触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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東日本大震災日記 (その10)

東日本大震災日記 (その10)

3月23日(水)(13日目) 

ろう城5日目で、夫婦の内戦勃発!!

それは、食器洗いをめぐって起きた。

―私たち夫婦は、3月11日の東日本大震災以前は、ほとんど毎日、車で出かけていました。それが、ガソリンが無くなり止む無く、我が家は「ろう城生活」に突入しました。そして、この「ろう城生活」も、今日で5日目になりました。これまでに、何とか電気も水道も通信も回復しました。それに、食料品もそれまでに、若干開いたスーパーなどの店頭販売で多少は確保できました。さらに、娘と息子やその実家からの郵便局の定形外郵便を使っての物資補給によって何とか食いつなぐことができ、こうしてガソリンが無くとも、もう少しは「ろう城生活」を続けられる体制を維持してきました。

 我が家から何処へも出かけず、長い一日を過ごすには、妻は、編み物、家の内の片付け、読書、庭仕事を。私は、家の外の片付け、読書、それに調べ物したり、このブログを書いたりしてきました。また、一緒にTV,DVDなどを見たりしてきました。この日も、いつものように、私が作った朝食をとり、少し経ってからDVDで「インセプション」を一緒に見ました。その後、妻は、つなぎの部屋の片付けに取り掛かってしまい、食器を洗いませんでした。私は、急いで昼食にチャーハンとワカメスープを4人分作らねばなりません。そこで、我が家の夫婦の間で “内戦”が勃発してしまいました。

我が家では、食器は、食後に直ぐに洗うということが、地震前までは、習慣的になっていました。ところが、この間、断水が続き、そのやり方をこのところ変更せざるを得なくなっていました。その延長が続き、食器洗いが後回しになってしまっていたのです。妻が1年前に完全退職をしてからは、夕食のみは妻が母屋と我が家の4人分を、朝と昼は、基本的には、私と妻で半々に担当するとしていました。ところが実際には、朝・昼は、私が作ることが多くなりなっていました。特に地震後の非常時シフト(当初は、朝・昼・夕の3食とも我が家で準備した。そのうち、昼・夕のみに)では、食事作りに、私の出番が多くなってしまったのです。食器洗いは、以前は、ふたりのどちらがするという取り決めもなく、どちらかが、食後早めにしてしまうという状態でした。それが、朝・昼に、私のする比重が大きくなると、いつの間にか、妻の方が主に食器洗いをするようになりましたが、それでも、私も汚れたままの食器が残っているのが嫌なので、気付けば、していたのです。それが、この非常時シフトでは、完全に妻が全ての食器洗いは担当する体制になっていたはずです。

DVDを見終わったのが11時半を回っていました。12時には親たちは、もう食べる体制に入っています。特に認知症の義母は、12時を過ぎると、母屋の台所で何かを作ろうとしてしまいます。(実際には、何も食べられるものは出来ず、台所が散らかるだけなのですが…)ですから、私は、急いで4人分の昼食作りに入らねばならなかったのです。ところが妻は、つなぎの部屋の片付けに入ってしまい。山ほど貯まっていた汚れた食器を洗いません。昼食後にまとめてしようと考えていたようです。そこで私の方が久しぶりに切れました。先制口撃をしたのです。それに対し、妻の方も大型口砲で反撃をしてきました。4人分のチャーハンとワカメスープですから、それらを入れる食器がたくさん必要でした。妻が食器の用意くらい手伝ってくれても良いのに、それを要求しても全くしません。そこで、私は、さらに第二次の口撃を開始しました。それに対しても、妻はさらに大規模な反攻口撃に出て、内戦は激化するばかりで、事態は騒乱状態になり、収拾が全く着かなくなりました。

救世軍が来て、一時停戦から自然消滅へ、

―4人分の昼食が出来上がり、妻に告げると、内戦・騒乱状態の中、先に出来上がっていたチャーハンだけを、初め、母屋に運び、後から、ワカメスープも気付いて、運んでいきました。そして、妻は、自分だけは、すっかり、つなぎの部屋の片付けを終えてから、だいぶ後から冷めたのを一人で食べていました。

 こうして、この後も、気まずい膠着状態が続いていきました。再交戦はなくとも、火種はのこり、くすぶっていました。そこへ、仙台から救世軍が登場して来しました。義妹(三女)とその娘(次女)と大型イヌがワゴン車で救援物資をたくさん持参し、現れました。仙台でもライフラインが止まり、現在でも都市ガスがまだだということでした。義妹のところの子どもは、女4人。長女は東京に住み、今妊婦です。また、そこの娘はまだ小さく、水に放射性物質が含まれていて、乳幼児にはよくないので心配です。仙台では、義妹と3人の娘で、手分けして物資の確保に努め、ガソリンも入手できたので、こちらまで救援物資(豆腐、肉、タマゴ、牛乳、パン、お菓子、コロッケ、バナナ、など)を届けに、ついでにハウスに未だ沢山ある青菜類を取りに来たのです。大助かりです。その後も突然、土地家屋調査士がお客にやって来ました。もう、内戦も、その後の停戦もしていられる状況ではありませんでした。それで、我が家の夫婦の間で “内戦”は自然消滅をしてしまいました。地震時とその後の仙台とここ栗原の状況などを語り合ううちに、すっかり、いつのまにか内戦状態が消滅・鎮火してしまいました。これも非常時の良いところかもしれません。

 妻とふたりで、力あわせて、相談、確認、分担し、ペアで行動する、とした非常時のシフトを敷いたはずでした。被災生活が13日、ろう城生活も5日も維持して、それで、私たち夫婦は、「最強のペア」などという自信過剰があったのか?こんな夫婦の間で “内戦”が起きた今は、何だかこれまで気負っていたのが、少し恥ずかしくなりました。

 それにしても久しぶりの夫婦喧嘩でした。若い頃は、それは、しょっ中のことでした。それがいつの間にか、だんだん減り、最近は年に1・2度あるか無いか?初めのうちは、停戦までも時間がかかり、口を利かないのが一週間以上続くこともありました。それが今回みたいに、あっという間に停戦―消滅です。それも、停戦・終戦協定も何も無いのですから…あっさりとしたものです。お互いに我慢強くなった、というか、むしろ、あまり我慢もせず、何となく、上手く調整していってしまう、お互いの“間”の取り方が上手くなったのだと思います。夫婦をしてもうじき38年と40年近くにもなります。それだけ続けば、それは何とかこれしきの事はクリア出来てしまうのですね。
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