触媒生活

セカンドライフに入っての日常生活を文章、日記などで表現します。「触媒」のような役割を果したいというのが私のモットーです。コメント等をブログでも受けますが、連絡はメールでfa43725@yb3.so-net.ne.jp まで。

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湯浅 誠 ヒーローを待っていても世界は変わらない

<BOOKS>  47                   2012.9.3 

湯浅 誠 ヒーローを待っていても世界は変わらない

出版社: 朝日新聞出版 (2012/8/30)

<著者> 湯浅 誠 
 1969年、東京都生まれ。社会活動家。反貧困ネットワーク事務局長、NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」理事。95年から野宿者の支援活動を始め、貧困問題に関する活動と発言を続ける。2009~12年、内閣府参与。著書『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』で大佛次郎論壇賞

<内容紹介> 

湯浅誠さん:「ヒーロー」に委ねてはダメ 市民活動仕掛け人、動く 大阪に拠点

毎日新聞 2012年08月20日 大阪朝刊

 ◇変えたいのは有権者心理

 反貧困運動の活動家で元内閣府参与の湯浅誠さん(43)が、主な活動拠点を東京から大阪に移し、市民活動の仕掛け人として活躍している。21日発売の著書「ヒーローを待っていても世界は変わらない」(朝日新聞出版)で、強いリーダーシップを発揮する政治家の人気など「大阪で顕在化していることは、もはや日本全体の傾向」だと分析し、大阪発で「民主主義を活性化させたい」と、初めて東京以外で活動する理由を明かしている。【鈴木英生】
 湯浅さんは、東京都出身。東京大大学院法学政治学研究科在学中から、ホームレス支援などにかかわってきた。08年末〜09年年頭の年越し派遣村村長として知られた。政権交代後に務めた内閣府参与を今年3月に辞め、動向が注目されていた。
 同書は、近年、有権者が自ら政治を考える余裕を失い既得権益層を敵と名指しして成敗する「ヒーロー」型政治家が人気を集めているとする。代表格が小泉純一郎元首相や橋下徹大阪市長という。ヒーローに政治を委ねる心理は、民主主義の空洞化や格差・貧困の深刻化と連動していると見る。

<目次>

第1章 民主主義とヒーロー待望論
第2章 「橋下現象」の読み方
第3章 私たちができること、やるべきこと

<内容からの要約メモ(私が注目したところ)

「狭く濃く」か「広く薄く」か 

 民間の取組みは「濃く、だけど狭く」。妥協しないけれども、支援できる範囲は狭い。行政は「広く、だけど薄く」。利害関係の中で妥協せざるをえないが、支援範囲は広い。「税金を使う」ということは「趣旨に反対する人のお金も使う」ということを意味。

 1億2千万の異なる意見「民意」「利害」があり、その利害調整を議論を通じて行なうのが、民主主義のシステム。

最善を求めつつ最悪を回避する

 少数派―現実の調整過程にコミットして、一歩でも半歩でも実態に追いつくように政策を実現させていく。最悪を回避するために、わずかでも自分たちの主張を「すべりこませる」イメージ。最善を求めつつ、同じくらいの熱心さで最悪を回避する努力をすること。

「一人ひとりを大切に」は「規制権益を大切に」?

 「強いリーダーシップ」待望論、「決断できる政治」への期待感。これは一言でいうと、利害調整の拒否という心性を表しています。「一人ひとりを大切に」は「規制権益を大切に」?―ここで問われてくるのは、私たちにそれら一つ一つを見分ける眼力が備わっているかどうか。 

 怖いのは、社会全体に停滞感や閉塞感が広がり、仕事や生活に追われて余裕がない人が増えると「自分はこんなにがんばっているのに楽にならない」という不満から「自分は不当に損をしている」と感じる人も増える。そのフラストレーションを背景に「ズルして楽している人間は許せない」という怒りが高まり、その義憤に押されるように「既得権益」のレッテル貼りが横行していく。

ヒーロー待望論の心理と帰結

 状況を規定してしまうカリスマ性、反対意見を考量しない大胆さ、「えいやっ」の即断即決力、これらが「強いリーダーシップ」の中味だと言います。「突破力がある」「独善的」とも。

 しかし、それを待ち望んでいる人たちに最終的に望ましい帰結をもたらすとは思えない。1億2千万の利害はひしめきあっており、誰がヒーローになっても増減なし。少数者が「既得権益」として切られるのが今の社会。生活保護受給者でさえ「既得権益」として扱われる。複雑な利害関係がある中でバッサバッサとやることで、気づいてみたら自分自身が切られていた、ということも。

民主主義は、面倒くさくてうんざりするもの

 それぞれの意見が分かれる―異なる意見を闘わせ、意見交換や議論をする中で、お互いの意見を調整することが必要。

 誰かに任せるのではなく、自分たちで引き受けて、それを調整して合意形成していこうというのが民主主義というシステム。おそろしく面倒くさくてうんざりするシステム。

主権者は、降りられない 民主主義を放棄するという選択

 自分たちで調整してすべてを決めていくのが直接民主主義、現在の間接民主主義、議会制民主主義のシステムは選挙という制度を通じて選んだ人たちに、調整と決定を委任するシステム。この調整責任と決定権限はセット。なるべく自分たちで決めたければ調整責任を背負わないといけない。誰も調整しなければ機械的な多数決で決まる。

