触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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東日本大震災日記(その3)

東日本大震災日記 (その3)

3月12日(土)(2日目) 

被災生活が本格的に始まって、

叔父夫婦の安否の確認(つづき)

-前日〔3月11日の地震当日〕、義父は一旦、戻ってきて、家族に叔父宅の被害の様子を話しました。結局、誰かが取り合えず一晩泊まらねばならないとなり、義父が「オレが泊まる」と言ってくれました。そこで、まず、叔父の姉である義母も連れて(暗い中1人で置いておけないので)、4人で、残りのガソリン僅かの妻の車に乗って出かけました。国道4号線の下りは渋滞していなとのことで暗い中(かえって車はライトがついて安全)ゆっくり信号が消えた道を行き、叔父宅に到着しました。
玄関を入ると靴箱から靴は飛び出し、置物は落ちて破損、ガラスの破片が散乱し大変危険な状況でした。叔父夫婦は怯えるようにして2人とも寝室のベットに寝たきり、その周りの物が散乱していました。義母は叔父にお説教を始めましたが、妻と私は取り合えず寝室の周りを片付け始めました。さらに暗い中、廊下のガラス破片をかき集め、一定の場所の安全を確保して、義父だけを残してその日は帰りました。ソーラーライト1ケ、電池式ラジオ1ケ、カップめん数個を置いて真夜中に帰ってきました。妻の車は、丁度燃料が赤い警告のライプが点きました。私はガソリンがまだ半分くらいある義父の車に乗って帰ってきました。

義父を迎えに、再び叔父宅へ

-翌朝、急いでありあわせの材料でカセットコンロを使い、雑炊を作り食べて、夫婦2人で、義父の車で叔父宅に出かけました。その途中、地域の公民館分館の周りでは、既に自治会役員たちが慌しく動いていました。
 持っていったものは、カップめん、缶詰、お菓子などの食料、ビニール袋〔肥料用の丈夫なもの〕などです。3人の無事を確かめてから、夫婦2人で本格的な屋内の片付けに入りました。私は、廊下と玄関のガラス破片の撤去や障子の建付けなどを直し、妻は叔父夫婦がくつろげる居間の整理を行いました。台所をはじめ、どこもかも散らかっていて、地震でさらにそれが手もつけられない状態になったという感じでした。燃料、水の確保を確かめようとして調べるとプロパンガスは、一瞬点いたのですが直ぐ消えてしまいました。外に出てみると大きなプロパンガスボンベ2つは倒れていて素人ではどうすることもできません。しかし、散らかった物置からカセットコンロ1ケとボンベ3つ見つけました。これで当分は大丈夫です。さらにトイレへの廊下の安全を確保し、洗面所の蛇口をひねると水道がどうしたわけか、生きていました。(どうもここがこの地域で少し低いところにあるためか?)

お墓の被害を見て、我が家と地域のことも 

-このようにして一応の叔父宅での作業をすませました。帰りがけに叔父に、燃料店(一関)への修理を頼む電話連絡と、古川に住む娘への連絡を頼まれました。こうして、大事な役割を果たした人質の義父を無事に奪還?し、3人で義父の車で帰ってきました。その途中、義父の要望で、帰りに隣地区にあるのお寺と家の前を通り過ぎて、地域の神社とずーとはずれにある墓地を見に行きました。お寺は建て替えたばかりの門柱が倒れ、神社はほぼ無傷、墓地は多くの墓に被害が出ていました。家の墓は、お彼岸が間近なのに、墓標(江戸時代からの祖先の記述がある)が真っ二つに割れて、転倒、散乱していました。墓石自体が転倒してしまったところも多数ありました。

 家に帰ってきて、待っていた義父母を含め4人分の昼食は私が作る塩ラーメン(一つの鍋で済んでしまいます)。いつもは夕食だけ妻が4人分作り、朝と昼は母屋と我が家は別々でした。(我が家の朝と昼は半々の筈が、いつの間にか私の担当が多くなっています。母屋は義父がよく作っている。)今は非常時、細かいことは言ってられません。この後、妻は、自治会の衛生部の部員で、地域の自治会の行っている炊き出しの手伝いに行きました。朝、通っていった公民館分館が地域住民の避難所になっているのです。私は、昨日簡単に母屋と我が家の1階部分の片付けはしましたが、ようやく本格的に我が家の片付けに取り掛かりました。我が家の2階部分も一人で片付け始めました。また、外塀については、散乱した瓦礫を少し寄せて、取り合えず交通の妨げにならないように昨日のうちにしておきました。

