりました。(義父自身が一番の高齢で85歳。しかし、心身ともまだ元気で、米と野菜作りの中心です。)何か人質になりに行くみたいな感じですが、明日、私たち夫婦で救出?(実際には、差し入れと地震被害の片付けに)に行くことにしました。

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