橋本大阪市長への期待

 いまという時代は、現実がある理念の「型」(終身雇用制、女性たちの主婦願望など)がそこから遠ざかっている(不正義が蔓延する)からこそ、水戸黄門型ヒーローと水戸黄門型ストーリーが求められている時代。そう考えた人たちが期待を寄せたのが、小泉改革、政権交代、そして、橋本徹。

政治不信の質的変化

 国会全体、議会制民主主義、政党政治というシステム自体に「決められない政治」というレッテルが貼られるようになり、政治システムに対する不信に発展。政治不信の底流で起こっている質的変化―それを生み出している「土壌」が重要。それが反・東京のトップランナーである大阪の橋本徹を生み出している。

焦りの背後にある格差・貧困問題

 「強いリーダーシップ」を発揮してくれるヒーローを待ち望む心理は、きわめて面倒くさくて、うんざりして、そのうえ疲れる民主主義というシステムを、私たちが引き受けられなくなった証。(民主主義の空洞化・形骸化の結果)

 その心理の問題点は、①私たち自身の、ひいては社会の利益に反すること。(気づいたら自分がバサッリ切られている)②多くの人が大切にしたいと思っている民主主義の空洞化・形骸化の表れであり、それを進めてしまう。この2つの問題点を結びつけているものが格差・貧困問題の深まり。

“溜め”のない社会

 人々が仕事や生活に追われ、余裕がなくなってきたからこそ、尊重されるべき自分の必死の生活とニーズが尊重されない不正義をなんとかしたいとヒーロー=切り込み隊長に期待していく。それと同じ苦しさが、人々から(面倒くさくて、うんざりして、そのうえ疲れる)民主主義と根気よくつきあう力を奪い、焦りを生み出している。(それが“溜め”のない社会)

 お金があれば金銭的な“溜め”、人のつながりは、人間関係の“溜め”、自信ややる気は精神的な“溜め”であり、“溜め”は、これらの総称であり、その全体が縮んでしまった状態、失われた状態が「貧困」。

 “溜め”の小さい貧困状態に追い込まれた人たちが増えていく社会は、そもそも自身の“溜め”を失った社会。“溜め”のない社会だから、ちょっとしたことで排除され、生活と仕事に余裕なく追われる“溜め”ない人々が増えていく。“溜め”を失った社会で追い詰められていくのは、「負け組」だけだなく、全員。(「勝ち組」と言われる人たちからも余裕を奪っていく)

自分たちで考える民主主義へ
 
 私のこれまでの経験から、利用者の多き少ないだけで切り捨てたり、声の小さい者や少数派を無視していくと社会全体が弱体化すると思っている。必要なことは、競争環境をより過酷にすることではなく、人と人をつなぎ、その関係を結び直す工夫と仕掛けを蓄積すること。

 異なる意見を持つ者同士こそ大いにすりより合い、とりこめ合えばいいのだ。人々が一人一人の「民意」を社会に示すことで、社会は多様な「民意」を示す社会に代わる。それをお互いが調整していくことで、異なる意見の人が調整できる社会に変わる。

 誰に対しても、意見交換や調整を頭から拒否すべきではない。地味だけども、調整して、よりよい社会をつくっていくという粘り強さを持つ人たちが必要。そういう人をたくさん増やすこと、自分たち自身がそういう人になることが重要。

時間と空間が必要だ  時間と空間が参加を可能にする 

 民主主義とは、物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、に比例する。時間と空間の問題は、言い換えれば参加の問題。社会的・政治的参加の空間がなければ、そもそも参加が成り立たないし、「場」=空間があっても時間がなければ、やはり参加はできない。

 参加の形態や「場」の性質は、いろいろ。政治参加の典型例は選挙。(投票場、投票時間) 講演会や集会は、社会参加の代表的形態。デモも、ネット空間も。

 「自分たちで決める。そのために自分たちで意見調整する」と調整コストを引き受け民主主義に転化していくためには、さまざまな立場の人たちと意見交換するための社会参加、政治参加が必要。そして、時間と
空間は、そのためのもっとも基礎的・物質的条件。
 
 そして、参加のバリアを下げること。多様な参加形態が多様な形で保障される(社会)=多様な人々の多様性が積極的に生かされる(社会)は、民主主義の活性化だけでなく、地域や社会の活性化のために重要。

誰が矛盾を引き受けるのか 言い放つだけでは、現状は変わらない

 それは誰がやるのか。-それこそが「私たちの仕事」ではないか。=世の中の矛盾を引き受ける行為。介護に追われているからこそ、介護サービスや介護制度のことなど考えられないー「私の仕事」?いや「制度の問題」「役所の仕事」と多くの人は答える。

