触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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東日本大震災日記 (その4)

東日本大震災日記 (その4)

3月14日(月)(4日目) 

通信の遮断で、深刻な影響が、…

学習会開催が出来なくなって 

前日の3月13日(日)に行われるはずだった予定は、「ゆきとどいた教育をすすめる栗原市民の会」の第2回学習会です。栗原市市民活動支援センター2階で午後1時半より開催の予定でした。内容は ?新学習指導要領の改訂について、?学校再編について、?学校関係施設の入札について です。1月の30日に行った第1回の新春学習会には、読書会として「小中一貫教育を検証する」(花伝社)のチューターを私がしました。今回も担当にはなっていませんが、?については、この4月から小学校で英語の必修化されることについての問題点を、資料をまとめて提出しようと思っていました。?についても「公共工事の価格は適正でない」とし、官製談合が横行している現状に警鐘を鳴らす岐阜の建設会社「希望社」社長のインタビュー記事を用意していました。そして、この後5月ごろには「新学習指導要領の改訂に伴う教育現場の現状と今後どのようになるか。」という学習会を開くことになっていました。

この学習会に限らず、2日目の日記にも書いた3月12日(土)の料理教室の方もその中止を知らせる手段が全くありませんでした。この後も次々に予定の延期、中止などの変更の連絡が全く出来ないという事態が続きます。そして、それが果たしていつまで続くのか、今のところ、全く見当がつきません。しかし、今後それらをスムーズに復活・再生させていくには、今一度、本来行われるべきだったものは、一体何だったのか、しっかり確認しておく必要があります。しかし、今回の東日本大震災という未曾有の大惨事の前に、それとの関連で今後、大幅に軌道修正していくことも必要になってきます。

もろかった通信手段

 地震が起きて即、電気がストップしたため、我が家の電話での通話はできなくなりました。しかし、暫くの間は、私の携帯は、相手が遠方の場合に限って混雑していない限り、ある程度使えました。(13日までに仙台、東京、香川と)しかし、近いところ、栗原市内に関しては全く連絡が取れない状態になりました。妻のは、私と同じソフトバンクでしたが使用不可に。そのうち私の携帯のバッテリーは切れてしまいました。

NTTの固定電話が無料で使えるというアナウンスがラジオでしたので、叔父からの依頼で一関の燃料店に国道4号線沿いで12日、13日と何ケ所もトライしてみましてが全くダメでした。我が家の電話はIP電話で、電話線とは別に電源が必要で使えません。しかし、母屋の電話は、アナログ回線なので、電話線が大丈夫であれば停電時でも使えるはずでした。そして、暫くしてから、この日(3月14日)には回復し、使えるようになりました。それで、東京に私の実家があり、兄弟家族が多く住むので、その何ケ所にもトライしてやっと兄嫁とつながりました。そこから、実家と兄弟に私の周りが皆無事であることを知らせてもらうことにしました。そして、遠く離れた娘と息子と、そのつれあいの実家からも連絡が入りました。この後、次々に叔父の兄弟、私たちの大学時代の仲間、千葉時代の仲間、宮城県内の各地からも、市内の親戚、知人・友人とも連絡がとれるようになってきました。(15日から18日にかけて)最後、19日には、私の東京の実家の姉より電話がありました。途中で99歳になる父と代わりましたが、悲しいかな、どうも息子のことは認識出来ないようでした。

今回の東日本大震災では、被災地を中心に電話などの通信手段が使えなくなり、被災者の安否確認が困難な状態に陥りました。携帯電話やインターネットの普及など、通信手段が格段に進化した今、なぜこんな状況になったのか、不思議で理解できません。どこに問題があったのかという検証と、どうすればそれが解消されるのかという対策が取られるよう望みます。

子どもたちが、大変心配して

 それにしても遠く離れた子どもたち、娘(香川県高松市)と息子(東京・川崎市)があまりに心配していたので、正直、ビックリしました。2人とも、親の私が言うのは何ですが、確かに心優しい子に育てたので、妻と一緒にちょっと嬉しい気持ちになりました。

娘は、今回、一番の激震地の栗原市の様子がニュースで全く流れず、不安でたまらなかったようです。こちらの家族や友人のことが気がかりで、「寒い中どんな辛い生活をしているのか」と心配し、他のことが全く手につかない状態だったといいます。