そうした最中に、かなり遅れて母屋が購読している河北新報が配達されてきました。我が家の朝日新聞は、仕方がないことですが、この日はとうとう配達されて来ませんでした。

 夕食は、いつも通り妻担当で、これも一つの鍋でできる冷凍うどんを使った煮込みうどん。夜明かりがないので、いつもより早い午後5時頃に食べることになってしまいます。

娘などとようやく連絡が取れて

- その合間に、携帯での通話を妻の方では上手くできず、私の方で、遠方の四国に住む娘、仙台に住む義妹に何回か試みてやっとできました。娘はあとで娘のブログを見て分かったのですが、大変な心配をしていたようでした。しかし、その後暫くはそれもできなくなりました。また、叔父に頼まれた古川に住む娘への連絡に成功し、直ぐに妻と電話を代わりました。叔父の娘は養子で小さい子から仙台まで行っている高校生までの4人の子持ち、叔父宅までは40キロもあり、時々は親の世話に通っているがとてもいつもできる状態ではありません。この地震でも一家は近くの学校の体育館に避難しているとのこと、子どもたちの安否もようやく取れたという。妻は、叔父夫婦の様子を伝え、会いたがっていたので、「落ち着いたら会いに」と進言していました。

フランス料理を食べるはずが… 

-本来のこの3月12日(土)の予定は、午前中からお昼にかけて、栗駒の「みちのく伝創館」調理室で「春のお祝い料理」教室に2人で参加することになっていました。菅原敏幸先生の指導で作るのは ①オードブルパリエ②春野菜と魚介類ノスープ③牛ヒレ肉のストロガニフ他 というものです。フランス料理と思われるこの料理教室は夫婦で参加するのは今回が2回目のはずでした。私の場合、ただ、食べに行くのでなく、作るのを覚えられさせる〔妻に〕ため?なのです。いつが、落ち着いたら、このような企画はまたやると思いますが、フランス料理を作って食べているはずが、大震災でとんでもないとこになってしまいました。

3月13日(日)(3日目) 

震災で、地域での共助は、今…

朝食は雑炊6人分を作って 

-この日の朝食は、たまたまフカヒレスープ缶と蟹缶が備蓄?してあったので、それを使って、私たち2人はフカヒレスープ缶で雑炊、あと蟹缶で雑炊を4人分作り半分をまず義父母に、残りの半分を土鍋に蓋をして叔父宅に持ち込みました。炊いておいたごはんは既になく、だいぶ前に余ってしまって冷凍しておいたごはんを、少し自然解凍しておいてからまた土鍋で煮込むというものです。味付けは「味覇(ウェイ パァー)」という中華スープの素の大缶、それに燻製にしたベーコンの塊、このベーコンは電気が止まってから冷蔵から凍り付いていた冷凍へ移し、長く使い続けました。

店頭販売に運良く出合わせて 

-朝食後、義父の車を使い、2人で3日連続、叔父宅に行く前に、その途中のマックスバリューとホーマックに寄りました。9時少し前でしたか、丁度マックスバリューでは、店頭販売を始めており、その反対側のホーマックでもその前に人が集まり出していました。妻がマックスバリューに行って食料品を、私がホーマックに行って入り口のアコーデオン扉の前で並び始めました。

ホーマックのその中では、店員が真っ暗な店内からヘルメットを被って取り合えず売れる商品を取り出していました。それに一つ一つ価格をつけ並べるのにかなり手間取っていました。私の後ろにはもう100人近くにも人が集まっていました。10人ずつ入って下さいということで、私は幸運にも最初の10人になりました。どうしても欲しかったのは、勿論、ガスボンベです。カセットコンロは20ケくらいありましたが、ボンベは10セット(3ケ1組)ほどしかありませんでした。余裕を持って2セット欲しかったのですが、後の人のことを考えて1セットにしました。あと、紙コップ・皿などを買いました。