 しかし、介護保険料、税金を使って行われる公共サービスである以上、「どのくらいのサービスを提供するのか」は「どのくらいの介護保険料や税金を誰が支払うのか」という問題と背中合わせ。誰がどれだけ支払い、誰がどれだけのサービスを受けるのか複雑な意見調整の結果として、介護を家族でカバーしなければならない現状が生まれているときに、その介護に追われている介護のことを考えられない、という矛盾を誰が引き受けるのか、という問題。 「○○が支払うべきだ」と主張することと、「○○に実際に支払わせる」ということの間には膨大な距離がある。お互いが言い放つだけでは現状は変わらない。現状が動かない以上、介護の追われて介護制度や介護サービスのことなど考えられない人たちの現状はそのまま。

寄り添うということ

 介護分野だけでなく、子育て、病気、職探し、…現実に追いまくられた人たち。 必要なことは、自分では声を上げられない状態にある、と感じている人の苦しみに寄り添い、その苦しさを共有し、そこから抜け出る道を一緒に探すこと。こちらから出かけていくこと、相手の気持ちに合わせる、ということ。それが合意形成の基本の第一歩。そうして初めて両者の間に現実に対話の回路ができてくる。(自分の世界に引き込むよりも、相手の世界に飛び込むアプローチ。)

創造性に乏しい社会は発展しない

 ホームレス状態にある人たちに対する支援の定番策として「炊き出し」。食事を提供することがメインの目的でなく、それは、話すこと。話の中から関係を構築すること。そこから今後何が必要なのか、一緒に考えていくことが目的。「炊き出し」という行為を通じて、一緒に調理し、食事し、片づけるという共同行為の中で、信頼関係をつくっていくことに主眼。いろいろな立場の人たちと話す「きっかけ」、これまで関係のなかった人と関係を構築する「きっかけ」は、このようにして作られていく。他にも数えきらないくらいの方法が。人と人がつながるための創造性、関係性を構築するための創造性。

 その創造性に乏しい社会は、すでにあるコミュニティ以外に、人と人を結びつける工夫や仕掛け、スキルとノウハウに乏しい社会になる。仲間内で固まる、人々自身が蛸壺化していく。これはコミュニティの問題であると同時に、民主主義の問題です。

 日本に必要な「高度人材」は、創造性のある人材、自分で考えることのできる人材、重要なコミュニケーション能力(他者との関係を作れる能力、議論し、調整できる能力)。民主主義の面倒くささを引き受けきれない社会ではそのような人材は育たない。それぞれが勝手に自分の意見を言い放つだけ、あるいは上意下達で上の言うことに黙々と従うか、どちらかの文化、作法しかない社会がイノベーションを起こせるとは思えない。民主主義と生産性とが対立するとは思えない。むしろ、人的関係性を構築するスキルやノウハウウィ軽視してきたところに、私たちが直面する困難の原因があるのでは。

ヒーローを待っていても世界は変わらない

 従来の血縁、地縁、社縁も活用しながら、かつそれだけに閉じこもることなく,他との交流を多様に進めていく。そのとき必要なのが「人と人を結びつける」工夫と仕掛けで、それが異なる文化、異なる作法を持つ者同士の信頼関係づくりを可能に。

 誰が「支え手」で誰が「支えられ手」かわからないような地域・社会。役割が固定せず、固定化しないから支えられることに抵抗感も生まれず、「おたがいさま」を実践できる。豊富化された工夫と仕掛けが、横(社会)に縦(政治)にと普及していけば、より多くの人たちがあの手この手でお互いの接点を探り合う状態が生まれる。意見の異なる人との対話こそを面白く感じ、同じ意見を聞いても物足りなく感じます。難しい課題に突き当たるほど、人々はその難しさを乗り越える工夫と仕掛けの開発に熱意を燃やし、それを楽しく感じます。創意工夫と開発合戦が起こり、創造性が最大限に発揮される社会です。

 課題を自分のものとして引き受け、自分にできることを考えるように。それで何か新しい工夫が見つかれば自分の財産となる。「決められる」とか[決められない]とかでなく、「自分たちで決める」のが常識になる。

 ヒーローは私たち、なぜなら私たちが主権者だから。私たちのできることはたくさんある。それをやりましょう。その積み重ねだけが、社会を豊かにします。

<感想を少し>

 今年3月初め湯浅氏が内閣府参与を辞任したと知り、2012年3月号の「世界」で「社会運動に立ち位置について」を読み、続いて辞任の報告も読みました。その後、大阪へ行ったところまでは知っていましたが、その活動も本書で分かってきました。

 本書を読んだすぐ後に小熊英二氏の「「社会を変えるには」を読み終えましたが、かなり共通点がありそうです。湯浅氏は、活動分野やこの間の立場上もか、直接的には原発問題などには関わっておらず、本書もそれへの言及はありません。しかし、社会運動としては、共通する点が多くあります。また、私たちが進めている栗原での「放射能から子どもたちを守る」運動、それは反原発運動でもあるのですが、そこの基となっている「ゆきとどいた教育を進める」運動の方にはダイレクトに参考にすべき点が多くありました。

 やはり、これらすべてに共通するのが民主主義の問題です。私たち自身がその当事者として、自らが「気づいた人が責任者」(本書の「おわりに」)であり、その行動をこの本書によって求められているのだなと思いました。
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