息子もこちらのことが心配で、1時間おきに電話したといいます。東京に行っている友人らと栗原に一緒にまとまって帰ってくると伝えてきました。息子は、これまで地元に残って地域おこしのイベントなどをしている仲間に協力するなど大変、栗原の地域想いなので、分かるのですが、「今しばらく待つように」と私はストップをかけました。

運動不足で、体調も崩しがちに


 私は、地震が起きた最初の日(3月11日)だけは、1階の居間で妻と掘りコタツを挟んで2階の寝室から布団を持ち込み寝ました。枕元にはスニカーを置いて、フードつきのパーカーを着て暖かくして寝たつもりでした。しかし、夜中には幾度も大きい余震が続き、その都度、起こされただけでなく、ともかく非常に寒くて眠れないのです。暖房はないし、お風呂に入って温かまることもできません。それに一晩、居間で寝て、寝心地が悪くて背中・腰を痛めてしまいました。2日目からは私だけ2階のベットで寝ることにしました。

通常は夜中にトイレに行くのは1回かせいぜい2回、それが2時間おきくらいになってしまいました。まだ少し明るいうちに夕食の準備をしますから、食べるのも早め、暗くてあとは長い夜を寝るしかありません。10時間くらいは布団の中(いつもは6時間ほど)、ですからいつもトイレに行くことになりました。それも私の場合、小の方は屋外に行くことにしましたので(妻は「同じ場所でしないで!」と)余計に寒い、冷えるのです。一時は病気になったのでは思ってしまいました。(電気が点き、暖房が入ると、また通常に)

更に私は毎冬、足のかかとがひび割れになり易く、ふくらはぎもツリ易くなります。ですから特にこの冬は念入りに足のメンテナンスをしてきました。しかし、暖房なしの被災生活が続いてくると、いくらクリームを塗り、マッサージをしても効果は薄く、ひび割れどころか傷のような裂け目までできてしまいました。

私は、健康維持のために、日常的に食生活にも気を使っています。それがこうした非常時には出来にくくなってしまいました。野菜ジュースだけは、幸運にも、丁度まとめ買いした後で、1リットルのものを1ダース確保できていました。しかし、ヨーグルトとリンゴジュース(1リットルのリンゴジュースに大匙2杯の粉寒天を入れ加熱してリンゴ寒天を作る)は、毎週火曜日頃に1週間分買っておいていたのが、やはり途中で終わりになりました。仕方なく、リンゴジュースの代わりに野菜ジュースで作ってみましたが、不味い。今は、これは、黒糖入りのコーヒー寒天に変更しています。

運動では、日常的にしていた、温水プールでの水泳は全くできなくなりました。また、フィットネス施設でのストレッチ+筋力トレーニング+有酸素運動(6.3~7.5キロ/毎時を、途中休憩5分を挟み25分×2の早足ウォークキング)も同様です。仕方なく、自宅ですることになりました。まず、筋力トレーニングはマシーン無しのものにし、あとストレッチも問題ないのですが、有酸素運動は、現在のところやりようがありません。

長い避難所暮らしや車中泊で、被災者は長時間窮屈な姿勢を強いられ、足にむくみや血栓ができやすくなります。それによって、エコノミークラス症候群を引き起こす恐れがあります。予防には、こまめな水分補給や屈伸などの運動などが有効で、こうした指導や働きかけが十分に行われるように願っています。

冷蔵庫の残りの食材など確かめて

やりくりを 被災生活も4日目に入り、冷蔵庫の中はほとんどなくなってしまいました。もともと冷蔵庫には貯め込まない主義なのですが、今回ばかりは、ちょと、裏目に出てしまったか?それにしても電気が来ないのですから、この間、早めにその中の食材を優先的に使ってきました。この時期、我が家の台所は寒く、下手をすると冷蔵庫の中の方が温度が高いこともあります。この時点で既に冷蔵庫の冷蔵分の食材は調味料などを除きほぼ使い終えていました。それでも残り少ない、燻製ベーコンやウインナーを冷凍室の方に移しました。その他の備蓄?(まとめ買いはしますが)の食材も含め、冷蔵庫の残っている食材をうまく使って、確かめて、やりくりをしなければなりません。