叔父宅へ行った帰りにも、丁度、ウジエスーパーで店頭販売が始まっていて、食料品は、それぞれ2ケまでというので、カップめん2箱、バナナ2房を買いました。
それぞれの各お店の対応を見るといろいろ考えさせられました。地域で商売をしている(地域貢献)ということで、電気が来ていないので大変な中でお店を開くこと自体、大いに評価ができます。(この時点では、災害時協定のようなものがあるはずなのに、コンビニなどは全く開いていません)しかし、ホーマックでは、電卓を使っても慣れていなく計算し直しをして、それを細かい分類までしてノートに記入してと、時間がかかるばかりでした。一方、2つのスーパーは、価格つけもおおざっぱで、お金のやり取りもテキパキとしていました。

 また、お客さんも皆さん、よく秩序を守っていました。順番を守る、取りすぎない、分け合う、情報を知らせ合うなどしていました。

叔父宅の片付けの続き 

-3回目となる叔父宅では、今回は、主に台所など片付けをしました。片づけをしていて、どうも今回の地震以前からこの台所は片付いていなかったのではないかと思われてしようがありませんでした。娘があまり来れない、しかし、ヘルパーは入っているはずなのに?台所の物の配置が出来ていない、洗っていない食器があちこちに散乱、それらをすべて綺麗に掃除し、配置しました。それで、燃えるゴミは我が家に持ち帰ることにしました。危険物は、肥料用のビニール袋に入れて後日処理することにしました。

帰りに妻は叔父から近くの叔母の親戚への連絡を頼まれました。そこで、車で寄って、叔父からの「瓦の落ちたのを片付けに来てくれ」という伝言をしました。

公民館分館に出かけて行き 

-お昼過ぎには我が家に戻れました。その頃、朝日新聞の2日分が配達店社長がタクシーに乗って(チャーターしたのか?)配達にきました。その後、妻はまた公民館分館に、うちの精米とハウスで育った青物をたくさん持って、炊き出しの手伝いに行きました。私は、外塀の瓦礫を集めてあるものの一部撤去(半分くらいか)をして、道路の通行をよりし易くしました。義父はどうも午前中、お寺のこと(被害と修理か?)で近くの何軒かに打ち合わせに出ていたようです。そして、午後には、帰って来た車で義母を連れて、地域の大勢の年寄りたちが避難している公民館分館に、暖を取りに出かけて行きました。母屋にも我が家にも旧式の石油ストーブがありません。年寄りには連日のこの寒さはきつく、妻が手伝いに行っていることもあって行き易くなったのだと思います。また、義父はこの地域の老人会の会長でもあり、皆のいるところへ顔見せ、お茶のみに行ったのです。それで、夕食はそこでカレーライスを頂いてきました。    

今、地域の共助力が試されている 

-私たちが住む地域―ここは「築館黒瀬」という行政区ですが、ここの地域、自治会・行政区各自治組織など、この今回震災に際しての初動は、素早いものでした。直ぐに、役員などを中心にして、公民館分館を避難所に立ち上げました。それは数日で済みましたが、数十人の年寄り、子どもの安全を確保しました。自家発電機を用い、大きなストーブで暖房をし、炊き出しをしました。他からの救援物資が多少は来ましたが、ほとんどは自前でしています。地域の自力で立ち上げ、地域で共助をしているのです。私も役員を十年前くらいに持ち回りの公民館分館(行政区)の主事(庶務)を経験しました。今は、妻が役員の一員(衛生部員)で出ています。妻は今回叔父夫婦のことがあって参加が少し遅れました。妻の話を聞くと、役員全てが参加できているわけではないが、避難住民の家族からの役員以外の参加(ボランティア)もあるといいます。妻から、その中の女性陣のやり取りを聞かされるのですが、(私に言うことによって妻は分析したり、自分の考えをまとめている)どうも中心は同世代の仲間です。

 一方、叔父の住む地域での動きは、非常に鈍いと感じられました。叔父夫婦の場合、その状態からして「孤族化」に近いものがあります。明らかに今回は極めて危険が迫っていました。市内でも地域によって今回の震災に対しての取り組み状況はまちまちです。まさに、地域の共助力が今、試されています。地域での人と人との結びつき、つながり、役員だからということだけでなく、出来ることを、出来ることから、出来る人がする。それをし易いように自治組織が環境を整える。そうしたことが、今、すべての地域で求められていると思います。


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コメント


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無事で何より

無事で良かったです。
すぐにこのブログを見たのですが、
更新されてなくて心配していました。

キタ セイイチロウ | URL | 2011年03月22日(Tue)11:31 [EDIT]


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