その主なメニューは、前に紹介した雑炊は何回もしました。冷凍しておいたごはんを、自然解凍しておいてから土鍋で煮込むというもので、それが捨てないで、大量に残っていたため助かりました。冷凍シーフードもそれに入れました。雑炊だけでなく、この日の昼食は何とかチャーハン(4人分)にしてみました。それにも入れた燻製ベーコンは、細かく刻み何回も使えました。更に、ほぼ解けてしまった500CCのバニラアイス。この日の朝食は、冷凍しておいたけど少し柔らかくなった食パンをこのバニラアイスに浸して、フレンチトーストを作りました。翌朝は、残り半分の解けたバニラアイスを牛乳・卵の代わりとして使って、妻がホットケーキを焼いてくれました。更に、この日の夕食は、もう冷凍庫でも溶けてしまって柔らかくなった冷凍(だった)日本ソバを使い切りました。

3月15日(火)(5日目) 

電気が回復し、一安心。

もうすぐ春なのに、異常な寒波が続

 3月も半ばを過ぎたというのに、今年はどうした訳か、一旦、寒さが緩んだのに、また真冬に逆戻りしたようでした。 雪は降ってきて積もるし、猛烈な寒さで、真冬日(日中の最高温度が0度C以下)に何日もなってしまいました。県北のここ栗原市築館は宮城県の中で一番、寒暖の差が激しい所です。市街地・平地では、県内で最も寒くなる所で、この後ずっと冷え込みが続き、ついに3月18日の明け方には、マイナス8度Cを記録しました。これがまた、「後出しじゃんけん」なのです。いつも私は、インターネットで2日後までの天気・気温の変化をチェックするのですが、今はインターネットが使えません。しかし、新聞では予報がマイナス4度Cだったのです。それが結果は、またもやハズレです。マイナス6~7度Cで我が家では水道管が凍結します。対策は前の晩からチョロチョロ水を出しっぱなしにするしかありません。この予報が、マイナス4度C位で、結果がマイナス7~8度Cというのが度々起こるのです。それが「後出しじゃんけん」。私は、非常に腹が立つのです。しかし、どのみち今回は断水していたので影響はありませんが…

避難者高齢の義父母、親たちには、私たち以上に、この異常な寒さは、大変、辛かったと思います。被災生活が、更に長期化することを想定して、練炭(七輪で)は、最後の燃料として煮炊きを兼ねて使おうと考えていました。しかし、この前日(3月14日)に義父母は、公民館分館に、暖を取りに出かけて行ったのを見てそれは止めました。今日一日、母屋の堀コタツに練炭を入れることにしました。明日は明日で、バーベキュー用の木炭でしようと考えていました。(部屋の喚起には気をつけて) 
     
「ふれあい芸能まつり」準備の会議も開けず

この日(3月15日)の午前10時から、栗原市市民活動支援センター2階ロビーで、NPO法人「くりはら活性化ネット」の第6回の企画運営委員会が開かれることになっていました。間近に迫った3月18日開催の「第5回ふれあい芸能まつり」準備の最後の打ち合わせの会議でした。この「ふれあい芸能まつり」は、栗原市の金成地区を中心に、社会福祉施設と社会福祉関係団体を利用している方々、及び地域の高齢者等の方々を招待し、至福のひとときを楽しんで頂こうというものです。既に大勢の方々の参加申し込みがあり、スタッフ、出演者など含めると150人位の規模になるものでした。私は、その企画運営委員会の責任者です。あと委員が2名、それにこの日は、スタッフの参加も求めていました。

 それが、3月11日の大震災によって、一瞬にして、全く連絡が取れなくなってしまったのです。やむを得ず、当日、当時間に栗原市市民活動支援センターに、義父の車で出かけました。恐らく誰も来られないのではと思いましたが、そこは私は、責任者ですから行かないわけにはいきません。ガソリンがある程度あるのが義父の車だけで、その後の行動も兼ねて効率的に動くことにしました。つまり、ここから4回目となる叔父宅に向かうことにしていました。ですから、妻も同乗してです。

ガソリン不足で多目的に車を使って

 10時前に栗原市市民活動支援センターに着きました。1階の市役所の築館支所は、築館地区の災害救援センターになっていて、2階は使用不可でした。10時まで待ち、直ぐ叔父宅に行こうとしましたが、丁度給水車が来ていましたので、2人分の配給水の確保―(ポリ20リットルとペットボトル5本(10リットル)と配給のビニール袋に10リットル)ができました。またそこには、築館地区の災害ゴミの受け入れ窓口があり、対象のトップが ?がれき類となっていたため、我が家の外塀の大量の瓦礫の搬入について相談しました。そうしたら、ブロック塀などはダメ、瓦もダメ、木くず類だけと言われました。対象の ?が木くず類で、「この記述では、全く不正確、不親切だ」と強く指摘しました。しかも、「受け入れは今日で終わるかもしれない」とまで言いました。「それでは、災害ゴミ受け付けにならない!」と抗議しました。

 腹立たしい中、無能な市職員に付き合っておれず、先を急ぎました。叔父宅に向かう途中、焼き肉店の駐車場で屋台の鯛焼き屋さんが、丁度、鯛焼き作り始めていました。そこで少し待ってそれを6匹買いました。またそのうち、そこで、焼き肉店が店頭で冷蔵庫がダメになったためか、お店に出す上質の肉の販売を準備していました。それを一足先に、一番に千円分売ってもらいました。そこへ電気店から自家発電用の発電機が到着しました。これからお店の再開を準備するのだなと思いました。

 この後、叔父宅へ行く途中にある3月18日の会場となる予定だった「金成やすらぎセンター」に寄りました。中を見ると、そこは、この金成地区の被災者避難所となっていて、数十人の避難者で溢れ返っていました。市役所金成支所の担当者に会うと、私に「当日は会場を貸せなくなった」と連絡をしようとしたが出来なかったので「わざわざ来ていただいて助かった」とお礼を言われました。次に当日のスタッフ用の昼食、おにぎり2ケパック15ケを予約しておいた直ぐ近くのマックスバリュー金成店に寄ってキャンセルをしました。(本当は個人的には貰えると助かるのですが、―これ冗談です。)わざわざの申し入れに恐縮していました。またここで、丁度、店頭販売をしていたので、妻と二手に別れ、妻は、野菜、果物などが、私は、お菓子、炊き込みご飯の素などが買えました。行列は少し作りましたが、前と同じようにテキパキと店員さんがしてくれ、お客も慌てず、ゆっくり買えました。

 叔父宅へは、また食料品の差し入れと、居間をもう少し綺麗にして、快適に過ごせるようにしました。よく見ると旧式の石油ストーブが綺麗になっていたり台所も少し、手が入っていて、その後、娘さんが来たことが判明しました。叔父夫婦の顔が、最初に来た時とはすっかり変わって、表情が明るくなって、血色が良くなっていました。やはり娘が一番良いのだと思いました。最後に、危険物を入れた肥料用のビニール袋3ケを持ち帰りました。それをさっき寄った市役所金成支所に戻り、そこの駐車場にあった金成地区の災害ゴミ集積所に持って行きました。受付で氏名(叔父の名前)地区、電話を記入し ?ガラス・せともの類の所に出しました。しかし、その隣の ?家電4品目には、明らかに今回の地震でのものでない「便乗の家電ゴミ」が非常にたくさん搬入されていました。3年前にも有った事ですが、とても情けないことです。

ようやく3時に電気が回復

我が家に着いて、少し遅い昼食を摂りました。(義父母の方は、先にカップめんを食べたようでした。)しばらくすると、突然、前触れもなく電気が点きました。築館地区では、まず、栗原市立病院の電気が回復し、続いて、その近辺の宮野地区が前日までに来ていました。その次がいきなり黒瀬地区になりました。確かに宮野地区に隣接しているので納得できますが、栗原市内でも中心部でもないここ、黒瀬地区が早めに回復するのは、何だか少し他地域に悪いかなと思ってしまいます。それでも、我が家、母屋も大喜びです。

これによって、我が家のIP電話もつながり、すぐさまタイミング良く香川の娘のつれあいの実家より久しぶりにそのお父さんから、お見舞いの電話がかかってきました。私は、何だか嬉しくて、興奮して応対してしまったようです。また早速、炊飯器でごはんを炊くことにしました。そして、夕食まで待てなくて、妻におにぎりを作って貰い、早速、それをほうばりました。その何とも美味しいことと言ったらありません。その後、既にいつ電気が来ても良いように準備をしていた携帯電話とIpod nanoの充電をしました。また、これで、井戸水がポンプで汲み上げられるようになり、トイレも大丈夫、TVも点いて途端に情報量が飛躍的に多くなりました。しかし、インターネットはまだ、水道もまだまだです。そう、一番大切なこと、夜に明かりがあるということ、そして何よりも暖をとることができるようになりました。やっと一安心です。夕食には昼間にたまたま買うことができた上質の肉で焼き肉をしました。こんな柔らかて美味い焼き肉は、普段は食べていないと思い大変満足しました。

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